【 死に場所 】place of death 全34節【第一部】(11)~(12)読み時間 約15分
(11)
数日後の朝。
仙蔵が顔を洗っていると、圭助が裏庭に回って来て大声を上げた。
「大変だっ、伊作と茂平と寅造、梅吉、そんでもって猪吉さんとこの宗八が、陣屋の役人に連れて行かれちまったっ!」
仙蔵は顔が濡れたまま、圭助を睨むように目を向けた。
「摑まったのか?」
圭助は息を荒らげ、唾を飲み込んだ。
「摑まった訳じゃねえけんど、とにかく連れて行かれたっ」
「連れて行かれる理由は?」
圭助は首を振る。
「それも分からねえけど、猪吉さんは知っていたようだ」
どうしてだと仙蔵が聞くと、圭助が「おいらは猪吉さんの馬を借りようと思って行ったら、宗八が役人と一緒に出て行くじゃないか。宗八が出て行くとき、猪吉さんは驚きもせず役人に頭を下げていたから知っていたんだ」と汗を拭った。
仙蔵はなんだが妙な胸騒ぎがして、眉を顰めた。
「他の人は?」
「役人の使い走りが呼びに行って、猪吉さんの家の前に集ってから村を出て行った」
仙蔵は顔を拭い「普請の御役かな」と圭助を見つめた。
「かもしれねえけど、いきなりだ。おらあ、他の皆にも教えてやらねえといけねえから、ここで失敬するよ」と圭助は立去った。
仙蔵も松次郎が知っているかどうか訪ねる事にした。
松次郎に村の男が五人も連れて行かれたことを話すと首を振った。
「わしだって知らんぞ、そんな事・・・」
松次郎の御役目は、名主の不正や専横など、村人との対立を防ぐ役も担っている。
百姓代の役柄、そんな大事も知らぬとあって、表情は厳しく目つきも鋭くなり煙管を取り出して火をつけた。
松次郎は手を休める事なく、忙しなくぷかぷかと吸ったり吐いたり無言のまま繰返す。
かんかんっと火鉢に煙管を叩きつける音は、折れてしまいそうだった。
稀に見る松次郎の様子に、仙蔵も声をかけられない。
「どういうこった・・・」
松次郎は煙管の吸い口をがりがりと噛み始めた。
「我慢ならねえ・・・ちょっと行ってくらぁ」
すっと松次郎が立ち上がる。
「どこへ」
仙蔵は松次郎を見上げた。
「決まってんだろう、陣屋にだ。おい、お勝、支度だっ」
松次郎は奥の部屋に向かって声を上げる。
返事がないので、松次郎は今一度呼びかけた。
「お勝っ、いないのかっ」
「はいはい・・・どうしたんですか」と怪訝な面持ちで前掛けで手を拭いて現れた。
「今から陣屋に行くから支度をしてくれ」
お勝も只事ではないと悟り、仙蔵の顔を覗く。
松次郎は早くと急(せ)きたてる。
「松さん、おいらもお供しようか?」
松次郎は隣部屋に移り「わし一人で行く」と言って襖を閉めた。
紋付に着替えた松次郎は「じゃあな」とだけ言い残して陣屋に向かった。
残った仙蔵は、お勝に五人も陣屋の役人に連れて行かれた事を話した。
お勝は節目がちに、まとめた髪の乱れを直したり、前掛けを伸ばしたりと落ち着かない。
「猪吉さんが、代官所のお役人に袖の下を渡しているって噂でしょ。借金してない村の人からは、お金や人足の割付が不公平だって苦情が多いのよ。こんな一大事を知らなかったとなれば、あの人が怒るのも仕方ないね。変な事にならなきゃいいけど・・・」
先日、猪吉が陣屋に行っていると、圭助が言っていたことを思い出す。
いくら猪吉が名主だからと言って、松次郎に相談なく、勝手に人足を差配したとなれば、
