増税、還元、キャッシュレス。 そして明日は、ホープレス。

長編小説を載せました。(読みやすく)

【 死に場所 】place of death 全34節【第一部】(13)  読み時間 約10分

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  (13)

 翌日も、仙蔵は村人の前で見せしめに背中を押され歩かされる。

いつもの小屋に連れて行かれ、辰次たちの博打を眺めるしかない。

その時間は途方もなく長く感じられた。

 何も訊かれず時だけが過ぎ、仙蔵は辟易とした日々の繰り返しに、とうとう我慢できず辰次に切り出した。

「もう、うんざりです・・・毎日毎日、村中を引き回されて、一日中ここであんたらの博打を眺めている。さらし者にされるくらいなら、陣屋に連れてけ。そんで吟味を受けさせろ・・・。おっ、おいらは、もう村へ帰らない。帰ったとしても陣屋に駆け込んでやるっ」

 辰次は博打の手を止め、仙蔵を睨む。

「がたがたぬかすんじゃねえっ!陣屋に駆け込んだら、あの百姓代の親父もしょっ引いてやる」

「そんな事できる訳ないだろうっ」

辰次は格子の付いた窓の外に目を向けた。

「十日ぐらい前も、別の村の名主が一揆勢に炊き出しをして、手鎖三十日の刑になったばかりだぜ。そう言やぁ、おめえの村も炊き出しをしたって噂が上がっているんだ。百姓代がやったのか・・・」

辰次はゆっくりと振り返り、後光を背にして意地悪く微笑む。

仙蔵は松次郎までも巻き込まれてなるものとかと、辰次に歯向かって立ち上がった。

「違うっ。松次郎さんは竹槍でも鉄砲でも持って打ち払おうと言ったんだ。それを臆病者の猪吉が炊き出しをして荒らされないようにしたんだっ」

「そんな事知ったこっちゃねえ・・・今後の事をどうするか決める。良いって言うまで、この小屋にいろ。ただし、勝手に抜け出したら、その松次郎とやらも引っ張るからな、頭に叩き込んでおけ・・・」

「松さんは関係ないっ。おいらだって咎めを受ける覚えはないっ。正々堂々、吟味を受けるつもりだっ。それをするのがあんたの役目だろうっ!」

辰次はさいころを懐に仕舞うと、ツボを手下に渡して立ち上がった。

「うるせえっ!とりあえず、ここで待ってろ。勝手に抜け出して離村したら、おめえの田畑と家を没収するだけじゃねえ、人別帳から削除して無宿人にしてやる。そんで、おめえの人相書を宿場、関所、各村にばら撒くぞっ。おいっ、おめえらも来いっ」

辰次は機嫌悪く、手下二人を引き連れ小屋の戸を開いた。

立ち退く際に振り返り、目を細めて力を入れた。

「てめえっ、二度と俺に指図するんじゃねえっ。小屋の裏に沢が流れているから、そこで水でも飲んでろっ」

そう言うと戸を力一杯閉めて出て行った。

 

 「なんで、こんな目にあわなきゃなんねえんだ・・・」

仙蔵は取り残された小屋で呟いた。

辰次はどこへ行った、陣屋の牢に繋がれるのか。

 松次郎が言っていた事がよみがえる。

牢に入れられたら獄死もあり得る。でも、いつ終わるとも分からぬままさらし者になるより、しっかりとした吟味を受けたい。お咎めなしと放たれる以外、科人(とがにん)の濡れ衣から脱する術はない・・・。

 全ては、猪吉の仕業だっ。

小太りで右の目尻の大きな黒子がにやりと笑っている様子が目に浮ぶ。

かっと頭に血が駆け上り、辰次達が博打の札に使っていた板切れを壁に投げつけた。

「くっそっ!」

辰次に待てと言われても、どうせロクな事はないのは分かっている。

新たな手下を連れてくるか、別の場所に移されるかのどちらかだ。

ならばいっそ陣屋に走り、吟味でも裁きでも受けたいが、松次郎の事を思うとどうにもこうにもならず、埃臭い小屋の戸を開けた。

 朝に見た重く垂れ込めた雲は過ぎ去り、青く広い。

塵芥に塗(まみ)れた世から飛び立てと、氷川様の思し召しとすら思える。

とんびが仙蔵の頭上を横断する様が勇壮果敢に映る。うらやましさから、その行方を辿り見上げたまま、ふらふらと後を追う。

 遠方に過ぎ去る鳥影が消えてなくなると、望みが失せたように溜息が漏れた。

目の前は、うっそうと茂るすすきの一帯。風に撫でられざんざと音に取り囲まれる。

恐らく、その先は沼地か川が流れ、行く手を阻んでいるだろう。

肩を落した仙蔵は松次郎を思い小屋に目を向けた。

 朽ちた小屋の中に入る気にもなれず、仙蔵は自分の背丈ほどもあるすすきの揺れる様を自分と重ね合わせ一人佇む。

身に降りかかった一連の出来事が理解できず、ただただ悔しさが込み上げる。

 所詮、土地やしがらみ、しきたりに縛りつけられた貧乏百姓は、風雨に晒されても耐え忍ぶだけなのか・・・。傍若無人に振舞う奴等がいけしゃあしゃあと安穏と暮らしている。食うに食われぬ民百姓が年貢を減らせと立ち上がれば、横から悪党が頭取にすり替わって跋扈する。

お上は、一蓮托生同罪だと罰し、巻き添えを食らって切り殺されるか獄に繋がれる。

 お上に罪はないのかっ。陣屋の代官も役人も、猪吉なんてもっと罪深いじゃないかっ。

この世は辛い事が多いのに、互いの辛さを押し付けて助かろうとしている。

その割りを食うのが、黙って我慢しかできない大人しい者・・・。

 理不尽な世だと嘆くものなら罵られ、置かれたその身で尽くせと言う。

尽くした果てに実らぬならば、弱肉強食、人の定めと誹(そし)られる。

弱くて、貧乏に生れたい奴なんている訳ねえっ。生まれ変われるもんなら、大名か金持ちの家に生まれたいと願うだろう。

 天下を取った太閤秀吉だって、生まれ変わったら、再び身を立てられるなんて分かりはしない。

農民から刀を取り上げたのも、自分と同じような者を潰すためだ。

それこそ理不尽じゃないか、滅茶苦茶だ・・・。

こんな世が続くなら、早く滅んでしまえ。

畜生・・・

 

 落胆と怒りが次から次へと勃興去来し、取り止めもない苦痛が頭を締め付け身を屈めた。

脱する方法を考える前に、いかなる出来事がこの先あるのか。詰まるところは死なのか。

恐くなり身が竦(すく)む。逃げれば、自分ばかりでなく松次郎にも害が及ぶかもしれない。

これが死ぬまで続くのか、更になる窮状が押し寄せる様な想念に押し潰されそうになる。

仙蔵は頭を抱え、祈りを捧ぐ。

「神様仏様、助けて下さい・・・」

 

 小屋へ続く小道の方から声が聞え、仙蔵は即座に立ち上がる。

辰次と手下に続いて、猪吉がなにやら話をしながら歩いてきた。

仙蔵はもはや殺されると拳を握り絞め、猪吉一人を睨みつけ、腹を括(くく)る。

辺りを見回すと棒切れが一本落ちている。

 猪吉も仙蔵の殺意が届いたのか、風に吹かれて身構える仙蔵に立ち止まる。

辰次と手下も仙蔵の只ならぬ形相に動きを止めた。

 猪吉は「ちょっと二人で話がしたい」と言い、小さく頷いて合図を送る。

辰次も頷き、手下を連れてどこかへ行った。

 

 猪吉が近づいてくる。

仙蔵は怒りに震え拳を握る。

呼吸と鼓動は激しく、今まで感じた事がない程血が沸き立ち、自らも死を覚悟する。

 殺される前に殺すしかねえ・・・

猪吉は仙蔵からさっと目を逸らし、小屋に目を向けた。

「寒いから、中で話そう・・・」

「うるせえっ、よくも役人に手を回しやがったなっ!」

仙蔵は咄嗟に棒切れを拾う。

こいつが死ねば、全てが変わるっ。これこそ本来の救民の為の蜂起っ。

後はどうなってもいい・・・

猪吉の顔は真っ青になりながらも、吸い込まれる様にふらふらと瞬きもせず、仙蔵に歩み寄る。

「俺を殺したって構わない・・・けど、話を聴いてからでも遅くはない」

仙蔵も何かに憑りつかれた様な猪吉に身が震え、棒切れを振り上げる。

「てめえの話なんぞ、ロクでもねえっ」

「お前は何も分かっちゃいねえっ」

「うるせえっ!」

仙蔵は棒切れを猪吉の額目がけて振り下ろす。

 

 猪吉は額を押さえて、地べたにうづくまった。

仙蔵はとどめにもう一撃喰らわせようとしたが、棒切れは朽木で折れてしまっている。

「こっ、殺すなら殺せーっ!」

猪吉は血を流しながら顔を上げ、仙蔵に訴える。

「おめえはなんも分かっちゃいねえっ!」

仙蔵は折れた朽木を放り捨て、倒れ込んで見上げる猪吉に飛びかかる。

「何が分かってねえんだっ!」

仙蔵は殴り殺そうと馬乗りになり、猪吉の着物の襟を掴む。

「俺に借金をした村の連中の事も、なんもかんもだっ」

「借金した連中だとっ」

仙蔵はすぐさま圭助の顔が浮ぶ。

「圭助がどうかしたってえのかっ」

猪吉は襟を捕まれたまま、「けっ、圭助は、お前が知っての通り、町場でこしらえた呑み屋のツケを俺が肩代わりした。圭助の事なんかより、もっと他の連中だ・・・」

「誰だっ」

「使用人にした宗八・・・あいつをなんで使用人にしたか知っているかっ」

額から流れる血を袖で拭いながら、猪吉はぜいぜいと息を切らしながら訴える。

「宗八がなんだっ」

「あっ、あいつは博打狂いで、鰍沢(かじかざわ)の賭場にまで出入りしていた。それで、博徒に金を巻き上げられた上に借金だ。宗八の田畑が博徒に取られそうになっていたのを、辰次が教えてくれた・・・内密に役人が間に入ってくれて金額を減らしてもらった。俺が宗八の借金の肩代わりして、何とか手を打った。もう二度と博打をやらせねえ為に使用人にしたっ」

 仙蔵は猪吉の襟をずっと握り絞め、手が痛くなってきた。

長い言い訳に怒り冷めやらず、頬に一撃を食わらせる。

「宗八は関係ねえだろうっ!」

「ぐうっ。あっ、あいつの借金を肩代わりしなければ、博徒に縄張りだと村を荒らされる。それに、寅吉・・・。あいつの田んぼは宗八の隣だ。あいつは働かねえから、割り当てられた米を納めねえ。その不足分はずっと俺が工面してきた。最初は有難がっていたけど、そのうち当たり前だと思い違いして、積もり積もった不足分を返そうともしなくなった。そのまま放置するわけにはいかねえ。金を返せと言えば、他から借金をするだろう。博徒や高利貸しに借金をしたら村を切り取られてしまうんだっ。だから、寅吉を小作にした・・・」

猪吉は血を拭いながら、他にも小作農にした村人の経緯を話した。

 仙蔵は手が痺れ、猪吉を放す。

「他の奴等はどうでもいいっ。おいらはおめえにビタ一文借金も借りも何もねえぞっ!それなのに、どうしてさらし者にしやがるっ!」

猪吉は袖で額の血をぬぐう。

「去年も、この前もそうだった・・・おめえは宴会の時、皆と一緒に楽しくやれればいいと言った・・・」

「それの何が悪いっ、皆で辛い時も助け合って暮らせばいいだろうっ」

 猪吉は血を押さえながら睨み上げる。

「その夢みてえな方便が気にいらねえ・・・人にはそれぞれの立場ってもんがあるんだっ。俺だって博打狂いの宗八やぐうたらの寅吉の借金の肩代わりなんてしたかなかった。のんべえだった圭助だって、俺が肩代わりしたから変わったんだ。病気の家族持ちに誰かが金を貸してやらねばどうなるっ、死んでしまうと涙ながらに訴えられて放って置けるかっ。仙蔵っ、おめえが金を貸してやれたかっ?俺は村を預かる名主だっ。離村の責任も年貢のお咎めも全部俺なんだっ。こんな千年に一度の、一万人もの百姓悪党が国中を壊し回って、全国で十万人が餓死する生き地獄のような理不尽な世で、名主なんてやりたかねえっ!おめえに分かるかっ?俺は、俺はなぁっ・・・何度も代官に名主役を降りたいと隠居願を届け出た。だけど、俺の倅は体が弱い。役人に借りた金で、あいつらの借金の肩代わりをしているから却下されたままだっ。それをおめえは、楽しくなんて言いやがったっ!おめえは一度でも俺の立場になって物を考えたことがあったか?俺はもう嫌だっ、殺せ、死んだ方がよっぽど楽だ・・・」

 猪吉は全てを吐き切ると鼻を啜り、仰向けのまま空を見上げううっとしゃくり上げて涙を流した。

「なんも知らねえで好き勝手なことを言っている、おめえが大っ嫌れえだっ!」

猪吉はうわーっと声を上げ、土を掴んで仙蔵に投げつけた。

乾いた土塊は、仙蔵の胸元に当たって砕けた。

 仙蔵は血と涙を流す猪吉から目を逸らす。

「見ろっ!俺を見ろよっ、目を逸らすんじゃねえっ。これが有りのままなんだっ。天地がひっくり返らねえ限り、俺はくだらねえ借金を肩代わりして恨まれ、約束通り納められなかった年貢の課料金(罰金)を役人に納めねえといけねえっ。楽しくやれるもんなら、おめえがやれっ!」

地べたの枯れ草を引き千切っては捨て、子供の様においおいと泣き崩れる猪吉。

仙蔵は力が抜け、猪吉から離れた場所に座り、遥か遠い空を眺め続けた・・・。

 

 どれほどその場にいたのかも分からぬまま時が過ぎた。

仙蔵の中に負い目のような感情が湧く。

「何か手伝える事はないか?」

猪吉も泣きに泣いて慟哭も収まり、静かに顔を上げた。

「よっ、よくも、人を殺そうとしてそんな事が言えたな・・・俺が名主を降ろされて、おめえが名主となって借金背負うか。それとも、おめえが村八分になるか。どっちかだっ」

 思わぬ返答に仙蔵は聞き返す。

「なんだってっ?」

「言ったはずだ、俺はおめえが大嫌いだっ。うちの倅は体が弱くて、年中医者に見てもらわなくちゃならねえ。だけど、おめえはぴんぴんしているっ」

「そんな理屈で嫌われたんじゃ、堪ったもんじゃねえ。言いがかりもいいところだっ」

猪吉は額の血が止まらぬ様子を手で触って、血の付き具合を確認する。

「それだけじゃねえ。おめえは、たまに蕎麦だの雉(きじ)だのを取ってきて皆に感謝されて、俺は命乞いをした連中に金を貸したり助けたりしても憎まれるばかりだ・・・。俺が名主を降ろされたら、どうなると思う?散々こき使っただのと逆恨みされて村八分になるだろうよ、女房子供だっているんだぞっ」

 仙蔵は立ち上がって、すすきに近づき毟り取って投げ捨てた。

「だったら、皆に包み隠さず打ち明ければ良いじゃねえかっ」

「無駄だ、そんな事言ってみろ。そもそも金がねえから金を借りるんだ。返す当てもねえ者は、俺がきつく取り立てるだろうと思って村から逃げ出しかねない。そしたら、俺は貸し倒れだけじゃない、代官にも離村者を出したとお叱りを受ける。そんな事より、まだ俺を殺したいか?殺して、おまえが名主になるか?おめえが村に帰ってくるなら、その覚悟で戻って来いっ、俺はどっちでもかまわねえぞ。やれるもんならやってみやがれっ!」

 猪吉は額を押さえ、睨んだまま立ち上がる。。

「おめえが棒で殴った事は役人には黙っててやる。俺が圭助に旅の途中で使い込めって言った事を皆に言わなかった借りがあるからな・・・」

猪吉の憎しみが理不尽という他ない。全く道理の通らぬ事を言っている。

猪吉が名主を辞めさせて、自分が名主になって借金を背負うか村八分になるか・・・

こいつに何を言っても始まらない。狂気の沙汰としか思えず言葉に詰まった仙蔵は、猪吉に背を向けた。

やはり、殺すしかないのか・・・

仙蔵はどうにもならない状況に判断が鈍る。

 

 「猪吉さんーっ!」

只ならぬ様子に、辰次と手下が走って戻ってきた。

振り返った猪吉を見た辰次が声を上げた。

「どうしたっ、その頭はっ」

「なんでもない・・・」

猪吉は仙蔵にやられたとは言わなかったが、辰次は背を向けた仙蔵を見て察した。

「てめえ、この野郎っ!」

今度は仙蔵が辰次に襟首を捕まれる。

「太てえ野郎だっ、牢にぶち込んでやるっ」

仙蔵は辰次にされるがまま抵抗しなかった。

猪吉は痛みに顔を顰め「違う、転んだ」と辰次を諌めた。

辰次は額に当てる手拭から血が滲む様子を心配そうに覗いた後、仙蔵を引き寄せた。

「てめえがやったんじゃねえだろうなっ」

「仙蔵じゃねえ、そこの石に躓いたんだ」と猪吉が庇う。

辰次が納得いかぬと両者を見比べていると、「帰る」と猪吉は足取り重く来た小道によろよろと歩き出す。

「ただで済むと思うなよっ。俺が出て行く時にも言ったが、てめえはしばらくここに居ろっ。逃げたらどうなるか分かるなっ」

辰次は仙蔵の襟を力一杯引き寄せ、顔と顔が触れるほど近づいて恫喝して去った。

 

                             (14)へ続く。

【 死に場所 】place of death 全34節【第一部】(11)~(12)読み時間 約15分

   

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   (11)

