増税、還元、キャッシュレス。 そして明日は、ホープレス。

長編小説を載せました。(読みやすく)

【 死に場所 】全34節【第一部】(1)~(2)読み時間 約10分

     

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  ※ 本作は、著者の経験等から、理不尽、不条理の世界において、今後、どう生きるかを検証することを前提としております。
文中に説教がましい表現等がございますが、著者自身に対する自問自答と捉えて下さい。

また、作中の登場人物及び場所等は、歴史検証が困難な箇所があるため架空と致します。
     

  お読み頂き、納得できましたら、

木戸銭としてamazonの同名小説「死に場所」をお買い上げ頂けますと幸いに存じます。

                                                                                  

                                                    紺野 総二

 

 「 たらいから  たらいにうつる  

                               ちんぷんかんぷん  」

 

          小林一茶 時世の句 文政十年(1827)

 

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    (序)

 江戸四宿の一つである内藤新宿は、甲州道中(街道)と青梅街道が交差する宿場。
旅籠屋五十二件の他に引手茶屋、水茶屋は六十二件。(文化三年 1806)

その数は旅籠屋を上回った。
 周知の事、引手茶屋は岡場所であり、そこで働く娼婦を飯盛り女とも呼ぶ。
亡くなった娼婦らは、十代後半から二十代前半の者がほとんどで、身寄りがなければ成覚寺などに投げ込まれ、無縁仏として葬られた。      

 (元冶元年(1864)子供供養碑を建立)

 

  おおよそ天保三年から九年頃(1832~1838)まで、世に知られる天保の大飢饉で、天災と人災が重なり飢えや病等で死者が続出、墓場が足りぬほどの世相となる。
 天保八年七月。見るに見かねた宿内の富商らの呼びかけにより、成覚寺内に無縁塔を建立。
 また、内藤新宿の北側の外れを流れる玉川上水脇には、旭地蔵が無縁仏や男女、親子らの心中者を弔い続けている。

(明治十七年(1884)七月、成覚寺に移設)
   他の三宿同様、内藤新宿は多彩な 百姓(ひゃくせい=庶民)が行き交い、その繁栄は、新宿として現代に至る。

 

       (1)

   天保八年(1837)十一月十六日、夕暮れの内藤新宿

近頃、この道を往来する人々を見込んで、四谷大木戸の手前付近で、蕎麦の屋台が現れる様になった。
 底冷えする晩秋。
背を丸め、忙しなく人馬が行き交う大道。その中に、一人気だるそうな細面の三十がらみの浪士風情の男が通りかかる。
顎を上げ、冷々たる眼差しは、己も江戸に住みながら蚊帳の外から眺めているよう。
 つむじ風が枯葉を巻き上げ、雲に覆われた寒空に陽は見えない。
地上に視線を戻すと、仄かに湯煙が立ち上る屋台の蕎麦屋が目に留まる。
男は立ち止まり、袂の中に腕を入れた。己の肌の暖かさを確かめた後、そのままひらりと暖簾を掻き分けた。


 「いらっしゃい、今日も冷えますね」
柔和で丸顔の三十半ばの屋台の親父は、満面の笑みで手を擦りながら男に声をかけた。
他意のない人は、親父に釣られて笑みがこぼれるような温かみのある雰囲気。
浪士風体の男は、親父を無視してぶっきらぼうに注文する。
「そばをくれ・・・」
親父は、無愛想で抑揚のない男の声にちらりと目をやった。
「なんだ」
「いえっ、旦那がなんて仰ったのか聞き漏らしたもので・・・」
男は、親父が目を向けるのを知っていたかの様に目を細めて顎をしゃくる。
「そばだよ・・・」
「へいっ」
親父の笑みは消えてなくなり、男に背を向け蕎麦を湯の中に入れた。

 

 浪士風情の男の隣では、先客の若者が食べ終わり箸を丼の上に置いた。
「ごっつあん」
親父は微笑みながら「二十八文です」と告げる。
飢饉続きの時分とはいえ、随分と高い蕎麦。
浪士体は隣に目を向け、その反応を窺う。

   薄汚れた粗末な縦縞の半纏を着た若者は、竹駕籠の荷物入れを肩にかけた。
痩せた体躯で背はさほど高くない。髪は後ろに束ねているだけで散髪もしばらくしていない様子。着物も粗末な古着らしい。
 年の頃は二十二、三といったところ。
顔色が悪くやつれているが、丸い双眸は衰えておらず姿勢は正しい。
蕎麦が二十八文と聴いても驚く様子はない。
若者はわずかに微笑んでいる様にさえ見え、どことなく愛嬌のある顔でうなづいた。
懐に手を突っ込み、若竹色の絹の小袋を取り出す。
「ひい、ふう、みい、よう、いつ」
若者は台の上に銭を並べ、唐突に「今、何時だい?」と親父に微笑みかけた。
 愛想が良く、目と眉が離れていた親父の表情は一変した。
眉間にぐっと力を入れ、若者に顔を近づける。
「何時だと?勘定をごまかそうたってそうはいかねえ。落語の真似なんて太てえ野郎だっ」
「誤魔化そうなんてしねえ・・・」
若者は痩せた手を振った。
「嘘吐くな。そいつは、なんとかってえ落語の真似だろう」
つい先日寄席で聴いたと、親父は惚ける若者を詰め寄る。
「だから、おいらはそんな落語は知らねえし、たかが一文や二文誤魔化す様なケチな男じゃない。そもそも、醤油をケチっているのは親父の方だ。この蕎麦は不味くて五文の価値もない」
因縁をつけられたと親父は苛立つ。
「なんだとっ、うちの蕎麦にケチ付ける気かっ!見るからに小汚い格好してんじゃねえか、食い逃げするつもりだろうっ。つべこべ言わずに銭を出せっ」
若者は親父の大声に動じることなく、手を横に振り遮った。
「逃げも隠れもしない。時を聴いたのは、町奉行所か番屋に行こうと思ったからだ」
「なっ、なんで、町方に用があるんだ・・・」
若者の言い分が解せないためか、親父の口調に勢いがなくなった。
「だから言っただろう、一文や二文誤魔化すようなケチな事はしねえってっ。死ぬ間際にこんな糞不味い蕎麦食わされて、なんで二十八文なんて払わなきゃならないんだっ。五文で嫌なら今から訴え出てやるっ。飢饉続きで物価高だからって、人の足元見るのは罪じゃないってのかっ。おいらの訴えが間違っていたら食い逃げでもなんでも牢にぶち込めばいいっ、どうせ理不尽な世の中にうんざりしてんだっ」
「なんだとっ!」
不味い蕎麦に五文の価値なしと言われた親父はかっとなって、怒鳴り付けようと大口を空けたが、浪士風情の男の手前もあってすぐに収めて睨みつける。
「ふっ、ふざけた事を・・・」
親父はなんとか怒りを押さえ込もうとする。

 

 「おい、そんなにここの蕎麦は不味いのか?」

浪士体の男が若者にきく。
「食えば分かりますよ」
客と親父の諍いに、埒が明かぬと浪士体が声を上げた。
「早く蕎麦を出せ」
若者は、浪士体の顔を見やり「どのみち番屋に行くよ。おいらは五文しか銭はねえ。牢屋敷でも獄門でもかまわない。どうせ、飯食ってから死のうと思って適当な場所を探してたんだ。最後の最後までツイてねえ。こんな糞不味いものが、この世の最後の飯だなんて・・・ 」
と溜息を吐き、重苦しい灰色の空を見上げた。
「なんだとっ、言わせておけばっ!」
浪士体は台に肘を着き「おやじ、待て」と宥めてから、若者の頭から草履までを見やる。
「死に場所ねぇ・・・」
浪士体は流し目で、若者の顔に視線を戻す。
「皮肉なもんだ・・・飢饉に喘ぎ、生きたいとすがって死んでいく者もあれば、死ぬ間際の最後の蕎麦が不味いと怒る野郎。この御時世、お前さんが言う通り、誠、理不尽なもんさ。おいらが蕎麦食ったら番屋に連れてってやる、だからちょっと待て・・・親父、さっさと蕎麦出せよ」
「へっ、へいっ」
不味いと言われ躊躇していた親父が、おずおずと蕎麦を出した。
「おめえの言う事が、理に適っているかどうか確かめてやる」
 浪士風情の男は一口二口と蕎麦を啜り、顔を顰(しか)めて箸を置く。

「確かにひでえ味だ、食えたもんじゃねえ・・・だが、勘定は勘定だ。こいつのも一緒に払ってやる・・・」
親父は申し訳なさそうな態度に変わり、ぺこぺこと頭を下げる。
「〆て三十文でいいな・・・」
それを聞いた親父は、浪人風情の男を睨み屋台の裏から回り込もうと菜箸(さいばし)を置く。
「おっと待った。親父、今年の正月に出た町触を知らねえのか?」
「町触ってなんだっ!」
「ふんっ、シラ切るつもりか。正月早々、蕎麦は二十八文から十五文にしろって値下令が出てんの知ってんだろう。それに加えて、おめえんとこの蕎麦は糞が付くほど、まじいって宿場中の噂になっている。この蕎麦つゆ、馬のしょんべんみてえな色で味がねえ。お前の屋台がぼったくっているって苦情がおいらの耳にも入っているんだ。おめえのやり方は詐欺だな・・・」
 親父は開き直る。
「冗談じゃねえっ!お武家だか浪人だか知りませんが、詐欺とは聞き捨てなりませんぜっ。醤油だって全く手に入らねんだから仕方ねえじゃありませんかっ」
「おめえは値下令を知ってたはずだ。天保八年一月付で蕎麦屋の組合に通達が出ている。それを知らねえって事はモグリで商売してんのか?蜘蛛の巣張るように、店先にも値段を出さねえで、客が食った後に勘定を要求している。これ以上、文句があるんなら、こいつと一緒に番屋に連れて行こうか?そしたら、二度と商売できなくなるぜ」
「すっ、すいやせん。御勘弁を・・・」
親父はびくりとして銭を受取る。
浪士風情の男は暖簾をかき上げ、振り向きざまに親父を睨んでから歩き出す。
「しょんべん蕎麦十五文って書いて置けっ。おう、ついてきな・・・」
若者も後に続いて歩き出す。

 

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   (江戸名所図会 四谷大木戸)

 

    (2)
 二人は、四谷大木戸に向かう。
道沿いの水路付近を歩いていると、柵に寄り添う番人が頭を下げた。
「おう・・・」
浪士風情の男はちょいと手を上げ、挨拶に応えながら進む。
後ろを歩く若者は、紋付を着てはいないが、恐らく役人なんだろうと察する。
「よう・・・」
浪士風の男が振り返った。
「あいつら、なんで水路の近くで立っていると思う?」
いざこざを起こした若者は「さあ・・・」と小首を傾げた。
「この水は御府内に送られる。長い玉川上水の所々に水番屋がある。その番人が、しょんべんなんかする奴や、洗濯、ごみ流しをする野郎がいねえか見張ってんだ。そんで、ここらで見張っているのは、ごみが流れてこねえかだけじゃねえ・・・なんだと思う?」
若者は気もそぞろに「水が澄んでいるか確かめておられるんですか?」と答える。
「それも一理あるが、もう一つはこの水路に身投げや死人を流す奴がいねえかを見張っている・・・飢饉で人が死にすぎて埋める場所もねえからって流す奴もいる。それに、どうにもならなくなった男女や親子心中なんかもな。御江戸の飲み水に死体が入っていたら、皆ころりと死んじまう。好き勝手に死なれちゃ困るって訳だ・・・分かるな」
死に場所を探していると言った若者を、振り向き様に冷めた眼差しを向ける。
「はい・・・」
若者は小さく頷き、視線を逸らす。
 浪士風情の男は更に話を続けながら歩く。
「去年の暮、丁度今頃の十一月だった・・・両国橋の近くで、おめえと同じように親子が屋台で飯を食ってから身投げしちまった。屋台の親父の話じゃ、その親子は全く死ぬ素振りなんて見せなかった。むしろ、美味いと言って親が子にもっと食えと、それりゃ仲睦まじかったって話だ。おめえが死に場所を探しているって言った時、ふっとその事を思い出した。ここ四、五年、身投げ、捨て子、行方不明が多くてな・・・」

 二人は大木戸近くの臨時番屋の前に立つと、中から声が聞えてきた。
「半っ」
「いや、丁っ。丁で決まりだっ」
「丁半、出揃いましたっ。ようござんすね、ようござんすねぇ~っ」
 浪士風情が、若者を連れて番屋の中に入る。
博打に夢中で、誰が来たのかも気付かない岡っ引きが四人。
伏せられたツボに這い蹲って、じっと見入っていた。
連れて来られた若者は、番屋で賭博ってどうなっているんだと、浪士風の男を見つめる。
その視線に、恥ずかしさと悔しさでかっとなる。
「良かねえやっ、すっとこどっこいっ」
ツボを伏せて取り仕切る岡っ引きの後頭部をぴしゃりと引っ叩く。
「痛ってえなっ、誰だこの野郎っ!」
岡っ引き連中が一斉に見上げた。
「げーっ、白沢様っ」
「ふん、人がわざわざ薄ら寒い日に出て行ったのを見届けてから丁半かっ、好い気なもんだなっ」
岡っ引き四人はぞろぞろと連座して、白沢と呼ばれる男に手を付いて謝った。
「すっ、すいやせんっ!」
白沢の怒りは収まらない。
岡っ引きの四人はそれぞれ顔を見合わせ、この場を何とか取り繕おうと愛想笑いで宥(なだ)めにかかる。
「いやぁ~っ、お寒い中御難儀で御座いました。丁度、見廻りに行こうかと思っていました・・・」
白沢は左手を刀にかけ、かたかたと震え始めた。
さいころとツボ持って見廻りか?ふざけんなっ。雁首そろえて、にやにやしてんじゃねえっ。さっさと廻ってこいっ!」

「へいっ」
四人は慌てふためき、つっかけに足を入れ、慌しく番屋から飛び出していった。
「行って参りますっ」
「おとといきやがれ、馬鹿野郎っ」
 白沢は縁側に腰掛け、足袋を脱ぐ。
付いて来た若者に足を洗って上がるように言う。
「あいつら、火鉢の湯もそのままで行きやがって・・・おう、そこに足洗い桶があるから自分でやってくれ」
若者は桶に水を入れ、足を洗うと畳に上がった。

「失礼致します」
 白沢は引出しから煙管を取り出し、火鉢に近づけ煙をふかして一服する。
「さみいな・・・」と若者にさらりと目を向けた。
「仲間内で丁半なんてやりやがって馬鹿ばっかだ。おめえもそう思わねえか?」
「さあ、博打はやらないので・・・」
「博打は御法度だもんな。一概にやるなとは言わねえ。でも、仲間内でやるってえのがくだらねえ。そのうち喧嘩になるか、借金背負って頭が上がらなくなるのが目に見えてらぁ。それも分からねえんだからしょうがねえ、しかも番屋でやりやがって・・・まあいいさ。おいらは、北町同心で窮民送り方出役の白沢信一郎ってもんだ。行倒人やら迷い人を見つけて身元を確かめるのが役目だ。だから、お前さんの望み通り連れて来てやった。早速だが、お前さんの名と国はどこだ?」

 若者は白沢信一郎が同心だと知り、丸い目を伏せて視線を避けた。
信一郎の哀れみとも蔑みともつかぬ眼差しに座を正す。
「名は、仙蔵と申します。甲斐の百姓でございます・・・どうぞ、こちらを御改め下さい」
仙蔵は荷物の中から往来手形を取り出し、信一郎に差し出した。
「なになに、甲斐八代郡各田村仙蔵。右者、この度、伊勢参詣に罷り出申し候。御関所を御通し下されますよう願います。万一、旅の途中で病気、又は病死したような場合は寺院や御役人の御慈悲を持ちまして、その土地の風習に従いお手当、御始末頂けますよう、この段、ひとえに御願い申し上げます。

天保七丙申年十二月廿日甲斐八代郡各田村名主冷嶋猪吉。※ 在方のもんか・・・さみいから湯でも飲め。歳は幾つだ」

(在方=江戸から五六里以上離れている者)

「二十六でござます。頂戴します」 
仙蔵は頭を下げ一口啜った。
「二十六か、若く見えるな。おいらと五つしか変わらねえのか・・・」
 信一郎は仙蔵とやらの神妙な態度と口調に純朴な気質を感じ取る。
岡っ引き連中は博打がばれた時、嘘を吐いて取り繕ろうとした。

大抵、そうやって自分を正当化しようとする。
  この仙蔵、喧嘩を吹っかけたが、蕎麦は確かに不味く五文の価値もないという主張も分らなくもない。食い逃げとなれば罪は罪だが、その愚直さが何となく気に入った。
信一郎は、仙蔵が死ぬということに同情した訳ではないが、その場の気まぐれで驕っていた。
ひどく不味いせいもあったのかもしれないが、どことなく憎めず、詳しい素性を調べる。

 

 窮民送り方出役同心の役目は、飢饉の際に創設された、臨時的な役目。
天保の大飢饉が五、六年続き、近在遠方より江戸に流入民が大挙し、餓死者、行倒人や乞食で溢れ返った。
 また、江戸の界隈でもその日暮しの者が長屋を追い出されるなど、およそ六、七十万人が幕府の金米の施しを求めて行列を成していた。
捨て子、妻子捨て、夫の病死等、行き場のない女も溢れ、佐久間町だけで月に百六十人ほどが御救小屋に殺到。
 当初、御救小屋は佐久間町一箇所に設置したが、天保七年三月に新たに三箇所増設した。
だが、肝心の辻番や自身番の者が、行倒人迷い人を御救小屋へ連れて行かず、見て見ぬふりをしていた。
その為、江戸町奉行所が、窮民送り方出役を急遽配置、増員し、町場で行き場のない者や病気の者を医者に見せるなどの任に当たっていた。
人道的配慮もあったが、治安の悪化と疫病の流行を恐れた為の措置であった。

 信一郎は、仙蔵の手形に一通り目を通し、煙草の煙を天井に向けてふうと吐いた。
「この往来手形は去年のものだ。伊勢詣りが終わって死ぬってどういうこった。御蔭様で死ぬってか?訳が分からねえ」
「実は、まだ行っておりません・・・」

 

   仙蔵が江戸に出てきた顛末は、天保七年八月に甲斐一国が騒乱となった、郡内騒動だと語り始めた。

 

   

                        (3)へ続く・・・  

 

 

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【 死に場所 】全34節 【第2部】(32) 読み時間 約12分

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     〈東京都水道歴史館〉

  

  (32)

 翌朝早く、仙蔵は目が覚めた。御救小屋に行かねばと身を起こしてみたが、もう出かける必要がないと知る・・・。

喉が渇き、台所へ行って水を飲みながら、立て付けの悪い戸を開けた。

外はまだ薄暗く、雪がちらりと降っている。改めて寒さを実感するとぶるっと身が震え、腕を擦る。御勤めがなくなり、もうすぐ年が明けると頭を過ぎる。これからどうすべきか不安になり戸を閉めた。

 布団を体に巻きつけて、岡田に貰った給金と餞別の包みを開けてみる。

給金は一分金。餞別も一分金と驚きながら、当分の生活は大丈夫だと胸を撫で下ろすが、伊勢に参らねばならない義務も生じ、気力も沸かず頭を抱えてしまう。

気を紛らわそうと、要三が書いた家の間取り図を手に取った。

これはこれで有難い事なのだか、仙蔵自身、次にどうするのか望みもない。頑張る糧も失われ、悩みの種は尽きることがない。視界に触れない様に荷物入れに仕舞い、果てる様に寝転ぶ。

 再び喉が乾き目を覚ます。水を飲んだついでに戸を開けると雪は止み、厚い雲の奥からうっすらと陽の痕跡がぼやりと明るい。

もう昼か・・・。

腹は空いてきたが、飯を煮炊きする気力がない。

長屋にいても寒いだけだと、どてらを着込み表の井戸水で顔を洗い袖で拭く。

 どんよりとした空の下、仙蔵は金が入った荷物を持って内藤新宿へと向かう。

年の瀬で、秩父往還の往来も忙しない。

懐に手を入れぶらりと歩き、四谷追分稲荷に差し掛かる。

いつか、正平さんと卯之吉さんが、この神社の舞台で稽古をしていたっけ・・・

仙蔵は、二人がいるのではと鳥居を潜り、境内を見渡すが人っ子一人おらず、静まり返った本殿に手を合わせる。寂しさに駆られると食欲も失い、そのまま臨時番屋に向かう。

 

