増税、還元、キャッシュレス。 そして明日は、ホープレス。

長編小説を載せました。(読みやすく)

【 死に場所 】place of death 全34節【第一部】(7)~(8)読み時間 約15分

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  (7)

 そして、翌日のお八つ時。

仙蔵は猪吉の家にはすぐに入らず、少し離れた木陰から様子を窺っていた。

みんなが集ってから話し合いが始まる。その前から待っているのも針の筵に座らせられるようで堪らない。

 仙蔵は村人の集り具合を見ていた。

ちらほらと、隣近所と連れ立って猪吉の家に向かう姿が見える。

ただ、圭助が現れない。臆して来ないつもりか・・・

村人の歩いている姿は次第に少なくなり、年寄りがのろのろ歩いてくるぐらい。

仙蔵は妙な胸騒ぎがした。

 まさか、逃げたか・・・。

もし、圭助が夜逃げでもしたら、誰も自分の無実を明かす者はいない。

このまま猪吉の家に行っても、理由を付けて代官所に引き出されるかもしれない。

仙蔵は場所を変え、猪吉の家の近くの水車小屋の脇にある藪に隠れて様子を窺う。

 すると、小屋の影から声が聞えてきた。

「あんたっ、何を今更じたばたしてんのよっ」

「だってよ~っ」

「だってもへったくれもないでしょっ。あんたが行かないんだったら、あたし一人でも行くからねっ。そしたら、あんたとは離縁する」

「おっかぁ〰っ、そんな冷てえ事を」

間違いなく、圭助の声だ。

仙蔵は二人の背後から声をかけた。

「圭助っ」

「うわーっ、でっ、出たっ!」

圭助はびっくりして尻餅をついた。

圭助の女房のおきつも口をあんぐりと開け、目を見開いたまま赤ん坊を抱えている。

「おばけじゃねえよ・・・こんな所で夫婦喧嘩して」

おきつは申し訳ないと深々と頭を下げる。

「仙蔵さんっ、昨日の晩この人から全部聞きました。ずっと庇ってくれていたのに申し訳ありませんっ」

唐突に謝られた仙蔵も驚いて、夫婦の顔を見比べた。

「話したって、旅の事?」

「そうです、全部この人が悪いんですっ。それで、いつもの様に『どうしよう、どうしよう』って、あたしに泣きついてきたんで、こうやって引っ張ってきたんです。そしたら、急に臆病風に吹かれて足がすくんでしまって。情けないったらありゃしないっ。実は、この人は仙蔵さんと一緒に旅に出る前に、猪吉さんに借金のことで脅かされて監視して、わざと金を使い込んで、それを擦り付けるようにって言われらしいんです」

おきつは立ち上がり、背を丸める圭助をねめつけている。

「なんだってっ!」

「仙蔵、すまねえと思っていたんだけど、言われた通りしねえと田畑取り上げるって脅かされて、つい・・・本当にすまねえ」

圭助は手を合わせて、仙蔵を拝み倒す。

「本当にすまねえっ」

「いくら借金があるからって、猪吉さんはあんまりです。仙蔵さんに使い込みの罪を着せて村八分にしようと企んでいたらしいんです。あたしらはどうなっても仕方ないと思っています・・・こんなんじゃ奴婢と同じです。まっぴら御免です。あんた、ここで村の皆に包み隠さず言わなかったら男じゃないからねっ」

おきつは、ぴしゃりと圭助の屁っぴり腰を引っ叩く。

「痛てっ」

「仙蔵さんの心の方がよっぽど痛いんだよっ。あたしは離縁したって、生れた村に帰ればなんとかこの子と暮らせるんだからっ。しっかりしてよ、もうっ」

「見張られていることは分かっていたけど、まさかそこまでするとは・・・」

仙蔵はここまで猪吉がしてくる理由が分からず、口を閉ざしてしまった。

  