 数日後の朝。

仙蔵が顔を洗っていると、圭助が裏庭に回って来て大声を上げた。

「大変だっ、伊作と茂平と寅造、梅吉、そんでもって猪吉さんとこの宗八が、陣屋の役人に連れて行かれちまったっ!」

仙蔵は顔が濡れたまま、圭助を睨むように目を向けた。

「摑まったのか?」

圭助は息を荒らげ、唾を飲み込んだ。

「摑まった訳じゃねえけんど、とにかく連れて行かれたっ」

「連れて行かれる理由は?」

圭助は首を振る。

「それも分からねえけど、猪吉さんは知っていたようだ」

どうしてだと仙蔵が聞くと、圭助が「おいらは猪吉さんの馬を借りようと思って行ったら、宗八が役人と一緒に出て行くじゃないか。宗八が出て行くとき、猪吉さんは驚きもせず役人に頭を下げていたから知っていたんだ」と汗を拭った。

 仙蔵はなんだが妙な胸騒ぎがして、眉を顰めた。

「他の人は?」

「役人の使い走りが呼びに行って、猪吉さんの家の前に集ってから村を出て行った」

仙蔵は顔を拭い「普請の御役かな」と圭助を見つめた。

「かもしれねえけど、いきなりだ。おらあ、他の皆にも教えてやらねえといけねえから、ここで失敬するよ」と圭助は立去った。

 

 仙蔵も松次郎が知っているかどうか訪ねる事にした。

松次郎に村の男が五人も連れて行かれたことを話すと首を振った。

「わしだって知らんぞ、そんな事・・・」

松次郎の御役目は、名主の不正や専横など、村人との対立を防ぐ役も担っている。

百姓代の役柄、そんな大事も知らぬとあって、表情は厳しく目つきも鋭くなり煙管を取り出して火をつけた。

松次郎は手を休める事なく、忙しなくぷかぷかと吸ったり吐いたり無言のまま繰返す。

かんかんっと火鉢に煙管を叩きつける音は、折れてしまいそうだった。

稀に見る松次郎の様子に、仙蔵も声をかけられない。

「どういうこった・・・」

松次郎は煙管の吸い口をがりがりと噛み始めた。

「我慢ならねえ・・・ちょっと行ってくらぁ」

すっと松次郎が立ち上がる。

「どこへ」

仙蔵は松次郎を見上げた。

「決まってんだろう、陣屋にだ。おい、お勝、支度だっ」

松次郎は奥の部屋に向かって声を上げる。

返事がないので、松次郎は今一度呼びかけた。

「お勝っ、いないのかっ」

「はいはい・・・どうしたんですか」と怪訝な面持ちで前掛けで手を拭いて現れた。

「今から陣屋に行くから支度をしてくれ」

お勝も只事ではないと悟り、仙蔵の顔を覗く。

松次郎は早くと急(せ)きたてる。

「松さん、おいらもお供しようか?」

松次郎は隣部屋に移り「わし一人で行く」と言って襖を閉めた。

紋付に着替えた松次郎は「じゃあな」とだけ言い残して陣屋に向かった。

 

 残った仙蔵は、お勝に五人も陣屋の役人に連れて行かれた事を話した。

お勝は節目がちに、まとめた髪の乱れを直したり、前掛けを伸ばしたりと落ち着かない。

「猪吉さんが、代官所のお役人に袖の下を渡しているって噂でしょ。借金してない村の人からは、お金や人足の割付が不公平だって苦情が多いのよ。こんな一大事を知らなかったとなれば、あの人が怒るのも仕方ないね。変な事にならなきゃいいけど・・・」

 先日、猪吉が陣屋に行っていると、圭助が言っていたことを思い出す。

いくら猪吉が名主だからと言って、松次郎に相談なく、勝手に人足を差配したとなれば、

仙蔵も松次郎と同じく居ても立ってもおれないと気分が悪い。

松次郎が帰ってくるまで待っている訳にもゆかず、仙蔵は一旦帰ることにした。

 

 夕方近くになって、松次郎が仙蔵の家を訪ねてきた。

陣屋に出かけた時は肩を怒らせていた松次郎だったが、上がり端(ばな)に力なく腰掛け、紋付の前紐を解き、疲れ切っている。

「松さん、陣屋から直接来たの?」

「ああっ、なんとなく帰りづらくてな・・・悪いけど水をくれ」

 松次郎は一息つき、足袋を脱いで叩きつけるように埃を払った。

「ひでえもん見ちまったよ・・・」

仙蔵は雑巾を手渡した。

「猪吉の事?」

「いやっ、そんなんじゃねえ。捕まったらおしめえだ・・・」

おだやかでない言葉に仙蔵も動きを止める。

「捕まったって、宗八さんやらが捕まったの?」

「そうじゃねえ」
松次郎は首を振り、足を雑巾で拭くと上がり込んで囲炉裏の前に座る。

仙蔵は後を追って、急いで茶を入れて渡す。

「じゃあ、誰が捕まったの」

 松次郎は茶を啜ると溜息を吐いた。

「二月(ふたつき)前の一揆で捕まった連中さ。あんとき一揆や打壊しに加わって捕まった百姓は、無宿人悪党を加えれば五、六百人だという噂だ。牢屋敷だけじゃ足りず、陣屋にも牢はあるがそれでも数が多すぎて、奉行所の他に石和の陣屋にも分けていた。この八畳ぐらいの牢の仕切りの中に二十から三十人を詰め込んでおった。そのせいで病が流行り出して毎日死人が出ているらしい。わしが行った時も、筵をかけた戸板が運ばれていったよ。一揆に加わっていたらどうなっていたか分からん・・・あれじゃ、裁きが終わる前にかなり死んじまう」

松次郎は連れて行かれた村人五人の事についても、溜息交じりで話を続けた。

 

 石和代官所では収容する牢が足りず、急遽、掘っ立て小屋も作った。そこへ地元の百姓と無頼者や無宿人を一緒に入れると、柄の悪い連中が、自分が牢名主だと勝手に牢内を仕切り出した。

当然、弱い者から飯を取り上げ、自分の寝場所を確保した。その煽りを受けて、立ったまま過ごす者もあったという。

 石和の陣屋は一揆を防げなかったという事で、甲府勤番を初め、代官、手代、与力同心その他大勢が解任される様相。急遽、江戸から取締役人が駆け付け、厳しく咎めを受けた。

面目ない代官は、これ以上の死人を出してはならんと焦り、牢普請の人足を方々の村からかき集めているということだった。

「じゃあ、牢屋を作っているの?」

「ああっ・・・それだけじゃねえ、集めた百姓にも一揆に加わって逃げ隠れしている奴がいねえか、役人が尋問しているらしい」

仙蔵は俯いていた顔を上げた。

「えっ、殴られたり叩かれたりしたのっ?」

松次郎は力なく首を振った。

「宗八たちにも会ったが、殴られちゃいねえ。余り話したがらねえし、忙しくてそんな暇もねえ。三日泊り込んで交代して、牢作りに村から男を出すことになったらしい。今は江戸からも監視が入っているからぴりぴりしている」

「じゃあ、おいらもその内声がかかるのかな・・・」

仙蔵は松次郎の様子を窺うと、「多分な・・・」とだけ返した。

 松次郎は羽織を脱ぎ、少し横になるとごろりと寝てひじ枕で仙蔵を見つめた。

「たった二月で、男も女も毛の付いたガイコツみてえだった・・・声も上げることも許されねえし、正座したまんま犇(ひし)めき合っていた。掘っ立ての牢の中の連中と目が合った時、出してくれとかそういう気配がねえ。目だけがぎょろぎょろとして虚ろっていうのか、魂がねえっていうのか上手く言えんが、わしが前を通った牢なんて、ひどい臭いがして溜まらず顔を顰めた。でも、捕まった連中は痛いとかおっかねえとか、咄嗟の反応ってものも何もかも抜け落ちた様に口をぽっかりと開けていた・・・もし、わしがあの牢に入ったらと考えただけどぞっとした。感覚ってものも、なくなるのかもしれねえ」

「無罪で死んだらあんまりだ・・・」

背を向けた松次郎に、仙蔵が声をかけても返事がなかった。

 しばらくそっとしておいたが、外が薄暗くなっており、仙蔵は松次郎に声をかけた。

「すまんな、寝込んじまって」と体を起こした松次郎は太息を付く。

「帰るか」と膝を叩いて立ち上がり、重い物を背負い込んだ様に帰って行った。

 

   (12)

 それから村は慌しくなり、牢普請の話で持ち切りとなった。

名主の猪吉や助役の佐平、百姓代の松次郎の下へ相談が絶えない。

男達が自分はいつ陣屋の手伝いに行くのかと気が気ではない。農閑期と言っても仕事はあるし、仙蔵には蕎麦の手入れや収穫、脱穀もある。

それに誰もが牢屋作りなんてやりたくはなかった。村は違えど自分たちだって、一揆に加担していたかも知れず、親戚縁者だっているかもしれない。解き放つならばまだ良いが、人情として閉じ込めるのは嫌なものだった。

 一揆に同情する者も多い。

本来なら、米を囲い込んで値を吊り上げた商人を厳罰に処すべきで、早急に代官所が、江戸や他国への米の流出を止め、貯蔵米を解放して、しかるべき対処をしなかったからだと、仙蔵を含め村内は不満が募る。

その怨嗟は、役人と繋がっている猪吉にも抱くのは当然だった。

 

 普請に村人が駆り出された三日後の日暮れ前。

仙蔵が町場に雉を売って帰ってきたところへ、泊り込みで陣屋に行っていた五人が岡っ引きと手下二人に付き従って戻ってきた。

「おおっ、みんな帰ったのか」

仙蔵が声をかけると岡っ引きが寄って来て、仙蔵の身なりを上から下まで蔑む様に見る。

「なんだ、おめえはっ」

目つきの悪い高圧的な岡っ引きに、仙蔵は頭を下げた。

「ここの村のもんです・・・」

「そんなの見りゃあ分かるんだよっ、どこ行ってきた」

仙蔵は刺激をしないように「町場へ・・・」と下を向いて答えた。

「あんまり遅くまでふらふらしてると、悪党が出るから気をつけろっ。早く帰れっ」

どっちが悪党だか分からぬ様な岡っ引きに、仙蔵は追払われた。

仙蔵が振り返って様子を見ていると、「見てんじゃねえっ」と岡っ引きは手で追払う。

 離れたところに身を隠し、仙蔵は様子を窺った。

声は聞えないが、岡っ引きが村人に何かをきつく言っているようだった。

それに従うように、五人は頭を下げる。そして、岡っ引きは仙蔵と同じように手で追払い、腕を組んで帰る様子にじっと見つめ、頃合を見て自分たちも立去った。

 仙蔵は岡っ引きが戻ってくるんじゃないかと、しばらく五人に接触しないように遠巻きに後を付け、薄暗い林道に差し掛かった所で声をかけた。

「大変だったね」

仙蔵の笑みを見た、宗八や他の者は互いに目を合わせると下を向いたまま歩き続ける。

「訊いたよ、牢屋の普請の手伝いをしていたって」

仙蔵と同じ年の頃の伊作が立止った。

「何も言うなって言われてんだ・・・」

「どうして」

何か言いかける伊作に、宗八が「役人に何も話すなって言われているんだ。もう話かけるな、どこで見られているか分からねえ・・・」と伊作に「行くぞ」と呼びかけ歩き出す。

仙蔵はそれ以上訊く訳にもいかず、立止ってしまった。

 

 翌日、別の村人五人を柄の悪い岡っ引きと数人が迎えに来た。

前回同様、猪吉の家に集合してから出発した。

 仙蔵が松次郎に訊けば、村の男五十人ほどの中から、若くて力のあるものが選ばれているらしく年寄りは行かなくても良いとだけは猪吉に教えられたという。

松次郎は、猪吉にいつまで人足を手配するのか、その役柄教えて欲しいと言っても、定かではないとはぐらかされた。

まだ、手伝いに借り出されていない者は、毎日松次郎の家を訪ね、村の動揺は只ならない。

 陣屋から戻った五人は誰一人、どんな事をしていたのか、また、何を調べられたのか全く言わない。

松次郎も気になって、伊作や茂平を訪ねると逃げるように「誰が見ているかわからない」と言って、戸を閉めるかどこかへ行ってしまったという。

 仙蔵がその話を聴き「処刑の手伝いかな・・・」と呟いた。

「人数が多すぎて、まだ裁きすら始まってねえ。牢と言っても陣屋にあるのは仮牢だ。罪が決まれば、甲府の牢屋敷に連れて行かれるか、首謀者は山崎の処刑場と決まっておる。処刑するのは百姓じゃねえ・・・」

松次郎も固く口を閉ざした五人の事が気になってろくすっぽ眠れないと嘆き、陣屋の牢で見た男の顔が甦ってきたと上を向いて頭を振った。

「蕎麦の刈り取りもあるから、行きたくねえな・・・」

松次郎もうなづいた。

「なにか分かったら知らせる」

仙蔵が顔をゆがめ、松次郎宅を後にして家路を辿る。

 

 更に三日後。

陣屋に行っていた五人が戻り、入れ替わりにまた五人が岡っ引きとその手下二人に連れられ村を後にした。

戻ってきた男に、仙蔵が声をかけても口は閉ざして去ってしまう。

 そして、また三日後。また別の男たちが陣屋に向かい、帰って来た者は誰も陣屋での事を教えなかった。

ただ、村にとって幸いだったのは、牢普請の人足手配は今回をもって終わったという御達しだった。

 仙蔵も蕎麦の刈り入れの日と重なっていたので、ほっと胸を撫で下ろし圭助と松次郎に手伝いを頼んだ。

三人仕事で時間は大してかからず、刈り取った蕎麦の穂を吊るして乾燥させた。

「一服するか・・・」

取り急ぎの作業は終わったが、松次郎の声は冴えない。

圭助も同様に頷き、「茶の準備する」とぼそりと呟いて仙蔵の家の中に入って行った。

 仙蔵一人がわずかにほっとして、吊るした蕎麦の穂を眺めていた。

松次郎はかかっと火打ち石で火を起こし、火種を煙管の先っぽに入れて煙草を吸う。

「やるか?」

「喉が渇いているからいらない」

松次郎は小さく頷き、二口目を吸い煙で細い筋を描いた。

「変だな・・・」

仙蔵も松次郎の言わんとしている事が分かっており、重苦しい曇り空に目を向けた。

「うん」

圭助もお盆に三つの茶碗を載せて、縁側に座った。

「お茶だよ、こっちで休もうよ」

松次郎と仙蔵は縁側に腰掛け、黙々と茶を飲んだ。

松次郎は再び煙管を咥えて吸い込むと、下唇を突き出して上に向けて煙を立ち上らせた。

「お前さんも変だと思わないか」

圭助は、松次郎の浮かない表情を見た後、仙蔵に目を向けた。

「ずっと考えていた。どうしておいらが駆り出されなかったのか。陣屋に行った皆は、ほんとんど猪吉さんに借金しているか、小作の者だ・・・」

松次郎は煙管を下に向けて吸殻を地面に落とした。

「そりゃ、仙蔵が猪吉に無理言うなって釘を刺したからだろう。問題は村がなんか重たくて息苦しくなったんだ。特に陣屋に行った連中が妙にそわそわしているし、真っ先に相談に来ていた梅吉でさえ寄り付かなくなった」

 仙蔵もこくりと頷く。

「伊作が戻ってきた時、誰が見ているか分からないって。それに、しゃべるなって岡っ引きに言われていたみたいだった。何があったんだろう、よっぽどの事が・・・」

松次郎は煙管に火を入れて、再び煙草の煙を溜息混じりにふうと吐く。

「まさかと思うが、お前さんが言った通り処刑の手伝いじゃないにしても、牢死した者の埋葬とかな・・・でも、そんなの有り得ん」

圭助は口を閉ざした村人の変化を思い出し、松次郎の言葉を頭の中で組み立てておののいた。

「磔の手伝いっ!?」

松次郎は自分の耳に指を突っ込んだ。

「うるせえなぁ、磔はまだねえ。それ程、気味が悪いほど様子が変だってことだ。まあ、猪吉がどこまで知っているかだ。とりあえず、もう少し様子をみよう。圭助、余り聞き回ったりするんじゃないぞ」

「うん・・・・」

圭助はぬるくなった茶を一気に飲み干した。

 

 翌朝、仙蔵は雨戸を開けると、目が眩むほどの晴天だった。

昨日刈り取った蕎麦の穂もよく乾くだろうと目を向ける。

「あれっ!」

仙蔵は昨日、吊るした穂を家の中に入れたのかと土間に急いで確認するが、そんな物はなかった。

乾かすためには二、三日干さねばならないのに、家の中に入れる訳がない。

松次郎と圭助と三人で、ずらりと並べた穂がそっくり消えている。

「松さんが持って行った?圭助?」

目覚めから理解のできない事が起き、仙蔵は庭を眺めて右往左往してしまう。

松次郎と圭助が持って行ったと仮定しても、なにかしら一言声をかけてゆくだろうし、せっかく干した物をわざわざ持っていくのも妙な事だ。

何で、どうしてと額に手を当て呆然とする。

「泥棒っ!?」

 

 仙蔵は泡を食って駆け出す。

枯れた田んぼを横切り、近道をして松次郎の家の玄関に飛び込んだ。

「蕎麦が盗まれたっ!」

松次郎とお勝も仙蔵の声を聞き、煙管を持ったまま現れた。

「顔は見たのかっ」

「朝起きたら、昨日乾した穂ごとなくなっていたんだ」

「そんな事するのは・・・」

松次郎が言いかけると、お勝が「無頼もんがやったんじゃないの?」と松次郎の腕を掴む。

「そんな事するのは決まってんだろうっ」

お勝は松次郎の手を軽く叩いた。

「滅多な事を言うもんじゃないよっ、誰が聴いているか分からないんだから」

松次郎はぐっと息を呑んで俯いた。

「そうだな、村の食料の種を盗む訳もねえか・・・」

仙蔵も猪吉ではないかと疑ったが、自分の家に蕎麦があることを知っており、脱穀もしていないまま持っていくのも変だと思っていた。

そう考え進めていくと、やはり備蓄の少ないどこかの村の人間か、無頼者とも思える。

「松さん、ともかく猪吉に報告して役人に届けよう」

松次郎も頷き、草鞋に足を突っ込んで出かけようとすると、気を揉んだお勝が一声かけた。

「喧嘩越しに言ったら駄目だよ」

「ああっ、分かっている」

仙蔵と松次郎は猪吉の家に向かった。

 