 こんこんと番屋の戸を叩くと、ごとごとと中から音がして、「誰だい、開いているよ」と返事が返ってきた。

仙蔵は岡っ引きの誰だろうと、思い浮かべてながら嬉しくなって中に入った。

「あれっ・・・」

中にいたのは老人で、片付けの最中といった風だった。

「どうしたんだい?」

仙蔵は初めて見る顔に戸惑いながら、「あの~っ、同心の白沢様と部下の方々はいらっしゃいますか?」と老人を見つめた。

「白沢様達なら、ここでの御勤めを終えて町奉行所に戻った。ここは元々水番屋の建物で臨時に使っていただけだから、もう引き払ったよ」

仙蔵は納得できず、再度老人に問いかける。

「じゃあ、もうここには白沢様達はいらっしゃらないんですか?」

「御救小屋も取り壊しとなったから、町会所掛りで時々来るかもしれんが、管轄が違うから、わしにゃよく分からん」

仙蔵は老人に頭を下げて、番屋の戸を閉めた。

行く当てを失い、大木戸から宿場を出て、人気のない川辺の流れに目を落とす。

春の様に長居も出来ず寒さが身に染みると、握り飯を買って長屋に戻る。

 信一郎はまた来ると言ったが番屋も取り払われ、自身の寂しさに目が向いてしまう。

正平や卯之吉らの顔も思い浮かんでくる。

正平は、いつかまた舞台役者に戻りたいと願うが、背負いすぎて声が出なくなったと言っていた。

いつか、見てみたいな・・・。

 

 翌日も何もする気も起こらず、ただごろごろと布団の上で気鬱なまま過ごす。

うとうとしていると、戸を叩く音に目を覚ます。

もう一度、こんこんと戸を叩くので、仙蔵は気だるい声を上げた。

「勝手に入ってくれ」

がらりと戸が開かれると、大家の忠兵衛が立っていた。

仙蔵は重い体を起こす。

「入っていいかい?」

「どうぞ」

仙蔵は座布団を衝立の裏から持ち出すと、「いいよ、いいよ」と忠兵衛は断った。

「どうなさったんです?」

「仙蔵さん、どぶさらいを手伝ってくれんかね」

「はっ?」

「だから、今から長屋のどぶさらいを皆でするんだよ。手伝っておくれ」

仙蔵は頷き、「分かりました、今行きます」と立ち上がった。

 古びた長屋は六世帯で、妻子持ちや独り者が寄せ集まって暮らしている。

日中、男は働きに出る者が多く、三人の女と仙蔵ともう一人の男が出てきた。

どぶさらいと言っても、井戸水なんかの排水の溝に溜まった泥などを掬うだけで造作もないが、体が重い仙蔵には少々苦痛だった。

 忠兵衛に鍬(くわ)を渡され、仙蔵は泥を掻き出し、大きな笊(ざる)に入れた。

もう一人の男が天秤棒を担いで捨てに行く。これを交代で行う。

女衆は掃き清めたり、厠の掃除に精を出す。

さほど時間もかからず作業を終えると、忠兵衛が「ご苦労さん」と声をかけて散会となった。

 それから二、三日何もする気になれず、ふらりと釣竿かついで、熊野十二社脇の溜池に糸を垂れる。

寒さに凍えながら、一時も辛抱してやっと小さな鯉が釣れた。

ああっ、そうだ。勝吾郎さんの所へでも行こうかな。でも、この鯉じゃ土産にもならないか・・・。

勝吾郎の奥さんが熱を出していると聞いたから、仙蔵はもっと大きな鯉を持って見舞いの品にしようと更に意気込んでみるが、時間ばかりを費やし、がたがたと震えて日が暮れてしまった。

 翌日も、仙蔵は大物の鯉を狙って釣りに出かけるが、小さな鮒が二匹連れるぐらいで、人に持っていく様な代物とは言いがたく、持ち帰るのも面倒で逃がしてしまう。

 

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 三日連続、仙蔵は釣りにでかけようと支度をしていると戸を叩く音がした。

再び、大家の忠兵衛ががらりと入ってきて、仙蔵のつり道具が目に入る。

「仙蔵さん、御勤めが終わってから仕事は決まったかい?」

唐突に言われ、仙蔵は嫌な事を思い出させるなと、どんと気分が落ち込む。

あからさまに不機嫌な態度もできず、「年の瀬ですし、どうしようかと考えておりました」とはぐらかす。

忠兵衛は腕を擦りながら、「良かったら、日雇いの仕事でも紹介しようか?」と気にかける。

また、望みもなく日雇いの仕事を終え、くたくたになって一人帰る姿を思い描くと、とても戻る気になれない。

時々、なんの為に働いているのか。そしてまた、生き長らえてもなんの楽しみも見出せず、この生活がずっと続くと思うとやりきれなくなっていた日々が思い出される。

「仙蔵さん、どうした具合でも悪いのか?」

反応がないと忠兵衛は心配して声をかけた。

「まあ、ちょっとだるくて・・・」

 忠兵衛は大家だから、仕事をしていない店子は、家賃を滞納する心配もあるのだろうと、仙蔵は勘ぐって先周りした。

「この間いらっしゃった、同心の白沢様が御勤めが終わっても待っていろと仰ったので・・・」

忠兵衛はうなづくと「お前さんを信用しているから、何か困った事があったら相談しておくれ。力になるよ」と言って出て行った。

仙蔵はいらぬ勘繰りに、自分が一番気にしている事なんだと気づくと、なんだか大家さんに悪い事をしたように思えて気分が悪くなり釣り竿を持って外へ出た。

 その後、仙蔵にしては珍しく一匹も釣れず、これまた肩を落として長屋に戻る。

なんとしても大物とまで行かなくとも、中くらいのものを持っていかねば、勝吾郎に会えないと半ばむきになってきた。

 

 翌日は寝過ごし、夕方にでも、場所を変えてみようと小麦粉と米粒を練り合わせていた。

昼頃、また戸が叩かれた。

忠兵衛が仕事の話を持って来たのかと、仙蔵は仕方なしに愛想良く「はいはい」と粉を払って戸を開けると、正平と卯之吉が立っていた。

 仙蔵は驚いて「えっ」と目を見開き、声を上げる。

「ようっ、久しぶりだなっ」

二人は息を切らせながら手を上げた。

「どうなさったんです?この前、大木戸の番屋に参りましたが、もう取払いだって聞いたものですから」

卯之吉はがらがら声で「喉が渇いた・・・」と疲れた様子。

「どうぞ、中へお入り下さい」

仙蔵は茶碗に水を入れて卯之吉に渡し、続いて正平にも渡すと座布団を用意する。

淡路町から来た・・・」

急いで来たらしく、正平は上がり端に腰掛け「もう一杯水をくれ」と茶碗を差し出すと、卯之吉も「おいらにも」と茶碗を出す。

「随分とお疲れのようですが、どうかしたんですか?」

卯之吉が水を一気に飲み干す。

「白沢様がお呼びだっ」

正平は「まさか、こんなに迷うとは思わなかったよ」と時間を気にして言った。

「お急ぎでしょうか?」

「ああっ、おめえさんを早く連れて来いってな。ちょいとばかし休ませてもらってから行くぞっ」

卯之吉は厠へ行きたいと言い、仙蔵は案内する。その間、正平は草履を履いたまま、土間に足を投げ出して大の字に寝転んだ。

仙蔵は寒かろうと湯を沸かし、茶を飲んでから出立する事になった。

支度をしながら、仙蔵は二人に急ぐ訳を聞くと、卯之吉は「正平が近道だなんて言うから、間違ったんだ」と愚痴を零した。

「そんな事言ったって、卯之きっつぁんだって付いて来たじゃねえかっ」

正平も反論する。

大人しかった卯之吉が文句を言うことに、仙蔵は少々戸惑いながら「まあまあ」と二人を宥めている内に湯が沸いた。

安物の茶を差し出すと、言い合っていた二人がそろってふうふうと口を尖らせて茶を啜る。

仙蔵はふっと吹き出すと、正平が「なんだよ」と熱そうに茶碗を畳の上に置いた。

「いえ、お二方の口が小鳥のくちばしの様に見えたもので・・・」

仙蔵が二人の顔を見ると、「くだらねえ・・・」と正平は鼻であしらう。

卯之吉は茶碗を指差して「これ、あっちいから水を入れてくれ」と触ったり放したりしている。

仙蔵は茶が熱すぎたとかと水を足した。

二人が茶を飲み一息つくと、ぼやいていた卯之吉が「じゃあ、そろそろ行かねえと・・・」と立ち上がる。

仙蔵も荷物を持って長屋を後にした。

 

 二人の後に続く仙蔵は、ガリガリだった卯之吉が少し太った様にも見える。

どてらを着ているからかとも思うが、どこか様子が違う。また、足も早く疑念を抱きつつも先を急いだ。

 市ヶ谷辺りまで来ると、仙蔵は疲れて茶屋を指差し「少し休みましょう」と正平に頼む。

正平は休憩に同意するが、卯之吉は「まだ半分しか来てねえ。御茶ノ水で休もう」と歩き続けた。

あっけにとられた仙蔵は、どうなっているんだと正平に視線を送る。

正平も困った顔で「だとよ・・・」と歩き続けた。

 

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     (安藤広重 御茶ノ水

 

 御茶ノ水の水番屋近くの茶屋に付くと、倒れ込む様に仙蔵と正平が座った。

卯之吉は背筋正しくゆっくりと腰かけ、女給に「おうっ、すまねえがすぐに温ったまるものをくれねえか」とかっこつける様に妙な節を付けて呼びかける。

女給は「でしたら、お汁粉か甘酒がござます」と頭を下げた。

仙蔵は甘酒と言おうとする間に、卯之吉が「おう、二人とも汁粉でいいよな?」と有無を言わさんばかりに笑顔で目を見開いている。

圧倒された正平は「あっ、ああ・・・それでいいよ」と頷き、仙蔵も正平に倣って「はい」と返事した。

「頑張れ、あともう少しだ」

卯之吉は仙蔵の長屋で休んで以来、疲れを知らない様に曇り空を見上げて微笑む。

「なんだか清々しいな~っ」

仙蔵は首を捻ると、正平が小声で「寒みいよな・・・」と呟いた。

卯之吉は立ち上がり、両手を回しながら周辺を見渡し、「蒲焼の匂いがする、うまそうだなぁ。あそこの水番屋の一階はうなぎ屋なのかぁ」と鼻をくんくんと鳴らしている。

「卯之吉さん、どうしたんですか?少し見ない間に元気ですね・・・」

正平は仙蔵にぼそりと囁く。

「こっちに戻って来てから、がらりと変わっちまったんだ。飯も良く食うし・・・調子狂っちまう」

仙蔵は正平の話を聴き、やはり町奉行所に戻ったことで待遇が良くなったのかと、胸を張って自信に漲る卯之吉を見つめた。

「どうした、仙蔵。なんだかやつれた様だが、ちゃんと飯食っているのか?」

 仙蔵は驚いた。

卯之吉さんが飯の話をしている・・・。

 御救小屋で鴨鍋を食べている時なんかは、でこっぱちの伝造に奪われそうになるほど、のろのろとしていたのにと尚更分からなくなってきた。

お汁粉が運ばれてくると、ふうふうと湯気を吹き消しながら食べる。

さすがに卯之吉も熱いものは難しいらしいが、白玉をはふはふと口の中で転がし、「この汁粉、うめえなぁ」と女給に声をかけながら味わい、最後に卯之吉が食べ終えた。

すると卯之吉は「もう一杯食うか?」と仙蔵に問いかける?

 「えっ!」

仙蔵は、正平の顔を見る。

正平は首を捻って「おいらはいらねえよ」と断った。

「卯之吉さん、食べるんですか?」

「ああっ」と言って、もう一杯お汁粉を注文する。

仙蔵と正平は茶を啜って、お代わりのお汁粉を啜る卯之吉を眺める。

卯之吉が満足げに食べる様子を、二人は物珍しそうにじーっと見つめていると、「食うか?」と箸に摘んだ白玉を見せた。

二人は「いらねえ」「いりません」と首を横に振る。

 にんまりと白玉を食う卯之吉を見て、やはり肉付きが良くなっていると仙蔵は確信した。

でも、つい十日かそこらで人の食欲が、これほど変わるものかと疑った。

「ああっ、美味かった」とお汁粉を食べ終えた卯之吉は立ち上がった。

仙蔵も出立すると一緒に立ち上がる。

 卯之吉は茶屋の奥にある品書きを目を細めて見入っている。

「おやきと蕎麦がある・・・食ってもいいかい?」

正平は眉間に皺を寄せた。

「まだ食うのかよっ!早く仙蔵を連れて行かねえとっ」

卯之吉は目を細めて、正平を睨み付けた。

「なんだよっ、間違ってねえだろうっ!白沢の旦那がお待ちなんだぞっ」

正平もだんだん腹が立ってきて睨み返す。

卯之吉はあっさりと諦め、ぱっと目を見開いた。

「あっ、そうか・・・じゃあ、勘定済ませてくる」と金を女給に渡し、「待たせたなっ、後は休憩なしで行くぜっ」とひらりとどてらをなびかせて歩き出す。

正平は「訳分かんねぇ・・・こっから目と鼻の先じゃねえか。お前さんを迎えに行く時だって、ここで、おやき食ったんだぜ」と仙蔵に耳打ちした。

「えっ、来る時もここに寄ったんですか?」

「ああっ・・・それに二日前から定町廻りでもねえのに、捕縛の練習をする様になった」

 仙蔵はいつか四谷追分稲荷で芝居の練習をしていた時、正平が卯之吉に提案していたのを思い出す。

「それって、正平さんが『舞台を降りても、結局はそれぞれの役を演じている』って仰っていましたよ。それに卯之吉さんが、世の中には嫌な役回りを演じる人間が必要だとかなんとか言ったのに対して、正平さんが自分の人生は自分が主役だという様な事を仰っていました」

 歩きながら正平は、小首を捻って眉を寄せた。

「そんな事言ったっけ・・・」

「はい。正平さんは、誰だってなんらかの役を演じるなら、卯之吉さんは岡っ引きの御役で、もっと活躍するために剣術、捕縛の鍛錬をして、筋骨を鍛えればいいと仰っていました。筋肉は衣装だとも言ってましたよ・・・」

正平は視線を動かしながら記憶を辿り「ああっ、そんな事言ったかもしれねえが、例えばって事だよ。だって、そこから抜け出すには、何かを変える必要があるじゃねえか・・・じゃあ、おいらのせいかよ~っ」と顔を歪めた。

仙蔵は返答に困り「別に悪いという訳じゃないと思いますが・・・」とはぐらかした。

 先頭切って快活に歩く卯之吉が振り返った。

「仙蔵、良かったなっ」

「えっ、なにがです?」

「白沢様は約束をちゃんと守ったって事よっ」

意味が良く分からない仙蔵は困って、正平に目を向ける。

正平もふと微笑みを浮かべ、「間違っちゃいねえな・・」と胸を張って歩く卯之吉の背中に頷いた。

仙蔵は正平にも「なにがです?」と聞いてみるが、「あともう少しだ」と言うだけだった。

 

 坂を下り、淡路町武家屋敷の並びに入ると、卯之吉がふいに足を止めた。

「あれ、どこだっけ・・・」

それまで自信に満ち溢れていた卯之吉が、わずかに困った顔をした。

正平も「そこを左じゃねえか・・・」と左右の道を見渡した。

「いやっ、あそこに寺の屋根が見える」

卯之吉が指差す方へ、正平が顔を向けると、「ああっ、そうだ。あの寺だ」と今度は二人並んで寺を目指した。

 

 山号の前で立ち止まり、仙蔵は目を細めた。

「代山寺(だいさんじ)・・・なんだか嫌な予感・・・。この寺に白沢様がいらっしゃるんですか?」

正平と卯之吉は声をそろえた。

「ああっ」

 仙蔵は立ち止まる。

今度は寺で働けと言うんじゃないだろうかと、門を潜るのを躊躇った。

今一度二人は声を揃えた。

「仙蔵、早く来いよっ」

 

              

            第二部(33)へ続く。

【 死に場所 】全34節 【第2部】(31) 読み時間 約13分

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   (31)

 翌日、仙蔵はこれまで通り御救小屋で病人を介抱する。

取払い間近とあって、各地から名主、身受人らが、続々と収容人を引取り小屋を後にする。

大病人や極大病人は動かす事が難しく、大八車に乗せて療養所などに分散して少人数づつ移し始めた。

そのため、いつもより喧騒であり、身受人がいない無宿の者達はどこか不安な様子で、送り出される人々を窓や縁側から眺めていた。

 

 十二月五日。

内藤新宿の高札場の町触に、十二月八日を以って御救小屋を取払うと掲げられた。

以降、施米を受ける場所は町会所だけとなる。

 この日の昼、病人部屋に作兵衛の身請人がやって来た。

「わしゃ、絶対戻らんよっ。冗談じゃない、あんな息子となんか一緒に暮らせるかっ」

身受人は困り果て、腕を組んで手を拱いていた。

「そうは言ってもね、ここにはもう居られないんだよ」

作兵衛は「嫌だね・・・」と背を向けた。

「息子さんの何が気に入らないんだね?」

「嫁にばっかり気を使って、わしの飯は変な物ばかり出してくる。早く死ねとわざとやっているんだっ」

身請人は困り果て、ちょっと待ってと一旦席を外した後、子連れの夫婦を伴って来た。

 背中を向ける作兵衛に、息子が声をかけた。

「おとっつあん、帰ろう・・・」

作兵衛は振り返り、「お前たちの世話になりたくねえ」とまた背を向けた。

作兵衛の息子は「俺達は迷惑だなんて思っていねえよ・・・」と作兵衛の真後ろに座る。

「嘘言うんじゃねえ、子供だっているだろうっ。病人のわしがいたら邪魔だっ」

「そうやって意地を張るなよ。邪魔なんて事はない、おとっつあんが子供の面倒を見てくれれば良いじゃないか」

作兵衛は背を向けたまま、尚も抗う。

「飢饉はまだ終わっちゃいねえんだ、わしまでいたら食い物がなくなっちまうだろうが」

「なんとかなるさ、なあ?」

夫は妻に声をかけた。

「そうですよ、お父様。勝手に村を出てって、やっと見つかったと思ったらこんな所にいるなんて聞いてびっくりしたんですから。お米もだんだん値が下がってきましたし、なんとかなりますよ。だから帰って来てください。ほら、大吉もおじい様に帰ってきてって言いなさい」

 大吉という五、六才の孫が、ちょこちょこと作兵衛に近づくと、ぴたりと立ち止まる。

孫の大吉は肩をとんとんと手を弾ませた。

「おじいちゃん、帰ろ・・・」

作兵衛は孫の声に心を動かされ、振り返って「大吉っ」と抱き締めた。

夫婦は「ねっ、大吉だっているんだから、帰ろう」と声をかける。

抱き締められる大吉は鼻を摘む。

「おじいちゃん、くさい・・・帰って一緒にお風呂入ろう」

作兵衛は感涙している中で、孫の一言で自分の臭いに驚き、大吉を放した。

くんくんと犬の様に襟元を引っ張って顔をしかめて呟いた。

「体を拭いてばかりだったからな・・・分かったよ」

 その様子を見守っていた仙蔵とお里は、作兵衛一家に近づくと、息子夫婦が頭を下げた。

「ありがとうございます。さぞかし、御迷惑かけたことでございましょう」

お里は苦笑いを作兵衛から息子夫婦に向けた。

「ええ・・・まあ」

まだ残っている病人も、皆その様子を見ており、その中から声が上がった。

「女の介抱人の尻をよく触っていたぞーっ」

体裁の悪い作兵衛は「嘘だっ」と否定すると、更に他の病人も声を上げる。

「抱きついてひっ叩かれてたろーっ、しかも何人も」

作兵衛は火消しに躍起になる。

「よせっ、根も葉もない事を言うんじゃないっ」

要三は、とどめを言い放つ。

「今度は孫を抱き締めてやんなっ、さっさと出てけっ」

作兵衛ははっとして、孫の大吉に目を向け、感極まって再び抱こうとするも、孫は未だに鼻を摘んでいた。

やり場のない作兵衛は、要三らに向かって「うるせいっ。出て行ってやるよっ、こんな所っ。肩貸せ」と息子を呼びつけた。

作兵衛は夫婦に付き添われ、お里、同部屋の病人らに挨拶をする。

 去り際、作兵衛が振り返った。

「仙蔵さん、鴨と鮭の粥、美味かったよ。ありがとう。お前達も減らず口ばかり叩いてないで達者になれよっ」

 要三がそれに応える。

「元気になったら、やたらと尻触るなよっ」

「うるせーぇっ」と言い残して、作兵衛は小屋を出て行った。

 

 翌六日、要三らは、石川島の人足場で養生するため、小屋を出る事になった。

仙蔵とお里は出立の支度をし、病人怪我人を大八車に乗せる手伝いをする。

一度に全員を送り出せず、二日に分けた第一陣に要三が入っていた。

仙蔵は要三に肩を貸し、病人部屋から大八車のある広場へ連れ出した。

要三は「最後まですまねえな・・・」と仙蔵に声をかけた。

「最後って、そんな寂しい言い方はよして下さい」

要三は、にやりと顔を歪めて恥ずかしそうな笑みを浮かべる。

「そうだな、これが最後って訳じゃねえ。しばらくの間だ・・・。忠兵衛長屋、だったな?」

仙蔵はこくりとうなづいた。

「はい・・・」

「お前さんもこの先大変だろうけど、きっと、その忠兵衛長屋に居てくれよっ。じゃねえと、お前さんの家を建てられねえからな。もし、引っ越す時は、文を人足場に出してくれ」

