【 死に場所 】place of death 全34節【第一部】(9) 読み時間 約10分
(9)
それからしばらくは、どんよりとした天気ながら平穏な日が続き、十一月に入った。
十日もすれば、蕎麦が収穫できる。
早朝から釣りに出かけ、昼過ぎに帰ってきた仙蔵は、釣った鮒を魚籠(びく)から桶に移していたところに、圭助とおきつがやってきた。
「丁度いいところへ来た、今日は珍しく五匹も釣ったから持っていきなよ」
夫婦はしゃがんで桶の中を覗き込み「お~っ、けっこうでかいな」と顔をほころばせる。
「仙蔵さん、この間の話なんだけど、いつ頃にします?」
おきつが立ち上がった。
「話って・・・なんだっけ」
「おさよちゃんですよ」
「ああっ、おさよさん・・・」
「仙蔵さんから何にも言ってきてくれないから・・・」
仙蔵は返事に困まり、とりあえず二人に上がってもらう。
おきつは何が何でも今返事をもらいたいと話を進める。
「もう十一月でしょ。早くしないと年越しちゃいますからね」
手持ち無沙汰の圭助が割って入る。
「相手はもう十九だ。年増で年越し、大年増になっちゃう」
「ちょっと黙っててっ」
「いつでも良いって言えば、良いけど・・・」
「じゃあ、あたしの方で決めちゃっていいですね」
おきつは、はっきりとしない仙蔵にはっぱをかけた。
「あっ、でも十日くらいしたら収穫だ・・・」
おきつは煮え切らない仙蔵を追いつめる。
「そんな事言っていたら、いつまで経ってもお嫁さんの来手なんてありませんよ。それとも、いらないんですか?」
仙蔵は目を逸らし、弱々しい声で呟いた。
「いらないって言う訳じゃないけど・・・」
「だったら、会うだけ会ってみたらいいじゃありませんか。魚釣りだって、わざわざ行って釣れない事だってあるのに、空から魚が降ってくる様な、滅多にない話を持ってきているんです。仙蔵さんは、それでも雨戸を閉めて空けるかどうか悩んでいるようなものです。そんな事していたら一生そのままですよ・・・」
おきつも少し言い過ぎたと思ったが、仙蔵が蕎麦を買い付けてきてからの気鬱を晴らすには何か切欠が必要だと思っていた。
また、圭助を助けてもらった恩義を返したい一念が強く、力も入る。
尚も、仙蔵は上を向いたり下を向いたりと煮え切らない。
「何をそんなにこだわるんですか」
「いやぁ、貧乏だから。悪いと思って・・・」
「この前も言いましたけど、わたしはこの人に嫁ぐ前より貧乏になりましたよ・・・仕方がないとは思いますけど、後悔はしてません。そもそも、嫁の気持ちを仙蔵さんが決めることじゃありません。人の気持ちなんて天気と同じでどうこうできるものでもないでしょ、冷夏や天変地異を仙蔵さんがどうこうできるんですか?祈祷師だって出来やしませんよ。そんなに心配なら、おさよちゃんに決めてもらえばいいじゃないですか」
仙蔵自身も、確かに自分は祈祷師でもなければ神でもはないと思う。人の心をどうこうできるものではなし、雨戸閉めても、こうしておきつが戸を叩き付けるし、断ったら断ったでまたうるさく言われる。女子に嫌われる不安もあるが、戸を開けねば何も始まらない・・・。
「分かったよ。いつにしよう」
ここで逃してなるものかと、おきつは間髪入れずに仙蔵を見つめた。
「五日後に来てもらいましょうよ」
「えっ、でも作業も終わってないし、大してお構いもできないと思うけど・・・」
「それでいいじゃないですか。どうせ仙蔵さんのことだから、無口になってお茶ばっかり飲んでいるだけになるなら、旅の話を聞かせてお上げになったら宜しいじゃありませんか。その後、仙蔵さんのお得意の雉でも一緒に狩りに出かければ、おさよちゃんだって頼もしいって思うんじゃないですか?」
仙蔵もおきつからそう言われると、何を話していいかも分からず仕舞いで終わりそうだし、貧相な家でずっとにらめっこになるよりはましだと了承した。
「じゃあ、五日後に・・・待ってる」
話がまとまると、圭助はおきつに仙蔵と話があるからと言って先に帰した。
「まだ何かあるの?」
圭助は腕を組んで俯き、先程の軽薄さはなりを潜め、体を前後に揺らす。
「どうって事ないって言えば、どうって事ないのかもしれんけど・・・」
仙蔵は歯に物が詰まった言い回しに、圭助の顔をちらりと見る。