 猪吉の家に行くと、男が二人、縁側に腰掛けていた。

「誰か、来ましたっ」

二人は立ち上がって、玄関口の中に駆け込む。

すると、あの目つきの悪い岡っ引きが現れた。

「どっかで見たことあるな・・・」

目を細めて仙蔵たちに近づいてきた。

その後から猪吉も現れた。

岡っ引きは振り返って猪吉に問い掛ける。

「こいつが仙蔵か?」

猪吉はうなづいた。

「で、こっちは?」

「百姓代を勤めております、松次郎と申します」と自ら進み出て一礼をする。

「用があるのは、こっちの方だ」

岡っ引きは、更に仙蔵に近寄るとにやりとした。

「辰次さん、こいつはどうします?」

手下の二人が持って来た物は、仙蔵の家に乾してあった蕎麦の穂だった。

 「あっ!」

仙蔵と松次郎は思わず指さした。

「なんで、うちにあったものが・・・」

辰次という岡っ引きは、帯に刺してあった十手を取り出し「おめえに一揆の手助けをしたっていう嫌疑がかかっている・・・で、その品がこれだって訳だ」と十手を抜いて蕎麦の穂に向けた。

「ちょっと待ってくださいっ!おいらは村の銭で戸隠にまで行って買ったものですっ」

仙蔵の言葉に大きく頷いた松次郎も黙ってはいなかった。

「そうですよ、親分さんっ。通行書も私が届けに行ってきましたし、村で決めてこの仙蔵に頼んだんです。何かの間違いですっ、猪吉さんっ、あんたも何か言って下さいよっ!」

 辰次は「そうか」と再びにやりとし、十手を自分の手にぽんぽんと弾ませて、仙蔵の周りをゆっくりと歩きながら見渡す。

「おい、どうして俺がこいつを今持っているか知っているか?今は非常時だ。騒動の頭取だった兵助は未だに逃亡しているから、怪しい者がいたらいつでもしょっ引いて良いってお達しなんだ。手向かう奴は、こいつで手傷を負わせてもかまわんとな。場合によっては・・・」

 仙蔵は辰次の脅しに俯いてやり過ごしていると、松次郎は「親分さん、本当に仙蔵は一揆に加担なんてしておりませんっ」と頭を何度も下げる。

「百姓代がそうは言っても、おめえは旅の道中を見ちゃぁいねえよな・・・それに、甲州道中から中山道にかけては、一揆の残党やら無頼の悪党共が身を潜めていて高島藩や諏訪藩も兵を出して警邏している。一揆が終わったばかりのこの時期が一番危ねえ、すぐに別の一揆が起きねえとも限らねえからな・・・にもかかわらずだ、お供一人と馬でよく帰ってこれたじゃねえか。それに、帳簿を誤魔化したって聞いてるぜ。悪党に銭を渡したんじゃねえのか」

 仙蔵は手を振った。

「違います違いますっ。私は悪党になんて銭を渡してませんっ、決してっ!」

「そうです、仙蔵はお供の者が酒に呑まれて、それを庇うためにやったんです」

松次郎はとっさに猪吉に目を向けた。

「あんたっ、仙蔵に縄目の恥を受けさせるつもりかっ!待って下さいっ、親分さん。これには事情があるんですっ」

「うるせえっ。ネタは上がっているんだ、がたがた言うんじゃねえ。本来なら、一揆勢に飯の炊き出しをした場合も重罪だ、この村も確か・・・。詳しい話は陣屋で聞く。おう、連れて来い」

辰次の声に、手下の二人が仙蔵に縄を掛けようとした。

「私は逃げも隠れもしません、どこへでも参ります。だから縄は止めて下さい」

仙蔵は自ら歩き出した。

「ふん、まあいい。どうせ逃げる場所もねえんだからな」

辰次は手下二人に仙蔵の後に歩くように言い、松次郎が心配する中、猪吉宅を後にした。

 仙蔵が道に出ると、村人数人が遠巻きに見ていた。

その中から声が聞えた。

「仙蔵っ!」

圭助とおきつが不安そうに立っている。

「大丈夫だ、すぐに戻るっ」

仙蔵は手を振ると、後ろから手下に押しやられ村を出た。

 

 陣屋方面に半里ほど歩くと、辰次が道中を右に逸れ小道を進む。

「どこへ行くんですか」

辰次は振り向きもしない。

「いいから付いて来い」

小道は更に細く雑木林が生い茂る。仙蔵は妙な胸騒ぎがしてきた。

「陣屋に行く道とは違います」

 林を抜けると小さな小屋が見えてきた。

辰次は振り返って、手下の一人に顎をしゃくった。

手下は小屋の周囲や辺りを警戒して小屋の中へ入った。

仙蔵は何かされると思い、逃げられるか振り返ると、「歩けっ」と手下が背中を押した。

言われるがまま、仙蔵は辰次と手下に従い小屋の中に入る。

 がらんとした薄暗い内部は、薪やら農具が奥に置いてあり、茣蓙が敷かれているだけだった。

「座れ・・・」

辰次が奥に座ると、手下が仙蔵を押しやって座らせた。

そして、唐突に「おめえ、ちんちろできんのか?」と仙蔵にじろりと目をやる。

仙蔵は静かに首を振った。

「やったことがありません」

「じゃあ、丁半は知ってんだろう、奇数と偶数の博打だ」

仙蔵はまた首を振った。

「どうしてこんな時に博打なんてするんですか?」

辰次はにやりとして懐からさいころを取り出す。

「さっきからいちいちうるせえな・・・俺と勝負して勝ったら、見逃してやる」

辰次は仙蔵の背後にいる手下に意味深な笑みを投げかける。

仙蔵が振り返ると、手下もにやついている。

「見逃すも何も、悪い事はやっていませんっ。博打の勝負しなかったら、どうなるんです?」

「ふんっ、また訊いてきやがった。そうさなぁ、しばらく仮牢にでも入ってもらおうか。裁きを受けるまで・・・」

手下の一人が「その裁きを受けるまで、生きていられるか分からんけどな。ふふっ」と笑う。

「何度も申しますが、一揆にも悪党にも手を貸していません。だから帰して下さいっ」

仙蔵は辰次に近づいた。

「じゃあ、勝負するしかねえな」

「博打は御法度のはずです。やりませんっ」

辰次は「そうか、じゃあ、おめえは見てな。でも、逃げたら牢行きだ。おい、始めるぞ」と手下を招いた。

あっさりと辰次は仙蔵から手を引き、三人で博打を始めた。

ツボにさいころを振って、一喜一憂している。

時々、手下が外の様子を窺いながら博打は続いた。

 

 小屋の中に西日が差し込むと、辰次は立ち上がって窓の外を覗く。

「そろそろ引上げるか」

「へい」と手下が立ち上がり、辰次が仙蔵に命令する。

「立て、いちいち聞くんじゃねえぞ」

辰次は仙蔵を引き連れ小屋を出る。

道中の往来に出て陣屋に行くものと思いきや、村の方角へ戻る。

辰次は気だるそうに時折仙蔵に振り返ったが、何も言わずに黙々と歩いた。

村の入口にさしかかると、辰次が「誰に訊かれても何も言うんじゃねえぞっ。言ったらおめえが博打をやっていたって旦那方に言うからな」と睨み、村へと入った。

 途中、何人かの村人に出会うが、誰も仙蔵に声をかける訳でもなく、じっと過ぎ去るまで見ているだけだった。

猪吉の家に連れて行かれると、辰次が玄関の中に入った。

猪吉が出てきて辰次と話をし、仙蔵に近寄り「今日は帰っていい・・・」と言って玄関の中に戻っていった。

仙蔵は何が何だか分からず、猪吉と話を付けようと後を追おうとするが、手下の二人に腕を捕まれた。

「帰っていいって言ってんだっ、さっさと帰れっ」と猪吉の家から追い出された。

仙蔵が振り返ると、辰次が手下に何かを言いい、仙蔵の後を追ってきた。

「まだ何か?」

手下の一人が「いいから行けっ、寄り道するな」と手で追払い、二人が後を付けてきた。

仙蔵は松次郎の家に行きたかったが、ずっと後を付けられており、何処にも寄らずに自宅に戻った。

 家の前で、手下の一人に「調べが終わるまで、誰とも会うなよ。会ったら、その相手もしょっぴくからな・・・」と脅しつけられた。

手荒い拷問にかけらなかった事は不幸中の幸いだったが、言い知れぬ不安に苛まれた。

その不安と緊張から疲れがどっと溢れ、家に上がるとそのまま寝てしまった。

 寒さで目が覚めると、家の中は真っ暗。

手探りで障子を開け、ぼやけた月明かりを頼りに行灯を縁側に持ち出して火を入れた。

仙蔵は首元の冷たさに手を当てる。びっしりと汗で濡れ、手拭を首に押し当て一息ついた。

調べも受けず、ただ博打を眺めているだけ。ただの時間潰し・・・。

猪吉と岡っ引きの辰次が組んでいることは明白だ。こんな事、いつまで続くんだ。

何故、おいら一人だけなんだ・・・。

いくら猪吉が自分の事が嫌いだからと言っても、ここまでするのはおかしい。

頭の中で数限りない憶測が広がる。

博打に誘われたのも、捕縛するための罠だったのか。

それとも、あの小屋で誰かを待っていたが、予定が変わって来なかっただけの事なのか。

いや、村の半分近くが猪吉に借金をしているが、あの辰次とかいう岡っ引きと手下が博打を行い、村人が借金を作るように仕向けていたのか。でも、今日あそこに連れて行かれたのはおいらだけだ。

猪吉の家に持っていかれた蕎麦はどうなった・・・。

なかなか眠れぬ夜は長く続いた。

 

 翌朝、仙蔵の家に辰次と手下二人が現れ、手荒く仙蔵を家から引っ張り出した。

「手向かうと牢にぶち込むぞっ。来いっ」

仙蔵は言われるがまま、従う他なく外へ出る。

昨日同様、辰次が前を歩き、仙蔵の後ろに手下二人が挟んで歩く。

辰次は猪吉の家に向かう訳でもなく、村人が働いているところに差し掛かると、「早く歩けっ」と恫喝して歩いて回る。

 おいらは見せしめなんだ・・・

仙蔵は科人(とがにん)の様に扱われることで、村人に対して逆らったらどうなるかを知らしめている事を悟る。

この上ない屈辱に、仙蔵は立止ってぐっと辰次を睨みつけた。

「歩けっ」

後ろを歩く手下が仙蔵の背中を押し、無理やり歩かせる。

 人気のない場所に来ると、辰次が振り返る。

「間違っても陣屋に直訴なんてするな。もし、そんな事をしても、陣屋の旦那方がもみ消すだろう。下手すりゃ死罪だ・・・」

そう言うと村を出て、昨日の小屋へと向かった。

 小屋での辰次は、仙蔵など無視をして手下と博打に興じる。

途中、手下が外へ抜け出すと、辰次はごろりと寝転び、もう一人が仙蔵を見張った。

しばらくして、外へ出ていた手下が戻り、辰次ともう一人に弁当を渡す。

辰次は握り飯の包みをもう一つ手に取り、「おめえも食え」と言って差し出した。

岡っ引きが取調べをするはずもないが、何も問われることもないまま時間だけが過ぎ、

飯まで渡されて気味が悪い。

 仙蔵は辰次の意図が分からない。素直に食べられるはずもなく、竹皮の包を見つめた。

「毒なんか入ってねえよ・・・」

辰次はにやりと仙蔵を一瞥した後は全く話しかけず、三人は握り飯を平らげると、再び博打を始めた。

 そしてまた、西日が差してくると、「立て、帰るぞ」と小屋を出て村に戻る。

村に入り、人に会うと「おめえが手引きしたんだろうっ」と辰次が急に声を上げ、仙蔵の家まで送り届けた。

これが六日七日と続いた・・・。

 

                         (13)へ続く。

【 死に場所 】place of death 全34節【第一部】(10) 読み時間 約12分

  

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   (10)

 仙蔵はおさよと二人きりになると、再び無口になってしまった。

おさよは仙蔵の後ろに下がって歩くため、ますます話しづらい。

仙蔵はいつもの狩場へと、後ろに付いてくるおさよを気遣う。

「もう少しですから・・・」

はいと、おさよもこくりとうなづき付いて歩く。

 村外れの雑木林から小高い山の稜線が見えると、仙蔵は振り返った。

「足場が悪くなるから気をつけて。疲れたら言って下さい」

おさよは仙蔵に微笑み返す。

「これでも少し前までは、おきつさんと木に登っていましたから何の事はありません」

「そうですか、それは頼もしい」

二人は再び黙々と傾斜の続く山道を登っていると、岩場に差し掛かった。

大した段差ではないが、訪問着だと足元も厳しかろうと仙蔵は立止った。

「すぐ登った所なんですが大変でしょうから、ここで待っていてくれますか?じきに戻ります」

「すぐそこなら、わたしも一緒に行きます・・・」

仙蔵はおさよを見つめ、手を差し出した。

「では、お手を・・・」

おさよは一度仙蔵に目を向けると俯いたまま、言われる通り手を差し出す。

仙蔵は生まれて初めて女子の手を握り、躓かないように引上げた。

手を放すのも躊躇うほど、おさよの白い手が余りにも冷たかった。

「寒いですか」

「少し・・・」

おさよは、仙蔵の手からするりと引き抜いて困った様に自分で手を擦り合わせた。

寒い中連れて来たのは間違いだったかと気の毒に思い、仙蔵が足を止め困っていると

「お気遣いなく・・・参りましょう」とおさよは声をかけた。

 仙蔵は先に進んで雉を探す。

鳥の羽ばたく音や鳴き声を敏感に感じ取りながら、ゆっくりと木々に覆われた道を進む。

 目の前を雀が横切り、その方角に目を向けると「仙蔵さん、あれ雉じゃないですか?」

おさよがそっと仙蔵の耳元に囁いた。

珍しく仙蔵は確認できないでいると、おさよが西の方角に指した。

「ほら、あそこです」

「あっ、本当だ・・・良く気付きましたね」

二人からの距離ではまだ遠く、ひたひたと腰を屈めて雉に近づいた。

一旦、しゃがみ込み仙蔵は「ここから雉を見ていて下さい。場所を変えて狙います」と遠巻きに回り込む。

雉はさほど高い木に止まってはおらず、運よく狙える位置に来た。でも、距離は六間か七間(約11~13m)はあり、確実に仕留める自信がない。もう少し近づきたいが、その先は落ち葉が敷き詰められ足音で逃げられてしまう。

仙蔵はここから狙うと決め、背負った籠から矢を取り出し、弓に当て大きく息を吸い込み弦を引き絞る。

狙いを定めるが距離は遠く、いつもより力が入る。手ぶれが収まるまで息を止め、祈りながら矢を放つ。

 しゅっと空を切り、仙蔵が息を吐き出した後、キッとわずかな鳴き声と共にどさりと地面に落ちた。

「わっ、お見事ですっ。すごいっ」

雉を見ていたおさよが歓声を上げると、他の鳥が驚いて飛び去った。

仙蔵は落ちた場所を探し、射止めた雉の足を持ち、おさよに見せた。

「すごいっ、一回で当てるなんてっ」

大喜びのおさよは、大きく目を見開いて体を上下に弾ませ、仙蔵の腕を掴んでいた。

仙蔵も余りに喜んでくれるものだから、我ながら良い処が見せられたとほっと胸を撫で下ろし、にんまりとおさよを見つめる。

 二人の歓喜が一段落すると、静まりかえる森の中で、仙蔵はおさよに腕を掴まれている事に気づくと胸が高まりすぎて、どうして良いか混乱し、さっと身をひいた。

「ごっ、ごめんなさい。つい嬉しくて・・・」

「いえっ・・・」

互いに戸惑いを隠そうと顔を逸らし、仙蔵は上空の木漏れ日に目を向けた。

「あっ、余り遅くなってもいけませんから、これくらいにしておきましょう。つい最近、村の宴会で雉鍋をしたんですが、それが大そう美味かったんで、おきつさんに作ってもらいましょう」

「もったいない、こんな時分に貴重な食べ物ですから頂けません」

おさよは自ら男の腕を掴んでしまった事が恥ずかしく、大きく手を振って断った。

「今日、おさよさんが来るって分かっていても、恥ずかしながら持て成す物が全くないんです。だから、鯉か雉どっちか取れれば良いと考えていたんです」

「でも・・・今はどこでも食べ物は貴重ですし、何日分にもなります」

「後生ですから、おいらの顔を立てて下さい。団子だって高価な品です、もらいっ放しじゃ面目が立ちません。それに、おさよさんが来るって考えたら緊張して何も食べてないんです、団子以外は。腹も減っているから一緒に食べて下さい・・・と言っても、おきつさんが作るんですけど」