別れ惜しい要三は、矢継ぎ早に言葉を続けた。

「分かりました。長屋を出るときは文を出します」

「きっとだぞっ」

要三はぐっと堪えた後「きっと、足を治してお前さんの家を建ててやる・・・」と呟いた。

仙蔵も「それまでに、なんとか地べたを用意できればいいんですが・・・」と皮肉な笑みを浮かべた。

「なんとかなるさ・・・」

「そうですね、なんとかなりますね・・・」

 二人の会話は、これきり途切れたまま、仙蔵と役人らが要三を大八車に乗せる。

「ありがとうな・・・きっと文を出すからよっ」

要三は座り直してほほ笑んだ。

「焦らないで養生して下さい」

「ああっ、ちゃんと直すよ。おめえさんも元気出すんだぞっ」

役人が馬引きの男に出立を命じる。

要三は「またなっ」と満面の笑みで大きく手を振る。

「またっ」

仙蔵も、それに答えて大きく手を振った。

 

 仙蔵とお里は、病人部屋に戻ってみると六、七人残っているだけで、がらんとしていた。

多いときは二、三十人もいたが、半数以上は帰村、または移動し退去した。

残りの収容者は、明日の第二陣で人足場や養生所へと送られる。

「明後日(あさって)で、お里さんや皆さんともお別れですね・・・」

お里は、棒立ちで寂しそうに言う仙蔵に落雁を渡す。

「これでいいのよ・・・ここがいつまでもあっても困るでしょう」

「そうですね、辛い人たちが増え続けるって事ですからね」

仙蔵は去った病人部屋を見つめ、江戸に出て来て初めて親しくなった人たちとも別れると思うと、再び、孤独な日々に戻る不安に煩う。

信一郎は長屋で待っていろと言うけれど、わずかに働いたこの場所が離れがたいものになり、じわりじわりと寂しさがこみ上げてくる。

力が抜けた仙蔵は廊下に座り、お里にもらった落雁をかじる。

「あたしも、ずっとここでお勤めするのが辛かったのよ。でも、この前の御馳走を頂いて報われた感じがしたわ、ありがとう・・・」

 お里とは反対に、当初、仙蔵はあれほど介抱人を言い付けられた事が嫌だったが、病人達とも親しくなるに連れ楽しくもあった。その差異もあって、お里の礼の言葉が自分とは同じ気持ちではないと知り、なんだか切ない気分も重なった。

「こちらこそ、お世話になりました・・・」

仙蔵とお里はそれぞれの思いを抱えながら、再び病人介抱に戻った。

 

 翌七日は、からりと良く晴れていた。

御救小屋の収容人を全て退出させる日。

年若い市松も人足場で養生する事になっているが、仙蔵はその後を事を考えると心配にもなった。

「達者でな~っ」と最後の退出者を乗せた大八車に手を振って見送る。

ふと、仙蔵は人の心配などしている場合ではないと自らを省みると気分が塞いできた。

明日、片付けが終わったら、いずれ御救小屋は跡形もなく取り壊される・・・。

 

 「よおっ」と後ろから、誰かが仙蔵の肩を叩いた。

仙蔵は振り返ると、小ざっぱりした藍の重ねの着物にどてらを纏った勝吾郎がいた。

「あれ・・・今日はあっつくないんですか?どてらなんて着て」

「あっちい訳ねえよ、もう煮炊きすることもねえからな。おら達も明日でここともおさらばだ・・・」

「御役が終わって良かったですか?」

「これで芳蔵さんにもどやされねえけど、出稼ぎ先じゃぁ、この前みたいな御馳走なんて出る事はねえ・・・だから、あんな風に宴会みたいのがあったらと思うと名残惜しいかな・・・あん時は美味かったぜ」

仙蔵は勝吾郎が似たような思いを持っていたことが嬉しく、笑みがこぼれた。

「おいらはちょっと手伝っただけですけど・・・」

「そういえば、お前さんは成子天神の近くに住んでいるんだろう。おらは中野村だから、良かったら家に来いよ。がきが四人もいて大した持て成しは出来ねえけど」

「えっ?」

仙蔵は耳を疑った。

「だから、お前さんの長屋とおらの家は近けえから来いって言ったんだ」

「本当ですかっ?」

勝吾郎は仙蔵の喜びように驚いた。

「なんだよ、そんなに喜んだって御馳走なんて出ねえぞっ」

「いいんです、御馳走なんて。今度、鯉か鮒を釣りに行きましょう。それで、勝吾郎さんの家で鯉こくかなんかを食べましょうっ」

「そいつはいいねぇ~っ」

江戸に出て、初めて人の家に招かれた喜びで涙が出そうになる。

信一郎には親しく気にかけてもらっているが、越えられない身分がある。

 一年近く、百姓の誰とも仲良くなれずにいたから、その嬉しさたるや、初めて人として受け入れてもらえた様な心持ちだった。

「年明けてから二月(ふたつき)三月(みつき)出稼ぎに行くから、それまでだったらいつでも来てくれ。釣りの場所なら知っているから連れてってやるよ」

「はいっ」

仙蔵は更に具体的になってきて高揚してきた。

「なんだい、お前さん、顔が赤けえけど、あっちいのか?」

「ええっ、あっちいんですっ、なんだか急にっ」

「風邪でもひいたか?」

 がらがらと炊事場の戸が開いた。

仙蔵と勝吾郎が振り返ると、芳蔵が出てきて二人を見つけて近づいてきた。

「やべえ、なんか言われる・・・」

ぼそりと勝吾郎が呟いて芳蔵から目を逸らす。

「おう、勝吾郎ここにいたのか」

勝吾郎はびくびくしながら頭を下げた。

「はい、最後の退所人を見送っていました・・・」

芳蔵はふうと遠くの往来に目を向けた。

「これで全員いなくなったか・・・忙しかったけど、勝吾郎も良くやってくれた」

どやされる事が多く、芳蔵に怯え癖が付いていた勝吾郎は、その労いの言葉にはっと顔を上げると微笑んでいた。

「大した問題も起きなくて、やっと肩の荷が下りた」

芳蔵は空に顔を上げ、腰を伸ばした。

一番火事が怖かったと言い、一棟が燃えてしまうと、冬の空風に煽られて全ての小屋が焼けてしまいかねない。病人が多いから尚更用心し、方々に目を配らねばならなかったという。

「片付けは明日にしよう、帰っていいぞ・・・仙蔵、鴨鍋美味かった。ありがとうな」

芳蔵は手を上げて微笑むと、玄関奥の役人部屋に去っていった。

「あーっびっくりした。てっきり油売っているだの言われて、どやされるかと思ったよ」

勝吾郎はほっと胸を撫で下ろすと「じゃあ、おらは帰るか。いつでも来てくれよ。また明日」と炊事場へ荷物を取りに戻る。

仙蔵は続々と去ってしまう寂しさで、無理矢理笑顔で「また明日っ」と声を張る。

 

 病人部屋に戻ると、お里の姿はなく、粗末な寝床と残された臭いだけが漂っていた。

口では息が出来ないような異臭が薄れたのか、仙蔵の鼻が慣れてしまっていたのかは定かではないが、あのすえた様な臭いを思い出すと、作兵衛の爺さんや要三らがその場に居るように思い出される。

寝床と言っても畳の上にわずかに弾力のある筵を敷き、その上に布を宛がったものにすぎない。

枕は藁を丸めた物で、くずが散乱している。

寝床を片付けようと、奥の方から筵と布を分け始める。

後から戻ってきたお里も、反対側から片づけを手伝う。

仙蔵は筵や布はどうするのかと、お里に聞くと「あとで弥助さんに聞いてみるから、端に寄せておきましょう」と手際よく片付けていった。

「なにこれ・・・」

お里は手を止め、布の下から取り出した紙に見入っていた。

「どうしたんです?」

仙蔵はお里に近づいた。

「この絵、見て・・・」

差し出された絵に仙蔵ははっとした。

「これって、要三さんの寝床よね?」

家の間取り図に、玄関、居間と書いてある。よくよく見れば、客間なんて文字が書き込まれ、八畳とまで細かく記載されていた。

 足が難儀な要三は、持て余す時間に仙蔵の家を思い描いていたことを知る。

「本当に建てる気なんだ・・・」

図面の下には、上州屋要三店、第一号と炭で書いてある。

要三は、仙蔵の家を建てる事を切欠に、大工の店を持つ望みを知ると胸が詰まって、さっと図面を懐に入れて廊下を走り、裏口に出た。

そして、南に位置する石川島の人足場に向かって頭を下げた。

要三さんっ、ありがとう・・・

 

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 ( 川崎市立日本民家園 イメージ )

 

 最終日の十二月八日。冷たい北風が強く、空は雲が立ち込めていた。

今後、施米炊出しは町会所に移されるため、米俵やそこで使う道具類を、働く者達総出で何台もの大八車に積み込んでゆく。

帳簿類は代官所役人が全て纏めていたので、昼には作業が終わる。

病人部屋の物などは、伝染病の拡大を恐れ全て焼却処分となった。

 御救小屋支配役・岡田宗泰が、働く者全員を集合させた。

「御役目は之にて終了となった。これまで、皆も良く働いてくれた。給金は各々の村名主に渡す事になっておる故、後で受け取る事になろう。では、大儀であった・・・」

 仙蔵の思いとは裏腹に、御救小屋はあっけなく閉所となる。

夫役の村人達は、岡田や役人に頭を下げて、続々と去って行く。

 お里も荷を纏め、「仙蔵さん、子供が待っているんで、あたしはこれで失礼します。ありがとうね、何かあったら代田村を訪ねてね」と頭を下げて家路を急ぐ。

「こちらこそ、ありがとうございますっ。お達者でっ」

仙蔵は後姿のお里に手を振った。

 「おうっ、仙蔵。女房が熱出しているからこれで帰るが、いつでも訪ねてくれよ」

どてらを着た勝吾郎も手を振って急ぎ足で中野村へと去って行った。

勝吾郎ともっと話がしたかった仙蔵は戸惑い「じゃ、じゃあそのうち訪ねますねっ」と言うのが精々で手を振って見送る。

次々と仙蔵の前から人が去ってゆく。取り残された様な心持ちで寂しさが募る。

 仙蔵はぽつりと独り立ち尽くしていると、手代の弥助が呼びに来た。

「岡田様が御呼びになっておる」

仙蔵は弥助に続き、玄関脇から奥座敷に通された。

岡田は座って待っており、仙蔵の顔を見ると、閉所を告げた先程とは打って変わり笑顔になった。

「御苦労だった、今日まで良くやってくれたっ」

仙蔵は平身低頭で「こちらこそお世話になりました。全ては岡田様のお導きでございます」と謙(へりくだ)る。

「いやいや、お主が鴨鍋を振舞おうとした心が動揺を抑えることにもつながった。お陰で、大した混乱もなく取払いに至る事ができた、礼を言う。しかしながら、御鷹場と上水での狩猟は二度とならんぞ」

「えっ、御存知でございましたか」

「知るも知らぬも、この辺一帯は代官所支配も含まれておるから耳に入る。あの山に鴨の首が三つあったと聴き、もしやと思って白沢殿にお伺いして知った。だが、大身の旗本様からの要請と、収容人の動揺を落ち着かせてくれた事により、この度は目を瞑る」

「誠に申し訳ございません・・・・」

仙蔵は今一度、平伏すると、岡田は「おいっ」と奥に控えていた弥助を呼んだ。

 弥助が部屋に入ってきて、仙蔵の前に包みを置く。

岡田は仙蔵に面を上げる様に言うと「約束の給金だ。受け取ってくれ」と微笑む。

更に、岡田はもう一つの包みを差し示す。

「それとは別に、鴨鍋の礼という訳ではないが、わしからの餞別だ。当初、お主は伊勢参りの話をしておったであろう。わしの分という訳ではないが御参詣に参る折に一つ頼みたい・・・今後とも多忙で、わしの御伊勢参りは先となろう。よって、世上の安寧を御祈願してもらいたい」

 仙蔵は申し訳ない気持ちで一杯になり、再度平伏する。

「おっ、恐れながら申し上げます。御伊勢に参ると申しておりましたが、今すぐという訳にもゆかず迷っておりますのが実情でございます。でっ、ですから、岡田様の御気持ちだけということで、こちらは御賜りになる訳には参りません」

「なにも、すぐに参れとは言っとらん。今は冬でしかも物価も高い。春にでも行けば良かろう。戻ってきたら、代官所に御札と土産を届けてくれれば良い」

岡田は仙蔵を見つめ大きくうなづき返答の余地を与えず「では、またいずれ会おう」と立ち上がり去ってしまった。

 仙蔵は岡田の背中に追いすがることもできず困惑していた。

その場に残る弥助は、仙蔵に受取るように勧めた。

「せっかくの御厚意であるから、お受けしなければ岡田様に対して無礼にあたる。お受けになった方が良い」

「かしこまりました・・・」

仙蔵は膝を突き出し、前に進み出て、平伏してから二つの包みを受取った。

弥助は申し訳ないと考え込む仙蔵に「収容人らは喜んでおった。それに、わしも御相伴に預かれて嬉しかったぞ。では、達者でな」と礼を言って立ち上がる。

仙蔵も弥助に一礼をして立ち上がり、奥座敷を後にした。

 下賜(かし)された包みを懐に入れ、今一度病人部屋に戻る。

薄暗くがらんとした部屋は、寝床だった痕跡もない。ただ、黴臭い様な懐かしい臭いだけが、仄かに漂うだけだった。

 今日で本当に終わりか・・・

仙蔵は去って行った病人達を思い出し、一礼すると自分も玄関に戻る。

残務処理に忙しい役人達に「短い間でしたが、ありがとうございました」と深く頭を下げた。

仙蔵が立ち去ろうとすると、役人達は手を止め、多くの者が集まってきた。

「我らの方こそ、あのような心遣いに礼を言わねばならん、そうだな?」

手代の一人が進み出て、役人でありながら仙蔵に一礼をする。

「ありがとう、美味かったぞ」

それに続き、皆、礼節正しく頭を下げた。

「達者でなっ」

 仙蔵はこれで別れとなる事を惜しみながら「どうぞ、皆様に御多幸がありますよう御祈りしております」と今一度、深く頭を下げて立ち去る。

御救小屋の門前に出た所で、再度一礼し建物全体を見渡した後、帰路を辿る。

 

 熊野十二社の脇に差し掛かり、仙蔵は鳥居の前で立ち止まった。

玉川上水が分水し、神田上水に合流する熊野の滝がざざあと流れ落ち、その音が鎮守の林を包み込む。

岡田から賜った餞別と、要三が残して行った家の間取り図が思い出される。

皆のそれぞれの願いや望みに副いたいと思う。その反面、既に過去となってしまった日々が、瞬く間に遠く流れ去り、名残惜しく侘びしい。

 先の事を思えば心細く、すがる様に鳥居を潜る。手と口を漱(すす)ぎ、本殿に手を合わせた。

信一郎や卯之吉らの顔も浮かび、岡田、要三、病人部屋の人々と続く。

そして、故郷の松次郎や圭助らの息災を祈る。

仙蔵は自分の事になると気が引け、目を開けてしまった。

 

 正平の言葉が蘇る。

望みがねえなら、望みを下さいって祈ればいいじゃねえか・・・。

 同時に、仙蔵は行倒人や御救小屋での大病人、町場で見た惨状を思い出すと、再び疑念が生じる。

神様は本当に居られるのか・・・。

それでも、神様が居らねば、救われぬと目を閉じる。

「神様、願わくば、生きる望みをお与え下さい」

仙蔵はまた一人になってしまったと自己憐憫に見舞われ、更に願う。

「望みを下さい、生きる望みをっ。どこで生きれば良いのでしょうかっ、どうぞ生きる望みをっ」

そう祈る間にも、縋り付く自分が嫌になってきた。

神を疑い、どう生きれば良いのかさえ分からなくなる。神様、居て下さい・・・・。

堂々巡りで鬱々とし、仙蔵は目を開けると大きな溜息が漏れてしまう。

これからどうする・・・。

本殿に一礼し、長屋へと戻る。

 

                  

                     

第二部(32)へ続く。

【 死に場所 】全34節 【第2部】(30) 読み時間 約13分

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( 新版御府内流行名物案内双六 イメージ )

   (30)

 夕方になると、炊事場から勝吾郎や女集が、豪勢な鴨と鮭が入った粥をお盆に載せて病人部屋に現れた。 

「お里さん、仙蔵、夕飯を持って来たぞ~っ。動ける者は、食堂に行ってくれっ」

「なんだか美味そうな匂いだな~っ」

隣の部屋から食堂へ移動する親子連れも覗き込む。

「うわぁ、美味そうだね」

お盆を取り囲んで廊下に人だかりができると、弥助も現れて「さあっ、食堂に行ってくれっ」と立ち止まらない様に誘導をする。

作兵衛の爺さんは、体は弱っているが立ち上がり「ふえ~っ、豪華な粥じゃないかっ」と目を白黒させている。

お里は作兵衛にお椀を持って行く。

作兵衛は早く食いたいと、手を伸ばした。

お里はすっと引っ込める。

「なんで?」

「これ、仙蔵さんがお偉い様に頼んでくれたからなんですよっ、お礼を言って下さい」

作兵衛は仙蔵をちらりと見やると、「へっ?」と今一度お里を見つめた。

「だから、仙蔵さんにお礼を言って下さいっ」

作兵衛は偉そうに手を上げた。

「おう、すまんな・・・」

「ちゃんとありがとうって言わないなら、子供に上げてしまいますよっ」

見かねたお里は、作兵衛を目ねつけた。

「お里さんは怒るとおっかねえーな。ありがとよ、仙蔵」

お里は呆れ顔で仙蔵に目を向けて渋い顔をした。

「そんなんじゃ、息子さん達は迎えになんて来ませんよっ」

「いいんだっ、あんな親不孝な息子っ、こっちから縁切ってやるさ。おーっ、こいつは鴨だな、昔は良く獲ったもんだ。ほら、お里さん、一口やるから口開けて」と匙で鴨を掬ってみせる。

「いりません、気持ち悪いっ」

お里もいい加減嫌になって、他の病人に配って食べさせる。

 仙蔵は、要三や市松といった動ける者達を食堂へ連れて行く。

勝吾郎や女集もそれぞれが病人部屋と食堂へと手分けをして、介添えをしたりと世話を焼く。

 この日の夕食は、御救小屋に歓喜が沸き起こった。

食堂の面々は、台の上の置かれた品々に目を見張る。

白米に鴨鍋、そして、焼き鮭。大根とごぼうの煮浸し、きんぴら。

御救小屋開設以来、最初で最後の豪華な夕飯。

 御救小屋の支配役である岡田宗泰が、食べる前に収容人に注目するように言う。

「此度、異例の夕食となったのは、名は明かせぬが、さる旗本様による御好意。そして、北町同心窮民送り方の白沢信一郎殿、町の商家などによる差入れ。そして、ここにいる介抱人、仙蔵の尽力の賜物である。よって、心して食す様に。尚、五日後、各々退去致す事になるが動揺する事なきように。ここが取り払われた後、身寄りのない者は放り出され、島送りになるなどと根も葉もない噂が立っているようだが、この食事を見ても分かるように、御公儀はその様な無体な事はしないから安心して欲しい。よって、喧嘩や諍い等無き様、助け合いを心がける事、以上」

 岡田の挨拶が終わると、皆手を合わせて謝辞を述べてから箸を取る。

収容人達は、歓声を上げながら食べると思いきや、黙々と食べ始めた。

女だけでなく男の方からも啜り泣く様な声が聞こえてくる。

「うめえよ、本当にうめえ・・・」

「こんなもんが、また食えるなんて嬉しいね」

炊事場の芳蔵が「おかわりはあるからな」と声をかけると、子供らは我先にとお椀を持って鍋の前に集まった。

仙蔵は食堂を見回していると、要三のお椀が空になっていたのを見て近づいた。

「お代わり持ってきましょうか」

要三は驚いた様に仙蔵を見つめた。

「これ・・・お前さんが用意してくれたのか?」

仙蔵は自分ばかりではないと手を振った。

「ほんの少しだけ手伝っただけですよ」

「すまねえな・・・」

要三は落ち込んだ風に下を向く。

「もっと食べて足を早く治しましょう」

仙蔵は鴨鍋のお代わりを要三の前に置く。

「お前さんに何も返せねえ・・・」

「おいらなんて、ちょっと手伝ったぐらいですから気にしないで下さい」

要三は済まなそうに仙蔵を見上げた。

「そうはいかねえ、これは立派な借りだ」

 要三は唐突に立ち上がり足を引きずって、元締手代の岡田に近づいた。

「岡田様、私は要三と申します。これまで罪を犯した事はございませんが、石川島の人足寄場に行く事になりますけど、江戸に残しちゃくれませんかっ」

岡田は突飛な訴えに困惑し、「江戸に残るとは、一体なんだ」と眉を寄せる。

「重労働することになるのはかまいませんが、なんとか江戸で働かせて下さいっ」

「先程も申した様に、島に送る事はない。要三と申したな、これまで何をしていた?」

「大工をしておりましたが、屋根から落ちて足をくじいてから無宿となり、こちらでお世話になっております」

 岡田は要三のくじいた左足を見る。

「石川島には罪を終えた者もおるが、無宿の者が独り立ち出来る様にする場所でもある。手に職をつけられる様に教えも受けられる。大工の素養をもっと身に着けたければ学べば良いし、他の職人になりたければ学ぶこともできる。療養所もあるから安心せい」