「なんだか、猪吉さんの倅の調子が良くねえのか知らんけど、医者が出入りしておる。それに、頻繁に出かけておるんだ」
「亀太郎はもともと病弱だからな・・・」
仙蔵は不思議ではないと小さく頷いた。
圭助は首を捻り「あと、どうやら陣屋に行っている様だ」と眉間に皺を寄せる。
「どうして陣屋って思うんだ」
「紋付着てたから」
仙蔵は、猪吉の息子の亀太郎と小さい時に遊んだ事を思い出す。
年は自分より三つ下で、背は高いが色白でひょろっとしていて顎の線が細かったのが印象深い。
「まさか、危篤じゃねえよな・・・」
仙蔵が何気に口にすると圭助は咳払いをした。
「そらぁ、まだ分からん・・・けど、様子がおかしいんだ。だから一応伝えておこうとね」
仙蔵は圭助の帰り際に、魚籠に水を入れて鮒を持たせて見送る。
「三日ぐらい泥抜きしてくれ」
「ありがとう」と圭助が手を振って帰って行った。
確かに妙だと考え巡らせるが、早合点かもしれない。危篤となれば皆に知らせがあろうと家の中に入る。
桶の中の鮒がばしゃりと水飛沫を上げる。
仙蔵は「早く泥を吐け」と指で突いてみると、鮒の尻尾が水を叩き、飛沫が仙蔵の口に入り表に出てた。
「ぺっ、おいらが吐いてどうすんだ・・・」
おさよが来る約束の日。
仙蔵は前日から落ち着きがなく、旅の話をどう面白く話そうとか、雉を獲りに行って、矢が外れたらかっこ悪いなとか、良からぬ不安とまだ起きてもいない妄想が膨らむ。
村でも、それほど女子と話すこともないのに、ましてや他の村の一度も会った事もない娘さんと祝言前に会うとなったら、尚の事居ても立ってもおれない。また、嫌われたら恐らく村中に知れ渡って笑い者になる様な気がしてきた。
事前に、女子が夫となる相手の家を訪ねる事は、余り聞かない。
今更ながら、仙蔵は呼ぶんじゃなかったと頭を抱え、昨夜から大して飯も喉に通らない。
日も高くなり、昼時近くなった頃、家に足音が近づいてきた。
仙蔵の胸は高まり、血がどくどくと頭に上り顔が火照り耳が熱い。
障子の影から家の前の道を覗くと、圭助を先頭におきつ(・・・)ともう一人の女子が見え、目が釘付けとなった。
遠目ではあるが、その女子の容姿は、藍色より少し明るい色の縞紬(しまつむぎ)の着物。
きちんとした外出着で、頭は少し膨らみを持たせた髪を丁寧に結っている。
朝早くから時間をかけて支度してきたことが一見して分かる。しかも、両手で土産らしきものも持っているではないか・・・。
仙蔵は障子から離れて隠れ、壁に張り付く。自分はいつもの普段着でろくすっぽ髭も剃っていない。また、月代(さかやき)も剃らず髷も束ねただけで客人を迎える準備さえしていない。
どうしようっ・・・。
仙蔵は会いに来るとだけ聞かされていたものだから、女子も普段着で気軽なものと思っていた。まるで商家の娘の様な装いに、尚更うろたえる。
仙蔵はおろおろとして辺りを見回し、急いで湯飲みを準備する。破れの目立つ座布団を裏返し、囲炉裏の周囲に配置した。
それでも、早く汚い着物も換えなければと慌て右往左往していると、「御免下さい」とおきつの声が玄関から聞えた。
あーっ、もう駄目っ。
仙蔵はどうにもならないと天を仰いでいると、更にもう一声聞えた。
「仙蔵、いるのか?あれ・・・何してんだ?」
圭助は眉を寄せて怪訝な顔して中に入って来た。
仙蔵は取り乱していることを隠そうと、腰に手を当て「ちょっと腰を伸ばしていた・・・」と惚けて見せる。
圭助は嬉しそうに「ささっ、入って入って」と客人であるおさよを招き入れた。
身支度もしていない仙蔵は着替える事もできず、そのまま玄関に顔を出した。
おきつが仙蔵を見るや「あれ、今日おさよちゃんが来るって忘れてたんですか?」と少々不機嫌な様子で仙蔵の頭から足まで見ている。
「ちっ、違う違う、そうじゃない。作業をしてたんだ。ちょっと水を撒かないといけなかったもんで」
仙蔵はおきつから目を逸らした。
「そうですか・・・まあいいですけど。それより、こちらにいらっしゃるのが、」
おきつが言いかけると、圭助が「まあ、そんなに堅苦しく挨拶するとお互いに緊張しちゃうから、もっと気軽にしよう」と声をかけた。
「そうね。こちらが、おさよちゃん」
おきつがにこりとおさよに微笑んだ。
「おさよです・・・初めまして、この度はお忙しい中、お訪ねして申し訳ありません」