仙蔵はおきつの顔を思い浮かべながら、少しひねて笑う。

それにつられ、おさよも俯き加減に口元を押さえ、笑いを堪えて呟いた。

「分かりました。早く戻らないと、またぷんぷん怒られちゃいますからね。では、御相伴にお預かりします」

 二人は来た道を辿り、 再び、岩場に指しかかる。

仙蔵は先に降りておさよに手をそっと差し出した。

おさよは、仙蔵の手と顔を見て、ほんの束の間躊躇いを見せるが「お世話かけます・・・」と自らの左手を差し出す。

仙蔵はおさよの手を取り、左足から先に下りるように言うと、覚束ない足取りで仙蔵の手に体重がかかった。

仙蔵も倒れてはいけないとぐっと手を握り、右足が降りるまで足元を見ていた。

おさよは着物の裾を気を付けながら、平坦な場所に降り立つ。

仙蔵はおさよの手が温かくなっている事に気付いた。

おさよは安心したのか、手を握ったまま着付けの乱れを整えている。

仙蔵はおさよの横顔に目が向くと、途端にかぁと熱くなり、自分の手に妙な汗が滲む気配を察して、さっと放した。

「では、参りましょう・・・」

仙蔵は普段使い慣れない言葉を使ってしまったと、己の動揺ぶりが恥ずかしくなった。

そして、急にもう一人の自分が嘲笑っているような気になって、それがまた動揺を大きくし、おさよを置いて足早に歩き出す。

冷静にならねばと注意が逸れ、木の根に足首を引っかけ、つんのめってどさりと転んだ。

「痛えっ」

 おさよは、後ろから仙蔵が転ぶ瞬間を見て、小走りで駆け寄る。

仙蔵はみっともない所を見られ、痛恨の極みと目を瞑って悔やむ。

「大丈夫ですかっ、お怪我はございませんか?」

「だっ、大丈夫です・・・」

仙蔵はさっと身を起こして立ち上がろうとすると、おさよが手を差し出している。

「どうぞ・・・」

おさよは口元と揺れる肩を隠し、仙蔵の視線を避けていた。

どうにもやりきれない仙蔵は、「ははっ・・・おいらの方が転んでりゃあ世話ないよ、馬鹿だなぁ」と自分の足首を擦った。

おさよもそんな仙蔵を気遣って「さあ、ご遠慮なさらず」と今一度手を差し出す。

バツの悪い仙蔵は、ここで手を取らなければ、尚更小さい男に見られるとも思い、そっと差し出した。

「面目ない・・・」

「いいえ、お互い様です」

仙蔵は、おさよの温もりを感じながら立ち上がり、照れ隠しに「ああっ、雉まで駕籠から飛び出してらぁ」と散らかった矢も拾う。

 案内していたはずの仙蔵は、情けないと黙々と歩く。

おさよは、背中を丸めて先を歩く仙蔵を不憫に思い、「お見事でしたわ、一回で当てるんですから」と声をかけると、仙蔵はわずかに振り返り「たまたまですよ」と謙遜をした。

それでも、しゃきりとせず口ごもる仙蔵に、おさよは話かける。

「わたし初めて見ました」

「そうでしたか」

仙蔵が振り返ると、おさよが口元を隠してくくっと笑っていた。

「どうしたんですっ」

仙蔵が不機嫌になって立止ると、おさよが「仙蔵さんが急に歩き出したと思ったら、大の字になってあんなに綺麗に飛ぶところ、初めて見ました・・・むささびのように綺麗でしたわ。くくっ」と背を向けた。

「いや、その、綺麗もへちまもないでしょうっ。第一、飛べるとも思っていませんからっ。誰だってあるでしょう、躓く事ぐらい。そんなに馬鹿にしなくてもいいでしょうっ」

「違います、馬鹿になんてしておりません。小さい時、田んぼに落ちて真っ黒になったことがあったんです。その時の思い出も重なって、それで可笑しくなったんです」

仙蔵はむささびが滑空する姿を思い浮べながら、空に目を向けた。

「おいらも追いかけっこしてて、田んぼに落ちた時にあったな・・・」

おさよは「みんな、躓くことなんてあるもんですよ」と歩き出し、お互いの小さい時分の思い出を話しながら仙蔵の家に着いた。

 

 仙蔵は家に戻ってまず最初に、「雉が獲れたよっ」と声をかけた。

その声に家で待っていた圭助とおきつが玄関に顔を覗かせた。

「おおっ、上等なもんだっ」

「ほんと、仙蔵さんはやる時やる人ねっ」

やきもきしていたおきつは喜び、おさよに目を向けた。

「どうだった?」

「うん、楽しかった。仙蔵さん一回で当てたんだからっ。びっくりしちゃった」

圭助は、照れながらもまんざらでない仙蔵に一声かけた。

「やるね~っ、これでおさよちゃんの心も射止めたって訳かぁ?」

その一言で、仙蔵はかーっと顔を赤らめて固まり、どきまぎして視点が定まらず辺りをきょろきょろし始めた。

おさよも、真っ赤になって急に押し黙って、くるりと仙蔵に背を向けてしまった。

 おきつは、「ちょっと」と圭助の袖を引っ張って、座敷の影に連れ込む。

「あんた、ほんと、ばかだよっ。やんなっちゃう」

「痛えなっ、叩くなよ。いいじゃねえか、射止めた様なもんだろう・・・」

「せっかくいい雰囲気になったのに~っ。下衆な冷やかしじゃないの。見て御覧よ、また最初に逆戻りみたいになっちゃったじゃないの、ばかっ」

圭助はおきつに叩かれた肩をぼりぼりと掻きながら、ふて腐れて「悪かったよぉ、でも叩くことはねえじゃねえか」とぼやく。

 仕切り直しと、おきつが土間に突っ立ったままの二人に声をかけた。

「仙蔵さんもおさよちゃんも疲れただろうから上がって、ねっ?」

仙蔵はぎこちない態度で「うん、皆でまた雉鍋やろう・・・だから、おいらはちょっと絞めてくる」と逃げるように裏庭に回った。

 仙蔵は圭助の一言があるまでは、親しくなり雉鍋で持て成し、面目が保てると安堵する方が大きかった。

 そもそも、おさよが家に来る事は、自分を気に入ってくれるかどうかが目的のはず。

それを思い出した仙蔵は、おさよが嫁に来てくれることは申し分ないどころか、それすら信じられない様な幸運に舞い上がる気持ちで口元が緩くなる。

自分を好いてくれると思うだけで、そわそわと落ち着かない。

「おいらに・・・おさよさん?」

仙蔵の体が勝手に小躍りし出して、雉を絞めるどころか縄をくるくると回してみたり、棒を持ち出して太鼓を叩くようにぼんこぼこと木箱を叩き出した。

 

 「何やってんの、祭りの練習?」

その音を聞きつけた圭助が、仙蔵のいる裏庭に回ってきた。

慌てた仙蔵は、にやけ面をさっと引き締め「雉を絞めた後、ぶつ切りが良いのかを考えてた・・・」と誤魔化してみたが、「うっそだ~ぁ、今のはおさよちゃんを思う、心の臓(しんのぞう)、いや、魂の躍動だろう~っ。良かったよ、仙蔵が気に入ってさ。手伝おうか?」とにやにやと圭助が腕を組んでうなづく。

「そんなんじゃないっ。ここはいいから、あっち行って茶でも飲んでろっ」

 圭助を追い払った仙蔵は、バツが悪いだけに急に気分が下がる。

くっそ、からかいやがて・・・。

雉を絞める作業も面倒になるが、おさよの喜んだ顔が思い描き手早くさばく。

 座敷の方からは、おさよとおきつが笑い合う声が聞え、久方ぶりに心底から憂いを忘れる心地がした。

 この前の村の宴では、色々あって早々に一人で帰ってきた事が思い出され、自分で獲ったのにろくすっぽ鍋も食べていない。

今日こそは思う存分食べようと意気込み、畑に行って大根や葱など鍋に入れる材料を引っこ抜いて家に戻る。

 圭助は急いで出迎え、駕籠の野菜に目を向けた。

「手伝うって言ったのに・・・」

「造作もないことだから」

仙蔵はそのまま台所に向かうと、おさよとおきつも付いてきた。

おきつが「仙蔵さん、後の準備はわたし達がやるから、少し休んで。おさよちゃんも仙蔵さんとお話でもしてて」と着物をたすき掛けで縛って、前掛けを付けた。

「わたしもなにか手伝う」

一人で支度をさせられないと、おさよも気遣う。

「それ、訪問着なんだからいいわよ。汚したらいけないでしょ。わたしがやるからあっち行って。今度手伝ってもらうわ」

おきつはおさよの手を引き、座敷の方へ引っ張って行くと納得した。

 仙蔵は井戸水で手を洗い、桶に水を組んで足を洗っていた。

おさよは立ったまま手持ち無沙汰であると両手をもじもじとしながら、「仙蔵さん、おきつさんが休んでいてって言うんですけど、何か手伝うことありますか?」と尋ねる。

「あともう少しすれば、血抜きも終わるから座っていましょう」

仙蔵は囲炉裏の前の座布団に座り、両端が補修されているのが目に留まる。

 ぼ~っと天井を向いて、暇を持て余す圭助に声をかけた。

「おきつさん、座布団を綺麗に縫ってくれたんだ・・・」

 圭助は仙蔵に顔を向けて頷く。

「なんだかんだ言いながらも、ここにあるもの全部直してたよ。あ~っ、それにしても暇だ・・・誰も相手してくれねえし、なにかしゃべれば怒られる・・・そうだ、おさよさんはいつもどんな事しているの?」

座ろうとしないおさよに仙蔵も声をかけた。

「まあ、おきつさんがいいって言うんだから、座ってましょう」

「そうだそうだ、あいつに任せておけば大丈夫だ。いつも団子屋で働いているの?」

圭助は悠長に茶を啜りながら、まるでこの家の主のように仕切り出す。

「ええっ、親戚のおじさんとおばさんの家に住み込んで、一緒にお団子をこしらえて、宿場を通るお客さんの給仕なんてこともしています」

仙蔵はおきつの話に耳を傾けてうなづいていると、圭助が「栗原宿は落ち着いたの?」と再び問い掛ける。

一揆やらで店も開けられませんでしたけど、やっと最近になって・・・」

圭助は大きくうなづいた。

「店なんて開けてたら、悪党やらに団子を全部食われちまうもんなぁ・・・」

「団子食われるだけで済む訳ないだろう。なに頓珍漢な事を言ってんだよ」

仙蔵は呆れておさよに顔を向けると、口元を隠しながら「でも、たまにいるんですよっ。お団子持ったまま逃げる人が」と思い出し笑いを堪える。

「馬鹿だね~っ、そんなのすぐ捕まるだろうに。あははっ」

圭助が惚けた調子で笑っていると、台所にいたおきつの耳にも届いたらしく、「馬鹿笑いしてないで、こっち来てよっ」と呼ぶ声に圭助は渋々腰を上げて、「なんだか今日はぷりぷりしてんだよ、あいつ」と首を捻りながら台所へ行った。

 案の定、圭助が台所へ行くと、おきつが包丁を持って機嫌悪く待ち構えていた。

「なっ、なんだよ~ぉ」

「さっきも言ったじゃない。せっかく打ち解けてきたのに、あんたが一番げらげら笑ってどうすんのよ」

 圭助も余りにも、がみがみ言われるもんだから反論する。

「仙蔵は女子と余り接した事がねえ。言うなれば、ウブって奴だ。おらぁお前と幸せに暮らしている夫婦(めおと)の先輩って訳だ。考えてもみろよ、最初、二人は互いに黙り込んでいただろう。だから、いつも仙蔵には助けてもらっているから話の切欠を作っていたんだっ」

おきつは初めて幸せに暮らしているなんて言われたもんだから、頬を桜色に染めて「ちょっとあんたったら・・・そうだったの、ごめんなさいね」としなを作ってもじもじと包丁を見つめる。

「おらぁ、こんな事ぐらいしか出来んからよ」

圭助は座敷を心配そうに覗くと、仙蔵とおさよの話が弾んでいる様子を見て、おきつに微笑んだ。

「大丈夫そうだ。おらぁ、お前と一緒に手伝う」

「お二人お似合いね」とおきつも座敷を覗き込むと夫婦の顔の距離も縮まる。

「お前が一番だぁ・・・」

圭助が口を尖らせておきつに近づいた。

「仙蔵さんの家だよっ、すぐ調子に乗るんだから・・・」

そうは言いながらも満更ではないおきつは、そっと圭助を押しやった。

 

 しばらくして、仙蔵は雉を台所に持って行った。

圭助が受け取ると「あとは任せておくれ、出来たら持っていく」と妙に張り切っている。

仙蔵はひやかしにも似た圭助の笑みに何か言おうかとも思ったが、「いいからいいから、おさよさんとこへ行ってあげて」と押しやるものだから「じゃあ、任せた」と戻る。

 仙蔵はおさよに「あともう少しでできるから・・・」と腰を下ろす。

改まって座ってみると、また何を話して良いのか分からなくなり外に目を向けた。

「おいらは狩りや釣りが好きだが、おさよさんは何している時が好きなの?」

おさよは仙蔵に目を向けた後、自分の着物に目を向けた。

「繕い物や小物作りなんてことが好きです・・・この着物も古着屋で安く買ったものですけど、こうして自分で直して綺麗に仕上がった時は嬉しいですね。あとは、すてきな端切(はぎ)れなんて見つけると小袋とか作ります」

仙蔵はおさよの着物に顔を近づけ「へえ~っ、新品みたいですね」と感心して腕を組む。

「宜しかったら、これ差し上げます」

おさよは若竹色の巾着を取り出した。

「絹じゃありませんか、せっかく作ったものですから頂けませんよ」

「これも端切れで作ったものです。煙草道具とか小銭入れに使ってください」

おさよは嬉しそうに「どうぞ」と言って仙蔵に渡す。

仙蔵は小銭入れと聞き、そういえば出すのも恥ずかしいぐらいにくたびれていた事を思い出して「有りがたく頂戴します」と受取った。

 圭助が鍋をもって現れ、囲炉裏の自在鉤(じざいかぎ)に吊るす。

「あと一煮立ちすればできあがりだよ」

後から、おきつが茶碗を持って圭助の隣に座った。

鍋がぐつぐつと煮え、蓋が上下にかたかた音を立てると味噌の香りも立ってきた。

仙蔵は大きく鼻で吸い込むと待ちきれなくなって蓋を開けてみる。

「美味そう~っ」

蒸気がもわっと仙蔵の顔を覆う。

「もう、いいんじゃない?」

「もう少し煮ないと・・・」

おきつは、逸る仙蔵を嗜める。

「そうかなぁ、もう食えるよ」

仙蔵はおさよから小袋をもらった喜びもあって、食欲も盛んになる。

「体まで揺らして童みたいですよ」

「おさよさんだって、腹減ったでしょう?」

仙蔵はおきつに「もういいよ、食おうよ」とせっつくと、おきつも鍋の煮え具合を見て、そうですねと人数分の御碗に盛って渡した。

仙蔵は碗を受取ると、ふうふうと息を吹きかけながら、熱くなった雉の肉を口に恐る恐る入れて噛み砕く。

「うーん、美味いっ。ほら、おさよさんも食べてごらんよ」

 おさよも、仙蔵が満面の笑みで勧めるものだから、頂きますと手を合わせて箸を付けた。

汁から啜り、同じくふうふうと肉に細い息をでもって醒ましてから小さい口に入れる。

ほくほくと顔をほころばせ、幼子の様な雰囲気になった。

「ねっ、美味いだろうっ。おきつさんの味付けもしょっぱからず薄からず、丁度いいね」

おきつも食べ、箸を持ったまま手を振って謙遜する。

「雉の良い出汁が美味しくさせるんですよ」

「この前食って、また今日も食えるなんて、仙蔵様々だなぁ」

圭助が仙蔵に手を合わせて「ありがてぇ、なんまんだぶ」とお辞儀をすると、おさよもおきつもお碗を置き、みんな揃って仙蔵に手を合わせた。

「なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」

「よせっ、拝むなっ。おさよさんまでよして下さいっ」

仙蔵は照れ臭くてしょうがなくなり、「皆でからかって・・・」と食べ続けた。

 

 四人で突いた鍋は、食べ終わるまでにそれ程時間はかからなかった。

仙蔵は後ろに手を付いて、「ああっ、もう食えねえ・・・」とおさよに目を向けると、とんとんと胸を叩いて苦しそうにしている。

「大丈夫?」

おさよは恥ずかしそうに「いえ、あんまり美味しかったもので、つい食べ過ぎて苦しくなって・・・」と着物と帯の間に手を挟んで調節する。

「遠慮しないで、落ち着くまで寝たらいいよ。皆で横になろう」

おきつは「そんなずうずうしい事できるわけないでしょ」と首を振る。

仙蔵は圭助を指差す。

「でも、ほら・・・」

ごろりと一人で横たわる圭助を見たおきつは圭助の肩を揺すった。

「ちょっと、あんたが真っ先に寝てどうすんのよ」

「腹一杯になったら眠くなっちゃった・・・」

「なに言ってんのよ、これからおさよちゃんを送っていかなくちゃなんだから寝てもらっちゃ困るわよ」

 仙蔵はちらりとおきつに目を向けた。

「それだったら、おいらが送って行くよ」

「それはやめておいたほうがいいわ。帰り道は猪吉さんちの近くを通らなくちゃいけないから、またなんだかんだ邪魔されても嫌でしょ。だから、わたしたちが送って行くわ・・・」

おきつは真剣な眼差しで仙蔵に頷くと、「あんた、起きてよ」と圭助を引っ張った。

猪吉の顔を思い出した仙蔵は、「ああっ、そうか・・・」と力なくうなづく。

「おさよちゃん、遅くなってもいけないから、そろそろお暇しようか・・・」

 面倒事と寂しさが一度にやってきた仙蔵は、おさよと分かれるのが尚の事辛く不安になる。次の予定を決めておかないと、このまま会えなくなる気がしてきた。

「こっ、今度は年明けにおいらが栗原に行くよ。そして、春になったら桜を見ながら団子を食べようっ。それで、魚でも釣りに行って食べよう」

おさよは畳み掛けるような仙蔵からの申し出に驚いたが、その真剣な顔つきに本心が見え、「はいっ、是非」とぱっと笑みを湛えて喜んだ。

「あんた、行くわよ」

 おきつが立ち上がると、大あくびをする圭助も立ち上がる。

おさよも荷物を纏めて雪駄を履くと、仙蔵も後に続き玄関先に出て見送った。

名残惜しい別れに、するりと手の中から抜け落ちないように「正月の三日か四日に行きますっ」と今一度念を押す。

「はいっ、お待ちしております」

おさよは仙蔵としばし見詰め合うと、丁重に一礼する。

「気をつけて・・・きっと行きますっ」

「仙蔵さんもお達者で・・・」

おさよは、おきつと圭助と共に歩き出す。

仙蔵は見えなくなるまで、おさよの姿を目に焼きつける。来年の楽しみを思うと、この日会って、本当に良かったと空を見上げた。

 

 

                       (11)へ続く。

 

 

【 死に場所 】place of death 全34節【第一部】(9) 読み時間 約10分

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   (9)