要三は石川島の様子を聴いて胸を撫で下ろし、岡田に頭を下げて足を引きずって座に着いた。

「仙蔵、いつかお前さんの家を建ててやりてえ・・・」

「いきなりどうしたんですか。それより、早く食べないと冷めてしまいますよ」

要三は俯いたまま顔を上げようとせず、膝を掴んだ。

「御救小屋に世話になったとはいえ、こんな風に取り計らってくれた一飯の恩を忘れる訳にはいかねえんだ・・・」

仙蔵はそんな大げさなものじゃないと否定すると、「最後まで聞いてくれっ」と感情を押さえ付け、赤らむ目を仙蔵に向けた。

「おいらだって、ここまで身を落とすなんて考えた事もなかった。まさか自分が長屋を追い出されて住む場所もなくなるなんて信じられなかった。ここに住まわせてもらおうなんて更々・・・。そんなおらがここで世話になって、自分が情けなくて情けなくて、駄目な奴だと思うようになった。ここを出た後だって、いずれ野垂れ死にするんだと諦めていた・・・でも、この心づくしの飯、お前さんだって大変なのに借りが出来ちまった」

「借りだなんて思わないで下さい、本当に大した事をしてないんです。それにおいらも一度は施しを頂きましたから・・・」

要三は首を振り、「いや、おらはここを出て石川島でしっかりと足を治す為にも望みが必要なんだ。何かをする為に元気になる。やみくもに元気になんてなれねえ。だから、いつかお前さんの家を建てる為に養生すると決めた・・・」とくじいた足を擦る。

 仙蔵は恥ずかしさもあって手を振った。

「そんな大げさなっ。ほとんどの食材は見ず知らずのお偉い様と同心の白沢様、そして町場の寄付です。おいらなんて微々たるものですから。さあ、食べましょう」

要三の気持ちは幾ばくか落ち着きを取り戻し、塩鮭にも手を伸ばした。

「うめえな・・・鴨も鮭もこんなにもうめえ。仙蔵も一緒に食えねえのか?」

仙蔵は介抱する事で忘れており、ふと、入口の方に振り返る。

 番屋での勤めを終えて来た信一郎と四人の岡っ引き達が、食堂の中の様子を眺めていた。

仙蔵と目が合った信一郎は、中に入って来た。

「おう、仙蔵・・・だいぶ板に付いてきたじゃねえか。とはいえ残り五日だけどな」

「白沢様、お陰様で皆も喜んでおります」

仙蔵が頭を下げると、要三は白沢と聴き、立ち上がろうと台に手を付いて踏ん張った。

「しっ、白沢様でございますか?要三と申します」

「難儀そうじゃねえか、いいから座ってろ」

要三は背筋を伸ばして頭を深々と下げる。

「この度はありがとうございますっ」

信一郎は手を振って、照れ臭そうにちらりと仙蔵に目をやる。

「おいらじゃねえよ、さる旗本様の心遣いよ。それに、この男のお陰さ・・・」

仙蔵の肩に手を乗せて微笑む。

要三は二人の様子を見て、今一度信一郎に頭を下げる。

「白沢様、経緯は存じませんが、私はこの飯のお礼に仙蔵に家を建ててやると約束しましたが、しばらくは会う事はできないと存じます。つきましては、白沢様と仙蔵がお知り合いであれば、どうしたら訪ねる事が出来ましょうか?」

信一郎は仙蔵の顔を覗き込んで、「お前さんの長屋を教えてやればよかろう・・・仙蔵、嫌なのか?」と不思議がった。

「嫌だなんて滅相もございません。私は大した事をしておりませんので、とても要三さんに家を建ててもらうなんて申し訳ありませんし、割りに合いません」

仙蔵は信一郎と要三に慌てて説明する。

「なにごちゃごちゃ言ってんだ。お前の屁理屈はどうでもいいから、教えてやれ」

「教えてくれ」

要三は信一郎の言葉にうなづいた。

仙蔵は成子天神社脇の忠兵衛長屋であると教えると、要三はぶつぶつと復唱した。

信一郎も安心したと笑みを浮かべ「ここからすぐの長屋だ。仙蔵、ちょっと顔貸してくれ」と食堂を出る。

 仙蔵は要三に頭を下げてから、信一郎に続いた。

「いかがなされました?」

「ここの勤めが終わったら、おいら達も鴨鍋を食う事になっているから、昨日みてえにさっさと帰るんじゃねえぞ」

仙蔵は自分も食べられると聴き驚いた。

「誠でございますかっ?」

正平が脇から顔を覗かせ、「おめえさんが食わねえでどうすんだよっ」と微笑む。

仙蔵も介抱しながら、美味そうだと思っていたから尚の事嬉しかった。

 食事を終えた要三に、仙蔵は肩を貸して廊下を歩く。

要三は「きっと、おめえさんの家を建ててやるからな。二、三年、いやもっとかかるかもしれねえけど待っててくれ。だから、借りを返す為にも変な事を考げえねえでくれ・・・」と足を擦りながら仙蔵に微笑んだ。

仙蔵は余りにも要三の力が入るものだから照れ臭くなった。

「要三さん・・・」

「なんだよ」

「本当に気持ちは嬉しいんだけど、家を建てる地べたがない・・・」

「そこら辺に建てちまえばいい。文句言う奴の戸を二度と開かねえ様にしてやるから大丈夫だ。おまけにそいつの口にも釘を打ち込んでやるよ、ふふっ」

要三を部屋に連れ戻った仙蔵は所用を済ませ、夜勤の者と交代した。

 

 その後、仙蔵はお里と共に食堂に向かうと、働く者へも鴨鍋などの御馳走が用意されていた。

「うわーっ、改めて見ると本当に豪華ねっ」

すでに集まって座る者達の中に、信一郎たちを見つけると、正平が手を振った。

「おーい、こっちに来いよ」

仙蔵はお里と共に空いている席に座る。

岡田が「では、我々も頂きます」と手を合わせると、皆も食べ始めた。

 炊事場掛りの者達は、仙蔵とは離れた場所で食事をしていたが、相変わらず賑やかだ。

「この鴨鍋、あっちーなっ」と勝吾郎は口に入れたものをはふはふとしながらほおばっていると、芳蔵が「ほんと、あっちーなぁ」と二人で笑い合い和気藹々(あいあい)と食べている。

仙蔵の隣のお里も「何度も言うけど、久しぶりですよ、こんなご馳走っ」と鮭を口の中に入れて嚙みしめる。

 信一郎の隣に座るガリガリの卯之吉は、大根の煮浸しをのろのろと口に運んでいると、でこっぱちの伝造が前から「卯之吉は鴨鍋とか脂っこい物は食わないだろう」とお椀を取ろうと手を伸ばす。

すかさず信一郎と正平が、前と左から伝造のでこをぱちりと叩く。

「盗むんじゃねえっ」

伝造はでこを押さえ「すいやせん・・・」と頭を下げた。

年長の考助は「仙蔵さん、どれも美味しいものでございます」と頭を下げた。

「いえいえ、おいらなんて、大した事はしてませんから」

仙蔵は謙遜しながら鴨鍋を味わう中、故郷でも皆で囲炉裏で食べたことを思い出し、隣の信一郎の声をかける。

「白沢様・・・」

「それにしてもうめえなっ。なんだい?」

信一郎は鴨鍋に舌鼓を打つ。

「あの~っ、熊の胆の件でございますが・・・」

 仙蔵は低姿勢に信一郎に伺い立てた。

「心配するな、帰り道話そう・・・」

信一郎は休めた箸を手に取り、きんぴらを摘んで口に放り込む。

「う~ん、こいつもいけるなっ、酒が欲しくなる。仙蔵、忘れちゃいねえから早く食わねえと伝造に食われちまうぞ。卯之吉、お前はもっと食って太れっ」

食べるのが遅い卯之吉も血色良く、鴨の汁を啜ってうなっている。

大量に炊いた飯、鴨鍋もなくなり、皆満足して宴はお開きとなった。

 

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(熊野十二社)

 信一郎は仙蔵、岡っ引き達を連れ立って御救小屋を後にし、熊野十二社に立ち寄る。

まず、信一郎が本殿に上がり手を合わせた。

仙蔵の熊の胆のお陰と一日の無事の御礼を申し上げ、早く飢饉が終わり、来年の豊作を祈願する。

続いて、卯之吉、考助、正平、伝造も並んで参拝する。

最後に、仙蔵も後に続いて参拝するが階段を下りてくると、深い溜息を付いていた。

「神様に失礼ってもんだろう、溜息なんか吐くな」

信一郎が咎めると、仙蔵はぼそりと呟いた。

「御救小屋が取り払われたら、私はどうなるんでしょう・・・まだ村には帰れません」

「じゃあ、どうしたいんだ?」

信一郎は、俯く仙蔵を問い質す。

「分かりません。この先、どうしていいんだか、こうしたいという望みが浮かばないんです・・・」

 

 正平は仙蔵に微笑みかけ、顔を覗き込む。

「いいじゃねえか。望みがねえなら、神様に生きる望みを下さいって願えば。仙蔵は多くの人を喜ばせたんだ。お前さんだって喜んだっていいんじゃねえのか?」

ガリガリの卯之吉も正平の言葉に頷く。

「そうだ、おら達も嬉しかった。こんな棚から牡丹餅の様な出来事は滅多にない。それに、怪我人の要三は恩義を感じて家を建ててやるって約束して、それを生きがいに怪我を治すとまで言っている。今度はお前さんが自分の事を祈ってもバチは当たらない」

卯之吉の言葉に、「そうだぞっ」と信一郎も他の者も、うんうんと大きくうなづいた。

それでも仙蔵は、あれは圭助の物であって自分の物ではないからと言い、素直に喜ばない。

「あれはたまたまの偶然です・・・」

 信一郎は埒が明かぬと仙蔵の肩を掴む。

「お前さんは、最初、世の中は理不尽で道理が通らねえって言ったなっ?」

仙蔵は皆に囲まれる中、信一郎を見上げて力なくうなづいた。

「ええ、まあ・・・」

「仙蔵の言う、理不尽って意味は、滅茶苦茶で道理が通らない事に対して、悪い意味での偶然の出来事の重なりの事を言っていたんだろう?でも、富くじだって大きな箱の中に手を突っ込んでかき回して、取り出した札が当たるってことは、これだって、いかさまがねえ限り、道理が通らねえ偶然の幸運だ。富くじに応募した人間が多ければ多いほど当たる確率は低くなるってことは、更に奇跡的な偶然だ。博打だってそうだ、丁半なんかは、当たる確率は二つに一つだ。でも、卯之吉を見てみろ。七、八割負けてんだぞっ。五分の勝率じゃねえ。ってことは偶然負けが続いたって事だとも言えなくもねえし、その一方で二、三割は勝っている。いずれにせよ、諦めないで賭け続ければ、いつか勝つ事だってありうる。確率は低いかもしれねえが、その低い望みに賭け続けるしかねえんだ。なあ?卯之吉」

信一郎が卯之吉に目を向けると、「ええっ、まあ・・・」と恥ずかしそうに苦笑いをする。

「まあ、卯之吉の場合は博打は性に合ってねえから、おいらの元で働いて望みを探している。おいらと卯之吉が出会ったのだって偶然だ。道理なんて通ってねえ。定町廻りでもねえ、おいらにぶつかってきて勝手に捕ったんだからな。どんな出会いだって良くも悪くも偶然だ。男も女も、どこで生まれたかも。全てを神様が決める訳じゃねえだろう。いちいち、道で人とのすれ違い、男と女の出会いだって決めてるとなると辻褄が合わねえ。神様が出会いを決めたんなら離婚なんてありえねえ。第一、神様が赤ん坊が死ぬ事を決めていたら合点がいかねえ。仙蔵、おめえも言っていたじゃねえか」

 仙蔵は逃げ場を失ったかのようにうなづいた。

「ええ、まあ・・・生まれたばかりの赤ん坊が死ぬ事や死産などを、神様がその様にお定めになるとは到底思えません・・・」

「そうだろう。神様はおいら達を見守ることはあっても、そんな事はなさらない・・・と思う。見た事もないから断言はできないが、己の良心に宿っておられると思う・・・。だから、正平が言ったように、生きるという望みを欲する事は、既に望みが生じているんじゃねえのか?生きるって事に・・・」

仙蔵は頷くが、信一郎の言葉に抗う様にぼそりと呟く。

「生きたいと望んでも、喜びもなければ辛いだけです。それに、この辛さが生れ落ちた定めならば、やりきれません」

「定めだと?変な占い師が、人に運命がある様なまやかしを言うが、あれは違うと思う。定めとなれば、おいらと仙蔵は必然的に出会った事になるじゃねえか。そんな訳あるかい、全てが運命だと言うんなら死産の赤子の理由が立たねえ。もし、死産が運命だと言う奴がいるなら、全ての出来事を神に押し付ける所業だ。それに、赤子の死因を偽ることにもなる。それでも定めと言うのか?」

 仙蔵は定めでなければ、これまでの出来事をどう折り合いを付けたら良いのか益々分からない。

「お言葉でございますが白沢様、定めでなければどうして私は辛い思いをしなければならないんですかっ、教えて下さい」

「今、起きている事が事実なんだろう・・・。理由なんて付ければ、幾らだって付けられる。でも、それは勝手な解釈で事実じゃねえ。おいらは、理不尽で道理の通らない偶然の重なり合いの連続が、今なんだと思う。偶然の幸運も不運も、それはお前さんが見せてくれたじゃねえか」

信一郎の言葉に、仙蔵は心底から納得できないが、偶然の出会い、熊の糞と思っていた物が、偶然、極上品の熊の胆だった事を突きつけられ、「ええっ、まあ・・・」と詰まりながらもうなづいた。

 「運命とか定めとか信じたくねえ。おいらの祖父と父は、事故で死んだ・・・妙な事に二人とも崖から足を滑らせてな・・・でも、そうなる運命だったとか、誰かの身代わりに死んだなんて、簡単に一言で片付けられる問題じゃねえんだ。冗談じゃねえ」

仙蔵はふと信一郎を見上げた。

「父が死んだって聞いても訳が分からなかった。朝、行ってくると振り返った父が、翌日、遺体で戻ってきたんだからな。傷だらけの遺体を見ても信じられずに嘘としか思えなかった。また生き返るんじゃないかって必死で呼びかけた。でも、やっぱり生き返る事はなかった。あの時、元服して間もねえ見習い同心で、どうして良いのか訳が分からねえし、信じられねえで涙が止まらなかった。しばらく、御勤めをしなくて良いと役所から言われた・・・。今こうして時間が経ってみても、納得できねえよ。祖父と父が同じ事故なんだからな。だから、おいらも、いずれ崖から落ちて死ぬんじゃねえか、おいらの死に場所は崖なんじゃねえかって、ふと浮かんでくることがある。そのせいか、高い場所が嫌れえだ。父たちは、崖から落ちる定めとか運命じゃねえ。未だに理由は見出せねえが、落ちた事は事実だ。偶然の重なりかもしれねえが、心の奥底にわだかまりの様なものが、今もある・・・身近な人間の死とは、そう簡単に納得できるもんじゃねえ。特に事故なんてなるとな」

 信一郎は、正平や卯之吉達にも、この話をした事はなかった。

仙蔵を始め皆閉口し、信一郎が抱えている憂鬱にかける言葉も浮かばない。

 仙蔵は亡き父母の事を思い出すが、信一郎の心が分かりますとも言えなかった。

親の死に向き合った事は共通しているが、人それぞれ状況も違う。

静まり返った薄暗い本殿前に佇む六人。

 仙蔵は居た堪れず無言のまま、今一度、本殿の階段を上り、神様に手を合わせた。

白沢様や皆様に御加護がありますように・・・。

それを見ていた、正平、卯之吉らも続いて今一度、手を合わせる。

 信一郎は、深い祈りを捧げ、戻ってきた仙蔵に「なにを祈ったんだ?」と聴く。

「いろいろでございます・・・」

仙蔵は立ち止まって信一郎を見つめてから頭を下げた。

信一郎はその意味深な挙動に、自分の事を祈ったのだと感じ、照れ臭そうにふと笑みを浮かべた。

「いろいろと祈ってくれたとは嬉しいね、世の中は訳の分からねえ事ばかりだ・・・定めとか運命なんてねえ・・・」

 年長の考助が口を開く。

「全くでございます・・・私も家を火事で焼き出された事が定めだとは思えません。いつ何が起こるなんて分かりません。幸せがいつまでも続くような気でおりましたが、一夜にして一変してしまいました。何故、火事になって私が焼き出される事になったかなど、見当も付きません」

信一郎は考助を見て、うなづいた。

「お前さんのところは、もらい火だから尚更納得いく訳ねえよな・・・」

「はい・・・」

「苦労するな・・・」

信一郎は考助を元気付けた後、仙蔵に振り返った。

「仙蔵、辛いときは、辛いって言えば良い。そして、助けを求める事は恥ずかしい事じゃねえ。おいらだって仙蔵に救われたと思っている。だから、今度は神様に祈った事をおいら自身が行動しなくちゃならねえ。だから、熊の胆の件も含めて何とかする。明日から、町奉行所に戻らなきゃならないが、しばらく待ってくれ」

 仙蔵は信一郎の目を見るが俯いた。

望みもなき先々への不安は取り除けぬまま、か細く返事をした。

「もう十分、白沢様にはお世話になっておりますが、お待ちしております・・・」

「あと五日で御救小屋は取払いになるが、呼びに行くまで長屋で待っていろ。分かったな?」

信一郎は念を押すと、仙蔵と別れた。

 

                         第二部(31)へ続く。

 

【 死に場所 】全34節 【第2部】(29) 読み時間 約12分

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    〈 江戸名所図会 内藤新宿 〉

  

 (29)

 三日後、仙蔵は御救小屋の勤めを終え、四谷大木戸近くの臨時番屋に足を運んだ。

戸を開けると、鉤鼻の正平がいた。

「おうっ、仙蔵っ。でかしたっ!」

「えっ?」

正平はとてつもなく喜んで仙蔵の手を取った。

なにがなんだか分からない仙蔵は怖くなって腰が引ける。

「どどっ、どうしたんですっ、正平さんっ」

「どうしたもこうしたもねえ、おめえさんの持っていた熊の胆が本物だったんだよっ。おいらも白沢様のお供をして、薬種屋で聞いたから間違げえねえっ」

仙蔵は正平の顔を見つめたまま、眉を顰めて「えっ?」と更に疑う。

「だから、お前さんの熊の胆は寒中の熊の胆の中でも、更に極上品だってよ。良かったよ、白沢様も有名な医者を上役にも紹介できたぞっ」

「はぁ、そうですか。それはようございました・・・」

「なんだ、嬉しくねえのか?」

 仙蔵は、まあ、役に立ったらいいと思うぐらいで、それよりも、鴨の約束の方が気懸かりだった。

「正平さん、白沢様はいらっしゃらない様ですが・・・」

「お前さんは馬鹿だなっ」

唐突に、正平に馬鹿と言われて、仙蔵は少しむっとした。

「今に面白れえもんがくるから、待っていろ」

正平は、番屋の中を片付け、場所を広く開け始めた。

「これぐれえでいいか・・・まあ、上がって待っていようぜ」

気持ち悪いな・・・

仙蔵は足を洗って、番屋の畳に上がり正座して信一郎を待っていると、正平が茶を入れてもてなしてくれた。

「どうもすみません・・・」

仙蔵が頭を下げると、正平もかしこまって「いやぁ、こちらこそ」と頭を下げた。

 待っている間、仙蔵は御救小屋の事を思い出していた。

あと六日もすれば取払われ、路頭に突き出されるだの、島に送られるだのという噂が、どこからか広まってしまった。

その為、身寄りのない者たちの動揺は激しく、女子供はここに居させて下さいと哀訴する者が多く出た。役人や賦役の百姓達も宥めてみるが、不安に駆られて納まらない。

お里は病人の世話よりも、女や母親達に「なんとかなるよ」と言葉を並べるのが精一杯だった。

 心労からか病人は熱を出し、苛立つ者同士が、握り飯が大きい小さいなどと些細な事で揉め、喧嘩、いがみ合いも増えて、仙蔵が間に入って仲裁していた。

なんとか動揺を抑える切欠になればと、早々に鴨鍋を振舞いたいと気を揉んでいた。

 