おきつの幼馴染で、気の強い頑固な女子だと聴いていたが、印象は全く違った。
見た目は、おきつの言っていた通り、色白で小顔。目元は涼しく、挨拶する時の笑顔は愛嬌があり可愛らしい。
村にこんなべっぴんはいねえ・・・
仙蔵はぼーっとおさよを見つめてしまう。
おきつは、これまで散々渋っていた仙蔵が薄ら笑いさえ浮かべる変わり様に、亭主がいながらも嫉妬の様なものを感じたらしく棘のある言い方をした。
「ちょっと、仙蔵さんっ。いつまでわたし達は立っていればいいですかね・・・」
慌てた仙蔵は「ああっ、すまない。汚い家だけどお上がりになって下さい」と土間に下りて、足洗い桶を差し出した。
雑巾も必要だと取り急ぎ、手近にあったものを渡すが広げてみれば、泥で汚れていた。
ちょっと待ってと、なんとか足拭きと呼べる様な布をガタガタと荷を引っくり返す。
「仙蔵さん、おさよちゃんの足拭きはいりませんよ」
おきつが、慌しい仙蔵に冷ややかな視線をじろりと向ける。
「なんで?」
「なんでって、おさよちゃんは足袋履いてきたんですよ。わたしたちも雑巾を持ってきました・・・」
しどろもどろの仙蔵は「ああっ、そう・・・おっ、お疲れになったでしょう」と口ごもりながら座敷に招き入れ、茶を出す支度で忙しなく動き回る。
見かねたおきつが立ち上がる。
「仙蔵さん、少し座ってて。なんだがこっちまで落ち着かなくなっちゃうから」
圭助もうなづき「そうだよ、ゆっくり座って話でもしよう」と手招きをして、先におさよを座らせた。
後から仙蔵も座ろうとするが、圭助の隣におきつが座るから、当然、おさよの隣にしか空いている座布団がない。
先に座っているおさよは、仙蔵を見上げ微笑むとはにかんで俯いた。
どきまぎしながら仙蔵は、薄汚い座布団に正座をして「きょ、今日は遠路はるばる起こし下さりまして、こんなあばら屋には勿体ない事でございます・・・・」と床に頭を擦り付けんばかりに頭を下げた。
「いいえ、こちらこそ大事なお仕事中にご訪問してしまって・・・・これ、お口に合いますかどうか分かりませんが、御納め下さい。わたしの親戚が栗原宿で笹子屋というだんご屋を営んでおります品です。お召し上がりになって下さい」
おさよは風呂敷包を解いて、仙蔵に渡す。
「申し訳ありません、気を使ってもらって・・・こちらはなんの用意もできなくてすいません」
仙蔵は準備の悪さに恥ずかしくなり、耳を真っ赤にして俯いてしまった。
おきつが茶の準備をして各々に配ると、自分も圭助の隣に座った。仙蔵とは囲炉裏を挟んで正面になる場所で様子がつぶさに見て取れる。
おさよは団子屋で働いていて客あしらいも慣れているが、相手が緊張していると自分まで緊張してきた。
二人共もじもじと、どういう風に話せばいいのやら落ち着かない。
おきつは圭助に近づき、肘で亭主の腕をつついた。
圭助も静まり返った中で、どうして良いのかも分からず、黙々と茶を啜るのみ。
頼りないと、おきつは立ち上がる。
「仙蔵さん、お皿借りるわよ。せっかくだからお団子頂戴しましょう」
全く役に立たない仙蔵は、渡りに船だと「おいらがやるよ」とつられて立ち上がると、「仙蔵さんはいいから。自分の得意なことやら、旅の事やら話してくださいな。ずっと黙っていたら、日も暮れておさよちゃんだって帰らなくちゃいけなくなるんだから」と益々おきつの口調は早くなる。
「あっ、ああ・・・そうだね。おっ、おいらは先月、圭助と一緒に蕎麦の実を買いに旅に出たんだ・・・」
おさよは前かがみになって、丹念に仙蔵の話に耳を傾ける。
おきつは、抑揚のない仙蔵の話っぷりを聞きながら、皿に団子を乗せてそれぞれに渡す。
「仙蔵さん・・・悪だくみの話じゃないんだから、もうちょっと大きな声で話さないと誰にも聞えやしませんよぉ」
じれったいとおきつは、仙蔵が思いやりのある人柄である事や、弓矢が上手であるとか、腑抜けの様な仙蔵に変わって、おさよに説明した。
おさよは、店に来る客とそれなりに会話をするが、なんとなく嘘か本当か分からぬような話だったり、水茶屋と勘違いしていやらしいことを言う客が多かった。
おさよと正面から向き合って、気遣う様な会話は余りなく、自分の事だけをべらべら捲し立てて去って行く客ばかりだった。
仙蔵をちらりと見れば、顔を赤くして丸い目をすぐに逸らしてしまう。