 それからしばらくは、どんよりとした天気ながら平穏な日が続き、十一月に入った。

十日もすれば、蕎麦が収穫できる。

 早朝から釣りに出かけ、昼過ぎに帰ってきた仙蔵は、釣った鮒を魚籠(びく)から桶に移していたところに、圭助とおきつがやってきた。

「丁度いいところへ来た、今日は珍しく五匹も釣ったから持っていきなよ」

夫婦はしゃがんで桶の中を覗き込み「お~っ、けっこうでかいな」と顔をほころばせる。

「仙蔵さん、この間の話なんだけど、いつ頃にします?」

おきつが立ち上がった。

「話って・・・なんだっけ」

「おさよちゃんですよ」

「ああっ、おさよさん・・・」

「仙蔵さんから何にも言ってきてくれないから・・・」

仙蔵は返事に困まり、とりあえず二人に上がってもらう。

 おきつは何が何でも今返事をもらいたいと話を進める。

「もう十一月でしょ。早くしないと年越しちゃいますからね」

手持ち無沙汰の圭助が割って入る。

「相手はもう十九だ。年増で年越し、大年増になっちゃう」

「ちょっと黙っててっ」

「いつでも良いって言えば、良いけど・・・」

「じゃあ、あたしの方で決めちゃっていいですね」

おきつは、はっきりとしない仙蔵にはっぱをかけた。

「あっ、でも十日くらいしたら収穫だ・・・」

おきつは煮え切らない仙蔵を追いつめる。

「そんな事言っていたら、いつまで経ってもお嫁さんの来手なんてありませんよ。それとも、いらないんですか?」

仙蔵は目を逸らし、弱々しい声で呟いた。

「いらないって言う訳じゃないけど・・・」

「だったら、会うだけ会ってみたらいいじゃありませんか。魚釣りだって、わざわざ行って釣れない事だってあるのに、空から魚が降ってくる様な、滅多にない話を持ってきているんです。仙蔵さんは、それでも雨戸を閉めて空けるかどうか悩んでいるようなものです。そんな事していたら一生そのままですよ・・・」

おきつも少し言い過ぎたと思ったが、仙蔵が蕎麦を買い付けてきてからの気鬱を晴らすには何か切欠が必要だと思っていた。

また、圭助を助けてもらった恩義を返したい一念が強く、力も入る。

 尚も、仙蔵は上を向いたり下を向いたりと煮え切らない。

「何をそんなにこだわるんですか」

「いやぁ、貧乏だから。悪いと思って・・・」

「この前も言いましたけど、わたしはこの人に嫁ぐ前より貧乏になりましたよ・・・仕方がないとは思いますけど、後悔はしてません。そもそも、嫁の気持ちを仙蔵さんが決めることじゃありません。人の気持ちなんて天気と同じでどうこうできるものでもないでしょ、冷夏や天変地異を仙蔵さんがどうこうできるんですか?祈祷師だって出来やしませんよ。そんなに心配なら、おさよちゃんに決めてもらえばいいじゃないですか」

 仙蔵自身も、確かに自分は祈祷師でもなければ神でもはないと思う。人の心をどうこうできるものではなし、雨戸閉めても、こうしておきつが戸を叩き付けるし、断ったら断ったでまたうるさく言われる。女子に嫌われる不安もあるが、戸を開けねば何も始まらない・・・。

「分かったよ。いつにしよう」

ここで逃してなるものかと、おきつは間髪入れずに仙蔵を見つめた。

「五日後に来てもらいましょうよ」

「えっ、でも作業も終わってないし、大してお構いもできないと思うけど・・・」

「それでいいじゃないですか。どうせ仙蔵さんのことだから、無口になってお茶ばっかり飲んでいるだけになるなら、旅の話を聞かせてお上げになったら宜しいじゃありませんか。その後、仙蔵さんのお得意の雉でも一緒に狩りに出かければ、おさよちゃんだって頼もしいって思うんじゃないですか?」

仙蔵もおきつからそう言われると、何を話していいかも分からず仕舞いで終わりそうだし、貧相な家でずっとにらめっこになるよりはましだと了承した。

「じゃあ、五日後に・・・待ってる」

 

 話がまとまると、圭助はおきつに仙蔵と話があるからと言って先に帰した。

「まだ何かあるの?」

圭助は腕を組んで俯き、先程の軽薄さはなりを潜め、体を前後に揺らす。

「どうって事ないって言えば、どうって事ないのかもしれんけど・・・」

仙蔵は歯に物が詰まった言い回しに、圭助の顔をちらりと見る。

「なんだか、猪吉さんの倅の調子が良くねえのか知らんけど、医者が出入りしておる。それに、頻繁に出かけておるんだ」

「亀太郎はもともと病弱だからな・・・」

仙蔵は不思議ではないと小さく頷いた。

圭助は首を捻り「あと、どうやら陣屋に行っている様だ」と眉間に皺を寄せる。

「どうして陣屋って思うんだ」

「紋付着てたから」

 仙蔵は、猪吉の息子の亀太郎と小さい時に遊んだ事を思い出す。

年は自分より三つ下で、背は高いが色白でひょろっとしていて顎の線が細かったのが印象深い。

「まさか、危篤じゃねえよな・・・」

仙蔵が何気に口にすると圭助は咳払いをした。

「そらぁ、まだ分からん・・・けど、様子がおかしいんだ。だから一応伝えておこうとね」

仙蔵は圭助の帰り際に、魚籠に水を入れて鮒を持たせて見送る。

「三日ぐらい泥抜きしてくれ」

「ありがとう」と圭助が手を振って帰って行った。

 確かに妙だと考え巡らせるが、早合点かもしれない。危篤となれば皆に知らせがあろうと家の中に入る。

桶の中の鮒がばしゃりと水飛沫を上げる。

仙蔵は「早く泥を吐け」と指で突いてみると、鮒の尻尾が水を叩き、飛沫が仙蔵の口に入り表に出てた。

「ぺっ、おいらが吐いてどうすんだ・・・」

 

 おさよが来る約束の日。

仙蔵は前日から落ち着きがなく、旅の話をどう面白く話そうとか、雉を獲りに行って、矢が外れたらかっこ悪いなとか、良からぬ不安とまだ起きてもいない妄想が膨らむ。

村でも、それほど女子と話すこともないのに、ましてや他の村の一度も会った事もない娘さんと祝言前に会うとなったら、尚の事居ても立ってもおれない。また、嫌われたら恐らく村中に知れ渡って笑い者になる様な気がしてきた。

事前に、女子が夫となる相手の家を訪ねる事は、余り聞かない。

今更ながら、仙蔵は呼ぶんじゃなかったと頭を抱え、昨夜から大して飯も喉に通らない。

 

 日も高くなり、昼時近くなった頃、家に足音が近づいてきた。

仙蔵の胸は高まり、血がどくどくと頭に上り顔が火照り耳が熱い。

障子の影から家の前の道を覗くと、圭助を先頭におきつ(・・・)ともう一人の女子が見え、目が釘付けとなった。

 遠目ではあるが、その女子の容姿は、藍色より少し明るい色の縞紬(しまつむぎ)の着物。

きちんとした外出着で、頭は少し膨らみを持たせた髪を丁寧に結っている。

朝早くから時間をかけて支度してきたことが一見して分かる。しかも、両手で土産らしきものも持っているではないか・・・。

 仙蔵は障子から離れて隠れ、壁に張り付く。自分はいつもの普段着でろくすっぽ髭も剃っていない。また、月代(さかやき)も剃らず髷も束ねただけで客人を迎える準備さえしていない。

どうしようっ・・・。

仙蔵は会いに来るとだけ聞かされていたものだから、女子も普段着で気軽なものと思っていた。まるで商家の娘の様な装いに、尚更うろたえる。

仙蔵はおろおろとして辺りを見回し、急いで湯飲みを準備する。破れの目立つ座布団を裏返し、囲炉裏の周囲に配置した。

それでも、早く汚い着物も換えなければと慌て右往左往していると、「御免下さい」とおきつの声が玄関から聞えた。

 あーっ、もう駄目っ。

仙蔵はどうにもならないと天を仰いでいると、更にもう一声聞えた。

「仙蔵、いるのか?あれ・・・何してんだ?」

圭助は眉を寄せて怪訝な顔して中に入って来た。

 仙蔵は取り乱していることを隠そうと、腰に手を当て「ちょっと腰を伸ばしていた・・・」と惚けて見せる。

圭助は嬉しそうに「ささっ、入って入って」と客人であるおさよを招き入れた。

身支度もしていない仙蔵は着替える事もできず、そのまま玄関に顔を出した。

おきつが仙蔵を見るや「あれ、今日おさよちゃんが来るって忘れてたんですか?」と少々不機嫌な様子で仙蔵の頭から足まで見ている。

「ちっ、違う違う、そうじゃない。作業をしてたんだ。ちょっと水を撒かないといけなかったもんで」

仙蔵はおきつから目を逸らした。

「そうですか・・・まあいいですけど。それより、こちらにいらっしゃるのが、」

おきつが言いかけると、圭助が「まあ、そんなに堅苦しく挨拶するとお互いに緊張しちゃうから、もっと気軽にしよう」と声をかけた。

「そうね。こちらが、おさよちゃん」

おきつがにこりとおさよに微笑んだ。

「おさよです・・・初めまして、この度はお忙しい中、お訪ねして申し訳ありません」

おきつの幼馴染で、気の強い頑固な女子だと聴いていたが、印象は全く違った。

見た目は、おきつの言っていた通り、色白で小顔。目元は涼しく、挨拶する時の笑顔は愛嬌があり可愛らしい。

 村にこんなべっぴんはいねえ・・・

仙蔵はぼーっとおさよを見つめてしまう。

おきつは、これまで散々渋っていた仙蔵が薄ら笑いさえ浮かべる変わり様に、亭主がいながらも嫉妬の様なものを感じたらしく棘のある言い方をした。

「ちょっと、仙蔵さんっ。いつまでわたし達は立っていればいいですかね・・・」

慌てた仙蔵は「ああっ、すまない。汚い家だけどお上がりになって下さい」と土間に下りて、足洗い桶を差し出した。

雑巾も必要だと取り急ぎ、手近にあったものを渡すが広げてみれば、泥で汚れていた。

ちょっと待ってと、なんとか足拭きと呼べる様な布をガタガタと荷を引っくり返す。

「仙蔵さん、おさよちゃんの足拭きはいりませんよ」

おきつが、慌しい仙蔵に冷ややかな視線をじろりと向ける。

「なんで?」

「なんでって、おさよちゃんは足袋履いてきたんですよ。わたしたちも雑巾を持ってきました・・・」

しどろもどろの仙蔵は「ああっ、そう・・・おっ、お疲れになったでしょう」と口ごもりながら座敷に招き入れ、茶を出す支度で忙しなく動き回る。

 見かねたおきつが立ち上がる。

「仙蔵さん、少し座ってて。なんだがこっちまで落ち着かなくなっちゃうから」

圭助もうなづき「そうだよ、ゆっくり座って話でもしよう」と手招きをして、先におさよを座らせた。

後から仙蔵も座ろうとするが、圭助の隣におきつが座るから、当然、おさよの隣にしか空いている座布団がない。

先に座っているおさよは、仙蔵を見上げ微笑むとはにかんで俯いた。

どきまぎしながら仙蔵は、薄汚い座布団に正座をして「きょ、今日は遠路はるばる起こし下さりまして、こんなあばら屋には勿体ない事でございます・・・・」と床に頭を擦り付けんばかりに頭を下げた。

「いいえ、こちらこそ大事なお仕事中にご訪問してしまって・・・・これ、お口に合いますかどうか分かりませんが、御納め下さい。わたしの親戚が栗原宿で笹子屋というだんご屋を営んでおります品です。お召し上がりになって下さい」

おさよは風呂敷包を解いて、仙蔵に渡す。

「申し訳ありません、気を使ってもらって・・・こちらはなんの用意もできなくてすいません」

仙蔵は準備の悪さに恥ずかしくなり、耳を真っ赤にして俯いてしまった。

おきつが茶の準備をして各々に配ると、自分も圭助の隣に座った。仙蔵とは囲炉裏を挟んで正面になる場所で様子がつぶさに見て取れる。

 おさよは団子屋で働いていて客あしらいも慣れているが、相手が緊張していると自分まで緊張してきた。

二人共もじもじと、どういう風に話せばいいのやら落ち着かない。

 おきつは圭助に近づき、肘で亭主の腕をつついた。

圭助も静まり返った中で、どうして良いのかも分からず、黙々と茶を啜るのみ。

頼りないと、おきつは立ち上がる。

「仙蔵さん、お皿借りるわよ。せっかくだからお団子頂戴しましょう」

全く役に立たない仙蔵は、渡りに船だと「おいらがやるよ」とつられて立ち上がると、「仙蔵さんはいいから。自分の得意なことやら、旅の事やら話してくださいな。ずっと黙っていたら、日も暮れておさよちゃんだって帰らなくちゃいけなくなるんだから」と益々おきつの口調は早くなる。

「あっ、ああ・・・そうだね。おっ、おいらは先月、圭助と一緒に蕎麦の実を買いに旅に出たんだ・・・」

 おさよは前かがみになって、丹念に仙蔵の話に耳を傾ける。

おきつは、抑揚のない仙蔵の話っぷりを聞きながら、皿に団子を乗せてそれぞれに渡す。

「仙蔵さん・・・悪だくみの話じゃないんだから、もうちょっと大きな声で話さないと誰にも聞えやしませんよぉ」

じれったいとおきつは、仙蔵が思いやりのある人柄である事や、弓矢が上手であるとか、腑抜けの様な仙蔵に変わって、おさよに説明した。

 おさよは、店に来る客とそれなりに会話をするが、なんとなく嘘か本当か分からぬような話だったり、水茶屋と勘違いしていやらしいことを言う客が多かった。

おさよと正面から向き合って、気遣う様な会話は余りなく、自分の事だけをべらべら捲し立てて去って行く客ばかりだった。

仙蔵をちらりと見れば、顔を赤くして丸い目をすぐに逸らしてしまう。

女子としてだけではなく、真剣に向き合ってくれているからこそ、大そう緊張しているんだと嬉しくなった。

おきつが話す仙蔵と、目の前にいる仙蔵は、まるで別人の様に大人しく下ばかりを見つめ、時折ちらりと自分を見るくらいだった。

おさよも仙蔵が将来の夫になる男として改めて思い描くと緊張してしまう。おきつにちらりと目を向け、もじもじとお茶に視線を落とした。

 圭助はおきつに肘でぐりぐりと押されて、苦し紛れに仙蔵に声をかけた。

「そっそうだ、裏の畑に育った大根でも見せてやれば?」

おきつは圭助を目を細め、横目で首を振った。

「誰でも見たことあるでしょ・・・」

圭助はしくじったと「違うかっ。戸隠で買ってきた蕎麦だった」と手を叩いた。

おさよは、ふと顔を上げ「見たいです、苦労して買ってきたお蕎麦を」と立ち上がった。

仙蔵がおさよを見上げると、「どこです?そのお蕎麦」と微笑んでいる。

言われるがまま仙蔵も立ち上がり、障子を開け縁側に出た。

「少ないけど、なんとか育ってます・・・他にも、場所を換えて植えました」

「多く実れば良いですね」

おさよが微笑むと、仙蔵は実ってくれねば村の存亡に関わるという強い信念も加わって、初めておさよを見つめてうなづく。

「はい、これが命綱ですから」

仙蔵も自然と笑みが浮かび、大きく息を吐いた。

「おさよさん、良かったら外に出てみませんか?こんなあばら屋にいても気分は晴れませんから」

「そんな事ありません。わたしの育った家だって似た様なものです。ねっ?」

おさよはおきつに振り返ると、「う~ん・・・そうだったかしら」と言葉を濁した。

「おきつさんの実家は、うちよりも裕福だから何て言っていいのか分からないんですよ。ふふっ」

おさよは照れ臭そうに微笑み「うちは狭いくせに雨漏りだってあったし、破れた服や座布団も、わたしや母が繕ってずっと使っていましたよ」と流暢に話し始める。

 仙蔵は座敷に戻り、ぼろ座布団を手に取って、おさよに見せた。

「おいらは縫いもんが下手だから、裏返して使っています」

「それくらいなら、縫って差し上げます」

おさよは破れた座布団を仙蔵から受取ろうとするが「お客さんにそんな事させたら申し訳ありません。こんな小汚い座布団を繕わせらたらバチが当たります」と座布団から手を放さなかった。

「いいんです、わたしこういうの見ると直したくなる性分なんです。ご遠慮なさらず」

「これは、死んだ親父が座っていた座布団ですから臭いし止めた方がいい。初めての客人に失礼ってもんです」

仙蔵は申し訳ないと頭を下げながら断った。

「わたしだってお忙しい時にお招きに預かったんですから、これくらいさせて下さい」

 

 二人が座布団を放さない様子を見ていたおきつが、圭助にささやく。

「ほらね、頑固でしょう・・・」

「ああっ、どっちもだ・・・」

おきつは溜息を吐く。

「なんだか不安になってきたわ」

「どうして」

「だって、二人してまだああやって座布団引っ張り合ってんだよ・・・そのうち真っ二つに引き千切れるんじゃないのかね・・・もし一緒になったら、ずっとああなるかもしれない気がしてきた・・・」

「縁起でもねえ事言うなよ」

 

 仙蔵とおさよは、座布団を持って押したり引いたり遊んでいる様。

「汚いですからっ」

「いえっ、すぐに縫ってしまいますからっ」

 綿埃が、おきつの鼻をくすぐり、くしゅんっと大きなくしゃみが出て見上げた。

「ちょっと、お二人さんいい加減にしてよっ。わたしが座布団縫っとくから、二人で雉狩りでも行ってきなさいな」

とうとう辛抱できなくなったおきつが、二人から座布団を取り上げた。

おきつは、全くもうぉと二人に苛立ち「さあ、行ってらっしゃいっ」と追払う。

「獲れるか分からないけど、一緒に行きますか?」

おさよはこくりとうなづいた。

「はい・・・」

 仙蔵は土間に行って草履を履くと、綺麗なおさよの雪駄に気付き、草履を用意した。

「少し、山の中に入るからこっちの方がいい」

「ありがとうございます・・・」

おさよはかしこまっていると、おきつが「それ訪問着だから、これを羽織って」と自分の上掛けを渡す。

「ありがとう・・・」

おさよは照れながら草履に足を入れ、小声でおきつと圭助に頭を下げた。

「ちょっと行って来ますね」

仙蔵は弓矢と駕籠を担ぎ、おさよを連れて山に向かう。

 