  おいらが、あいつに何をしたっていうんだ・・・。

「本当に、猪吉はそんな事を言ったのか?」

圭助は今一度頭を下げた。

「ああっ、言った・・・」

「理由は?」

「どうしてそんな事までするのか訊いたら、借金の話を持ち出されて言わなかった。余計な事を聞いたら田んぼ取り上げるぞって脅かされている、今も」

「じゃあ、皆の前で本当の事を言ったら田んぼを取られちゃうだろうっ」

「いいんですよ、人を陥れてまでしがみ付くような田んぼでもありませんから・・・」

おきつは体を揺すり、赤ん坊に微笑んであやした。

「田んぼがなくなったら、猪吉の小作になるつもりか?」

「いいえ、取り上げられたら、あたしの村でやり直せば良いだけの事です」

 

 仙蔵はおきつの覚悟が嬉しくもあり辛かった。

圭助も臆病風に吹かれながら、ちゃんとおきつに話してくれた。

仙蔵はなんとか丸く治まる方法はないかと考える・・・。

「それにしても、おいらが本当の事を話したら、すぐにばれる事だろう。圭助、おいらが本当の事を言ったらどうしろって言われたんだ?」

圭助は一度、おきつの顔を見てから、ぼそりと呟いた。

「シラを切れって、猪吉さんに言われた・・・あくまでも使い込んだのは仙蔵だと」

仙蔵は猪吉の只ならぬ悪意にぞっとし、体中に悪寒が走る。

「そこまでして陥れたいのか・・・」

仙蔵は松次郎との予定を変え、圭助とおきつに使い込んだ金を補填する算段を話す。

「圭助、猪吉から使い込めって言われたことは伏せておこう。圭助が酒癖が悪くて、呑んじゃった事にしよう。そうすれば、猪吉に恩を売れる」

「恩を売るってどういうことだい?」

圭助はその意を解せず、仙蔵に問い返す。

「もし、圭助が全てを打ち明けたら、猪吉は名主だけど皆に嫌われるだけでなく、名主も下ろされかねない。村の半分くらいはあいつに借金をしているけど、中には一揆を起こして棒引きにしたいって思っている連中もいるはずだ。だから、つい最近まで一揆で国中が米だけじゃなく、借金棒引きを巡って荒れていたって言えば、猪吉だって震え上がる・・・それを材料に今後、圭助に無理を言わない様に迫ってみよう」

勝手な解釈をした圭助は喜んだ。

「えーっ、借金が棒引きになるのかっ!?」

おきつは間に入って圭助をねじ伏せた。

「あんた、ほんっと馬鹿だねっ。違うわよ、猪吉さんが借金返済を迫って脅していたって事がばれたら、他に借金している人だって、今度は自分が脅かされるって思うでしょ。あたしらの村が一揆に参加しなかったのは、借金棒引きの一揆が飛び火して、自分の家も打壊されることを恐れたこともあるんでしょ。だから、仙蔵さんは猪吉さんに、あんたを脅していたことを黙っている変わりに、今後手出ししてこないように言うって、言ってくれているのよ。分かった?」

「ああっ、なんとなく・・・」

 仙蔵は、圭助が分からずとも、おきつが理解してくれていれば大丈夫だと安堵した。

「おいらだって自分の事とはいえ、村の生き死にが賭かった旅で随分と苦労したんだ。少しくらい手間賃を貰っても文句は言わないだろう・・・その手間賃で、圭助が使い込んだ分として返せばいい」

「仙蔵さん、本当に宜しいんですかっ?そうなったらあたしたちは安心して暮らせますっ」

おきつは涙声で仙蔵の手を取ると、背中に負ぶった赤ん坊が泣き出した。

「あ~あっ、あんたがうるさいから、この子がびっくりしたじゃないのさっ」

「すまねえ・・・」

「圭助は酔っ払って使ったとだけ言えばいい、分かったな?そろそろ皆集まっているだろうから行こう」

「ああっ・・・」

「もう引き返せないんだから、しっかりしてよっ」

仙蔵は圭助とおきつを連れ立って猪吉の家の庭に入った。

 