仙蔵も松次郎と同じく居ても立ってもおれないと気分が悪い。
松次郎が帰ってくるまで待っている訳にもゆかず、仙蔵は一旦帰ることにした。
夕方近くになって、松次郎が仙蔵の家を訪ねてきた。
陣屋に出かけた時は肩を怒らせていた松次郎だったが、上がり端(ばな)に力なく腰掛け、紋付の前紐を解き、疲れ切っている。
「松さん、陣屋から直接来たの?」
「ああっ、なんとなく帰りづらくてな・・・悪いけど水をくれ」
松次郎は一息つき、足袋を脱いで叩きつけるように埃を払った。
「ひでえもん見ちまったよ・・・」
仙蔵は雑巾を手渡した。
「猪吉の事?」
「いやっ、そんなんじゃねえ。捕まったらおしめえだ・・・」
おだやかでない言葉に仙蔵も動きを止める。
「捕まったって、宗八さんやらが捕まったの?」
「そうじゃねえ」
松次郎は首を振り、足を雑巾で拭くと上がり込んで囲炉裏の前に座る。
仙蔵は後を追って、急いで茶を入れて渡す。
「じゃあ、誰が捕まったの」
松次郎は茶を啜ると溜息を吐いた。
「二月(ふたつき)前の一揆で捕まった連中さ。あんとき一揆や打壊しに加わって捕まった百姓は、無宿人悪党を加えれば五、六百人だという噂だ。牢屋敷だけじゃ足りず、陣屋にも牢はあるがそれでも数が多すぎて、奉行所の他に石和の陣屋にも分けていた。この八畳ぐらいの牢の仕切りの中に二十から三十人を詰め込んでおった。そのせいで病が流行り出して毎日死人が出ているらしい。わしが行った時も、筵をかけた戸板が運ばれていったよ。一揆に加わっていたらどうなっていたか分からん・・・あれじゃ、裁きが終わる前にかなり死んじまう」
松次郎は連れて行かれた村人五人の事についても、溜息交じりで話を続けた。
石和代官所では収容する牢が足りず、急遽、掘っ立て小屋も作った。そこへ地元の百姓と無頼者や無宿人を一緒に入れると、柄の悪い連中が、自分が牢名主だと勝手に牢内を仕切り出した。
当然、弱い者から飯を取り上げ、自分の寝場所を確保した。その煽りを受けて、立ったまま過ごす者もあったという。
石和の陣屋は一揆を防げなかったという事で、甲府勤番を初め、代官、手代、与力同心その他大勢が解任される様相。急遽、江戸から取締役人が駆け付け、厳しく咎めを受けた。
面目ない代官は、これ以上の死人を出してはならんと焦り、牢普請の人足を方々の村からかき集めているということだった。
「じゃあ、牢屋を作っているの?」
「ああっ・・・それだけじゃねえ、集めた百姓にも一揆に加わって逃げ隠れしている奴がいねえか、役人が尋問しているらしい」
仙蔵は俯いていた顔を上げた。
「えっ、殴られたり叩かれたりしたのっ?」
松次郎は力なく首を振った。
「宗八たちにも会ったが、殴られちゃいねえ。余り話したがらねえし、忙しくてそんな暇もねえ。三日泊り込んで交代して、牢作りに村から男を出すことになったらしい。今は江戸からも監視が入っているからぴりぴりしている」
「じゃあ、おいらもその内声がかかるのかな・・・」
仙蔵は松次郎の様子を窺うと、「多分な・・・」とだけ返した。
松次郎は羽織を脱ぎ、少し横になるとごろりと寝てひじ枕で仙蔵を見つめた。