 

                          (10)へ続く。

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(東京都水道歴史館)

【 死に場所 】place of death 全34節【第一部】(7)~(8)読み時間 約15分

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  (7)

 そして、翌日のお八つ時。

仙蔵は猪吉の家にはすぐに入らず、少し離れた木陰から様子を窺っていた。

みんなが集ってから話し合いが始まる。その前から待っているのも針の筵に座らせられるようで堪らない。

 仙蔵は村人の集り具合を見ていた。

ちらほらと、隣近所と連れ立って猪吉の家に向かう姿が見える。

ただ、圭助が現れない。臆して来ないつもりか・・・

村人の歩いている姿は次第に少なくなり、年寄りがのろのろ歩いてくるぐらい。

仙蔵は妙な胸騒ぎがした。

 まさか、逃げたか・・・。

もし、圭助が夜逃げでもしたら、誰も自分の無実を明かす者はいない。

このまま猪吉の家に行っても、理由を付けて代官所に引き出されるかもしれない。

仙蔵は場所を変え、猪吉の家の近くの水車小屋の脇にある藪に隠れて様子を窺う。

 すると、小屋の影から声が聞えてきた。

「あんたっ、何を今更じたばたしてんのよっ」

「だってよ~っ」

「だってもへったくれもないでしょっ。あんたが行かないんだったら、あたし一人でも行くからねっ。そしたら、あんたとは離縁する」

「おっかぁ〰っ、そんな冷てえ事を」

間違いなく、圭助の声だ。

仙蔵は二人の背後から声をかけた。

「圭助っ」

「うわーっ、でっ、出たっ!」

圭助はびっくりして尻餅をついた。

圭助の女房のおきつも口をあんぐりと開け、目を見開いたまま赤ん坊を抱えている。

「おばけじゃねえよ・・・こんな所で夫婦喧嘩して」

おきつは申し訳ないと深々と頭を下げる。

「仙蔵さんっ、昨日の晩この人から全部聞きました。ずっと庇ってくれていたのに申し訳ありませんっ」

唐突に謝られた仙蔵も驚いて、夫婦の顔を見比べた。

「話したって、旅の事?」

「そうです、全部この人が悪いんですっ。それで、いつもの様に『どうしよう、どうしよう』って、あたしに泣きついてきたんで、こうやって引っ張ってきたんです。そしたら、急に臆病風に吹かれて足がすくんでしまって。情けないったらありゃしないっ。実は、この人は仙蔵さんと一緒に旅に出る前に、猪吉さんに借金のことで脅かされて監視して、わざと金を使い込んで、それを擦り付けるようにって言われらしいんです」

おきつは立ち上がり、背を丸める圭助をねめつけている。

「なんだってっ!」

「仙蔵、すまねえと思っていたんだけど、言われた通りしねえと田畑取り上げるって脅かされて、つい・・・本当にすまねえ」

圭助は手を合わせて、仙蔵を拝み倒す。

「本当にすまねえっ」

「いくら借金があるからって、猪吉さんはあんまりです。仙蔵さんに使い込みの罪を着せて村八分にしようと企んでいたらしいんです。あたしらはどうなっても仕方ないと思っています・・・こんなんじゃ奴婢と同じです。まっぴら御免です。あんた、ここで村の皆に包み隠さず言わなかったら男じゃないからねっ」

おきつは、ぴしゃりと圭助の屁っぴり腰を引っ叩く。

「痛てっ」

「仙蔵さんの心の方がよっぽど痛いんだよっ。あたしは離縁したって、生れた村に帰ればなんとかこの子と暮らせるんだからっ。しっかりしてよ、もうっ」

「見張られていることは分かっていたけど、まさかそこまでするとは・・・」

仙蔵はここまで猪吉がしてくる理由が分からず、口を閉ざしてしまった。

  

  おいらが、あいつに何をしたっていうんだ・・・。

「本当に、猪吉はそんな事を言ったのか?」

圭助は今一度頭を下げた。

「ああっ、言った・・・」

「理由は?」

「どうしてそんな事までするのか訊いたら、借金の話を持ち出されて言わなかった。余計な事を聞いたら田んぼ取り上げるぞって脅かされている、今も」

「じゃあ、皆の前で本当の事を言ったら田んぼを取られちゃうだろうっ」

「いいんですよ、人を陥れてまでしがみ付くような田んぼでもありませんから・・・」

おきつは体を揺すり、赤ん坊に微笑んであやした。

「田んぼがなくなったら、猪吉の小作になるつもりか?」

「いいえ、取り上げられたら、あたしの村でやり直せば良いだけの事です」

 

 仙蔵はおきつの覚悟が嬉しくもあり辛かった。

圭助も臆病風に吹かれながら、ちゃんとおきつに話してくれた。

仙蔵はなんとか丸く治まる方法はないかと考える・・・。

「それにしても、おいらが本当の事を話したら、すぐにばれる事だろう。圭助、おいらが本当の事を言ったらどうしろって言われたんだ?」

圭助は一度、おきつの顔を見てから、ぼそりと呟いた。

「シラを切れって、猪吉さんに言われた・・・あくまでも使い込んだのは仙蔵だと」

仙蔵は猪吉の只ならぬ悪意にぞっとし、体中に悪寒が走る。

「そこまでして陥れたいのか・・・」

仙蔵は松次郎との予定を変え、圭助とおきつに使い込んだ金を補填する算段を話す。

「圭助、猪吉から使い込めって言われたことは伏せておこう。圭助が酒癖が悪くて、呑んじゃった事にしよう。そうすれば、猪吉に恩を売れる」

「恩を売るってどういうことだい?」

圭助はその意を解せず、仙蔵に問い返す。

「もし、圭助が全てを打ち明けたら、猪吉は名主だけど皆に嫌われるだけでなく、名主も下ろされかねない。村の半分くらいはあいつに借金をしているけど、中には一揆を起こして棒引きにしたいって思っている連中もいるはずだ。だから、つい最近まで一揆で国中が米だけじゃなく、借金棒引きを巡って荒れていたって言えば、猪吉だって震え上がる・・・それを材料に今後、圭助に無理を言わない様に迫ってみよう」

勝手な解釈をした圭助は喜んだ。

「えーっ、借金が棒引きになるのかっ!?」

おきつは間に入って圭助をねじ伏せた。

「あんた、ほんっと馬鹿だねっ。違うわよ、猪吉さんが借金返済を迫って脅していたって事がばれたら、他に借金している人だって、今度は自分が脅かされるって思うでしょ。あたしらの村が一揆に参加しなかったのは、借金棒引きの一揆が飛び火して、自分の家も打壊されることを恐れたこともあるんでしょ。だから、仙蔵さんは猪吉さんに、あんたを脅していたことを黙っている変わりに、今後手出ししてこないように言うって、言ってくれているのよ。分かった?」

「ああっ、なんとなく・・・」

 仙蔵は、圭助が分からずとも、おきつが理解してくれていれば大丈夫だと安堵した。

「おいらだって自分の事とはいえ、村の生き死にが賭かった旅で随分と苦労したんだ。少しくらい手間賃を貰っても文句は言わないだろう・・・その手間賃で、圭助が使い込んだ分として返せばいい」

「仙蔵さん、本当に宜しいんですかっ?そうなったらあたしたちは安心して暮らせますっ」

おきつは涙声で仙蔵の手を取ると、背中に負ぶった赤ん坊が泣き出した。

「あ~あっ、あんたがうるさいから、この子がびっくりしたじゃないのさっ」

「すまねえ・・・」

「圭助は酔っ払って使ったとだけ言えばいい、分かったな?そろそろ皆集まっているだろうから行こう」

「ああっ・・・」

「もう引き返せないんだから、しっかりしてよっ」

仙蔵は圭助とおきつを連れ立って猪吉の家の庭に入った。

 

 五十人ほどの村の男衆が、筵の上に座って待っていた。

「遅せえじゃねえか、仙蔵っ。夜逃げでもしたかって話していたところだっ。圭助っ、おめえも一緒かっ、なんだって女房なんか連れてきたっ」

猪吉は仙蔵と圭助だけではなく、子供を背負ったおきつまでもが来たことに驚いていた。

村人の目が、三人と赤ん坊に注がれる。

 仙蔵は松次郎を探していると目があった。

予定が変わったことを告げようにも告げられない。皆の視線が集っていることもあり、小声で圭助に注意した。

「猪吉が仕切る前に明るく言えばいい。呑んで使っちゃいました、あははって」

圭助の後ろに立っているおきつも背中の帯を引っ張った。

「猪吉さんの命令だったことは言わないでねっ」

「ああっ、分かった・・・」

 

 圭助はガタガタと震え出し、すり足で皆の前に進み出た。

「みっ、みんな〰っ聴いてくれ。おっ、おらは仙蔵と一緒に蕎麦の実を買い付けに出た・・・けんど、旅の途中は怖くて腹が痛くなって、あんまり痛てえもんだから、まぎらわすために酒を引っかけたら酔っちまって、気付いたら知らねえ宿屋の連中にまで驕っちまった。それを仙蔵がずっと庇っていてくれたんだ。今まで黙っていてすまねえっ」

 

 聴いていた村人は、何の事だとぽかんとして静まり返ったままだった。

しばらして、一人が声を上げた。

「相変わらず、おめえは馬鹿だなっ。わしにも驕ったことがねえくせに見ず知らずの御他人様に呑ませるってどういうこったっ。わしにも驕れっ」

この声につられて、他の村人も「そうだっ、おいらなんて三月(みつき)も酒を呑んでねえぞっ」と囃子立てた。

 第一声を上げたのは、松次郎だった。

松次郎は続けて、「久しぶりに酒が呑みてえなぁ~っ」と隠れながら声を上げた。

「おらも呑み食いしてえな~っ」

「お前さん、もともと酒が呑めねえだろう。水でも呑んでろっ。よっ、水呑み百姓っ」

「やかましいっ」

「あははっ」

松次郎のおかげで、断罪裁判の様子にはならず、方々で久しぶりに宴会をしようじゃないかと声が上がってきた。

 

 「おうおうっ、なにを言っているんだっ。今日は仙蔵の使い込みの一件で集ったんだろうっ」

猪吉が仕切り始めようとしたところに、松次郎が前に出た。

「猪吉さん、あんた聞いてなかったのか?今、圭助が自分で呑んで使ったって名乗り出ただろう」

庭に集った村人の声が凍ったように静まり笑顔は消え、一転して張り詰める。

そこへ、おきつが恐縮しながら頭を下げて、圭助の隣に進み出た。

「すいませんっ、うちの馬鹿亭主が酒なんて呑んでしまって。あれだけ呑むなって口を酸っぱくして言っておいたのに。でも、この人も一揆の残党やら夜盗やらで怖かったんだと思います。他の村では打壊しや放火まであって、借金棒引きの一揆で兵隊さんが取締っていたというじゃありませんか。うちの人はどうなってもかまいませんが、みんなのために信州まで買い付けに行ってくれた仙蔵さんを、どうぞ労ってやって下さい」

 再び、どこからともなく拍手が起った。

仙蔵はまた松次郎が扇動して拍手しているものだと思ってみたが、そうではなかった。

猪吉に借金があり、今では使用人として働いている、宗八という四十がらみの男だった。

皆も宗八一人が拍手している様子に辺りを見渡し様子を窺っていたが、ちらほらと拍手が響く。すると、村の男衆全体の拍手となり労いの言葉も聞えてきた。

「仙蔵、ありがとう。わしらのためによくやってくれたっ」

 思わぬ言葉と拍手に仙蔵の目頭が熱くなってゆく。

ぐっとこらえて、仙蔵は圭助の隣に進み出た。

仙蔵は村の集めた銭の中から、手間賃を貰う事を話そうとすると、

「待て待て待てっ!話が違うぞっ」

猪吉は流れが変わってきたことを押し止めようと、仙蔵たちのもとへ駆け寄ってきた。

「こいつは村の金を使い込んだんだぞっ」

村人の拍手は也を潜め、再び場が凍りつき、皆、猪吉を見つめている。

 仙蔵はさっと猪吉の隣に近づき、耳元へ囁いた。

「猪吉さん、圭助を脅してわざと使い込ませて、おいらに罪をなすりつけようとしたってことは黙っておきます。そうじゃねえと、あんたに借金がある人たちだって、自分も脅されると思って黙っていないと思う。ここは寛大に宴会をするってことで手を打った方がいいと思いますよ・・・」

 

 猪吉は村の衆を一望した後、ゆっくりと仙蔵を横目で見る。

仙蔵は続けて、「あと、今後圭助一家に無理難題を言わないで欲しい・・・。そして、おいらにも意地悪しねえでくれ。そうすれば、この事は黙っている・・・」

仙蔵は賭けに出たが、猪吉は何を考えているか分からない。

 猪吉は再び村人を見渡しながらも、体は震えていた。

その震えは怒りだったのか、脅えていたのかは定かではない。ただ、一言返す。

「分かった・・・」

仙蔵は猪吉の硬直した顔に「じゃあ、宴会を開くって皆を安心させて下さい」と微笑んだ。

 仙蔵も恐ろしかった。猪吉がどうしてここまで自分を嫌うのか。

旅に出る前もそれほど話をした事もなく、年貢を納める手伝いや普請だって断った事は一度もない。ましてや迷惑をかけたこともない。理由が分からないものほど不安になる。

その不安が、雪だるまの様に膨れ上がり、頭に重く圧し掛かる。

 猪吉が村八分しようと企むほどの憎悪とはなんなのか。全くここら辺りがない。

親父の代の時に恨みを買ったのか。その又、先代の恨みなのか、不安が不安を呼び込んでいた。

 

 猪吉がやっと声を上げた。

「じゃあ、明日の夕時に宴会をやろう。宴会と言ってもそれぞれの家のもんを持ち寄って、酒を呑むくらいだが。場所は神社ではどうだろう」

村人も猪吉の口調のぎこちなさを感じ取っており、腫れ物に触るように妙に同調した返事をする。

「それはいい。夏祭りもできなかったし丁度いい機会だ。氷川様にお供えをして来年の五穀豊穣をお頼みしよう」

「そうだな、それがいいっ」

「無駄がないしな」

猪吉は皆に告げると、そそくさと家の中に入ってしまった。

 

 散会した後、村人たちは翌日が宴会と決まり足取りは軽い。

圭助とおきつは事の他喜び、仙蔵に頭を下げた。

特におきつは興奮した様子で振り返る。

「仙蔵さん、見ててほんと胸がすっとしたわっ、ありがとうございますっ。明日はお祭りだね。あんたも黙ってないで何とか言いなさいよ」

「せっ、仙蔵、本当にありがとう。これで、おいらは猪吉さんに理不尽な事を言われねえで済むと思う。けど・・・」

 仙蔵も猪吉の態度に引っかかっていただけに、圭助の顔色が冴えないのも分かった。

「圭助、もういい。久方ぶりの祭りだ。明日の事を考えよう」

「ああっ・・・そうだな」

おきつは圭助の物言いたさや不安を汲み取っていた。

「ちょっと、しっかりしてよね。いくら祭りだからって呑んじゃ駄目よ。あんたこそ水でも呑んでなさい」

「ええっ、ああ・・・。でも、お茶ぐらいは飲ませてくれよ」

三人が会話していると、松次郎もやってきた。

「仙蔵、とりあえずは良かったな」

村人がざわざわとしていると赤ん坊が泣き出したため、圭助とおきつは先に帰した。

仙蔵は松次郎と帰る途中にも、村の人々からも親しみをこめて「ありがとうな」と声をかけて去って行った。

 

 人気がなくなったところで、松次郎が口を開いた。

「圭助は良く言ったな・・・」

「うん、実は圭助は、わざと使い込む様に猪吉に指図されていたらしい・・・」

松次郎は立止って、仙蔵の顔を見つめた。

「どういうこったっ」

仙蔵は、猪吉の家の近くの水車小屋での一件を掻い摘んで話した。

 

 「そこまでしてお前さんをはじきたいのか・・・」

「松さん、おいらが猪吉に嫌われる理由が分かるかい?ずっと考えていたんだけど、全く思い当たらねえんだ。それとも、親父の代の時に何かあったのか・・・」

仙蔵は大きく溜息を付き、夕日に顔を向けた。

「そうさなぁ・・・わしが知る限りじゃあ、お前さんは真面目だし、他は誰も文句も言ってねえどころか、むしろ期待しておる、今回の事で余計に。まあ、少し目立つところはあるがね。明日、宴会になったのは、お前さんのお陰だと多くの者が思っておる・・・」

松次郎は腕組みして、再び歩き出す。

「親父さんの辰郎は大人しい男だったから猪吉と揉める事はしねえはずだ、思いつかねえ」

仙蔵も両親とも無口な人だった思い出が浮ぶ。

「でもまあ、明日の宴会は皆で楽しくやろう。飯食ってくか?」

松次郎は誘うが、仙蔵は断った。

「明日、宴会だからいいよ」

「そうか、猪吉とはあんまりかかわらねえこった」

 

 仙蔵が家に着くと薄暗く、家の中は真っ暗で、外で出て月明かりを頼りに行灯に火を入れる。

今更ながら、寡黙な両親を思い、粗末な仏壇の前で手を合わせる。

今日の振る舞いが正しかったのか、良く分からない・・・。

父の大人しい性格に物足りなさを感じていたのは確かだ。その反動で、つい言ってしまったのかとも振り返る。

圭助一家は喜び、宴会の事でも村人は喜んでいたよと、仏前で報告しながら己を擁護する。

これしかなかったんだ・・・。これで良いんだよな、おっとう、おっかあ。

返事などあろうはずがないと、自身の問いかけをふと自嘲し、一人飯の支度をする。

近所でもらったごぼうを鍋に入れ、残り飯を味噌で煮込んで啜った。

空腹は満たされたが、猪吉の顔が目に焼き付き溜息ばかりが漏れてくる。

依然、胸の痞えが取れぬまま布団に横になり、忘れようと目を閉じた。

 