 番屋の戸が、ガラガラと開けられると、ガリガリの卯之吉が入ってきた。

卯之吉も正平同様にうきうきとしながら中に入ってきた。

仙蔵と目が合うと「おおっ、仙蔵っ。待たせたねっ」と手を上げた。

訳が分からぬ仙蔵は、別に卯之吉さんは待っていねえけど・・・と困惑する。

 続いて信一郎が入ってきた。

仙蔵は畳から土間に降りて出迎えた。

「これはこれは白沢様、お待ちしておりましたっ」

「おおっ、仙蔵っ!大手柄だよっ、聞いたか?」

信一郎も皆と同様に喜んで仙蔵の手を取った。

「ええっ・・・まあ」

「極上品だったんだっ。上役も大喜びだし、その旗本様がな。まあ、いいからこっち来いよっ」

信一郎は、外へ仙蔵を連れ出した。

「なんですか、これはっ」

「なっ、すんげーだろうっ。その大身の旗本様に、上役と医者と一緒に御拝謁したんだ。そんで、御救小屋の事を話したら、これだよ・・・」

筵(むしろ)がかけられた大八車の荷物の脇をそっと上げ、仙蔵に見せた。

駕籠いっぱいの鴨に雉。箱に入った塩漬けの魚、それに野菜が山積みになっている。

仙蔵は首を振り信じらず「あるところにはあるんですね・・・」と呟いていると、信一郎が「さあっ、早く中に運び込めっ」と号令をかけた。

「えっさ、えっさ」と伝造、考助、正平、卯之吉が、手際良く手渡しで番屋の中に運び込む。

仙蔵は目をぱちくりと繰り返し、信一郎を見つめた。

「これを旗本様がくれたんですかっ?」

「いや、鴨鍋代として金をもらって、それで買った物と、裕福な者達からの差し入れだ・・・」

仙蔵は未だ信じられず首を振る。

「すごいっ、信じられませんっ。ありがとうございますっ」

信一郎は手を振った。

「礼を言わねばならねえのは、おいらの方だ」

信一郎は仙蔵の耳元でささやく。

「お前さんの熊の胆のおかげさっ。本当にありがとう、助かった」

仙蔵はうなづくも「お礼を申して頂けるなら、故郷(くに)の圭助でございます・・・私はあれを熊の糞としか思っておりませんでした。圭助の一家は借金で苦しんでいる中で、熊の胆を持たせてくれたんです・・・」となんだか圭助や松次郎にも申し分ない気持ちで一杯になってくる。

信一郎は、仙蔵の言葉を聞き、笑顔が消え大きな息を吐く。

「そうか・・・でもとりあえず、仙蔵のお陰で旗本様も救われた事に変わりはねえ。それに、あれだけの材料があれば鴨鍋もできるだろう・・・」

ええと仙蔵はうなづいてみるが、圭助の事が気にかかる。

「お前さんの故郷の方もなんとかする。とりあえずは良かったじゃねえかっ」

信一郎は仙蔵の肩をぽんと叩いた。

「明日の朝、おいらも御救小屋に行って、旗本様の書状を渡せば滞りなく皆で鍋が食える。お前さんが、せっかく獲ってきた鴨も紛れ込ませれば分からねえ」

「ありがとうございます・・・」

仙蔵は信一郎に頭を下げた。

 信一郎としては、何重にも嬉しい事となった。

旗本とも懇意となり、しかも、上役からも賞賛されて役所に戻る事となる。

信一郎と四人の岡っ引き達の喜びとは別に、仙蔵は一人取り残された様に故郷の事が気にかかって仕方がない。

胸の内がなんとももやもやとしたやるかたない気持ちで一杯となる中、番屋に運び込まれた大量の食材を見つめて、自らに言い聞かせる。

「あいつの熊の胆が、役に立ったんだ。少なくとも二百人を喜ばせることができる・・・」

圭助やおきつ、そして松次郎の笑顔が浮ぶ・・・。

 仙蔵は申し訳ないような心持ちとなり、信一郎に早々に挨拶を済ませ、他の四人にも頭を下げて番屋を後にした。

 

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    〈 荒歳流民救恤図 イメージ 〉

 翌朝、仙蔵は寒さで凍った鴨を駕籠に入れ御救小屋に到着すると、門前には正平、卯之吉、伝造、考助が仙蔵を待ち構えていた。

「おうっ、おいら達も手伝いに来たぜっ」

仙蔵は四人に頭を下げて、一緒に中に入った。

信一郎達が持ってきた大八車の荷が炊事場に運ばれて行く。仙蔵もすかさず持ってきた鴨を紛れ込ませた。

 信一郎は、元締手代の岡田と陽気に会話していた。

 仙蔵を見つけ、手招きをして呼び寄せる。

「この仙蔵のお蔭ですよ」

岡田も鴨鍋の事が嬉しかったらしく「おおっ、仙蔵。熊の胆を持っていたとはすごいではないかっ」と肩に手を乗せた。

「実はな、わしも弥助らに聞いて、ここの者たちをどう鎮めたら良いかと考えておったところだったんだ。身寄りのない者たちは、石川島の人足寄場に行く事になっておる。病の者もそっちに移って療養できる手筈だ。女子供も養育所なんかに移す手配が付いたから、美味い物を食えば少しは落ち着くだろう」

岡田は荷物が運ばれる様子を見ながら「働く者も一緒に夕飯を食おう・・・」と仙蔵に微笑んだ。

仙蔵は信一郎と岡田に褒められると、否応なく圭助らの顔が浮かんできて素直に喜べない。

その一方、御救小屋の取払いの準備も始まり、身請人やらも続々と待合所に詰めていた。

夕食までの間、信一郎らは番屋に戻る事になり、仙蔵も病人部屋に向かう。

物思いに拭けり足取り重く廊下を進んでいると、仙蔵を見つけたお里が駆け寄ってきた。

「ねえっ、夕飯は豪勢なんだって?仙蔵さんが三日ぐらい前に『後のお楽しみ』って言っていたのはこの事かい?」

「ええっ、まあ・・・」

仙蔵は思惑を超え大規模なものとなり、自分の力は微々たるものだと言葉を濁す。

「すごいじゃないのさっ。働いている人たちだってその話で持ちきりだよっ。一体どうやって、こんなに用意できたの?」

「なんていうか、北町同心の白沢様が、お偉い旗本様に頼んでくれたらしいんです・・・」

一から話すのも時間がかかると、仙蔵は掻い摘んではぐらかす。

「すごいね~っ、こんな事、お偉い様だってなかなか出来るもんじゃないよっ」

お里が余りにも迫り寄るので、仙蔵は後ずさりすると声が聞こえてきた。

 「おーっ、あっちあっちっ。仙蔵っ、すごいじゃねえかっ。一体どんな手を使ったんだ?」

「相変わらず、うるさいわねっ。静かにしてちょうだいなっ」

お里が仙蔵を飛び越えて文句を言う。

さっと仙蔵が振り向くと勝吾郎が汗を拭う。

「ちゃんと着ているんだ・・・」

仙蔵は二人に挟まれ「うれしいわね」「あたぼうよ、ところでどんな手を使ったんだ」と前から後ろから声をかけられていると、作兵衛の爺さんも部屋の中から声を上げる。

「お里さん、背中から血は出てねえかっ」

「足が痛いよっ、お里さんっ」

四方八方から声が聞こえると、寝ていた病人が声を上げる。

「うるせーな、じじいっ。頭が割れそうだっ」

仙蔵は飛び交う声を潜り抜け、頭が痛いと叫ぶ男を厠へ連れて行く。

尚も、勝吾郎は仙蔵の後に付いて来た。

「なあ、教えてくれよ。どんな手を使ったんだっ」

仙蔵は病人を歩かせながら「お役人に頼んだんです・・・」と誤魔化した。

「だーっ、この野郎っ」

「あっ、芳蔵さん・・・」

「こんな所で油売りやがってっ。今日は特に忙しくなるんだから早く来いってんだっ」

芳蔵に見つかった勝吾郎は、腕を引っ張られて炊事場へ戻って行った。

 病人部屋の昼飯は、いつも通りの粥に漬物。動ける者は食堂で、握り飯と味噌汁、漬物が施された。

 

 食事が終わり、仙蔵は要三の肩を支えて歩くと、風に当たりたいと言い出した。

「この前みたいに放っておかないでくれ、凍えちまうから。それと、ちょっと話したいことがあるんだ・・・」

要三は冗談めかした事を言いながらも、どこか不安な様子だった。

 仙蔵は風除けのある場所に要三を座らせ、自分も隣に座る。

要三は寒空を見上げ、ふうと一息吐き、足を擦った。

「なんだかどんよりとした日は、足が芳しくねえ・・・」

仙蔵も空を見上げ、うなづいた。

晴れぬ心は共に同じで、仙蔵は仙蔵で、御救小屋が閉鎖されたら村に帰されるかもしれないと溜息をふうと吐く。

 暫し、両人は会話もないまま空を見上げていると、要三が口を開く。

「あのさぁ・・・」

要三は言いづらいのか目を逸らし、俯いたり見上げたりする。

「どうしました?」

「おら、この先どうなっちまうんだ・・・。身請人がいねえ者は、石川島に行くって聞いているが、その後はどこかの島で働かされるっていうじゃねえか。おいらは罪を犯した訳でもねえし、ただ怪我をしただけなのにどうしてそんな所に行かなくちゃならねんだ・・・」

「えっ、人足寄場に行くと島送りなんですか?」

仙蔵も石川島の人足寄場について全く知らず、要三に聞き返してしまう。

「定かじゃねえけど、あそこは罪を犯した者らが集められて、御公儀の普請なんかで働らかされるらしい・・・おいらが何したってんだっ。怪我しただけだぞっ、ひでえとは思わねえか?だから最近眠れやしねぇ、貧乏な家に生まれたばっかりに、居場所はねえからって江戸に出されて、足を滑らし島送り。それでこき使われて死ぬって考えると、おいらは、どこへ行っても邪魔なんだって思えてくる・・・・」

要三は涙ぐんで空を見上げて呟いた。

「冗談じゃねえ・・・」

「おいらも似ていますよ・・・」

仙蔵がそう呟くと、要三は赤い眼差しで睨み付ける。

「少なくとも、お前さんは丈夫じゃねえかっ」

「確かに自分でも不思議な程、体だけは丈夫なんです。皮肉な事なんですが・・・」

「皮肉って、どういう意味だ」

要三は納得ゆかぬと眉を顰めて訳を聞く。

「おいらはもともと甲州の貧乏百姓でしたが、些細な行き違いで、名主に嫌われて伊勢参りと称して村を出てきました・・・沢山、御府内の神社仏閣を参詣しましたが、歩けば何処かしらで行倒れた死人を見かけました。金があるところには食料があるけど、金がなければ救いを求めて彷徨い死んでゆく。物心も付かない赤ん坊は死んで、幼子は捨てられる。かたや、米を囲い込んで値を吊り上げたり、平気で人を騙したりしている人間が、得意げに大声上げて闊歩している。おいらはふと、神様はいないんだと思いました。理不尽な世に、生きる意味も理由もない。そんな世で何をよすがに生きればいいのか、望みが潰えてやけになってしまったんです。ですから、御伊勢に行ったところでどうになるでもなく、独りぼっちで行く当てもない。いっそ消えてしまいたという気持ちで死に場所を探していたところに、お役人様に声をかけられました。そんなおいらが病にもならず、この御救小屋で働いているんです。これを皮肉と言わないでなんと言いましょう。生きたい人がここを頼って、死んでもかまわないと思っていたおいらがここで介抱をしている。取り払われた後、要三さんと同じかは分かりませんが、望みがない事には変わりはないんです。また、悪い事が起こるんじゃないかと・・・」

「お前さん、死のうとしたのか・・・」

「まあ・・・でも、今となってみると分かりません。辛さから逃れたい気持ちは確かですが、故郷でお世話になった人の顔が浮かんでくると、生きろと語りかけてくるんです。でも、帰ることもできないし、伊勢参りの餞別も貰っていても神様を信じられない。知り合いもなくて疲れてしまったんです・・・」

 要三は顔を顰めながら引きつった笑みを浮かべた。

「おっ、おいらが言うのも変だけど、お前さんは、ずっと一人で考えて誰にも話さなかったから思い詰めちゃったんじゃないのか?話を聞いていて、おいらもこの先、ずっと重労働にさせられて死ぬだけだと思っていたけど、考えてみれば、この足じゃ重労働はできねえ・・・」

仙蔵もうなづくと、要三は鼻でふんと自嘲した。

「こりゃ駄目だ。どうなるんだろう・・・」

「さっき、療育所とかもあると、岡田様が仰っておりましたから・・・」

 

 「あーっ、いたいたっ。仙蔵さん、何処行ったかと思っちゃったわよっ。ちょっと、こっちを手伝ってちょうだい」

お里が慌しく呼びに来た。

要三がお里に手を振った。

「おらが話を聴いてもらっていたんだよ、すまねえ」

仙蔵は要三をゆっくり立ち上がらせ「弥助さんに、要三さんの事聞いてみますね。でも、おいらの事は作兵衛の爺さんには言わないで下さい」と頼んだ。

「あんな助平な嫌味爺(じじい)に、死んだって言わねえよ。おらにだって、仮病だろうなんて言いがかりを付けてくるんだから」

要三は少しほぐれた様に微笑んだ。

 お里は病人達の体を拭いたり、三日ぶりの風呂の準備に追われる。

「おーっお里さん、わしの体を拭いてくれ」

作兵衛の爺さんは、まだ順番でもないのに勝手に病人服を脱いでうつ伏せになって、目を閉じて待っていた。

 仙蔵は、要三を座らせた後、寒かろうとうつ伏せの作兵衛の背中を手拭で擦る。

目を閉じていた作兵衛は、お里が背中を拭いているもんだと思っていた。

「ああ~っ、気持ちいいねえ~っ」とうっとりと目を閉じたまま。

仙蔵は、離れた場所で、他の病人の体を拭いているお里に、爺さんを指差して合図を送る。

お里もそれに答えて、「作兵衛さん、背中のかゆいところはないですか?」と遠くから声をかけた。

「背骨の真ん中辺りを強く拭いてくれ」と作兵衛は目を閉じたまま偉そうに言う。

仙蔵は作兵衛の背中を強めに擦ると、「お里さん、ちょっと強ええなっ、もっとなでる様に」と、溜息の様な妙な息遣いをし始めた。

「そこからもう少し、腰の方へさがってくれ・・・それから、尻の辺りを」

仙蔵は仕方なく腰の辺りまで拭いてやり、手を止めた。

「お里さん、どうした。もっと下へ」

仙蔵は気味が悪くなり、しばらく作兵衛の様子を眺めていた。

「どうしたんだ、お里さん。わしの尻を撫でる様に。分からんかな、わしが教えてやろう。交代だっ」

作兵衛は目を開けて、背中をねじって顔を向けた。

「うわーっ、なんでお前さんがいるんだっ!」

部屋の皆もその様子を見ていて、どっと笑うと、作兵衛の爺さんは急に胸を押さえ出した。「心の蔵がぁっ」

明らかに仮病だと、仙蔵は動じることなく「心の蔵がどうかしたんですか?どくどくと元気に音でも上げているんですか?」としらけながら聞く。

「うるさいっ、お前さんの顔を見て、胸が苦しくなったんだっ。お里さんっ」

作兵衛の爺さんは藁をもすがる様に、お里に向かって手を伸ばす。

「尻出して下さい、おいらが拭いてやるよ」

仙蔵が作兵衛の病人着を脱がせようとする。

「やめろっ、脱がすなっ。自分で拭くっ」

作兵衛はじたばたと抵抗し、仙蔵の持つ手拭を奪った。

「あっち向いてろっ」

誰も爺さんの尻なんか見たくもねえと仙蔵は言いかけるが、好きなように爺さんに拭かせた。

「ほれっ、持ってけ」

ばつの悪い爺さんは、仙蔵に自分の尻を拭いた物を渡すと、さっと背中を向けて狸寝入りを決め込んだ。

いい気なもんだと仙蔵は、汚れた手拭を摘んで捨てようと裏口に出た。

 

 「あっち~いなっ、ちくしょうっ」

勝吾郎が炊事場から出てきたところに、仙蔵と鉢合わせする。

「おう、仙蔵。今日は鴨鍋だろう。それに飯も炊くから、一日中ずっと火の番をしてなくちゃならねえっ。見てくれ、汗が止まらねえんだ。おっ、調度良い。その手拭貸してくれねえかっ」

勝吾郎は、仙蔵が指で摘んでいた手拭をさっと奪った。

「あっ、それは駄目ですよっ」

「うるせーな、いいじゃねえかっ。減るもんじゃあるめえし」

勝吾郎は、爺さんが尻を拭いた手拭でごしごしと顔を拭いた。

「うん、なんかくせーな・・・なんだいこりゃ?」

仙蔵は本当の事を言うと面倒になると思い「沢庵の桶を拭いたやつです・・・」と嘘を吐くと、勝吾郎はもう一度手拭の臭いを嗅いだ。

「あ~っ、確かに沢庵臭せーなっ。でもまあ、食い物だからいいか」

「それ捨てますから、返して下さい」

「だったら、おらがもらうぜっ」

勝吾郎は手拭をねじり鉢巻にした。

「これで汗が止まるってもんよっ、さあっ、いっちょ鍋を作るかっ」

勝吾郎は自分の頬をぱぱんと叩いて気合を入れた。

仙蔵はすかさず勝吾郎の頭から手拭を奪いにかかる。

「やっぱり返して下さいっ」

「なんでだよっ、どうせ捨てるんだろうっ」

「でも、それは汚いから」

「いいじゃねえかっ。汗を止めるだけなんだから、けちけちすんなよ」

 なかなか戻ってこないと芳蔵が現れた。

「だーっこの野郎っ!この忙しい時に二人で遊んでんじゃねえっ」

仙蔵も巻き添えを食って、芳蔵にどやしつけられた。

「鉢巻の奪い合って、お前らタコかっ!」

「いえ、違います・・・」

仙蔵は芳蔵の言う意味が分からず小首を傾げる。

 仕方なく、勝吾郎が頭に巻いているものは、さっき作兵衛という爺さんが尻を拭いた物だから捨てようとしたと丹念に説明した。

「うえーっ、あの助平爺さんのかよっ」

勝吾郎は、慌てて手拭を毟り取るが、やり場に困り、芳蔵に「いります?」と手渡そうとした。

「なんで、助平爺(じじい)のもんを俺によこすんだっ!そんなもん燃やしちまえっ。早く仕事に戻れっ」

仙蔵は、作兵衛が助平であると誰もが周知している事に驚いていると、勝吾郎が手拭を摘んでそっと返す。

「悪かったよ・・・」

「どういたしまして・・・」

仙蔵は指で摘んで、風呂を沸かす焚火の中に放り込むと、勢い良くぼっと燃え去った。

病人部屋に戻った仙蔵は、湯に入れる病人怪我人を四、五人連れて介添えし、忙しく働いた。

 

                 第二部(30)へ続く。

【 死に場所 】全34節 【第2部】(28) 読み時間 約10分

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    ( 江戸名所図会 熊野の瀧 ) 

 

  (28)

 仙蔵は帰り道の途中にある熊野十二社の鳥居を潜って参詣した後、境内をうろつき、社(やしろ)の裏手やごみ捨て場を窺うが欲するものがない。

ないな・・・。

仙蔵は鳥居に一礼をして、ふらふらと溜池周辺を歩き回ってみるが見当たらない。

辺りは暗く、一旦、長屋に戻って荷物を置き、提灯片手に周辺の小さな社に立ち寄る。

六、七社の神社を巡り、その帰り道の柏木村の奥の小さな神社に立ち寄る。

 人目を忍んで社の裏手をまたもや覗く。

「あった・・・」

仙蔵は廃棄された破魔矢二本を手にする。

提灯を置き、破魔矢の羽の部分をじっくりと確かめる。汚れて毛羽たっているが三箇所均等に羽根が付いていた。木の部分も腐ってはおらず、洗えば十分に矢として使える。

二本の矢では心元ないが、他には見当たらない。今から矢を作ろうにも手間がかかる。

仙蔵は布に包み、本殿に手を合わせて長屋に戻る。

 もらってきた竹を火鉢の上で炙って、じわじわとしならせる。火力が弱いからなかなか曲がりが悪い。なんとか形にすると、今度は小刀で持ち手になる部分を削り、竹の両端に溝を彫る。紐を一旦ほぐして細く撚り直す。それをぐるぐると竹の両端の溝に巻きつけ弓の弦になるか張ってみる。

若干、紐は太いが使えそうだ。

ぎりぎりと何度も引っ張り、また弓の中心部を火に当てて弧を作る。

思いっきり引っ張っていると紐がぶちりと切れてしまい、何度か試行錯誤しながら簡易の弓を仕上げた。三尺寸と四尺寸の小弓を二つ。

 続いて、破魔矢の先端を切り落とし、一寸釘を先端に取り付けてみるも、矢の中心真っ直ぐでないとぶれてしまう。試しに長屋の柱に向かって、弓に矢を宛がって放ってみるも、変な回転がかかって逸れて板に突き刺さり、余り具合が良くない。

飛距離は出ないが、先端を斜めに切って尖らせた。

 

 仙蔵は夜明けまで仮眠を取り、辺りが白んでくると、弓矢を布で巻いて駕籠を背負って溜池の西にある林に入り込む。

狙いは雉(きじ)だが、烏(からす)の声ばかりが聞こえてくる。

試しに、三尺の弓で破魔矢を引き絞って放ってみたが、飛ぶには飛ぶが距離が出ない。

四尺の弓で試してみると、少しは弓として使えるが、それでも、矢の先端に錘がない分思うようには飛ばない。

仙蔵は余程近づかねば仕留められないと悩みながら雉を探す。

どうやら、烏の縄張りらしく雉の鳴き声すら聞こえてこず、とうとう林を抜けて中野村の方へと出てしまった。

 

