(序)
ハローワーク新宿の裏手には青梅街道が走る。
その傍に、立ち食いそば「二代目泉屋」という店がある。
今年53歳になるという、少々赤ら顔で小太りの店主の名は、内田勝・・・。
26歳から起業し、紆余曲折を経て、立ち食い蕎麦屋を引き継ぐ事に至った心温まりそうな話であり、元気が出そうなフィクションである・・・。
(1)
私は空腹を満たすつもりで、ふらりとこの店に立ち寄ったら、天ぷら蕎麦の美味さに驚いた。
蕎麦のコシと風味、つゆの味わいには鰹節のコクにすぐに既製品ではないことが分かった。
かき揚げもさっくりとし油っこくない。
春菊の香りもほんのりと鼻から抜けた。
これが¥360。
私が心配するのはお門違いだが、こんなに大盤振る舞いをして大丈夫なのかと、深みのあるつゆを飲む。
更に2口3口と続けて飲んでしまう。
美味い・・・
舌の上で確かめる様に口に含む。
何故だ・・・
謎は深まるばかり。
どうしてこの値段でこんなに美味いんだ・・・
思わず蕎麦から店主に目を向けた。
微笑みを讃え、柔和そうな店主の面持ちに親しみを感じる。
恥ずかしさもあったが、世間話を交え開業の経緯を聴いたのが不覚だった。
穏やかな雰囲気とだと、勝手に私が思い込んでいたに過ぎず、なかなかの我の強さで長話に付き合わされる事となってしまった。
「お値段も安いのに、この立地では大変ではありませんか?」
すると、朗らかな内田の表情が一変。
「この場所に出店したかったんです・・・。というよりも、この場所じゃなければ出店する意味がない。つまり、私の原点っ。分かりますか?この気持ち、この魂っ。お前に何が分かるっ!」
分からないから聴いているのに、いきなり何が分かると勝手に火がつき怒り出したので意味が分からず、ふと息が漏れてしまった。
「笑ったなっ?」
「笑ってない・・・」
「顔がひくひくしているじゃないか」
私は頬に手を当ててごまかした。
「ちょっと歯が痛いんで・・・」
「ふんっ、笑いたければ笑うがいい、これには深い事情があるんだ。私が蕎麦屋になろうと決意したのは、約20年前のクリスマスイブ、寒い日だった。ハローワークの帰り道・・・」
自慢話が多いので、掻い摘んで彼の履歴を追う。
同大学で、モデルのような彼女をゲットしたという。
なんのモデルかは謎だが、彼女は絶世の美女でハリウッドからも出演の依頼がくるほどだったと強調した。
また、彼女の実家が資産家で、毎晩のようにパーティーが開かれていたとも語る。
なんのパーティーかについても謎だが、とにかく彼女が自慢だったらしい。
「アイム イン ヘブン〜♪」とミュージカル調の鼻歌の後に「天国にいるような日々だった」と、怒りから一変してニヤつき始め、対処の困る。
内田の感情は起伏が激しそうなので下手な事も言えず、私はとても後悔をしながら伸びた掻き揚げそばを見つめるしかなかった。
内田の回想は止めどなく溢れ出て手がつけられない。
留学期間が終了し、モデルのような彼女を残して、日本に帰国。
理由は、彼女の父に認めてもらうために一旗上げる事だったという。
アメリカ仕込みの経営学を生かし、イギリス風の明るい雰囲気のパブ経営に乗り出した。
内田は勝算があったと語る。
居酒屋などを3軒成功させれば、チェーン店として展開できるらしい。
また、開店から2年存続できれば、50%の店は5年持つ可能性が高いと言われている。
裏を返せば、2年足らずで50%の飲食店が閉店。
10年以内に残りの90%が倒産するという過酷な現実でもある。
景気低迷が続く1994年12月。
内田は新宿3丁目に、イングリッシュ・パブをオープンさせた。
固定客も掴み、売上げは好調だったらしい。
開業2周年を迎えた96年。
オープン記念日にドリンクを全て半額にした。
常連客も大いにその日を祝福し、満席御礼。
急遽、翌日から2日間イベントを継続させることにした。
多くの客、新規の来客を目指し、2時間制で初回のドリンク無料、2杯目以降半額。更なる客が集った。