「たった二月で、男も女も毛の付いたガイコツみてえだった・・・声も上げることも許されねえし、正座したまんま犇(ひし)めき合っていた。掘っ立ての牢の中の連中と目が合った時、出してくれとかそういう気配がねえ。目だけがぎょろぎょろとして虚ろっていうのか、魂がねえっていうのか上手く言えんが、わしが前を通った牢なんて、ひどい臭いがして溜まらず顔を顰めた。でも、捕まった連中は痛いとかおっかねえとか、咄嗟の反応ってものも何もかも抜け落ちた様に口をぽっかりと開けていた・・・もし、わしがあの牢に入ったらと考えただけどぞっとした。感覚ってものも、なくなるのかもしれねえ」
「無罪で死んだらあんまりだ・・・」
背を向けた松次郎に、仙蔵が声をかけても返事がなかった。
しばらくそっとしておいたが、外が薄暗くなっており、仙蔵は松次郎に声をかけた。
「すまんな、寝込んじまって」と体を起こした松次郎は太息を付く。
「帰るか」と膝を叩いて立ち上がり、重い物を背負い込んだ様に帰って行った。
(12)
それから村は慌しくなり、牢普請の話で持ち切りとなった。
名主の猪吉や助役の佐平、百姓代の松次郎の下へ相談が絶えない。
男達が自分はいつ陣屋の手伝いに行くのかと気が気ではない。農閑期と言っても仕事はあるし、仙蔵には蕎麦の手入れや収穫、脱穀もある。
それに誰もが牢屋作りなんてやりたくはなかった。村は違えど自分たちだって、一揆に加担していたかも知れず、親戚縁者だっているかもしれない。解き放つならばまだ良いが、人情として閉じ込めるのは嫌なものだった。
一揆に同情する者も多い。
本来なら、米を囲い込んで値を吊り上げた商人を厳罰に処すべきで、早急に代官所が、江戸や他国への米の流出を止め、貯蔵米を解放して、しかるべき対処をしなかったからだと、仙蔵を含め村内は不満が募る。
その怨嗟は、役人と繋がっている猪吉にも抱くのは当然だった。
普請に村人が駆り出された三日後の日暮れ前。
仙蔵が町場に雉を売って帰ってきたところへ、泊り込みで陣屋に行っていた五人が岡っ引きと手下二人に付き従って戻ってきた。
「おおっ、みんな帰ったのか」
仙蔵が声をかけると岡っ引きが寄って来て、仙蔵の身なりを上から下まで蔑む様に見る。
「なんだ、おめえはっ」
目つきの悪い高圧的な岡っ引きに、仙蔵は頭を下げた。
「ここの村のもんです・・・」
「そんなの見りゃあ分かるんだよっ、どこ行ってきた」
仙蔵は刺激をしないように「町場へ・・・」と下を向いて答えた。
「あんまり遅くまでふらふらしてると、悪党が出るから気をつけろっ。早く帰れっ」
どっちが悪党だか分からぬ様な岡っ引きに、仙蔵は追払われた。
仙蔵が振り返って様子を見ていると、「見てんじゃねえっ」と岡っ引きは手で追払う。
離れたところに身を隠し、仙蔵は様子を窺った。
声は聞えないが、岡っ引きが村人に何かをきつく言っているようだった。
それに従うように、五人は頭を下げる。そして、岡っ引きは仙蔵と同じように手で追払い、腕を組んで帰る様子にじっと見つめ、頃合を見て自分たちも立去った。
仙蔵は岡っ引きが戻ってくるんじゃないかと、しばらく五人に接触しないように遠巻きに後を付け、薄暗い林道に差し掛かった所で声をかけた。
「大変だったね」
仙蔵の笑みを見た、宗八や他の者は互いに目を合わせると下を向いたまま歩き続ける。
「訊いたよ、牢屋の普請の手伝いをしていたって」
仙蔵と同じ年の頃の伊作が立止った。
「何も言うなって言われてんだ・・・」
「どうして」
何か言いかける伊作に、宗八が「役人に何も話すなって言われているんだ。もう話かけるな、どこで見られているか分からねえ・・・」と伊作に「行くぞ」と呼びかけ歩き出す。