 仙蔵は北上し、神田上水に差し掛かると、があがあと鴨の鳴く声。

上水への立ち入りは禁止されており、付近を窺いながら土手を降りる。

岸に上がっていた鴨に狙いを定めた。

距離は凡そ四間(約7m)、即席の破魔矢を放ってみるも狙いは外れ、鴨が一斉に飛び去った。

仙蔵はひたひたと身の丈ほどもある枯れすすきの中を進み、鴨の小さな群れを見つけ、再び矢を放つも失速して届かない。

もう一本の矢の斜めに切った先端の空洞に小石を詰めて錘にし、弦が切れるぎりぎりまで今一度引き絞り狙いを定め、息を止めた。

弓は折れてしまうほど撓(しな)り、耳元では弦がぐぐっと音を立てる。そして音が消えた瞬間に矢を放った。

鴨の横っ腹に矢が命中した。それに驚いた他の鴨がばさばさと逃げ去った。

仙蔵は仕留めた鴨を駕籠に入れ、人目を憚り場所を変えながら三羽仕留めた。

気を良くした仙蔵は、神田上水沿いに小高い山を目にする。

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     ( 江戸名所図会 落合村付近 )

 昼すぎ、下落合村の御留山(おとめやま)に分け入り、やっと雉(きじ)を見つける。

二本の矢の先端を削り直して尖らせる。

雉は鴨と違い、縄張り意識が強く警戒心も強い。

仙蔵は雉の独特の鳴き声がした方に身を屈め、見上げながら進む。雌だ。

恐らく雄も近くにいるかもしれないと辺りを見渡す。

低い枝に止まる雌に狙いを定めて矢を放つが、反れて逃げられてしまった。

仙蔵は外した矢を探しに山の斜面を登ると、今度は雄の雉を見つける。

気付かれぬように、じわりじわりと遠巻きに狙う。距離はまだ十間以上もある。

更に、時間をかけてゆっくりと焦らず、息を殺して様子を窺う。

矢で仕留められる距離は恐らく三間半から四間といったところ。

雉からすれば、目と鼻の先。

背後から狙うが、枯れ木や枯れ葉が生い茂り足音で勘付いてしまう。

仙蔵は近づくことを諦め、上の木々を見渡す。雉が止まりそうな木の下で、弓をくるんできた布の上に枯葉を散らして、それを被ってうずくまった。

息を潜め、狙う枝に雉が来るのを待つ。

 その間に、先に獲った鴨を締めねばと、小刀で血抜きを始め、木に鴨の足を括り付け逆さ吊りにして、雉を待つ。

半時、一時待っても雉は仙蔵がいるのを察知しているのか、なかなか止まらない。

足も痺れ、目だけが鋭く上空を窺うが焦(じ)れてくる。

仙蔵は何度も自らに言い聞かせる。

焦っても仕方ねえ、落ち着け・・・。

ばさばさと狙う枝に止まったのは、土鳩。

邪魔だ、どけっ。狙いはお前さんじゃねえ・・・。

余計に苛立ち、呼吸も荒らげてきた。まだか・・・日はもう傾き始めている。

 来たっ・・・。

仙蔵が狙った枝とは別の近くの木に雉が止まった。羽を収める瞬間を狙って一矢放つが、勢い足りず枝の下に矢は反れて落ちた。

幸い、雉は毛づくろいをしていた。そしてまた、風が木を揺らし辺りの鳥が飛び立つ音で、矢が空を切る音には気づいていない。

仙蔵はもう一本の矢を弦に宛がい、ぎりぎりと引き絞る。

逸る気持ちを抑え、更に引き絞る・・・。

待て、焦るな・・・。奴は気づいちゃいねえ。

仙蔵は腹に力を込めて息を止めるが、ぶるぶると手元が震える。落ち着け・・・仙蔵はほんの束の間目を閉じる。

瞬きほどの短い中に、郷里で一日だけ狩りを共にした、おさよが蘇ってきた。

仙蔵はぱっと目を開け、何故、今なんだと振り払うかの様に矢を放った。

しゅっと矢は一直線に飛んでいったが、雉から外れ飛び去った。

「くっそっ!」

仙蔵はくやしさの余り、大声を上げる。

 すると、なだらかな山の斜面の上に人影が現れ、「誰かいるのかっ、ここは公方様の御鷹場と知っての立ち入りかっ!」と叫んでいる。

 まずいっ

仙蔵は鴨を布に包んで駕籠に放り込むと弓を放り出し、身を低くして逃げ出すが、枝か何かを踏んで音が聞こえたらしい。

 役人らしき男が叫ぶ。

「おーいっ、密猟者がいるぞっ、捕まえろっ!」

仙蔵は気配を消しながら急いで下るが、半鐘がカンカンと鳴り出した。

御留山といってもそれほど広くもない小山だから、周辺の百姓が山ごと取り囲むのも造作もない。

こんな所で捕まったりしたら、信一郎に合わせる顔がないと、仙蔵は沢伝いに身を縮めて駆け続けた。

まだ日暮れ前だから高田馬場の方面には逃げられず、仙蔵は来た道の上水脇の土手下に飛び降り、すすきの中に身を潜める。

 しばらく動かない方が賢明だと息を殺していると、上の道の方から声が聞こえてきた。

「役人が血相かいていたけんど、本当に密猟なのかね?」

「そうらしい、鴨の頭と弓が捨ててあったと言ってたぞ」

「そうなると磔かもしれん」

「えっ?鳥獣獲って磔かい?そんな馬鹿な」

「いやっ、今は知らんけど、昔この辺で鉄砲で密猟していた者が磔になったって聞いたことがある」

 仙蔵はその話を聞き、これはえらい事になったと更に身を竦める。

風が出てきて、すすきがうねって横になる度に、仙蔵は生きた心地がしない。

じっと動かずにいると、見廻りの者が立ち去ったらしく声は聞こえないが、どこにいるかも分からない。

仙蔵は磔になることを恐れ、ただただ身を潜め続ける。

湿地で仙蔵の草履に水が染み込んで足が凍てつく。

 日が傾き、やっと上空が赤らんできた。

仙蔵はすすきの中で、布に包んだ鴨を枯れ草や枝と一緒に駕籠の中に紛れ込ませる。

 それから半時もすると辺りは薄暗くなってきた。

仙蔵はすすきの中に駕籠を置き、草履を直す振りをして道端に人がいないかを見定めた。

風は強く、飛ばされそうなほどの勢い。砂塵も舞い上がり雪と間違うような冷たさ。

仙蔵はしめたと、駕籠を取りに戻って道に出た。

手拭で頬かむりし、風を避けるように顔を隠して長屋を目指す。

風のお陰で顔を隠しても疑われず、仙蔵は人通りの少ない道を選んで長屋に辿り着く。

 危ねえ、助かった・・・。

ほっと一息ついて、水瓶から柄杓のまま水をごくごくと飲むと、どっと疲れて土間に寝転がる。

 

 こんこんと誰かが戸を叩く。

仙蔵は飛び起きて駕籠を隠そうと右往左往していると、「入るぜ」と勝手に戸が開かれてしまった。

仙蔵は「あっ!」と声を上げて驚いた。

信一郎は、まるで化け物でも遭ったかの様に驚く仙蔵にまた驚いた。

「うわっ、うるせーなっ!」

仙蔵は駕籠を持ってくるりと背を向けた。

「お早うございますっ」

「お早くねえっ、今晩はだっ。びっくりするじゃねえかっ」

仙蔵は嫌な所を見られてしまい、なんとか誤魔化そうと駕籠を土間の片隅に押しやり、何でもない風を装う。

「きょ、今日は、初めてのお暇を頂いたもので木切れなどを拾っておりました・・・お久しぶりでございます」

不意を衝かれた仙蔵は、いつもと様子が違い、妙ににこにことして愛想が良く、お上がり下さいと動きが機敏になっている。

 それを信一郎が見逃す訳もない。

「そんな木切れなんざどうするんだ」

「すっ、炭にでもしようかと・・・」

「ふ~ん」と信一郎は上り端に腰掛け、駕籠を丹念に見つめる。

「風が強くて寒かったでございましょう。お茶でも入れますから」

仙蔵は土瓶に水を入れる振りして、信一郎と駕籠の間に立って、片足で更に奥へと押しやった。

信一郎はちらりと仙蔵の顔を見ると、互いに目が合う。

仙蔵がやけににこにことしている。

「仙蔵、駕籠の中身は何だ・・・」

「えっ、ですから、木切れや枯れ草でございます」

信一郎はふと、駕籠の目の隙間から布が見え、いくばくか赤いものが見えた。

「中身を出してみてくれ」

「全部、木切れでございますっ。見たってちっとも面白くもありませんよ。さっ、お茶にしましょう。お上がりになって下さい」

信一郎は雪駄を脱ごうとして、仙蔵の足元を見た。

「仙蔵、今帰ってきたばかりか?」

「はい・・・」

「足が泥だらけだぞ」

仙蔵が慌てて足洗い桶を持ってくる隙に、信一郎は駕籠の中に手を突っ込んで布に包まれた物を取り出して広げる。

「なんだ、鴨じゃねえか。お前さんが獲ってきたのか?」

慌てて仙蔵は申し開く。

「この鴨は神田上水の方で獲ったものでございますっ。決して御鷹場で取ったものではありませんっ」

「どっちも駄目だっ」

仙蔵ははっと息を飲んで、言葉を失ってしまう。

「しばらくお前さんの様子を見てなかったから、さっき御救小屋に行ってきた。今日は非番だっていうからこっちに顔を出してみたら、鴨なんて獲ってきやがって・・・鍋が食いてえのか?」

仙蔵は、信一郎が現れたのは、てっきり密猟者を捕まえに来たものと思っていたから、

ほっと胸を撫で下ろす。

信一郎は御鷹場と聞き、何かあったのかと訊ねると、仙蔵は事の経緯を説明した。

 

 「この鴨を御救小屋の連中に食わしてやろうってか・・・鴨鍋は美味そうだが、ちょっと不味いな・・・」

信一郎は眉間に皺を寄せ、鴨をじっくりと睨み付けた。

「半鐘まで鳴らされちまったんだろう?」

仙蔵も楽しみにしてくれと、勝吾郎やお里に言った手前、出せなくなるんじゃ困ると信一郎に何とかならないかと頼む。

「うーん、よわったな・・・」

信一郎は腕組みをして鴨と仙蔵に目を往復させた。

「まあ、焦るこたぁねえ、とりあえず寒みいから上がらせてもらうよ。茶でも飲んで考えよう・・・」

仙蔵は泥だらけの足を洗ってから、茶の準備をする間、信一郎が火鉢の用意をする。

「申し訳ありません、白沢様に火なんて入れてもらって」

「しょうがねえだろう、さみいんだから。待っていたら風邪引いちまうよ」

信一郎は火鉢で手を炙りながら、どうするかと思案を続ける。

仙蔵は土間の竈で湯を沸かして、茶を持ってきた。

ふ~うと信一郎は太い息を付いて頭を悩ませる。

「お前さんは御鷹場って事を知らねえで入っただけで、雉は取りそこなったんだった。黙っていりゃ良い・・・。でも、そこで鴨を絞めて三つ頭を置いてきて、そんで、お前さんが鴨を三羽持っていったら、どんな噂が立つやもしれん。あそこら辺の村からも御救小屋に来ている者もおるから勘違いされても不思議じゃねえ」

 仙蔵はうなづきながら一緒に考え込む。

火鉢に二人で手をかざし、う~んと互い違いに唸り続けた。

「鴨が三羽・・・」

信一郎は月代の剃り跡と地肌の際を爪でぽりぽりとかいて呟く。

「あそこは全部で二百人くらいはいるしな、三羽じゃ出汁にもならねえ・・・仙蔵、一体どれだけの人数に食わせる予定だったんだ?」

仙蔵も腕を組みながら「今、お勤めしている一棟で四十人ぐらいです。それと、働く人も入れると六十人でしょうか。ですから、五羽は持っていこうと思っておりました」と歯切れが悪い。

 信一郎は仙蔵に首を振った。

「そりゃいくらなんでも、他から文句が出るぞ。だったら、全部に行き渡るぐれえにしねえと。全部と言ったら二、三十羽は必要だな」

信一郎は天井に顔を向けて考え込むと「なんとかなるかもしれねえ・・・」と呟く。

「本当でございますかっ?」

仙蔵は身を乗り出した。

「ああっ、おいらが泊まっている宿屋や、他の商家にも声をかけて鴨やら魚やらを融通してもらって放り込んで鍋にすりゃぁ、なんとかなるだろう。寄付や施行(せぎょう)をした金持ちを今度町奉行所で十人ぐれえ表彰するから、それを伝えてやれば、一人に付き鴨の一羽や二羽なんとかなるかも・・・」

「それなら皆喜びますっ」

仙蔵は嬉しくなって立ち上がった。

 対して、信一郎の表情は曇ったまま。

「でもなぁ、それはそれで代官所にも許可をもらわねばならんから、必然的においらが行かねえといけねえ。それに、おいらじゃ役不足だ。上役の与力ぐれえが頼まねえと・・・あっ、そうだ。今日尋ねたのは様子を見るだけじゃねえんだよ。お前さん、前に国から出てくる時の話で、餞別に熊の胆をもらったって言っていただろう?」

 仙蔵は信一郎の顔を見て、えっと首を傾げる。

「ほらっ、熊の糞かもしれねえって言っていたやつだよ」

仙蔵は思い出して大きくうなづいた。

「はい。九分九厘、糞だと思いますが・・・」

「見せてくれ」

仙蔵は振り分け荷物の中に仕舞って置いた小袋ごと信一郎に渡した。

「その中に入っております」

信一郎は袋の中から取り出す。物はでかいが、手の上に乗せるとごつごつとして丸い。

「変だな。熊の胆って胆嚢(たんのう)を干したもんだから、もっと干物みてえに長細いもんだよな・・・」

仙蔵もうなづく。

「はい、ですから私も熊の糞を丸めて固めた物だと思ったんでございます。でも聞けば、相当大事に持っていたものらしいので、圭助の気持ちだと思ってお守り代わりに持っています・・・」

「仙蔵、鍋の事はなんとかるすから、これもらっていいか?」

 

 信一郎は、さる大身の旗本が長年痔ろうで苦しんでいて、上役に医者を見つけて来てくれと言われ、名医を捜し出したは良いが、熊の胆が必要だと説明した。

その熊の胆でも、寒中の熊から取った極上品が良いが、なかなか手に入らないと困っていたいう。

仙蔵は「構いませんが、それは十中八九、糞の塊でございますよ・・・」と渋い表情で懸念する。

「おいらも薬の事は詳しくねえけど、熊の糞も薬になるって聞いたことがあるから、医者か薬屋に診てもらおう」

「恐らく糞ですから、白沢様が恥を掻くだけかと・・・」

「万が一って事もあるじゃねえか」

仙蔵は頭を傾げ口をゆがめる。

「はい・・・でも一文にもならないと思いますよ。糞は糞ですから」

 信一郎は黒い塊を袋の中に仕舞って、懐に入れた。

「白沢様、懐には入れない方が宜しいかと思います・・・」

仙蔵は渋い顔で信一郎を止める。

「何でだ?」

「いくら寒いと言っても、体の熱で糞が溶け出したらどうするんです?」

「まあそうか・・・じゃあ、腰にでも下げていくか。それと、鴨はもう二三日待ってくれ。色々声をかけてみる。今は寒いから、獲ってきた鴨は腐る事はねえ。捌いて日陰にでも置いておけば大丈夫だ。じゃあ、三日後ぐれえに番屋に来てくれ」

信一郎が立ち上がると、仙蔵も立ち上がった。

「私も番屋までお供致します」

「ここでいいよ、お前さんも疲れているだろう」

信一郎は足袋を履いて長屋の戸を開ける。

仙蔵も後を追う様に提灯に火を入れ、見送りに出るが「糞して寝ろ」と追い払われた。

 

            第二部(29)へ続く。 

【 死に場所 】全34節 【第2部】(27) 読み時間 約10分

  

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     ( 荒歳流民救恤図 イメージ ) 

  (27)

 「あっちーいっ、こっちが焦げちまうよっ。あっ、仙蔵、調度良かった。一緒に水かぶんねえか?」

仙蔵は病人部屋は寒いからいいと、ふんどし一丁の勝吾郎に断った。

「あれっ、芳蔵さんは?」

勝吾郎は柄杓の水を頭からかぶり、ぐぶぐぶと飛沫を上げながら答えた。

「芳蔵さんなら、今さっき弥助さんと表に出てったよ。だから脱いでんだ」

仙蔵の頬に勝吾郎の口から出た飛沫が当たり、袖で拭う。

「ちょっと待たせてもらってもいいですか?」

「だったら、一緒に火の番を手伝ってくれ。おいらが薪をくべるから、仙蔵は竹筒で吹いてくれ」

勝吾郎の後に続いて、竈(かまど)の火をふうと吹く。

「なっ、あっちいだろう、焼き付く様にあっちいだろう?」

仙蔵は後ろで薪を集めてくる勝吾郎に振り向いて、苦笑いで「うん、あっついね・・・」と答えて、ふーっとゆっくりと吹いて様子を見る。

「あっちいから着物なんて脱いじゃえよ、おいらみたいにさっ」

「でも、芳蔵さんが戻ってきたら怒られるんじゃないですか?」

仙蔵は竈の火を見ながら断る。

 「だーぁっ、この野郎っ!また脱いで仕事しやがってっ」

芳蔵が戸を空けたまま怒鳴り出し、仙蔵はびくりと立ち上がった。

「すいやせんっ」

勝吾郎はこそこそと着物を羽織って帯を締め始めた。

「何度言ったら分かるんだっ」

「でっ、でもあっちいんですよ~っ」

口答えした勝吾郎に、むかっとした芳蔵は帯も締めやらぬ勝吾郎の首根っこを掴んで、

「おめえはあっちいしか言えねえのかっ!口を開けば、あっちいあっちいって、みんなあっちいんだよっ、こっち来いっ」と表に連れ出した。

「やめて下さいっ」

勝吾郎の声に、炊事場の男も女もなんだなんだと手を止め、表に顔を出した。

「この野郎っ!そんなに裸になりたけりゃ、これでも喰らえっ」

芳蔵は勝吾郎の着物を掴んで、はだけさせると雪の上に押し倒し、雪玉を作って投げつけた。

「どうだ、これでもあっちいかっ!岡田様に見つかったら俺が叱られるんだぞっ」

「すいやせんっ、もうしませんっ」

勝吾郎は雪玉を避けながら謝ると、「せっ、仙蔵が用があるらしくて来てますっ」と仙蔵を指差した。

えっ、と芳蔵が建物に振り返ると目が合った。

あっけに取られて口を開けたままの仙蔵に一部始終見られ、バツが悪かったらしく襟を直して「おおっ、仙蔵・・・さっき弥助さんとも話していたんだ」と何事もなかった様に近づいてきた。

仙蔵はちらりと勝吾郎に目を向ける。

その視線に気づいた芳蔵は苦笑いを浮かべて腕を組む。

「やんなっちゃうよ。年がら年中ふんどし一丁でうるせえから・・・おいっ、勝の字っ、炊事場では裸になるなよっ」ともう一押し勝吾郎をどやしつけた。

「へい・・・」

 その騒ぎを聞きつけた弥助も顔を覗かせ、仙蔵と芳蔵が話している姿を見つけて寄ってきた。

弥助は、芳蔵と米の残量を見て話合っていたと告げ、岡田様の許しが出て握り飯二つならばと許可してくれた。

「ありがとうございますっ、若い者が喜びますっ」と仙蔵は頭を下げた。

「あれ、なんでお里さんが言いに来ねんだ?」

芳蔵は、実質、病人部屋の責任者のお里が言うべきだろうと首を捻った。

仙蔵は、芳蔵が見かけほど恐ろしい人ではないこと知るだけに、冗談めいた口調で告げた。

「実は、お里さんは芳蔵さんが怖いって言ってましたから、私はその代理です」

「えーっ、俺はお里さんの方がよっぽど気の強ええ女かと思っていたよ。ははっ」

弥助は「じゃあ、今夜の夕飯から、若くて動ける者は病人じゃねえ者と一緒に食うことにしよう。お里さんにも伝えてくれ」と用部屋に戻って行った。

 病人部屋に戻った仙蔵は、お里に弥助の言(こと)付けを伝えると、ほっと胸をなでおろす。

「良かった、早く元気になってもらわないとね・・・」

するとまた、二人が廊下でなにやら話しているのを見ていた要三が痛がる様な声を上げる。

「お里さ~んっ」

「どうしたの」

仙蔵も要三に目を向けると、ぱっと目が合う。

要三は気まずいのか「なんでもねえ・・・」と違う方に目を向けふて寝を決め込む。

仙蔵は勝手な焼餅に、思わず「面倒臭せえな・・・」と呟いてしまった。

「駄目よ、あの人は身寄りがないから寂しいのよ」

お里は仙蔵に悲しそうな笑みを浮かべた。

「うーっ、お里さんっ」

また爺さんが声を上げ、「本当に背中から血は出とらんかね?」とわざと仙蔵を牽制するかの如く声を上げた。

仙蔵は「うるせ・・・」と言いかけたが、あのじいさんも身寄りがなくて不憫なんだと言い聞かせて閉口し、お里に尋ねる。

「あのおじいさんも身寄りがないんですか?」

「それが、いるのよ・・・でも、作兵衛さんは、長年、息子夫婦にいやみや文句を言い続けたのか、うるさがられて迎えに来ないのよ。ある意味気の毒だけど身から出た錆ね・・・だから、ぎりぎりまで引取りに来ないでしょう」