学生、女性、サラリーマン。ご隠居、マダム等、幅広い年齢層にも周知できた。
最終日の23時過ぎ、前日から顔を見せるようになった、呑んだくれのオジイが、オーナー兼マスターである内田にクダを巻き始めた。
「なあ、マスターよぉ。今年の流行語、知ってるかい?『友愛』だとよ。宇宙人に友愛叫ばれても、まともな話ができる訳もねえってんだ。大体そういう事を言う奴は、侵略者かウソつきに決まっている。土鳩山なんて豆鉄砲で撃たれりゃいいんだ。パパンってな、ヒック・・・」
内田は適当な相槌をして受け流しつつ、話を逸らそうとオジイの首元に目がいった。
ネックレスの様にぶら下がる小さな木の板がちらりと見える。
「それ、なんですか?」
「こいつかい?喧嘩札ってんだ。喧嘩する時に名乗るのが面倒だから、この札を見せてからぶん殴ってやるんだ。昔は『疫病神の茂三』なんて妙なあだ名をつけられたもんよ。俺に出会うとやられるってな。最近はイセイのいいのがいねえからつまらねえ・・・」
内田が愛想笑いを続けていると、店の外で言い争う声が聞えてきたという。
「痛えな、この野郎っ。てめえどこのもんだっ!」
「うるせえ、ハゲっ!」
「ハゲって言うお前もハゲだろうっ!」
「ハゲじゃねーよっ、スキンヘッドだよっ。眉毛と一緒に剃ってんだ。ブチ殺すぞっ!」
只事じゃない怒鳴り合いに、内田は慌てて外を覗いた。
5、6人の男たちが殴り合いの喧嘩を始め、これはエライことになったと身構えた。
しかも全員、毛がない。もしくはボーズ頭。
誰が誰だか分からない。
まるで、映画「ワイルド・スピード」の様で見分けがつかない。
オジイの茂三は、外のケンカを目を輝かせ「おっ、喧嘩だ喧嘩だっ。ハゲタカの抗争だっ」と騒ぎ立てた。
茂三は、打って変わってウキウキと腕を捲くり、店のドアを開けて煽り始める。
「やっちまえハゲ共っ!矢でも鉄砲でも撃ちまくれっ。撃って撃ってうちまくれーっ。全弾命中、共倒れっ!」
内田は、ケンカを煽る茂三を店内にひき戻そうと首根っこを掴むと、茂三は足元がふらついて倒れた。
争っていた連中は、その声にケンカを止め、一斉に店を睨みつけた。
そこには、内田しか立っていない。
ヤクザが懐に手を突っ込んだ。
「てめえかっ!ハゲタカ呼ばわりしたのはっ!」と店に1発打ち込んだ。
「きゃーっ!」
客たちは銃声に驚き、右往左往のパニックに陥った。
内田も恐ろしくてうずくまり店内に隠れたが、酔っ払った茂三はグラスを外に投げつけた。
「へたくそっ、ハトも殺せねーぞ。そんな豆鉄砲なんかきかねえよっ、バ〜カ」
「なんだとぉっ、だったらてめえの汚ねえツラを蜂の巣にしてやろうじゃねえかっ!」
それまで対立していた組員同士が、意気投合。
5、6人が銃を引き抜き、内田の店に向かってバスバス撃ちだした。
「ぎゃーっ!」
悲鳴を上げる客たちを、内田は裏口から逃がすので精一杯。
そんなことはなんのその、酔っ払いの茂三は夢とも現実とも付かぬ酩酊ぶりで尚も煽る。
「ぶははっ、どこ狙って撃ってやがる。ここだよ、ここだよ〜んっ!」
茂三は立ち上がって、自らの両耳を引っ張り上げて、べろべろと舌を出す。
「ハゲのスポック船長は、ここだよ〜ん!」
「クソジジイっ、店ごとあの世へワープさせてやろうじゃねえかっ!」
さすがのヤクザも人は狙えないと思ったのだろう。店先のオブジェの樽に撃ち込んだ。
「どこに目をつけてやがるっ、それは樽だよ、た〜るっ。やいっ、火星人どもっ、ヤサイ・ジュンイチ呼ぶぞ、タコっ!」
「屁こきジジイっ、この店ごとぶっ潰っしまえっ!」
バスバスと銃弾を店に撃ちかけられ、ガラスは全て打ち抜かれる大惨事。
「うわーっ、やめてくれーっ!」
内田の叫びも虚しく、ウィスキーの瓶やグラスもほとんど床に砕け散った。
銃を撃った男たちは、すぐさま逃げ失せ、あれだけ騒いで酔っていたジジイの茂三もいつの間には消えていた。
20分ほど遅れて、警察官2名がダラダラとメロンパンを食べながら現れた。
「ラッキー。先輩、これ生クリーム入りです」