 翌日、蕎麦の生育を見ると、苗は順調に育っていた。

早ければ十一月の半ばには収穫できる。それを又、春先に栽培して、順調に事が運べば、夏前にはもっと収穫できるはず。

実を結んでくれと、一尺程に生長した蕎麦を見つめる。

 仙蔵は家に戻って茶を飲んでいると、圭助とおきつが赤ん坊を背負って現れた。

宴会にはまだ時間があるのにどうしたと、仙蔵が出迎える。

「蕎麦の手伝いがあると思って顔を出した」

圭助の表情は晴れやかで、言葉も明瞭だった。

おきつが握り飯の包みを仙蔵に手渡した。

「そろそろお腹が減ったんじゃないかと思って。あたしもなにか手伝えることはない?」

「そっちだって赤ん坊がいて大変だろうに。まあ上がってくれ」

仙蔵はがらんとした居間に、圭助夫婦を囲炉裏の前に座らせ、茶を出した。

障子を開け、おきつに裏の畑を見るように言う。

「あら、結構育ったのね、馬のおしっこがかかっても」

おきつの皮肉に、顔をゆがめる圭助を見て、仙蔵はふっと笑う。

「圭助、しょんべんの事もおきつさんに話したのか?」

「ああ・・・ほら、蕎麦が全滅したらってどうしようって心配だったから」

おきつは茶を啜り、「この人の口癖って、いっつも『どうしよう』でしょ。あたしからしたら、人に聞く前に考えて欲しいもんです。他の人に馬のおしっこがかかった蕎麦のことなんて言えやしませんよ。みんな変なことを考えてしまいますから」と顔を顰める圭助に目を細め呆れている。

「知ったとしても、誰も蕎麦つゆが馬のしょんべんなんて誰も思わねえよ」

「いやね、そこまで言わなくていいじゃないの、気持ち悪い」

仙蔵は夫婦の明るい様子に安堵し、竹皮の包みを開けた。

「本当に貰ってもいいの?」

「もちろんですよ、仙蔵さんにはこんなんじゃお礼にもならないけど食べてください」

おきつは茶を置き、正面に向き直って頭を下げた。

続いて圭助も頭を垂れる。

「助かったよ、本当にありがとう」

仙蔵も頭を下げた。

「いいよ。じゃあ、頂きます。おいらばかり食べるけど、お二人はもう食べたの?」

「ええっ、あたしたちは来る前に・・・それより、お話を持って来たんです」

おきつは勿体つけたように、その先を話さず、にこにこしている。

「どうしたの」

仙蔵は食べようとした握り飯を乾かないように、再び包む。

「仙蔵さんが買い付けに出る前、あたしの実家から相談されましてね」

本題をなかなか切り出さないおきつに痺れを切らし、圭助が先走る。

「要は、嫁の話だ」

「なにさ、あたしの兄さんに頼まれた話だよっ、邪魔しないで」

「嫁?」

仙蔵は思わず手を止めた。

おきつは嬉しそうに「幼馴染で、栗原宿で笹子屋っていうお団子を売っている、おさよちゃんっていう十九になる人がいるの。器量は良いし、優しいし、体は丈夫だし、」と指折りおさよの長所を上げていく。

「頑固でなかなか嫁に行かないから、行き遅れの女子らしい・・・」

おきつはぴしゃりと圭助の膝を叩く。

「うるさいわね、失礼でしょ。あれ、何言おうとしてたんだっけ・・・あっ、そうそう、頑固って言うより、しっかり者なの。どう?」

「どうって、いきなり言われても・・・。見ての通り、うちは貧乏だし」

「そんなの気にする事はない。おらが言うのもなんだけど、うちはもっと貧乏だっ」

圭助は急におきつの肩を抱き、自分も話しに加わりたくて割り込んでくる。

「ちょっとやめて、貧乏自慢してどうすんの。そもそもあんたが町場で酒なんか呑むからでしょっ。この貧乏神はさておき、一人でいるのも良いけど、仙蔵さんとお似合いだと思うの」

飢饉続きで食い扶持の事に頭を痛め、嫁を貰うという考えすらなかった。

 昨日の晩も一人で仏壇に手を合わせ、飯を食い、寝て起きて、苗を見て考えていた。

がらんとした、この家は物音しかしない。

 それに較べ、圭助のところは借金もある。文句を言われながらも圭助は嬉しそうだ。

親父に、男は頼っちゃいけないと教えられた。

けど、この寂しさを消すためには、誰かがいないと消せない。

結局は、誰かに頼ることになる。親父もおふくろに・・・。

「おきつさん、大丈夫かな」

「なんです?」

「畑も痩せているけど、お団子屋さんに奉公してんじゃ・・・」

「どうしたの?昨日の仙蔵さんじゃないみたい。この人だって、お酒さえ呑まなければ仕事もするし、あたしだって一人で生きていけって言われても、この子もいない。ねえ?」

おきつは赤ん坊に顔を寄せて微笑んでいる。

仙蔵はなんだか落ち着かなくなり、急に祝言のことやら考えると不安になった。

「あっ、あんまりないことだけど、一度、ここをその人に見てもらってもいいかな?」

「ここにおさよちゃんを連れてくるって事?」

「うっ、うん。話が急でびっくりして。それより、おいらで良いのか分からねえ・・・」

仙蔵は茶を飲むと、再び包みから握り飯を取り出して食べ始めた。

おきつは呆れたようにふと笑い、「連れて来ても良いけど、気に入らないからって、その場で断らないでね。おさよちゃんだって仙蔵さんに断られたなんてなったら、恥ずかしくて帰れなくなる」と握り飯を食べる仙蔵を覗き込んだ。

「そんなこと言ったって頑固なんだろう?墓石みたいな顔だったら、おらあ、やだね」

また、圭助がちゃちゃを入れると「墓石ってどんな顔よっ」とおきつが睨みつけた。

「こうやって、角ばっててさ」と圭助が四角く指で描いていく。

「馬鹿馬鹿しい。おさよちゃんは色白で小さな顔よ。目元もすっとして賢い顔してんのっ。仙蔵さん、ちょっと考えておいてください」

「あっ、ああ・・・」と仙蔵は茶を飲んで、おきつに頭を下げた。

「ところで仙蔵、蕎麦でも何でも手伝うことはないか?」

圭助が話を変えて、畑に目を向けた。

急な嫁の話に仙蔵は独りになりたくなった。

「大丈夫。手伝ってもらいたいのは収穫の時だから」

「じゃあ、あたしたちはそろそろお暇(いとま)しますね」

圭助とおきつは帰って行った。

「また宴会で・・・」

 

   (8)

 仙蔵は圭助たちが帰った後、ごろりと寝転び、ぼーっと天井の煤を眺めて想像する。

「おさよさんかぁ・・・」

色白で器量良しと聞き、頬が緩む。

「おいっ、仙蔵」

はっと飛び起き、畑の方に体を向けると障子が開いていた。

「あっ、松さん」

「何、にやにやしてんだ・・・」

「にやにやなんてしてないよっ。歯に飯が詰まったから舌で取ろうとしたんだ」

松次郎は縁側に座って、首を傾げた。

「ふーん、まあいいや。夕方、宴会だろう。今から山に行って雉(きじ)でも取りに行こう」

「あっ、そうだ。すっかり忘れていたよ。おいらも何か持っていかなくちゃだった」

 

 仙蔵は手製の小弓を持って、松次郎と山に入る。

松次郎の放った矢は、見等外れの方角に飛び、雉は嘲笑うかの様に飛び立つ。

「目が霞んで駄目だ・・・」

仙蔵は瞬時に小弓を引き、松次郎が逃した雉に向け、ぱっと矢を放つ。

きーっと泣き声が山に木霊し、雉(きじ)が草むらに落ちた。

仙蔵は小一時間で三羽を射止めていた。

「相変わらず、いい腕してんな。最近見えずらくてしょうがねえ。猟師に商売換えした方がええかもしれんぞ」

「松さんはここで待ってて」

仙蔵は射落した雉を拾って、松次郎に渡す。

「もう一羽くらい取ってこようか」

「お前さんが猟師なんてなったら一年と経たねえ内に山から雉がいなくなっちまうな、これだけ獲れば十分。そろそろ帰って、こいつを絞めよう」

 

 山を降りて仙蔵の家に戻ると雉を絞めて吊るす。

「これは松さんが獲ったことにして欲しい・・・」

「どうしてだ?折角、お前さんが仕留めたもんだろう」

仙蔵は石に腰掛けて弓の張り具合を見ながら「昨日の事もあったから目立ちたくない・・・」と呟いた。

「そうか・・・手ぶらじゃなんだからこれを持ってけ、漬物だけど」

松次郎は自分の荷物を取り出した。

仙蔵はそれを受取ると「頃合を見て、宴会を抜け出すよ」とびーんと弦から手を放す。

「おかしなもんだ。そもそもお前さんを労う宴会なのに、目立たねえように先に帰るって」

「いいよ、揉めたくないから・・・」

共に溜息を吐くと、会話が途切れた。

「女衆が神社で準備しているから、お勝にこの雉を渡してくる。お前さんは後から来るといい」

松次郎はまだ血が滴る雉を束ねると、神社に向かった。

 

 お八つ過ぎ、仙蔵も神社の鳥居を潜った。

まだ予定時間より早かったが、待ちきれない男たちは輪になって、持ち寄った土産を肴に酒を呑んでいた。

「おっ、来た来た来たっ。仙蔵、早くこっち来て一緒に呑もうっ」

「ほらっ、駆けつけ三杯っ」

村人から酒の入った茶碗を渡される。

松次郎もすでにやっていて声をかけた。

「雉鍋がもう少しでできるぞっ」

騒乱続きで、食も乏しい中、久しぶりのご馳走とあって男も女もはしゃいでいる。

大きな鍋をかき回していた圭助も仙蔵が来たと知ると、しゃもじを放り出してやってきた。

「久々の雉鍋だっ、うれしいね~っ」

圭助はおきつに火から目を離さないように言われると「もう少しで出来るからなっ」と喜んで戻っていった。

松次郎は浮かぬ顔つきの仙蔵に「皆が楽しそうにして良かったじゃないか。とりあえず、笑って」と背中に手を回して、酒席の輪の中に入るように導く。

 

 その後を追うように、仏頂面の猪吉は女房と娘二人を連れて現れた。

男たちは猪吉一家に気付くと酒を置き、猪吉の周りに集う。

女房と娘たちは支度を手伝いに行き、猪吉も酒席に加わった。

猪吉に村人は酒を差し出し、一口で呑み干すと「おーっ」と歓声が上げ、「良い呑みっぷりだっ」と拍手が沸き起こった。

 猪吉が茶碗を茣蓙の上に置くと、輪の中央を挟んで正面に座る仙蔵が目に入った。

当然、仙蔵も猪吉と目が合ったため頭を下げた。

宴会とあって、猪吉も笑みを作って茶碗を上げて見せた。

早くから来ていた連中は、既に酒が回り「雉鍋はまだか~っ、女衆も早く来いよっ」と声をかける。

女たちも「はいよ、子供たちも手伝っておくれっ」と支度をしながら、よもやま話に花が咲き笑い合っている。

 仙蔵はそんな様子を見ながら、ちびりちびり呑んでいると、隣の男が酒を注ぎ足した。

「仙蔵~っ、おらあこんな嬉しい日は久しぶりだぁ。一時は村を焼かれんじゃねえかと生きた心地がしなかった。おめえさんが蕎麦も買って来てくれたから、飢え死にしなくて済むかもしれんと思うと、おらあ、泣けてくる・・・」

 その隣に、猪吉の使用人で、昨日真っ先に拍手をしてくれた宗八が、「ああっ、泣き上戸のおめえが呑むと湿っぽくなるんだよ。けんど、考えてみれば去年の秋以来じゃねえのか」と親しみを持って仙蔵に酒を注いだ。

「一年ぶりかぁ・・・また、皆とこうして楽しくやれればいい」

仙蔵はしみじみと振り返ると、宗八も「そうだな」と頷き酒が進む。

 「出来たよ~っ」

圭助とおきつが二人して大鍋を酒宴の真ん中に置くと、女達を子供らが手伝い、持ち寄った土産を皿に乗せて来た。

男たちだけだった円座に女子供も加わり、神社の境内一杯に広がった。

どこからともなく「猪吉さん、先にやっちまっているけど、お供えをお願いしますっ」と声が上がると、酒や食べ物をお盆に載せて、本殿に祭られている氷川様にお供えした。

村人は猪吉の後ろに並び、なんとか生き残れた感謝と来年の豊作を願って、式礼を共にした。

 再び座に付くと、猪吉が宴会の音頭を取り本格的に始まった・・・。

仙蔵は皆の酔い具合を見計らって、松次郎に声をかける。

「おいらは用を足しに行たって言ってね。このまま帰る」

「ああっ、気をつけてな」

仙蔵は周囲に気付かれぬよう宴会を抜け出し一人帰った。

 

                         (9)へ続く。

 

 

アキと言えば、あき竹城の秋。

   毎年、ニュースなどで「読書の秋」「スポーツの秋」もしくは「食欲の秋」と良く耳にする。

 

   だがしかし、私の場合に限って連想するものと言えば、どうしてもあき竹城さんの画像が瞬時に浮かんできてしまうものだから仕方がありません。

 

 

   こんな感じの画像・・・。

 

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で、あき竹城さんといえば、山形県出身。

山形県といえば、さくらんぼ🍒。

さくらんぼといえば、佐藤錦

 

 この佐藤錦は、全国的に広がりを見せております。

私の母形の実家は山梨県にあり、

知り合いも、この佐藤錦を作っています。 

 

しかし、サクランボの旬の季節は、4月上旬~6月下旬頃。

大正11年に、山形県の佐藤栄助さんという方が、

「ナポレオン」と「黄玉」を交配させた品種。

(山形味の農園の解説文より引用)

 

  平成に入っての新種かと思いきや、大正時代とは恐れ入りました。

 

 

 話は、秋に戻りまして、秋の旬といえば、山梨では、なんといっても

葡萄でございます。

 

 つい先日、シャインマスカットと巨峰が送られてきました。

 

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 葡萄園から収穫し、すぐに送られてきました。

大きさ、甘さもえりすぐりのものを選んだと自慢の一品と申しておりました。

 

 昨日も朝から、巨峰をぽんと口に入れますと、果汁が多すぎて気管に入ってしまい咳き込むほど。

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 滴る果汁は上手く撮れませんでしたが、1粒が大きく、嚙みしめても

酸っぱさは全くありません。

    

      さすが、自慢するだけのものです・・・。

 

 もう少し時期が早ければ、ピオーネも食べらたのですが、巨峰も瑞々しく、

すぐには飲み込まず、ゆっくりと味わっています。

  巨峰、ピオーネはコクがあり、シャインマスカットはさっぱりとした味わいといったところでしょうか。

個人的には、巨峰、ピオーネの方が好きですが、シャインマスカットは値段も高いので、葡萄農園の方もシャインマスカットの方へ生産をシフトしてます。

そうなると、必然的に巨峰、ピオーネの値段が上がるのではと懸念しております。

 

 昨年は、余りにも美味しくて、もったいないとちびりちびりと食べていたら、腐らせてしまったので、今年は目を閉じながら秋の夜長と共に、生産者のプライドを嚙みしめて美味しいうちに食べたいと思います。

 

  最後に、もう一度。

あきと言えば、あき竹城さん

今週のお題「○○の秋」

からの連想でした・・・・。

 

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  尚、「読書の秋」として、

山梨と新宿を舞台にした、天保時代の郡内騒動にまつわる時代小説を掲載しております。

  

 1830年代の天保の世も、現代と同じように

理不尽で不条理の世でありました。 

 いじめ、児童虐待、突発的な事故もしかり・・・。

 

 人間は生まれ落ちた瞬間、どの時代、どの環境で育つか。

これにより、人生の大半が決まってしまうのか?