仙蔵はそれ以上訊く訳にもいかず、立止ってしまった。
翌日、別の村人五人を柄の悪い岡っ引きと数人が迎えに来た。
前回同様、猪吉の家に集合してから出発した。
仙蔵が松次郎に訊けば、村の男五十人ほどの中から、若くて力のあるものが選ばれているらしく年寄りは行かなくても良いとだけは猪吉に教えられたという。
松次郎は、猪吉にいつまで人足を手配するのか、その役柄教えて欲しいと言っても、定かではないとはぐらかされた。
まだ、手伝いに借り出されていない者は、毎日松次郎の家を訪ね、村の動揺は只ならない。
陣屋から戻った五人は誰一人、どんな事をしていたのか、また、何を調べられたのか全く言わない。
松次郎も気になって、伊作や茂平を訪ねると逃げるように「誰が見ているかわからない」と言って、戸を閉めるかどこかへ行ってしまったという。
仙蔵がその話を聴き「処刑の手伝いかな・・・」と呟いた。
「人数が多すぎて、まだ裁きすら始まってねえ。牢と言っても陣屋にあるのは仮牢だ。罪が決まれば、甲府の牢屋敷に連れて行かれるか、首謀者は山崎の処刑場と決まっておる。処刑するのは百姓じゃねえ・・・」
松次郎も固く口を閉ざした五人の事が気になってろくすっぽ眠れないと嘆き、陣屋の牢で見た男の顔が甦ってきたと上を向いて頭を振った。
「蕎麦の刈り取りもあるから、行きたくねえな・・・」
松次郎もうなづいた。
「なにか分かったら知らせる」
仙蔵が顔をゆがめ、松次郎宅を後にして家路を辿る。
更に三日後。
陣屋に行っていた五人が戻り、入れ替わりにまた五人が岡っ引きとその手下二人に連れられ村を後にした。
戻ってきた男に、仙蔵が声をかけても口は閉ざして去ってしまう。
そして、また三日後。また別の男たちが陣屋に向かい、帰って来た者は誰も陣屋での事を教えなかった。
ただ、村にとって幸いだったのは、牢普請の人足手配は今回をもって終わったという御達しだった。
仙蔵も蕎麦の刈り入れの日と重なっていたので、ほっと胸を撫で下ろし圭助と松次郎に手伝いを頼んだ。
三人仕事で時間は大してかからず、刈り取った蕎麦の穂を吊るして乾燥させた。
「一服するか・・・」
取り急ぎの作業は終わったが、松次郎の声は冴えない。
圭助も同様に頷き、「茶の準備する」とぼそりと呟いて仙蔵の家の中に入って行った。
仙蔵一人がわずかにほっとして、吊るした蕎麦の穂を眺めていた。
松次郎はかかっと火打ち石で火を起こし、火種を煙管の先っぽに入れて煙草を吸う。
「やるか?」
「喉が渇いているからいらない」
松次郎は小さく頷き、二口目を吸い煙で細い筋を描いた。
「変だな・・・」
仙蔵も松次郎の言わんとしている事が分かっており、重苦しい曇り空に目を向けた。
「うん」
圭助もお盆に三つの茶碗を載せて、縁側に座った。
「お茶だよ、こっちで休もうよ」
松次郎と仙蔵は縁側に腰掛け、黙々と茶を飲んだ。
松次郎は再び煙管を咥えて吸い込むと、下唇を突き出して上に向けて煙を立ち上らせた。
「お前さんも変だと思わないか」
圭助は、松次郎の浮かない表情を見た後、仙蔵に目を向けた。
「ずっと考えていた。どうしておいらが駆り出されなかったのか。陣屋に行った皆は、ほんとんど猪吉さんに借金しているか、小作の者だ・・・」
松次郎は煙管を下に向けて吸殻を地面に落とした。