病人を労わらねばならぬ仙蔵だったが、わずかに優越感を抱く様な心境となり、悪い心だと封じようとする。

 そうだ、不満があるから文句を言うんだ。そうそう上手くいっている人なんていやしない。

おいらだってそうじゃないか、世は理不尽だと今もそう思っているし、御救小屋に来てから尚更・・・。

ここはまだ話が出来る病人がいる棟だが、大病人、極大病人と呼ばれる重篤な病人は別の棟にいると聞く。

そこは流行り病で動けなくなった者ばかりで、仙蔵は行くこと許されない。

男女問わず老いも若きに関わらず、たまたま感染してしまった人たち。

仙蔵は、ふと消えてしまいたいと思いながら町を彷徨していたのに、体だけは丈夫であることに矛盾を感じる。

 信一郎が、生きたいとすがる者あれば、死に場所を探していると喚(わめ)いた自分にも、世は理不尽だと言っていた事を思い出す。

生きたいとすがる者が、今、目の前にいる・・・。

おいらだって救われたいのに、何の因果で介抱なんてしている。ここが取払われた後、おいらだって望みなんかありゃしない・・・。

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   ( 荒歳流民救恤図 イメージ )

 

 「大丈夫?顔色悪いわよ」

お里が仙蔵に気を使って声をかけた。

「ええっ、大丈夫です」

「そう。もうすぐ夕飯だから、また手分けをして食べてもらいましょう。こっち来て・・・」

お里は、作兵衛のじいさんらに見つからぬ様に戸の影で、仙蔵に落雁を渡した。

炊事場から女が来て、皆と一緒に食べられる人は食堂へ連れて来て欲しいと言(こと)付けられる。

お里は動けない人たちの食事の介抱し、仙蔵が動ける者や若者を連れて食堂に向かう。

 食堂に集まった病人部屋の若者たち、特に、市松は粥と握り飯、漬物と碌におかずもない飯でも、うれしそうに頬張っていた。

介抱人としての一日をやっと終えた仙蔵は、開放感に包まれるも束の間、また明日も来なければならないと思うと途端に憂鬱になり、重い足取りで家路を辿る。

 

 翌日も昨日と同様、厠へ病人を連れて行き、飯を食わせ、体を拭いたり、身の回りの世話に手を焼いた。食器なども仙蔵が洗っているとすぐに時間が過ぎてしまう。

夕飯前に一息付いていると、弥助が仙蔵の下へやって来て、お里にも声をかけた。

二人が弥助に呼ばれると「どうだろう、仙蔵はほとんど休みなく働いているから明日休ませては」とお里に様子を伺う。

「仙蔵さんも休まないと疲れちゃいますからね。代わりに誰かお願いします・・・」

「それなら心配には及ばん、明日だけ他の女の人を手伝わせるから」

弥助は、女というところを強調する。

仙蔵はお里に頭を下げた。

「大変な時に休みをもらって宜しいんですか・・・」

「いいのよ、これでも二、三日はあたし一人で切盛りしてた時もあったから」

と言いながらも、お里は何だか少し不安な様子だった。

「やっぱり、明日も来ます」

「いいの、いいの。大丈夫だから。そんな事言っていたら休まらないわ」

「わしも他の者も様子を見に来るから心配せんで良い」

弥助の口添えもあって、十日目にして初めての休みをもらえる事になった。

 

 再び、夕飯の準備に取り掛かる。

昨日同様、お里が病人部屋。仙蔵が病人を食堂に連れて行き食事を取らせる。

 要三は、爺さんの作兵衛が病人部屋に残って、お里に食べさせてもらう事をひがんで

「今日は、足の調子が芳しくねえ・・・」とごね始めた。

仙蔵はまたかと硬く目を瞑る。少々きつい事だが、「少しでも歩いておかないと仕事ができなくなってしまいますよ」と年上の要三を諭す。

要三は顔を歪め、上目遣いで仙蔵を見つめている。

「一緒に食堂へ行きましょう。腕を回して下さい」

「分かったよ・・・」

要三は仙蔵の肩に腕を回し立ち上がる。

「要三さんは結構いい腕っぷしですけど、どんな仕事をしていたんですか?」

「大工だ・・・屋根から足滑らしちまってこのザマだ。そんでお払い箱、ツイてねえ・・・」

要三はくじいた左足を引きずりながら、仙蔵と共に歩く。

仙蔵は要三にどう言葉をかけて良いか分からず、「医者に見てもらったんですか?」と聞く。「ああっ、医者が言うには、痛みが治まるまでは安静にしていろってだけさ」

要三は本当に痛いらしく顔をゆがめて立ち止まった。

「それに良くなっても、その日暮らしに変わりねえ・・・おいらは、上州は富岡から十五で江戸に奉公に出されてから、かれこれ二十年ずっと江戸にいる。水呑み百姓の倅は口減らしだから、帰る場所もねえってこった。たとえ、身請け人が来たところで居場所はねえ・・・おめえさんの国はどこだ?」

甲州です」

 仙蔵は要三を支え、廊下を進む。要三は痛みをこらえながら話を続ける。

「じゃあ、おめえさんもおいらと同じで、丁稚に出された口か?」

仙蔵は要三とは事情は異なるが、否定をすると話が煩雑になると思い「ちょっと違いますが、帰る場所はありません・・・」とだけ答えた。

要三は横目をちらりと仙蔵に向け、「どんな場所でも、時々思い出すんだよな。帰っても仕方ねえのによ、ふっ・・・」と自嘲する。

食堂が見えた仙蔵は「まずは飯を食って、早くその足を治しましょう・・・」と重い要三を連れて中に入り、椅子を持って来てもらって要三を座らせる。

先に来ていた市松は、もりもりと汁と交互に食べているが、この若者も未だに身請人が来ない。

 百姓でも、農業だけでなく商売もする豪農もあれば、裕福な本百姓もある。中程度、小作、水呑みと多種多様。中程度なら丁稚には余り出されないが、兄弟の多い貧しい農家の子供達は大抵丁稚奉公に出されてしまうから、江戸にはその日暮らしの者や出稼ぎ者が五十万人以上もいる。

そういった人間は、裏長屋などで細々と暮らしている。

宵越しの銭はもたないと息巻く職人もいるが、別の見方をすれば、いつ死んでもおかしくはないという裏腹な強がりとも言える。

 仙蔵も父母を亡くしたが、江戸に出てきてから死というものが、長い年月を経た結果ではないという事をまざまざと見せつけられた。

たまたま偶然に、今日この日も病にかからず生きているにすぎない。

仙蔵は今、この場で介抱人をしていることだって偶然の成り行きで、皮肉とさえ思う。

白沢信一郎に出くわさねば、今頃どうなっていたのかも定かではないし、この御救小屋に厄介になっていたかしれない。

だからと言って、介抱している自分が良いとは思えない・・・。

明日は我が身、他人事とは思えない。だから、無性に焦りの様な気持ちと取り壊された後の事を気にかけながら、皆の食事の様子を眺めていた。

 食事を終えた病人怪我人を部屋へ連れて行き、目の回る様な一日が終わった。

仙蔵は食器の後片付けに外へ出て、井戸の近くで洗い始めた。

 「あっちいなぁ、もう~っ」と裏手で勝吾郎の声が聞こえてきた。

仙蔵は手を止めて、勝吾郎は外で何をしているのかと見に行く。

「あっ、着物姿・・・」

仙蔵の声に気づいた勝吾郎は、使わなくなった材木や柵に使っていた竹や紐などの資材の片づけをしていた。

「おうっ、仙蔵。ごみをまとめとけって芳蔵さんに言われてさ。全く人使いが荒いよな。体動かすとあっちいよ。おらは汗っかきだから着物が濡れて気持ち悪りい・・・」

仙蔵はふと、御救小屋が取払われたらどうするのかを聞いてみたくなった。

「勝吾郎さん、ここのお役が終わったらどうなさるんですか?」

「えっ、おらかい?いつも通り、種まきの時期まで出稼ぎさ・・・出稼ぎって言っても江戸の何処かだけどな。お前さんは?」

「決まっていません・・・」

力ない返事に勝吾郎は手を止め、仙蔵の顔に目を向けた。

「なんだか元気ねえな、どうかしたのかい?」

「いえ、もうすぐここも取払われるから、行く当てがない人もいて、なんというか・・・」

勝吾郎は汗を拭き、立ち上がる。

「酒も博打も御法度だけど、せめて最後ぐらい景気良くぱあーっとお開きにしてえもんだ。そうじゃなきゃ、おらも気が滅入っちまうよ」

「勝吾郎さんはいつも元気なのに、そんな風になる事があるんですか?」

「反対だよ、景気良い振りをしてるだけさ。そうでもしなけりゃ、やってらんねえよ。おらの家だって楽じゃねえのに駆り出されて、かかあもがきも養わなきゃならねえ。先が見えねえってのは辛れえよ、誰だって。だから火を見るんだ・・・」

唐突な事を言い出す勝吾郎に仙蔵は「火ですか?」と眉間に皺を寄せる。

「火を見るとかっかして活気が出てくるような気がしてな。そう思わねえか?」

「まあ、分からなくはないですけど・・・」

会話が途切れると勝吾郎は背を向け、再び片づけを始めた。

仙蔵は小屋の取壊しが間近に迫っている事を実感する。

 「こりゃ、のこぎり持ってこねえと駄目だな・・・」

勝吾郎が長い竹がまとめられず独り言を呟いた。

仙蔵ははっと思いつき、「勝吾郎さん、その竹捨てるんですよねっ?」と聞くと、その声のでかさに驚いた勝吾郎はひっと肩をすくめた。

「びっくりさせんなよぉ~っ、これかい?捨てるやつだよ」

「もらってもいいですか?」

仙蔵が目を見開いて勝吾郎に迫ると「あっうん、いいんじゃねえの。どうせ捨てるもんだし・・・」となんだなんだと仙蔵の変わり様に驚いている。

「じゃあ、この紐ももらってもいいですか?」

「あっああ・・・いいんじゃねえの」

仙蔵は竹を何本か手に取り、乾いた色味具合を見て「これもらいますね、のこぎりはどこですか?」と聞くと、その裏の道具小屋だと指差した。

仙蔵は急いで道具小屋に入ってのこぎりを見つけると、竹を適当な長さに切って、それを二本持ってきた。

「これ、もらいますね」

「いいんじゃねえの・・・それ、どうすんだい?」

「この麻袋ももらっていいですか?」

「いいんじゃねえの・・・」

「勝吾郎さん、近々景気良くぱあーとやりましょうっ」

「なんだい急に、教えてくれよ」

やけに仙蔵が意気込んで笑顔を見せるもんだから、勝吾郎も何かが始まると顔をほころばせた。

「後で分かりますよっ」とだけ言い残して、仙蔵は竹や紐を麻袋に入れて皿洗いに戻った。

 片づけを終えた仙蔵は病人部屋に戻ると、お里が声をかけてきた。

「どうしたの?仙蔵さん。やけに元気ね。なにか良いことでもあったの?」

「これからみんなを元気にするんですよ」

やにわに仙蔵が妙な事を言い出し、お里は「えっ?」と顔に力を入れ覗き込む。

「どうやって?」

「近々わかりますからっ」

仙蔵はお里に含み笑いでうなづいた。

「なんだい、気味の悪い笑い方して。変な事を考えているんじゃないだろうね」

「後のお楽しみですよっ」

仙蔵が上目遣いでお里を見つめると、「なにをおっ始めようってんだい?」と気にかかって不安そうな目をする。

「心配しないで下さいっ」

「疲れておかしくなったんじゃないだろうね?」

「まあ、おかしいって言えばそうかもしれないですけど・・・」

「大丈夫?今日はもうおしまいにして帰りましょう。夜勤の人も来ているから」

仙蔵はうなづき、弥助達役人の用部屋に行き、明日一日の御暇を頂戴した御礼を述べ退所した。

 

             第二部(28)へ続く。

【 死に場所 】全34節【第二部】(25)~(26) 読み時間約15分

 

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   ( 荒歳流民救恤図 イメージ )

 

   (25)

 翌日の昼。仙蔵は約束通り、御救小屋の門脇で信一郎を待っていた。

信一郎はすでに小屋に来ており、元締手代の岡田宗泰と話を付けていた。

もうそろそろ来るだろうと、門から表を覗くと仙蔵が緊張した面持ちで立っている。

「おうっ、仙蔵っ」

信一郎の呼びかけに仙蔵は振り向き、頭を下げる。

「おっ、お世話になります・・・」

「ちょっと待ってくれ」と信一郎が中に戻り、岡田と配下の手代を連れてきた。

「先程話していた仙蔵でござます。なにとぞ、宜しく御願い致します。仙蔵、こちらは、この御救小屋を支配しておられる代官所元締手代・岡田宗泰様だ」

仙蔵は改まって深々と頭を下げていると、岡田が頭を上げるように声をかけた。

「仙蔵と申したな、短い期間だが宜しく頼む。御伊勢詣りとは殊勝な事、わしもいずれは伊勢に行きたいと思う故、力になろう。毎日はここにおらんから、手代の弥助に教わってくれ」

 紹介された五十がらみの小柄な弥助は、紺のどてらに、地味な鼠色の合わせに股引姿で微笑んだ。

仙蔵は岡田同様に丁重に一礼する。

「仙蔵と申します。大して御役に立てませんが宜しく御願い致します」

「わしゃ、荻窪村の百姓の出だから、そんなにかしこまらんで良い」

信一郎は二人に頭を下げると、仙蔵に呼びかけた。

「おいらは、これで帰る。あとはこちらの差配に従ってくれ、たまに顔を出す」

仙蔵は「有り難うございます」と見送った。

信一郎の姿がすぐに見えなくなると、岡田が弥助に「後は頼んだ」と先に門の中に入って行った。

 

 弥助の案内の元、仙蔵は御救小屋の中に入る。

ここ内藤新宿の御救小屋は、四百坪の敷地の中に五棟建つ。内、一棟は炊事場と風呂場の火を扱う建物。他の四棟は無宿、行倒人、大病人棟に別れていた。

幅三間(約5.4m)、長さ二十間(約36m)程の低い苫葺(とまぶき)屋根の長屋造り。

 敷地には施米や炊き出しをもらうため、人でごった返している。

待合の土間には湯釜が置かれ、各地からの身元引受けの名主等も腰かけて待っていた。

玄関を覗くと、奥に役人の机が横に並び、物書き、そろばん勘定、取次ぎと多忙な様子。

 仙蔵は弥助の後に続き、裏の出入口へ案内された。

板敷きの上がり端で足を拭いてから廊下を歩く。

襖の様な間仕切りがあり、左脇の廊下に五つ小窓程度の風通しが連なる。

昼間は働きに出る者も多く、子供が走り回り、女たちは子供をあやしたり掃除を手伝ったりしている。

 廊下の一番奥の間仕切り部屋は暗く、足元には琉球畳が敷き詰められ広さは凡そ二十畳。

そこへ二、三十人程の病人が横たわり、こほこほと咳をする声が多く聞える。

咳き込む男の隣に寝ている男が「うるせえなっ、寝れねえだろうっ」と怒鳴り付ける。

ほとんど隙間のない空間で、廊下側にしか通気口がないから臭いがたち込める。

 弥助は溜息を付き、顔を顰めて仙蔵を見つめた。

「ここは男の病人部屋だ。実情は施しで金がかかって、大した布団もなければ薬もねえ有様だ。飯と漬物だけじゃ良くならねえんだが・・・」

弥助の話では、重病人は小石川の療養所に運ぶべきだが、療養所も患者で溢れ返っているという。また、小石川も傷んだ病人長屋の建替えも出来ないほど金がないと漏らす。

夫役で手伝う近隣の百姓らが介抱しているが、飯や水を運ぶ程度でなす術もないといった様子。

「おいらは何をしたら宜しいんでしょうか・・・」

仙蔵は鼻で呼吸が出来ず口で息を吸いながら、うす暗い病人部屋を眺める。

「やる事は幾らでもあるが、最初は炊き出しの手伝いをしてもらいたい。昼夜交代でわしらは此処に詰めている。昼は明六つから暮六つまで。夜に詰めるもんは暮六つから明六つまでだ。夜は大した仕事もねえから、博打や酒、物取りがないか見回るだけだ。お前さんは夜勤はしなくていい」

仙蔵は弥助の後を追い、再び玄関に戻る。

「まあ、こういった長屋が四つあるが、炊事場を頼むよ」

 続いて、同じ敷地にある別棟の炊事場の中に入る。

竃(かまど)の上に大釜が四つ並び、備蓄米を四、五人の男が釜に入れ、桶の水を注ぐ。

煮炊きする場は暑く、皆、腕を捲くって襷(たすき)をかけて威勢良く働いている。

仙蔵は病人の介抱をするより、こっちで力仕事をしている方が良いと少しばかり安堵した。

大釜の一つが炊き上がると「おう、炊けたぞ。せーのっ」とこれまた大きな桶にぶちまける様に入れる。

五、六人の女衆が待ち構えて団扇で扇ぎ、頃合を見計らって順次握って、竹皮の上に乗せていく。

 仙蔵も仲間に加わると水汲み作業。その次は、女衆と混じって握り飯を竹皮で包み、それを乗せた大きなお盆を外の配給係に運ぶ。

弥助はその日消費した備蓄米の台帳に記録を付け、人手が足りなければ自分も手を貸して、全体に目を配っている。

仙蔵の働き振りを見て、「結構、力仕事だろう。初日だから無理しなくていい。ちょっと休め」と皿に乗せた二つの握り飯を渡した。

 仙蔵は昼食を済ませ、再び忙しなく働いていると薄暗くなり、行灯が点され片付け作業に入る。

皆手分けをして早々に荷物を持って炊事場の建物から出て、弥助が米など盗まれぬように錠前をかける。

暮六つの鐘を聞く前に、皆それぞれの村や町場へ戻って行った。

 弥助は仙蔵を呼び「今日はもうこれで仕舞いだ、明日は朝から頼む」と帰ることを許され、成子坂の長屋へと戻った。

 

 夕飯は、昼の残った握り飯を食い、疲れてごろりと横になる。

元締手代の岡田の言葉が、ふと過る。

御伊勢詣りに行く事になっていたが、白沢様がなんとか手当を多くもらえる様に言ってくれたんだろう・・・。

唐突に、十分な治療を受けられず横たわる人々が、信一郎の面影を掻き消し、臭いまで伴って頭の中に浮んできた。

仙蔵は自分もいずれあの病人の様に満足な治療も受けられずに死んでいく様な、妄想が膨らみ、堪らず体を起こして水を飲む。

息を付くと、どうして皆、御伊勢詣りと言うと見る目が変わるんだろうと動きを止めた。

 仙蔵は道中や江戸の大小に関わらず神社仏閣を参拝した。

だが、役人百姓問わず、御伊勢と申せば感心だと羨望の眼差しで自分を見た。

確かに、御伊勢は別格で、天照大神様を奉る総本山だ・・・。

そもそも神社に優劣があるのか?

御利益とか、自分の事を祈っていいのか?