女子としてだけではなく、真剣に向き合ってくれているからこそ、大そう緊張しているんだと嬉しくなった。
おきつが話す仙蔵と、目の前にいる仙蔵は、まるで別人の様に大人しく下ばかりを見つめ、時折ちらりと自分を見るくらいだった。
おさよも仙蔵が将来の夫になる男として改めて思い描くと緊張してしまう。おきつにちらりと目を向け、もじもじとお茶に視線を落とした。
圭助はおきつに肘でぐりぐりと押されて、苦し紛れに仙蔵に声をかけた。
「そっそうだ、裏の畑に育った大根でも見せてやれば?」
おきつは圭助を目を細め、横目で首を振った。
「誰でも見たことあるでしょ・・・」
圭助はしくじったと「違うかっ。戸隠で買ってきた蕎麦だった」と手を叩いた。
おさよは、ふと顔を上げ「見たいです、苦労して買ってきたお蕎麦を」と立ち上がった。
仙蔵がおさよを見上げると、「どこです?そのお蕎麦」と微笑んでいる。
言われるがまま仙蔵も立ち上がり、障子を開け縁側に出た。
「少ないけど、なんとか育ってます・・・他にも、場所を換えて植えました」
「多く実れば良いですね」
おさよが微笑むと、仙蔵は実ってくれねば村の存亡に関わるという強い信念も加わって、初めておさよを見つめてうなづく。
「はい、これが命綱ですから」
仙蔵も自然と笑みが浮かび、大きく息を吐いた。
「おさよさん、良かったら外に出てみませんか?こんなあばら屋にいても気分は晴れませんから」
「そんな事ありません。わたしの育った家だって似た様なものです。ねっ?」
おさよはおきつに振り返ると、「う~ん・・・そうだったかしら」と言葉を濁した。
「おきつさんの実家は、うちよりも裕福だから何て言っていいのか分からないんですよ。ふふっ」
おさよは照れ臭そうに微笑み「うちは狭いくせに雨漏りだってあったし、破れた服や座布団も、わたしや母が繕ってずっと使っていましたよ」と流暢に話し始める。
仙蔵は座敷に戻り、ぼろ座布団を手に取って、おさよに見せた。
「おいらは縫いもんが下手だから、裏返して使っています」
「それくらいなら、縫って差し上げます」
おさよは破れた座布団を仙蔵から受取ろうとするが「お客さんにそんな事させたら申し訳ありません。こんな小汚い座布団を繕わせらたらバチが当たります」と座布団から手を放さなかった。
「いいんです、わたしこういうの見ると直したくなる性分なんです。ご遠慮なさらず」
「これは、死んだ親父が座っていた座布団ですから臭いし止めた方がいい。初めての客人に失礼ってもんです」
仙蔵は申し訳ないと頭を下げながら断った。
「わたしだってお忙しい時にお招きに預かったんですから、これくらいさせて下さい」
二人が座布団を放さない様子を見ていたおきつが、圭助にささやく。
「ほらね、頑固でしょう・・・」
「ああっ、どっちもだ・・・」
おきつは溜息を吐く。
「なんだか不安になってきたわ」
「どうして」
「だって、二人してまだああやって座布団引っ張り合ってんだよ・・・そのうち真っ二つに引き千切れるんじゃないのかね・・・もし一緒になったら、ずっとああなるかもしれない気がしてきた・・・」
「縁起でもねえ事言うなよ」
仙蔵とおさよは、座布団を持って押したり引いたり遊んでいる様。
「汚いですからっ」
「いえっ、すぐに縫ってしまいますからっ」
綿埃が、おきつの鼻をくすぐり、くしゅんっと大きなくしゃみが出て見上げた。
「ちょっと、お二人さんいい加減にしてよっ。わたしが座布団縫っとくから、二人で雉狩りでも行ってきなさいな」
とうとう辛抱できなくなったおきつが、二人から座布団を取り上げた。
おきつは、全くもうぉと二人に苛立ち「さあ、行ってらっしゃいっ」と追払う。
「獲れるか分からないけど、一緒に行きますか?」
おさよはこくりとうなづいた。
「はい・・・」
仙蔵は土間に行って草履を履くと、綺麗なおさよの雪駄に気付き、草履を用意した。
「少し、山の中に入るからこっちの方がいい」
「ありがとうございます・・・」
おさよはかしこまっていると、おきつが「それ訪問着だから、これを羽織って」と自分の上掛けを渡す。
「ありがとう・・・」
おさよは照れながら草履に足を入れ、小声でおきつと圭助に頭を下げた。
「ちょっと行って来ますね」
仙蔵は弓矢と駕籠を担ぎ、おさよを連れて山に向かう。
(10)へ続く。
(東京都水道歴史館)