「えっ、マジで?いいな〜っ、俺のは入っていないタイプだ。遅くなりました〜っ、なんだかだんじり祭の後みたいですね〜ぇ」
「先輩、どっちかって言ったら、臭いからして中華街の爆竹の後って感じじゃないですか?」
「ここは岸和田でも中華街でもねーよっ!見りゃあ、分かるでしょうがっ!暴力団に銃で撃たれたんですよっ!」
銃撃戦の再来を恐れた客たちはみな離れ、内田の店はきっちり2年で閉店に追い込まれてしまったという・・・。
(2)
内田に損害保険がおりたのは、その半年後だった。
今度は場所を変え、心機一転、新宿5丁目付近で木造物件を見つけた。
木の温かみを活かし、外装をロッジ風に化粧して、来訪客の心を癒したいという強い信念(前の店がトラウマ的な恐怖の記憶となってしまった為)で、店名は「To heal the heart」と前回同様のイングリッシュ・パブを再開したという。
陽気な音楽、独りでも気軽に立ち寄れるオープンな店構え。
チャージも取らず、料理の価格もお手頃にした。
ここに移ると、前の常連客も安心して戻り、前店を凌ぐ活気溢れる酒場となったという。
店内の左側にサッカー中継、中央に映画、右にニュースなど見られるように3台のテレビモニターを設置した。
ところが、オープンさせて半年後の11月中旬。
あの疫病神の茂三が、繁忙時間にふらふらと店に入り込んだ。
内田は新宿区役所と税務署からダブルで税金と申告漏れの指摘を受けていた。
「新宿区は税金が高いくせに職員の態度は悪いしサービスもイマイチ、品川区を見習えよな。宗教法人からも税金取れっつーの。弱い者イジメじゃねえか・・・」
内田はぶつくさと文句を言いながら帳簿の付け直しに頭を抱え、事務室に籠って気付いていなかった。
疫病神の茂三を知らない従業員もいたため、注文のまま酒を提供していた。
この日、1998年サッカーW杯フランス大会アジア最終予選、日本vsイラン戦で盛り上がっていた。
端的な経過は、日本が1点先取したが、後半に入り1-1の同点にされてしまった。
多くのサッカーファンが固唾を呑んで見守っていた。
その中で、茂三のクダ巻きが始まった。
「あ〜っ、ダメだダメだっ。アジアでこんなに梃子摺ているようじゃ、日本がヨーロッパに勝てるわけがねえ。それになんだ、あの下北沢という奴はっ。武田鉄矢かと思った。むしろ、鉄矢を出して説教させろってんだ、ヒック・・・」
当初、水をさすような茂三を客たちは無視をしていた。
しかし、イランが更なる追加点で逆転すると、茂三がそれ見たことかとシャシャリ出る。
「あ〜ぁ、なんたる体たらくっ!弱いっ、弱わすぎ〜っ。鉄矢を投入しろっ、イランをハンガーで殴りつけろってんだ」
懸命に日本チーム応援していた若者の一人が、茂三に黙るように声を上げた。
「爺さんっ、くだらない事ばっか言うのやめてくれよ。みんな応援してんだから静かにしてくれませんかねーっ!」
「ヒック、お前が応援したからって勝てる訳でもあるめえ。応援したら何でも思い通りになるのか?だったら俺も応援するぞ、ヒック・・・」
若者は茂三の言葉に腹を立て睨みつけた。
その友人が「おいっ、マサト。そんな汚いジジイ放っておけ。試合はまだ終わってないんだっ」と引き戻す。
茂三はカウンターテーブルにもたれながら、横目でひねた目つきでテレビを眺める。
「ふん・・・」
若者たちの思いが通じたかのように、日本が同点ゴールを決め、2-2となる。
「わーっ!やったよ、城下〜っ!」
店内は歓喜で沸いた。
茂三はバツが悪そうに、両耳に指を突っ込んで「いい気になるんじゃねえよ、うるせーなっ!」と喚くも、50人以上もいる客たちの歓声には歯が立たない。
茂三を注意した若者が、一緒に喜びを分かち合おうと声をかけた。
「日本が追い付いたんですよっ!嬉しいじゃないですかっ」
「ヒック・・・でも、まだ試合の途中だろう、どうなることやら」
「おいっ、マサト。だから、うす汚いジジイは放っておけっ、近づくとゲロかけられるぞっ」と若者の友人が連れ戻す。