仙蔵は益々分からなくなり、腕を組んで頭を捻る。

分からねえ・・・

 

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        ( 江戸名所図会 淀橋水車 )

 

 翌日、仙蔵は早朝から御救小屋で炊き出しや雑用を手伝う。まかないも出て食う事には困らなかった。冬は日暮れも早いから一日があっという間に過ぎてゆく。

これが五日続き、仕事にも慣れ、一緒にお勤めする近隣の百姓とも親しくなってきた。

江戸に出て来て、馴染みの顔が出来るのは初めての事で嬉しさも出てきた。

 特に、勝吾郎という男は、仙蔵とも年が近く二十七で、場末の中野村で麦を作っているが、やたらと江戸っ子の様に威勢良く振舞う。

冬なのに炊事場は暑いと言って、ふんどし一丁で火の番をするから、黙っていても目立つ。

喉が渇けば水を溜めた桶に柄杓を突っ込んで、頭から水を被って「あっちいなーっ」と一人で声を上げて、同調するよう皆に語りかける癖がある。

そんな感じの男だから、入ったばかりの仙蔵にも、「あっちいなっ、水でも被らなきゃやってらんねーよっ。お前さんも被るかい?」とわざわざ水を汲んだ柄杓も持ってきた。

「おいらは、外へこれを持っていかないと・・・」

仙蔵は握り飯のお盆を持ち上げて断った。

「そっか・・・なんだか火を見ると心の臓が沸き立つって言うのか、かっかしてくるんだっ。そう思わねえーか?」

勝吾郎は、ははっと一人で笑って水を口に含んで上を向き、ガラガラと口を濯ぐ。

口に水を含んだままぐぶっと咳き込み、口を膨らませ動きを止めたかと思うと、今一度咳き込んでぶーっと噴き出した。

 それを見ていた年長で、炊事場の責任者である芳蔵が「汚ねーなっ、飯にかかるじゃねえーかっ」と顔を顰めて、勝吾郎を叱る。

勝吾郎は咄嗟に口を押さえるが、今度は口の中の水が鼻からどっと流れ落ちてきた。

「いやだ~っ勝っちゃん、外へ行ってよっ」

女衆も一様に眉間に皺を寄せて、手で追っ払う。

「すっ、済まねえ・・・」

勝吾郎は顔を手で覆って外へ駆け出して行った。

あっという間の出来事で仙蔵もどうしていいんだか当惑していると、再び勝吾郎が戻ってきた。

「さみーなっ、雪舞ってらぁ。顔が氷つきそうだ」

勝吾郎は相当寒かったらしく、手拭で顔と両腕をごしごしと擦って震えている。

 すると、炊き出しに並んでいたらしき男等十人程が押し寄せてきた。

「おらあ、五日ぐれえ風呂に入ってねえんだが入れてもらっていいか?」

「こちとら、七日だいっ。先に入れてくれっ」

「俺は十日だから、もっと先だっ!」

「そりゃ先輩だな、譲るよ」

勝吾郎は押し寄せる男達をつっけんどんに押し戻す。

「譲り合ってんじゃねえっ。ここは風呂場じゃねえーてんだっ、出てけ、馬鹿野郎っ」

 それを見ていた芳蔵が「おいっ、勝の字っ。そんな言い方はねえだろうっ。そもそもおめえがそんな格好で表に出るから風呂場と間違われるんだろうっ。着物を付けろっ」と今一度叱りつけた。

勝吾郎は仙蔵と目が合うと、「またどやされちまったよ」と首をすくめて見せた。

仙蔵はどう返して良いのか分からず、渋面の愛想笑いで誤魔化した。

どやどやと間違って入ってきた男達は、「なんだ、あいつは着るもんがねえんだ。おら達よりも気の毒だな・・・」と外へ出て行く。

「裸じゃ冬は越せねえ・・・」

勝吾郎は男達を追っかけて行って、「うるせーっ、着るもんはあるっつーんだよっ。おととい来やがれすっとこどっこいっ!」とびしゃりと戸を締め付けた。

「おいっ、釜が泡吹いているじゃねえかっ。ちゃんと調節しろ」

芳蔵に再三叱られ、右往左往しながら持ち場に戻って火加減を調節するが、「あっちいあっちい」と勝吾郎は一人で賑やかだった。

仙蔵も気さくな面々のお陰で、炊事場で働くことに喜びの様なものができ、仕事にも慣れてきた。

 

   (26)

 それから三日間手伝いを続けていると、弥助が炊事場に入って来て仙蔵に寄ってきた。

弥助は話す前から難渋な面持ちでちらりと仙蔵の目を見る。

「どうだ、体はきつくないか?」

「はい、野良仕事をずっとしてましたから、体だけは丈夫です」

仙蔵は微笑んでみるが、弥助は頬をわずかに上げるだけで頷いた。

「折角慣れたところで悪りいんだが、ここ数日で三人も介抱人が体調崩しちまってな。奥の病人部屋で介抱してくれんか?」

 仙蔵の笑みがふっと消えた。

「えっ・・・」

「済まねえが、手が足りん。手伝ってくれ」

弥助は入ったばかりの仙蔵に頭を下げた。

頭まで下げられ、仙蔵も断る訳にもいかず「顔をお上げになって下さい、分かりました・・・」と了承した。

「早速で悪いが、もうすぐ昼飯を配るんで付いて来てくれ」

介抱人が倒れてしまう様な場所で働けるかと不安になる。

病をうつされてしまった介抱人はどうなったんだろう・・・。

ここは今住んでいる長屋よりも環境が悪いから、病を患ったら何処で療養すればいいのか。

どんどん病気になっていくことばかりが頭に浮かんでくる。

ぎしぎしと廊下を進み、薄暗い病人部屋の前に来る。

ごほごほと咳き込む病人と漂う匂いに、窓はないかと部屋の中を見渡してみると小窓程度。

「どの様な事をすれば宜しいんですか?」

 弥助は一人で介抱している四十がらみの女を呼ぶ。

「お里さん、ちょっといいかい?こっち来てくれ」

お里と呼ばれる女は、病人に粥を食わせる手を止めてやってきた。

「はい、なんでございましょう?」

「あんたと一緒に介抱してくれる仙蔵だ。宜しく頼むよ」

お里は狐目でちらりと仙蔵を見やると、口をひくひくさせ何だか物言いたそうな顔して、弥助に「ちょっと・・・」と引っ張って仙蔵から離れた。

「あたしは女の人が良いって言ったんですけどねぇ・・・」

「捜したんだがおらんでな、上手くやってくれ」

弥助とお里のひそひそ話は全て仙蔵の耳に入ってきたが、建物の様子を見る振りをして知らぬ顔をするしかなかった。

「男の人は気が利かないじゃありませんか。二日ばかりいた人だってぼさっとしてた癖に熱出して・・・かえって邪魔なんですよ」

「まあ、そこをなんとか。他には勝吾郎しかおらん」

「もっと困りますよっ。一日中裸でいて、いちいち気合みたいのがうるさいから邪魔ですっ。病人だって余計に具合が悪くなってしまいます」

お里という年増の女が随分と気が強い事が分かると、仙蔵は益々嫌になってきた。

帰りたい気もするが、信一郎との約束もあり、ここで帰っては顔に泥を塗る事になると様子を窺う。

 まかりなりにも役人である手代の弥助が、お里に気を使って宥めている。

「ここは一つ、なっ、お里さん」

お里は手を擦り合わせながら、左の頬をゆがめて難色を示し続ける。

「どうするんですか?もし、あたしも熱出したら男の人だけになってしまいますよ。いいんですか?」

仙蔵は、お里の脅迫めいた物言いに恐る恐る二人の方に目を向けた。

すると、お里は仙蔵を見ながら「男の人は扱いづらい」と文句を言っている。

咄嗟に目を逸らした仙蔵は、こりゃわざと聞えるように言っていたんだとぞっとする。

怖い・・・、嫌だ。この先あの年増の女につべこべ言われ続けるのかっ。

倒れた介抱人は、あの女の嫌味で痛めつけられたのが原因なんじゃないのか・・・。

この場を逃れたいと、仙蔵は咄嗟に二人の間に入った。

「弥助様、はばかりに行っても宜しいですか?」

じろりとお里に睨まれ、弥助は引きつった愛想笑いを浮かべた。

「おっ、おう・・・その奥を出た所だ。気をつけてな」

 仙蔵は頭を下げて厠へ逃げた。

おっかねえ~っ・・・。あんなおばさんと一日中一緒いる方が変になっちまうよ。

用を足したは良いが戻るしかない。

余りのろのろしていると何を言われるか分かったものじゃないと、急いで戻る。

 すでに弥助の姿はなく、病人部屋を覗くと気配を察したのか、さっとお里が振り向いた。

「ちょっと、あんた。そこで手を上げているおじいさんにお粥食べさせてあげてっ」

仙蔵は生きた心地がしなかった。奥の方に目を向けても手を上げている者はなく、捜していると、「手前だよっ」とこれまたきつい言い方でどやされた。

「おっ、お粥はどこですか・・・」

おずおずと仙蔵がお里にお伺いを立てると、「そこの戸の裏側に用意してあるから、匙で食べさせて上げてちょうだいっ」

はいはいと仙蔵は粥を持って、やせ細った爺さんの元へ行った。

爺さんは辛そうではあるが自分で体を起こせるようで、肘を付き起き上がろうとしている。

「ちょっと待って」と仙蔵は枕よりも高い藁を丸めた物を爺さんの背中に宛がう。

上体を起して座椅子の様に座らせ、匙で粥を食べさせる。

爺さんの横に置いてある布切れで口元を拭くと、次から次へと粥を持って食べさせて回る。

年寄りばかりでなく、同年代の若者や中年と年齢は様々。

 やっと息を付いたかと思えば、「しょんべんに行きてえ・・・」と声が聞こえ、仙蔵は三十半ばの男に近寄る。

男は足を怪我しているだけで、風邪などは患っていないという。

肩を貸して起き上がらせ、厠へ連れて行く。

その帰りに、男は「少し外の空気に当たりたい」と言い出した。

雪がちらつき、仙蔵は病人着では寒むかろうと自分の羽織を男の背中にかけて、縁側に連れて行き腰掛させると、再び病人部屋に戻る。

 その男に続くように、我も我もと次々に厠との往復が始まり、気づけば十五人ばかりを連れて行く。

病人だから倒れない様に気を使う。やっと一段落付くとくたくたになって廊下に座り込んでしまった。

 すると、お里がまたまた見計らった様に仙蔵の元へやってきた。

びくりとしてお里を見上げると、帯の内側から何かを取り出して仙蔵に差し出した。

「良かったら食べて」

「えっ、なんですか・・・」と紙の包みを受け取ると、落雁だと言う。

お里も仙蔵の隣に腰を下ろして座り、一緒に病人部屋を眺め、初めて笑みを浮かべた。

「ありがとう。厠に連れて行くのが一番大変なのよ・・・あとは三日に一回のお風呂なんだけどね。動けない人は体を拭いてやるのも大変なの。今まで男の介抱人は突っ立っているか、面倒臭がって大して動いてくれないし、あたしみたいな女に言われると頭にくるようで長くは続かなかったのよ」

 仙蔵は恐る恐る落雁の包みを開けて「頂きます」と歯で半分割って口に入れる。

お里も落雁を取り出して口に入れ、ほっと一息つく。

「あと十日もしたら、この人たちどうなっちゃうんだろう・・・」

久しぶりに甘い物を口に入れ、落雁ってこんなに美味いものだったんだとしみじみと味わう。

「お粥しかないけど、他にはないんですか?」

先程の険相は消え、お里は困った顔ながら口角を上げた。

「もっとお魚とか食べさせた方がいいんだけど、おじいさんだと歯がなかったり、病人だから骨を取ったりして上げないといけないから手間がかかるの。それに、お金がないから買えないし、漬物ぐらいしか出せないのよ。人数が多いからね・・・」

お里はやるせないと首を振り、もう一つ帯に忍ばせた落雁を口に入れた。

「そういえば、要三さんいないわね・・・」

仙蔵は誰だと聞くと、「最初にあなたが厠に連れて行った人」と辺りを見渡している。

「あっ」と仙蔵はやにわに立ち上がり、「その人、風に当たりたいって縁側に座らせたままだっ」と急ぎ迎えに行く。

 縁側に見に行くと、要三が仙蔵の羽織を着込んでガタガタと震えていた。

「殺す気かぁっ、おらぁ地蔵じゃねえんだぞっ」

「はいはい」と仙蔵は宥めて、要三に肩を貸し立たせた。

要三は執拗に「おっちんじまうよっ、こんな雪が舞う中じゃ」とぶつくさ文句を言っている。

死にはしねえよと心の内では思いながら歩かせると、「痛てえっ」と声を上げた。

ふと、何かを踏んだかと思えば、要三が怪我をしてる左足。

「痛ってーぇ。おらの足を潰す気かっ」とこれまた大げさな事を言い出した。

済まないと仙蔵が体勢を整えて、部屋に連れていくと、「お里さん、こいつに足を潰されそうになったよ~っ」と子供の様に言いつけた。

お里はちらっと仙蔵に目を向けると、苦い顔で首を振った。

要三を元居た寝床に座らせて、一旦廊下に出ると、お里も廊下に出てきた。

「気にしないでね。要三さんは独り身だからあたしに甘えているのよ・・・」

はあっと仙蔵はうなづくと、「お里さん、踏まれた足がひしゃげたみてえだ、痛いっ」と呼んでいる。

仙蔵は小窓に振り返り、三十半ばの親父が何言ってんだと、力が抜けて外に向かって溜息をどっと吐く。

 その次は、口がへの字に曲がった爺さんが「おい、新入りっ。背中がかゆい」と呼ぶ。

仙蔵は振り向きざまに、手招きする爺さんを見て、だからなんだと言いたかった。

背中がかゆいなら、かいて下さいぐらいの言葉を言えとむかむかしながら近づいた。

爺さんは「この藁を束ねたもので箒みたいに背中の上から下へずずずっと広い範囲でかいちゃくれねえか・・・」としっかりと茶せんの様な道具まで準備していた。

仕方ないと、仙蔵はその藁を束ねた茎の少し硬い部分を縦にして、背中の上から下へとこすりつけると、「痛いっ」と仰け反った。

この爺さんも「殺す気かっ」と要三と示し合わせたかのような台詞でもって睨んでいる。

 たまんねえ~っ・・・。

仙蔵は渋面で「ごめんよ、力加減が分からなくて」と謝ると、「筆を使う様に丹精込めてやるんだ。その背中のかき方で人格が判明する・・・」と出鱈目な事を言い、「続けてっ」と偉そうに指図する。

さっきは箒って言ったじゃないかっ・・・仙蔵は極力力を入れず背中を藁で撫でると、

「うーっ、お里さん助けてくれっ。引っかき殺されちまうっ」と声を上げた。

結局、お里に甘えたいだけじゃねえかっ、と仙蔵は爺さん自作の藁の背中かきを放り出す。

爺さんの隣で寝ている者が水を欲しがり、これ幸いにその場を抜け出す。

仙蔵は水では寒かろうと、お里に大量の湯のみはないかと尋ね、廊下にお盆を準備した。

 仙蔵は炊事場に行くと、勝吾郎は相変わらず「あっちいなっ」と真っ赤な顔して、ふんどし一丁で声をかけてきた。

「ぎゃあぎゃあ騒いでいるのは、おめええぐれえだっ。あっ、てめえまた着物脱ぎやったなっ」

「許しておくれよ、芳蔵さん」

 病人を冷やさぬ為とお湯をもらい受け、仙蔵は炊事場に戻りたいと後ろ髪をひかれるように病人部屋に戻り、三十ほどの湯飲みにお湯を注ぐ。

水を少し加えたお湯を配りましょうと、お里に言うと「気が利くわね」と二人で手分けをして配って回る。

仙蔵は右の奥から配り、お里は左の奥から順次飲ませていった。

怪我人の要三に「あったまるから飲んで下さい」と湯飲みを渡そうとすると、「おらぁ、いらねえ」と断った。仙蔵はあっそうと次の男に手渡して飲ませていると、「お里さん、おらにも湯をくれっ」と要三が大きな声でねだっている。

すると、廊下側のへの字口の爺さんも負けじと「お里さんが注いでくれた湯が飲みてえっ」と声を上げる。

おいらが注いだんだよっと、仙蔵は横目でじいさんの呆れた振る舞いを見つつも、他の病人にも白湯を飲んでもらう。

 その中の十五、六歳の若者にも白湯を渡すと、「腹が減った」と言い出した。

「さっき粥を食ったばかりだろう」と仙蔵が言うと、「あれじゃ足りないよ。握り飯を三つぐらい食べないと腹が膨れない」と嘆く。

言われてみれば、この年頃で粥の一杯で足りるはずもない。仙蔵はお里を廊下に呼び、育ち盛りの若者がもっと食いたいと言っていると告げた。

お里も困っているようで、「あたしも食べさせて上げたいけど、ここの決まりで病人は三食出るから、量にも限りがあるのよ・・・」と重い口調で溜息を吐く。

「あの子は市松って言うんだけど、ここに来て風邪をこじらせちゃったの。国は下野らしいんだけど、なかなか身請けの人が来なくてねぇ・・・来た時よりも具合が悪くなっちゃったみたい」

仙蔵も事情を聞き溜息を吐く。病人部屋の環境の悪さはなんとかならないかと思うが、十日後には取り払われるから、今更なす術もない。

仙蔵はお里に「まかないでもらった握り飯をあの子に上げてもいいですか?」と聞くと、「あんたの食べるものがなくなっちゃうでしょう・・・」と二人で困っていると、弥助が様子を見に来た。

 お里が弥助の顔を見るや否や「ちょっと弥助さん、市松のご飯の量をもっと増やして上げてくれませんかね?」と前掛けの裾をひっぱりながら頼んでみる。

弥助も十分承知しているといった風に腕を組んでうなり出した。

「市松か・・・あいつの国の身請人と未だに連絡付かんで困っているんだ。どうも親が渋っているらしくてな・・・下野も飢饉で大変らしくて」

お里は手を振った。

「それはそれとして、今日明日のご飯の話ですよ。御救小屋に来て病にかかって、余計に具合が悪くなっちゃ弥助さんだって体裁悪いでしょうに・・・仕方がないから、仙蔵さんが自分のおにぎりを上げたいって言ってくれているんですよっ」

弥助はちらりと仙蔵を見て、ほっと胸を撫で下ろした様に微笑んだ。

「上手くやってくれているんだな・・・」

仙蔵はええっとうなづいて「もう少し飯の量を多くできないもんですか?」と頼んでみる。

「そうだな・・・確かに御救小屋がぶっ倒れ小屋だから取り壊しなんて評判が立ったら、それこそ笑い物だしな・・・」

お里は気を揉んで、「なにをのんきな事を。変な冗談やめて下さいな」と顔を横に振る。

余計な事を言ってしまったと弥助も渋い面持ちで腕を組んで一考する。

「分かった。今日は岡田様がおるから相談してみる。まだ、誰にも言わんでくれ」

弥助は考え込んだまま、病人部屋から立ち去った。

 仙蔵とお里は、どうにかならんものかと廊下で考え込んでいると、要三が二人で話しているのが気になるらしく「お里さんっ、足を擦っておれよ~っ」とまるで死に際の様な声で手を伸ばして呼んでいる。縁側で怒鳴りつけた勢いはどこへやらと仙蔵は呆れた。

「はいはい、夕食の事で話し合っているから、自分で擦って待っていてね」

お里のあしらい方は慣れたものだった。

 「なんだっけ?」

要三に気を取られて二人とも何を話していたんだか忘れてしまった。

「ご飯の量の話です」

仙蔵が思い出すと、二人して今一度長い溜息をふう~っと吐く。

仙蔵は炊事場の責任者の芳蔵にも頼んで、若い年頃の者や歩ける者に粥とは別に握り飯を出してもらうことをお役人に頼んでもらったらどうかと、お里に提案してみる。

お里はう~んと拗ねた様な目で仙蔵を見た。

「どうかしたんですか?」

「いやね、芳蔵さんは頑固だし、おっかないのよ。口添えを頼んでもねえ・・・」

仙蔵は、自分だって最初は十分きつかったじゃないかと、目を丸くしてお里を見返すと、「あっ、今あんた、あたしだって怖いと思ったでしょうっ」と意地悪く笑みを浮かべた。

「いえ、そんな事決して思いません。おいらが芳蔵さんに頼んでみます、八日間炊事場を手伝っていたもんですから。芳蔵さんは見かけよりもおっかなくないですよ」

仙蔵もにやりとお里に微笑んだ。

「あっ、やっぱり今あたしの方が怖いっていう顔したわねっ、もうっ」

お里が仙蔵の肩をしなを作って叩くと、今度は爺さんが「あーっ、背中が痛てえっ!お里さんっ、血が出てねえか確かめてくれねえかっ」と焼餅を焼いて呼んでいる。

じじいに負けるかもんと、要三も「お里さん、足がっ」としきりに自分の左足を指を差して呼び始める。

すると、他の男達もどこが痛てえだの、頭がくらくらするだのと、お里を求め始める。

「びっくりするでしょ。一銭もお金出してないのに、こんなに要求ばっかりしてきて」

仙蔵は大きくうなづく。

「お里さんはすごく慕われているんですね・・・」

「違うのよ、あたしは亭主持ちだし、子供も三人もいるのよ。あの人たちだって、最近までは大人しかったのよ。でも、一月(ひとつき)ばかり前に他の御救小屋が取り払われたって噂を聞いたらしくて、今後の事を考えると不安で堪らないんでしょう。だから、ああやって何かにつけて呼んで不安を紛らわしているのよ。今までいた介抱人も体調を崩した人も多いけど、やり切れなくなっちゃうのよ・・・手伝いで来ているたって半ば強制でしょ。あたしたちだっていつどうなるか分からない中で介抱して、いつか、ここに来なくちゃならなくなると思うとね・・・」

「おいらも最初、御救小屋に並ぶ人を見た時、急に自分もどうにかなっちゃう様な気になって怖くなったんです」

お里は大きく溜息を吐いて、「みんな、そうよ。誰だって最初は往来の道で、行倒人や病人がいれば声もかけていたけど、それが頻繁に見かける様になって、死人までも多く見る様になると辛くなって目を背けちゃうのよ。いずれあたしらも路傍で死ぬのかってね・・・」

仙蔵は自分ばかりが、そう感じていた訳じゃないと知ると安堵もした。反面、やる方ない気持ちに一層包まれ、何かしなければと駆り立てられる様で気も逸る。

仙蔵は居た堪れなくなり、お里に芳蔵からも言ってもらうよう頼んでみると告げ、炊事場に向かった。

 

      第二部(27)へ続く。

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( 江戸名所図会 )