 

 私自身の経験を元に、希望を模索するため

自問自答繰り返しております。

 よろしければ、小説「死に場所」をお読み下れさり、生きる意味と希望とは何かを話し合えたらと思っております。

 

世の中、絶対と主張する事ほど怪しいものはなく、私の考えも一つの考え方にすぎませんので、多くの意見を参考にしたいと存じます。

今週のお題「○○の秋」

【 死に場所 】place of death 全34節【第一部】(5)~(6)読み時間 約10分

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   (5)

 翌朝、圭助が仙蔵の家を訪ねて来て、開口一番。

「頼むから猪吉さんや皆には言わねえでくれ・・・」

仙蔵は答える前に溜息が漏れる。

「昨日の晩もおっかあが酒を出そうかと言ったんだが、断ったで。もう呑まねえ」

仙蔵は当たり前だとも思ったが口には出さず、別の事を口にした。

「それより、芽が出るか心配なんだ・・・」

「えっ、なんで」

「馬のしょんべんだ・・・」

「あっ・・・そうか」

「駄目になったものも多かったから、ちゃんと芽が出るかどうか・・・」

仙蔵の表情は曇ったまま。

「だっ、大丈夫だよ、天日に乾したし・・・」

仙蔵は自分の事しか考えない圭助を一瞥し、ぐっと堪えようとしたが耐えられなかった。

「大丈夫って、なにを根拠に大丈夫って言えるんだっ。元はと言えば、全てお前が酒なんぞ呑んだ事が始まりだっ。それに、芽が出なかったらおいらが村八分になるんだっ。にも関わらず、おめえは自分の事ばかり言ってくるっ。今度、てめえの事ばかり言いやがったら、おいらも黙ってねえぞっ」

圭助ははっとして、急いで頭を下げた。

「仙蔵、すまねえっ。悪りいのはおらだ、仙蔵に迷惑かけっぱなしだった。もう言わねえっ、おらの事はもう言わねえから、猪吉さんに」

「猪吉の次はなんだっ」

仙蔵が圭助の肩を掴むと、圭助は大口を開けて息を呑んだ。

「なんでもねえっ。すまねえっ」

「次はないぞっ。だから、どうしても芽が出ないと駄目なんだっ。分かるなっ?」

「わっ、分かったっ。おらがずっと手入れするよっ」

仙蔵は馬の番の時を思い出し、またもや深い溜息を吐いた。

 

 「おーい、仙蔵っ。手伝いに来たぞ」

松次郎が手を振りながら近づいてきた。

仙蔵は圭助に念を押した。

「松さんにも言ってねえから、おめえも二度と言うな。絶対に芽を出させるんだっ」

「分かった、頑張る・・・」

そう言うと圭助は地べたを見つめ出した。

「ほらっ、そんな顔をしていると松さんが心配するぞ」

仙蔵の言葉にああっと圭助が頷いた。

「圭助、もう来とったか」

「おらも今来たところです」

村人五、六人も手伝いに現れ、とりあえず仙蔵の畑で発芽させてから、苗をどうするかを決めることにした。

蕎麦の実の量が多ければ、全体的に蒔いておけば良いが、なにせ量が少ない。

苗にし、分散させたものを収穫し、それをまた増やしていかねばならない。

仙蔵の裏の畑の半分を使い、昼過ぎには蒔き終えた。

 多すぎない量の水を撒き五日程、仙蔵は圭助と交代で様子を見守った。

九月も終わりに近い、早く発芽してくれないと間に合わない。

「頼むっ、早く芽が出てくれ、芽が出てくれ・・・」

仙蔵は祈りを込め、畑に語りかけながら丹念に見回った。

圭助も真似て「芽が出ろ、馬のしょんべんも肥やしの一部」とぼそぼそと呟いて回った。

 

 実を植えてから六日目の朝。

仙蔵と圭助が二手に分かれて畑を見回っていた。

「出たっ!芽が出たぞーっ。仙蔵っ、蕎麦の芽が出たぞーっ」

圭助は両手を上げて喜んで呼びかけた。

仙蔵も圭助の声を聞き、慌てて駆け寄る。

「仙蔵っ。ほら見てくれっ、芽が出ているぞっ」

茶色い土に鮮やかな緑色の双葉。

「おおーっ、やった。やったぞっ!」

仙蔵は喜びの余り涙が込み上げ、畑に顔を埋めるように青い芽が黄金のように光って見えた。

これで来年餓えずに済むかもしれない。

そう思うと、尚更嬉しい。

その傍ら、圭助は小躍りして「めでためでた、芽が出てめでたーっ」とくるりと回る。

 仙蔵は目を凝らし、震える手で発芽した芽を掘り出そうとそっと土に手を入れた。

本当に芽が出ているのか、実が腐っていないかなどまだまだ気は抜けない。

掌に発芽した双葉を土ごとすくい、周りから土を掻き分けてみると根が出て、見事に蕎麦の実から芽が出ていた。

ただ、畑に蒔いた実が全部発芽していた訳ではなかったので、圭助の様には喜べない。

 翌日になると、全体的に点々と発芽し始めていた。

松次郎も様子を見に来て、青い芽が広がっている様子を喜び、他の村人も呼んでくるよう圭助に行かせた。

村のほとんどの者が仙蔵の畑にやって来て喜んでいると、後から猪吉も現れた。

「なんだなんだ、たかが芽が出たぐれえで、この騒ぎかっ」

「喜んで当たりめえだよ、来年皆が餓えるかどうかかが賭かっているんだ。あんたも名主なんだから少しは喜んだらどうだね」

松次郎は猪吉の態度を批難した。

猪吉は松次郎を横目で見やり「まだわからん、苗にならねえとなっ。精々ぬか喜びで終わらねえことを願っているよ。おらあ、役場に用があるでな」と言って仙蔵の畑から去って行った。

「全く、あんなもんが名主とはな。世の中どうなっているんだか・・・馬鹿馬鹿しい」

松次郎は猪吉の背中に、溜息を吹きかけた。

 

 日に日に青い芽がちらほらと増え始め、仙蔵もやっと肩の荷が下りたように感じ始めた。

七日もすると、点々としていた双葉の密度が増えてきた。

 十日後、思ったより緑が増えていない。そればかりか、芽吹いた双葉に勢いがない。

仙蔵が渋い顔で畑の様子を見ていると、圭助も近寄って発育の鈍いさに首をかしげた。

「もしかしたら、日が足りねえんじゃねえのかな」

「それもある」

曇り空が続き、日中の温度も上がらない。今度は天気か・・・。

腰に手を当て、どうしたものかと仙蔵が思案していると、猪吉が何処からともなく現れた。

「どうだ、調子は」

仙蔵は呼びかけに気付かずにいると、猪吉が回り込んできた。

「仙蔵、この記録台帳を見たんだが、どうも納得いかねえ。説明してくれ」

むすっとした仙蔵は眉間に皺を寄せ、猪吉から台帳に目を向けた。

「ここだ。他の記録では、百四十文とか百六十文と記してあるのに、ここの追分宿木賃宿に泊まれず旅籠に一泊。二百 二十二文となっているが、他と書き方が違っている・・・二百と二十二文に間が空いている。まさか、付け加えたんじゃねえだろうな?」

仙蔵は台帳のことなどすっかり忘れていて、咄嗟に顔を顰めそうになった。

 

 こんな時に来やがってっ・・・。

よくもまあ、重箱の隅をつつくもんだ。憎たらしいが、別段問題はないという風に振舞った。

「ああっ、それね。急いで書いたからそうなっただけです・・・」

更に、猪吉は続けた。

「まだある。こんなに細かく書いてあるのに、全体の収支が合ってねえ・・・」

「えっ、少ないのか」

「そうじゃねえ、五十七文多い」

「五十七文・・・ああっ、そういえば蔦木宿で昼飯を食ったのを付けていなかった」

仙蔵は思い出したように、猪吉が持つ台帳をめくって指差した。

「まだある・・・戸隠で蕎麦の実を買った証文の八の部分の紙がなんだか妙にざらざらしている、なんだか手を加えたみてえだ」

猪吉が疑り深い眼差しで、仙蔵を横目でじろりと睨んだ。

「雨に降られて紙がやれたのかもしれない」

うるせえな、ごろつき名主・・・

仙蔵はわざと畑の方に目を向けると、猪吉は圭助を呼び止めた。

「おい、圭助。蔦木宿で昼飯を食ったのか」

「はっはい、おいらが昼飯を買いに行きました」

「そうか・・・」

仙蔵は背を向けたまま、まずいと思いながらも平静を装いゆっくりと振り返った。

猪吉は目を細め、じっと仙蔵を睨み「精々、村の金を無駄にしねえことだな」と捨て台詞を残して去って行った。

執拗に嗅ぎ回る猪吉の執念の様なものに不安を覚えながらも、蕎麦に目を向けた。

 

   (6)

 曇り空が続いたまま十月に入った。

蕎麦の発育は芳しくない。植えた実の半分も発芽しなかった。

「やっぱり馬のしょんべんがいけなかったのかな・・・」

畑を見入る仙蔵の顔を覗くように、圭助が力なく囁いた。

原因はそれだけでなく、日照と土の相性もあるだろう。また、この時期の栽培にも問題があったかもしれない種類だったのかは定かではない。

「しょうがない・・・圭助、少ないけど半分は苗として集めよう。箱持ってきて」

仙蔵の深刻な表情に、圭助は無駄口は言わずに取りに行く。

 集めた苗は百に満たない。非常食にするにはあと三回は収穫し、増えた実を別の場所で蒔いて更に増やすことを繰返さねばならない。それでも足りるかどうか。

 

 冬はもう近い。

悩んだ仙蔵は松次郎を訪ねた。

「松さん、蕎麦の苗は百もねえ。これを早く増やす方法はねえかな」

松次郎もその量の少なさに驚き、仙蔵を見つめた後、腕を組んで体を反った。

「う~ん、そもそも蕎麦は育ちが早ええ・・・それをもっと早くするって言ってもなぁ。今までだって、空いた畑に蒔いて放っておいただけだから。兎に角、うちの畑にも植えて増やしてみるしかあるめえ」

「分かった、すぐに苗を持ってくる」

 

 仙蔵は家に戻り、圭助に苗を松次郎の家に運ぶように荷車に苗を積み込んだ。

「あっ、猪吉さん・・・」

圭助は落ち着かぬ様子で、首に掛けていた手拭を取って頭を下げる。

猪吉は仙蔵が近くにいるのに「なんだ、たったこれだけか。蕎麦の一杯分にもならねえじゃねえか」と圭助が積み込んだ苗を覗く。

 仙蔵は聞えていたが、知らぬふりで作業を続けた。

「おいっ、仙蔵。また台帳の一件でやって来た」

相変わらず、馬鹿だな。他にやることあるだろう・・・

仙蔵は荷車に苗の入った箱をわざとどんと積み込むと、猪吉は「おっ」と身を引いた。

「猪吉さんも手伝いに来てくれたんですか?これから松次郎さんの畑で増やすんですよ。早くしないと、村の食料が育たないんでね。猪吉さんも困るでしょ」

仙蔵は腰に手を当て背筋を伸ばしながら、横柄な猪吉に目を向ける。

「今日来たのは、この蕎麦の実を買い付けた時の証文の件だ・・・」

「それだったら、この前説明したじゃないですか」

猪吉は勝手に縁側に座わり、妙な薄ら笑いを浮かべ、風呂敷の中の台帳と証文を取り出す。

「仙蔵、この代金の証文。八の部分がざらついていたのは、雨に濡れたからだと言ったな」

嫌な予感がした仙蔵だったが、言った手前うなづいた。

「最後の晩は雨が降って、道具小屋で寝泊りしたから・・・濡れたんだ」

「そうか、あくまでも一貫六百二十二文じゃなくて、一貫八百三十三文の銭を払ったと言うんだな」

仙蔵は荷車の縁に腰掛けた。

「そうだ」

「ほ~ぉ、そうか。どうしても一貫八百三十三文って言い張る気だな。俺はどうもこの台帳といい証文といいおかしいと思って、戸隠の村に確認の書状を送った。すると、驚いたことに、一貫六百二十二文で売ったという返事が来たじゃないかっ。ほれ、これがその返答の書状だ」

猪吉は書状を広げて見せ付けた。

「そんな確認取っているくらいなら、追加で送ってもらうとか頼むのが名主の勤めじゃないかっ。村の食料が賭かっているんだぞっ」

仙蔵は隠しきれなくなり声を上げた。

「だからって、誤魔化して使い込んだとなれば泥棒だ。泥棒は役所に届けるのが筋・・・これからどうすべきか村で決めねばならねえ」

猪吉は書状を仕舞い、ふてぶてしく腕を組んでにやりと仙蔵を睨みつけた。

「使い込んでねえっ」

仙蔵は猪吉から目を逸らして立ち上がった。

 当然、圭助は何の事か分かっている。

仙蔵が横目でちらりと見ると、別の方角に顔を向けている。

仙蔵は追い詰められても圭助の事は言わずに、遠くを眺めた。

 圭助は、仙蔵と猪吉の両方に目を左右に動かして様子を窺う。

おらが本当の事を言わねえと、仙蔵がひでえ目に合う。

でも、すまねえっ。おっかあと赤ん坊がおる・・・。

 

 仙蔵と猪吉、双方とも言葉がないまま時が過ぎた。

「それじゃ仕方ねえ、明日にでも村の連中を呼んで、おめえさんをどうするか決めようじゃないか、それも挙手で。逃げんなよ、仙蔵っ。圭助、おめえに用があるから、ちょっと来いっ」

圭助は言葉にならぬ様なか細い声を上げ、仙蔵に目を向けながら「せっ仙蔵、ちょっと行ってくらぁ」と前かがみになって猪吉の後に付いて行った。

 仙蔵は二人の足音が遠のいたのを知ると、振り返って背中を見つめていた。

高々五百文ぐれえで騒ぎやがってっ。おいらはあんな遠くまで行っても手間賃ももらっていねえ。使い込んだ訳じゃないけど、おいらが貰ってもいい金だっ。

自分じゃ何もしないくせに、こんな理不尽な事があるかっ。

 代々受け継いできた、わずかばかりのやせた土地。守ってゆかねばならぬ定めとはいえ、猪吉みたいな人間が名主だと偉そうにふるまっている。

あいつがいる限り、おいらはずっと難癖付けられる。でも、なんで目の敵にされるんだ・・・。

 遠くで小さく見える圭助がぺこぺこと頭を下げているのが見える。

猪吉に借りが出来たら、一生頭が上がらない。仙蔵もそれを重々承知しているから、圭助を無碍にできない。

来年の米の収穫次第では、他人事ではない。でも、猪吉だけには金を借りる事は絶対に避けたいと願った。

 

 圭助は猪吉と別れ、こちらに戻ってくる。

仙蔵は残りの苗を積み始めると「猪吉さんが明日のお八つ時に来るようにって・・・」と圭助は仙蔵と目を合わさない様に手拭で汗を押さえて誤魔化していた。

「他に何か言われた?」

圭助はどぎまぎしながら、ちらり仙蔵を覗く。

「いや、まあ・・・」

どうせ猪吉に金を早く返せだのと、脅しを掛けられたのだろう。

しかし、圭助は自分が原因だという事は、一切口にしなかった。

 仙蔵はなんだか馬鹿馬鹿しくなってしまう。

自分たちの食料の問題を解決しようと提案したばかりに、泥棒の疑いをかけられる有様。

この圭助が使い込んだと言えば、自分の疑いは晴れるだろうが、圭助が牢に投獄されないまでも、村八分だろう。

 身から出た錆びだが、圭助が陣屋に連れていかれたら、嫁はどうやって赤ん坊を育てればいい。結局、誰かが助けねばならない。洗いざらい打ち明ければ、告げ口をしたと逆恨みを買うのが関の山・・・。

圭助は黙ったままの仙蔵を見つめ、口にはしないが懇願している。

助けてくれと。

じゃあ、おいらはどうなる・・・。

 

 仙蔵は自分一人で苗を松次郎の家に持って行くと言い、圭助を帰した。

明日の集まりで、圭助が呑んで使い込んだことを言うべきか結論が出ぬまま、松次郎の家に着いた。

 仙蔵は松次郎と一緒に、わずかな苗を裏の畑に植える。

作業が終わった後で、仙蔵はこれまでのあらましを松次郎に告げ、明日どうすれば良いかときいた。

「そういう事だったのか・・・明日、集まってくれって急に言われたもんだから、お前さんに何があったのかと思っていた」

「今の今までどうしたら良いのか考えていたけど分からない・・・」

仙蔵は石の上に腰掛ける。

「そんな所に座ってねえで、家ん中入って話そう」

「お勝さんも心配するから、ここでいい・・・」

松次郎は小さくうなづき溜息を吐く。

「お前さんが黙っていることはねえ、使い込んだのは圭助だ。お前さんに仮病まで使って、一人で買いに行かせたことだけでもひでえ話だ。その上、どんちゃん騒ぎしてたんだから、お前さんに罪はねえ。それを庇うために、証文に手を加えたんだ。素直に皆の前で言えば良いことだ」

仙蔵も分かっていた。それでしか身の潔白を証明できないことも。

ただ、その後の圭助の嫁や子供のことを考えると、もっと別な方法がないかと松次郎に意見を求めた。

「つまり、お前さんだけじゃなく、圭助も咎めなしにしたいってことか?」

松次郎は眉間に皺を寄せて首を傾げた。

「それじゃあ、使い込んだ圭助だけが得することにならねえか?」

「そりゃそうだけど、高々五百文だ。それぽっちで村八分とか代官所に連れていかれるのも後味が悪い・・・」

仙蔵は降りかかった火の粉に、どうにもやり切れず蕎麦の苗に目を向けた。

つられて松次郎も畑に顔を向ける。

「わしゃ、圭助を庇う筋合いはねえと思う・・・自分の事しか考えていねえ。あの野郎はお前さんの隣にいたって、猪吉に自分が使い込んだって言わなかったんだろう?」

「まあね・・・」

「とどのつまり、お前さんがどうなろうとかまわねえってことだ。お前さんが自分を守らねえで、誰が守るんだ?まずは仙蔵が仙蔵自身を守らねえと、わしだって後押しできねえ」

煮え切らない様子に、松次郎も痺れを切らしてくる。

 しばらく薄暗い空を眺めた後、松次郎に向き直った。

「松さん、頼みがある。明日、村の集まりでおいらは猪吉にいろいろと責め立てられると思う。でも、圭助の事は黙っているつもりだ」

「なんでっ、そしたら」

「続きがある。どの道、おいらの事でなにかしら決まるだろう。その時、松さんから圭助に何かいう事はねえかと聴いて欲しい。それでも、あいつが言わなかったら、今話したことを打ち明けるつもりだ」

松次郎は頷いて仙蔵の顔を凝視する。

「あいつが自分から言い出すのを待つって寸法か。自分の事しか考えてねえ野郎は、自分が悪いくせに人のせいにするか、すっ呆ける。自覚させるためにも悪くねえ・・・」

松次郎は皮肉めいた笑みで仙蔵にうなづいた。

「もし、圭助が名乗り出たら、おいらは手間賃として五百文を村から銭を貰おうと思う。その貰った銭を圭助の使い込みの不足分に当てたら、圭助も無罪放免だろう?」

「お前さんも馬鹿だな、あんな野郎の不始末まで肩代わりすることになるじゃねえか。お前さんだって苦しいだろうに」

松次郎がやめとけと繰返すが、仙蔵は背中を丸めて頭を垂れた。

「もううんざりなんだ・・・今回だって自分たちの食いもんの問題だ。作物が取れなければ飢え死にするのに、猪吉はおいらが気に食わないからって、戸隠まで確認の書状を送っている。あいつは異常だ。だから、あいつの鼻をへし折ってやりてえ」

「そりゃ、わしも同じ気持ちだ。だけんど、あいつに金を借りている村のもんは多いから、半分子分みてえなもんだ。それに、役人まで買収しているって噂だ。だからあんまり派手なことはせん方がいい」

仙蔵は分かったと言い、明日の打ち合わせをして帰った。

 

                           (7)へ続く。

 

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