「そりゃ、仙蔵が猪吉に無理言うなって釘を刺したからだろう。問題は村がなんか重たくて息苦しくなったんだ。特に陣屋に行った連中が妙にそわそわしているし、真っ先に相談に来ていた梅吉でさえ寄り付かなくなった」
仙蔵もこくりと頷く。
「伊作が戻ってきた時、誰が見ているか分からないって。それに、しゃべるなって岡っ引きに言われていたみたいだった。何があったんだろう、よっぽどの事が・・・」
松次郎は煙管に火を入れて、再び煙草の煙を溜息混じりにふうと吐く。
「まさかと思うが、お前さんが言った通り処刑の手伝いじゃないにしても、牢死した者の埋葬とかな・・・でも、そんなの有り得ん」
圭助は口を閉ざした村人の変化を思い出し、松次郎の言葉を頭の中で組み立てておののいた。
「磔の手伝いっ!?」
松次郎は自分の耳に指を突っ込んだ。
「うるせえなぁ、磔はまだねえ。それ程、気味が悪いほど様子が変だってことだ。まあ、猪吉がどこまで知っているかだ。とりあえず、もう少し様子をみよう。圭助、余り聞き回ったりするんじゃないぞ」
「うん・・・・」
圭助はぬるくなった茶を一気に飲み干した。
翌朝、仙蔵は雨戸を開けると、目が眩むほどの晴天だった。
昨日刈り取った蕎麦の穂もよく乾くだろうと目を向ける。
「あれっ!」
仙蔵は昨日、吊るした穂を家の中に入れたのかと土間に急いで確認するが、そんな物はなかった。
乾かすためには二、三日干さねばならないのに、家の中に入れる訳がない。
松次郎と圭助と三人で、ずらりと並べた穂がそっくり消えている。
「松さんが持って行った?圭助?」
目覚めから理解のできない事が起き、仙蔵は庭を眺めて右往左往してしまう。
松次郎と圭助が持って行ったと仮定しても、なにかしら一言声をかけてゆくだろうし、せっかく干した物をわざわざ持っていくのも妙な事だ。
何で、どうしてと額に手を当て呆然とする。
「泥棒っ!?」
仙蔵は泡を食って駆け出す。
枯れた田んぼを横切り、近道をして松次郎の家の玄関に飛び込んだ。
「蕎麦が盗まれたっ!」
松次郎とお勝も仙蔵の声を聞き、煙管を持ったまま現れた。
「顔は見たのかっ」
「朝起きたら、昨日乾した穂ごとなくなっていたんだ」
「そんな事するのは・・・」
松次郎が言いかけると、お勝が「無頼もんがやったんじゃないの?」と松次郎の腕を掴む。
「そんな事するのは決まってんだろうっ」
お勝は松次郎の手を軽く叩いた。
「滅多な事を言うもんじゃないよっ、誰が聴いているか分からないんだから」
松次郎はぐっと息を呑んで俯いた。
「そうだな、村の食料の種を盗む訳もねえか・・・」
仙蔵も猪吉ではないかと疑ったが、自分の家に蕎麦があることを知っており、脱穀もしていないまま持っていくのも変だと思っていた。
そう考え進めていくと、やはり備蓄の少ないどこかの村の人間か、無頼者とも思える。
「松さん、ともかく猪吉に報告して役人に届けよう」
松次郎も頷き、草鞋に足を突っ込んで出かけようとすると、気を揉んだお勝が一声かけた。
「喧嘩越しに言ったら駄目だよ」
「ああっ、分かっている」
仙蔵と松次郎は猪吉の家に向かった。
猪吉の家に行くと、男が二人、縁側に腰掛けていた。
「誰か、来ましたっ」
二人は立ち上がって、玄関口の中に駆け込む。
すると、あの目つきの悪い岡っ引きが現れた。
「どっかで見たことあるな・・・」
目を細めて仙蔵たちに近づいてきた。
その後から猪吉も現れた。