試合は、この同点ゴールが決まってから日本が盛り返し、優勢に進む。
パブで応援する声は活気に満ち、輪に入れない茂三の独り酒が進む。
「ふんっ。どうせ、にわかファンのくせに、ヒック・・・。日本人なら野球だっ。そもそも野人ってなんだ、日本人じゃねえのか・・・」
日本対イランは、同点のまま延長戦に突入。
若者たちの歓喜がどっと上がった。
「おおーっ、下北沢から野人岡野山に代わったっ。頼むぞ、野人っ!」
「や〜じんっ、や〜じんっ!」
内田のパブは、野人コールで盛り上がる。
テレビ画面には、野人・岡野山がズームされ、長髪をなびかせてグランドを走り回る。
一人溶け込めない茂三がボヤく。
「なんなんだ、こいつも長髪じゃねえか。同じ長髪なら鉄矢を出せっ」
テレビに夢中になる客たちは、一喜一憂をしながら応援する。
「いけーっ!」
茂三はグラスを掲げた。
「じゃあ、俺はハイボールいっちゃうよ。おねえちゃん、ハイボールくれっ」
次の瞬間、店内は悲鳴にも似た雄叫びが上がった。
「よっしゃーっ、野人が決めたーっ、うおーっ、3-2だ!これで勝ちはもらったーっ」
歓声に驚いた茂三は、グラスを置いて耳に指を突っ込んだ。
「うるせーなっ!」
若者が茂三に歩み寄る。
「日本が勝ったっ、みんなの声援が届いたんですよぉっ」
「ふんっ、お前はエスパーかっ!そんなもん届くわけねーだろうっ。脳内革命の勃発かっ、イラン革命防衛隊も呆れるわっ!」
若者達は肩を組んで喜び、試合後のテレビに注目している。
「一緒に祝いましょうよ、日本がワールドカップの本戦に出れるんですよっ」
「おいっ、マサト。そんな汚いジジイは放っておけっ、残飯喰わされるぞっ!」
友人がテレビの前に連れ戻す。
対する茂三は、若者達の声援が届いたようで面白くない。
「ふんっ、まるで神通力があるみてえなツラしやがって。だったら、こんなスプーンの1つや2つ、念力で曲げられるはずだろうが・・・」
茂三オジイはムカつきが治らない。
スプーンを2、3本手に取り「うーっ」と念を込めた。
「アホ、曲がるかっ」
茂三は無駄に力み、頭が痛くなって外に出た。
「クソ面白くねーっ」
持っていたスプーンを道路に向かってブン投げ、再び店内に戻った。
バリバリバリっ!
ズズーン!
天地を揺るがすよう豪音、地震の様な激しい揺れ。
客の歓声は、一転して本物の悲鳴に変わった。
「うわーっ、なんか突っ込んで来たぞっ!」
「きゃーっ!」
店内の客は衝撃で床に倒れ、パニックに陥った。
事務室に篭って申告書を書き直していた内田もイスから転げ落ち、慌ててホールに飛び出した。
「うわーっ、とうとう区役所が吹っ飛んでくれたかっ?なんだこれはっ!」
内田はその惨状を目の当たりにし、膝から崩れ落ちた。
重機を積載したトレーラーが店に突っ込み横転。
木造の建物であったが故の不運。
屋根から右側半分が、ごっそりえぐられ、ほぼ全壊。
幸い、客たちは左側のテレビの前に集っており、誰もいない部分が大きくえぐられた。
アームを曲げたパワーショベルが無惨に横たわり、茂三も腰を抜かして口を震わせる。
「おっ、俺が曲げたのか?・・・」
額を抑えた運転手がトラックから出てきて、内田に平謝り。
「すっ、すいませんっ。窓を開けて走っていたら、突然スプーンが飛び込んできたんですっ。そんで、急ブレーキかけたら横転しちまってっ!」
暗闇から警察官2名が棒を振りかざして現れた。
「ラッキ〜っ。先輩、このアメリカンドックのソーセージ、あら引きですよっ」
「えっ、マジで?だったらフランクフルトじゃなくて、そっちにすれば良かったぁ〜っ。あっ、どこかで見た顔・・・また、だんじり?旧正月?」
「またじゃねーよっ!見りゃあ、分かるでしょうっ。事故だよっ、大事故っ!パワーショベルが突っ込んでるだろうっ!」
これも疫病神の茂三の念力の仕業なのか?
山小屋風ロッジのパブは再起不能。
W杯の終焉を待たずして、取り壊された・・・。
〈本作は、4年前に書いたフィクションです〉
(第2話に続く)