岡っ引きは振り返って猪吉に問い掛ける。
「こいつが仙蔵か?」
猪吉はうなづいた。
「で、こっちは?」
「百姓代を勤めております、松次郎と申します」と自ら進み出て一礼をする。
「用があるのは、こっちの方だ」
岡っ引きは、更に仙蔵に近寄るとにやりとした。
「辰次さん、こいつはどうします?」
手下の二人が持って来た物は、仙蔵の家に乾してあった蕎麦の穂だった。
「あっ!」
仙蔵と松次郎は思わず指さした。
「なんで、うちにあったものが・・・」
辰次という岡っ引きは、帯に刺してあった十手を取り出し「おめえに一揆の手助けをしたっていう嫌疑がかかっている・・・で、その品がこれだって訳だ」と十手を抜いて蕎麦の穂に向けた。
「ちょっと待ってくださいっ!おいらは村の銭で戸隠にまで行って買ったものですっ」
仙蔵の言葉に大きく頷いた松次郎も黙ってはいなかった。
「そうですよ、親分さんっ。通行書も私が届けに行ってきましたし、村で決めてこの仙蔵に頼んだんです。何かの間違いですっ、猪吉さんっ、あんたも何か言って下さいよっ!」
辰次は「そうか」と再びにやりとし、十手を自分の手にぽんぽんと弾ませて、仙蔵の周りをゆっくりと歩きながら見渡す。
「おい、どうして俺がこいつを今持っているか知っているか?今は非常時だ。騒動の頭取だった兵助は未だに逃亡しているから、怪しい者がいたらいつでもしょっ引いて良いってお達しなんだ。手向かう奴は、こいつで手傷を負わせてもかまわんとな。場合によっては・・・」
仙蔵は辰次の脅しに俯いてやり過ごしていると、松次郎は「親分さん、本当に仙蔵は一揆に加担なんてしておりませんっ」と頭を何度も下げる。
「百姓代がそうは言っても、おめえは旅の道中を見ちゃぁいねえよな・・・それに、甲州道中から中山道にかけては、一揆の残党やら無頼の悪党共が身を潜めていて高島藩や諏訪藩も兵を出して警邏している。一揆が終わったばかりのこの時期が一番危ねえ、すぐに別の一揆が起きねえとも限らねえからな・・・にもかかわらずだ、お供一人と馬でよく帰ってこれたじゃねえか。それに、帳簿を誤魔化したって聞いてるぜ。悪党に銭を渡したんじゃねえのか」
仙蔵は手を振った。
「違います違いますっ。私は悪党になんて銭を渡してませんっ、決してっ!」
「そうです、仙蔵はお供の者が酒に呑まれて、それを庇うためにやったんです」
松次郎はとっさに猪吉に目を向けた。
「あんたっ、仙蔵に縄目の恥を受けさせるつもりかっ!待って下さいっ、親分さん。これには事情があるんですっ」
「うるせえっ。ネタは上がっているんだ、がたがた言うんじゃねえ。本来なら、一揆勢に飯の炊き出しをした場合も重罪だ、この村も確か・・・。詳しい話は陣屋で聞く。おう、連れて来い」
辰次の声に、手下の二人が仙蔵に縄を掛けようとした。
「私は逃げも隠れもしません、どこへでも参ります。だから縄は止めて下さい」
仙蔵は自ら歩き出した。
「ふん、まあいい。どうせ逃げる場所もねえんだからな」
辰次は手下二人に仙蔵の後に歩くように言い、松次郎が心配する中、猪吉宅を後にした。
仙蔵が道に出ると、村人数人が遠巻きに見ていた。
その中から声が聞えた。
「仙蔵っ!」
圭助とおきつが不安そうに立っている。
「大丈夫だ、すぐに戻るっ」
仙蔵は手を振ると、後ろから手下に押しやられ村を出た。
陣屋方面に半里ほど歩くと、辰次が道中を右に逸れ小道を進む。
「どこへ行くんですか」
辰次は振り向きもしない。
「いいから付いて来い」
小道は更に細く雑木林が生い茂る。仙蔵は妙な胸騒ぎがしてきた。
「陣屋に行く道とは違います」
林を抜けると小さな小屋が見えてきた。
辰次は振り返って、手下の一人に顎をしゃくった。
手下は小屋の周囲や辺りを警戒して小屋の中へ入った。
仙蔵は何かされると思い、逃げられるか振り返ると、「歩けっ」と手下が背中を押した。
言われるがまま、仙蔵は辰次と手下に従い小屋の中に入る。
がらんとした薄暗い内部は、薪やら農具が奥に置いてあり、茣蓙が敷かれているだけだった。
「座れ・・・」
辰次が奥に座ると、手下が仙蔵を押しやって座らせた。
そして、唐突に「おめえ、ちんちろできんのか?」と仙蔵にじろりと目をやる。
仙蔵は静かに首を振った。
「やったことがありません」
「じゃあ、丁半は知ってんだろう、奇数と偶数の博打だ」
仙蔵はまた首を振った。
「どうしてこんな時に博打なんてするんですか?」
辰次はにやりとして懐からさいころを取り出す。
「さっきからいちいちうるせえな・・・俺と勝負して勝ったら、見逃してやる」
辰次は仙蔵の背後にいる手下に意味深な笑みを投げかける。
仙蔵が振り返ると、手下もにやついている。
「見逃すも何も、悪い事はやっていませんっ。博打の勝負しなかったら、どうなるんです?」
「ふんっ、また訊いてきやがった。そうさなぁ、しばらく仮牢にでも入ってもらおうか。裁きを受けるまで・・・」
手下の一人が「その裁きを受けるまで、生きていられるか分からんけどな。ふふっ」と笑う。
「何度も申しますが、一揆にも悪党にも手を貸していません。だから帰して下さいっ」
仙蔵は辰次に近づいた。
「じゃあ、勝負するしかねえな」
「博打は御法度のはずです。やりませんっ」
辰次は「そうか、じゃあ、おめえは見てな。でも、逃げたら牢行きだ。おい、始めるぞ」と手下を招いた。
あっさりと辰次は仙蔵から手を引き、三人で博打を始めた。
ツボにさいころを振って、一喜一憂している。
時々、手下が外の様子を窺いながら博打は続いた。
小屋の中に西日が差し込むと、辰次は立ち上がって窓の外を覗く。
「そろそろ引上げるか」
「へい」と手下が立ち上がり、辰次が仙蔵に命令する。
「立て、いちいち聞くんじゃねえぞ」
辰次は仙蔵を引き連れ小屋を出る。
道中の往来に出て陣屋に行くものと思いきや、村の方角へ戻る。
辰次は気だるそうに時折仙蔵に振り返ったが、何も言わずに黙々と歩いた。
村の入口にさしかかると、辰次が「誰に訊かれても何も言うんじゃねえぞっ。言ったらおめえが博打をやっていたって旦那方に言うからな」と睨み、村へと入った。
途中、何人かの村人に出会うが、誰も仙蔵に声をかける訳でもなく、じっと過ぎ去るまで見ているだけだった。
猪吉の家に連れて行かれると、辰次が玄関の中に入った。
猪吉が出てきて辰次と話をし、仙蔵に近寄り「今日は帰っていい・・・」と言って玄関の中に戻っていった。
仙蔵は何が何だか分からず、猪吉と話を付けようと後を追おうとするが、手下の二人に腕を捕まれた。
「帰っていいって言ってんだっ、さっさと帰れっ」と猪吉の家から追い出された。
仙蔵が振り返ると、辰次が手下に何かを言いい、仙蔵の後を追ってきた。
「まだ何か?」
手下の一人が「いいから行けっ、寄り道するな」と手で追払い、二人が後を付けてきた。
仙蔵は松次郎の家に行きたかったが、ずっと後を付けられており、何処にも寄らずに自宅に戻った。
家の前で、手下の一人に「調べが終わるまで、誰とも会うなよ。会ったら、その相手もしょっぴくからな・・・」と脅しつけられた。
手荒い拷問にかけらなかった事は不幸中の幸いだったが、言い知れぬ不安に苛まれた。
その不安と緊張から疲れがどっと溢れ、家に上がるとそのまま寝てしまった。
寒さで目が覚めると、家の中は真っ暗。
手探りで障子を開け、ぼやけた月明かりを頼りに行灯を縁側に持ち出して火を入れた。
仙蔵は首元の冷たさに手を当てる。びっしりと汗で濡れ、手拭を首に押し当て一息ついた。
調べも受けず、ただ博打を眺めているだけ。ただの時間潰し・・・。
猪吉と岡っ引きの辰次が組んでいることは明白だ。こんな事、いつまで続くんだ。
何故、おいら一人だけなんだ・・・。
いくら猪吉が自分の事が嫌いだからと言っても、ここまでするのはおかしい。
頭の中で数限りない憶測が広がる。
博打に誘われたのも、捕縛するための罠だったのか。
それとも、あの小屋で誰かを待っていたが、予定が変わって来なかっただけの事なのか。
いや、村の半分近くが猪吉に借金をしているが、あの辰次とかいう岡っ引きと手下が博打を行い、村人が借金を作るように仕向けていたのか。でも、今日あそこに連れて行かれたのはおいらだけだ。
猪吉の家に持っていかれた蕎麦はどうなった・・・。
なかなか眠れぬ夜は長く続いた。
翌朝、仙蔵の家に辰次と手下二人が現れ、手荒く仙蔵を家から引っ張り出した。
「手向かうと牢にぶち込むぞっ。来いっ」
仙蔵は言われるがまま、従う他なく外へ出る。
昨日同様、辰次が前を歩き、仙蔵の後ろに手下二人が挟んで歩く。
辰次は猪吉の家に向かう訳でもなく、村人が働いているところに差し掛かると、「早く歩けっ」と恫喝して歩いて回る。
おいらは見せしめなんだ・・・
仙蔵は科人(とがにん)の様に扱われることで、村人に対して逆らったらどうなるかを知らしめている事を悟る。
この上ない屈辱に、仙蔵は立止ってぐっと辰次を睨みつけた。
「歩けっ」
後ろを歩く手下が仙蔵の背中を押し、無理やり歩かせる。
人気のない場所に来ると、辰次が振り返る。
「間違っても陣屋に直訴なんてするな。もし、そんな事をしても、陣屋の旦那方がもみ消すだろう。下手すりゃ死罪だ・・・」
そう言うと村を出て、昨日の小屋へと向かった。
小屋での辰次は、仙蔵など無視をして手下と博打に興じる。
途中、手下が外へ抜け出すと、辰次はごろりと寝転び、もう一人が仙蔵を見張った。
しばらくして、外へ出ていた手下が戻り、辰次ともう一人に弁当を渡す。
辰次は握り飯の包みをもう一つ手に取り、「おめえも食え」と言って差し出した。
岡っ引きが取調べをするはずもないが、何も問われることもないまま時間だけが過ぎ、
飯まで渡されて気味が悪い。
仙蔵は辰次の意図が分からない。素直に食べられるはずもなく、竹皮の包を見つめた。
「毒なんか入ってねえよ・・・」
辰次はにやりと仙蔵を一瞥した後は全く話しかけず、三人は握り飯を平らげると、再び博打を始めた。
そしてまた、西日が差してくると、「立て、帰るぞ」と小屋を出て村に戻る。
村に入り、人に会うと「おめえが手引きしたんだろうっ」と辰次が急に声を上げ、仙蔵の家まで送り届けた。
これが六日七日と続いた・・・。
(13)へ続く。