 五十人ほどの村の男衆が、筵の上に座って待っていた。

「遅せえじゃねえか、仙蔵っ。夜逃げでもしたかって話していたところだっ。圭助っ、おめえも一緒かっ、なんだって女房なんか連れてきたっ」

猪吉は仙蔵と圭助だけではなく、子供を背負ったおきつまでもが来たことに驚いていた。

村人の目が、三人と赤ん坊に注がれる。

 仙蔵は松次郎を探していると目があった。

予定が変わったことを告げようにも告げられない。皆の視線が集っていることもあり、小声で圭助に注意した。

「猪吉が仕切る前に明るく言えばいい。呑んで使っちゃいました、あははって」

圭助の後ろに立っているおきつも背中の帯を引っ張った。

「猪吉さんの命令だったことは言わないでねっ」

「ああっ、分かった・・・」

 

 圭助はガタガタと震え出し、すり足で皆の前に進み出た。

「みっ、みんな〰っ聴いてくれ。おっ、おらは仙蔵と一緒に蕎麦の実を買い付けに出た・・・けんど、旅の途中は怖くて腹が痛くなって、あんまり痛てえもんだから、まぎらわすために酒を引っかけたら酔っちまって、気付いたら知らねえ宿屋の連中にまで驕っちまった。それを仙蔵がずっと庇っていてくれたんだ。今まで黙っていてすまねえっ」

 

 聴いていた村人は、何の事だとぽかんとして静まり返ったままだった。

しばらして、一人が声を上げた。

「相変わらず、おめえは馬鹿だなっ。わしにも驕ったことがねえくせに見ず知らずの御他人様に呑ませるってどういうこったっ。わしにも驕れっ」

この声につられて、他の村人も「そうだっ、おいらなんて三月(みつき)も酒を呑んでねえぞっ」と囃子立てた。

 第一声を上げたのは、松次郎だった。

松次郎は続けて、「久しぶりに酒が呑みてえなぁ~っ」と隠れながら声を上げた。

「おらも呑み食いしてえな~っ」

「お前さん、もともと酒が呑めねえだろう。水でも呑んでろっ。よっ、水呑み百姓っ」

「やかましいっ」

「あははっ」

松次郎のおかげで、断罪裁判の様子にはならず、方々で久しぶりに宴会をしようじゃないかと声が上がってきた。

 

 「おうおうっ、なにを言っているんだっ。今日は仙蔵の使い込みの一件で集ったんだろうっ」

猪吉が仕切り始めようとしたところに、松次郎が前に出た。

「猪吉さん、あんた聞いてなかったのか?今、圭助が自分で呑んで使ったって名乗り出ただろう」

庭に集った村人の声が凍ったように静まり笑顔は消え、一転して張り詰める。

そこへ、おきつが恐縮しながら頭を下げて、圭助の隣に進み出た。

「すいませんっ、うちの馬鹿亭主が酒なんて呑んでしまって。あれだけ呑むなって口を酸っぱくして言っておいたのに。でも、この人も一揆の残党やら夜盗やらで怖かったんだと思います。他の村では打壊しや放火まであって、借金棒引きの一揆で兵隊さんが取締っていたというじゃありませんか。うちの人はどうなってもかまいませんが、みんなのために信州まで買い付けに行ってくれた仙蔵さんを、どうぞ労ってやって下さい」

 再び、どこからともなく拍手が起った。

仙蔵はまた松次郎が扇動して拍手しているものだと思ってみたが、そうではなかった。

猪吉に借金があり、今では使用人として働いている、宗八という四十がらみの男だった。

皆も宗八一人が拍手している様子に辺りを見渡し様子を窺っていたが、ちらほらと拍手が響く。すると、村の男衆全体の拍手となり労いの言葉も聞えてきた。

「仙蔵、ありがとう。わしらのためによくやってくれたっ」

 思わぬ言葉と拍手に仙蔵の目頭が熱くなってゆく。

ぐっとこらえて、仙蔵は圭助の隣に進み出た。

仙蔵は村の集めた銭の中から、手間賃を貰う事を話そうとすると、

「待て待て待てっ!話が違うぞっ」

猪吉は流れが変わってきたことを押し止めようと、仙蔵たちのもとへ駆け寄ってきた。

「こいつは村の金を使い込んだんだぞっ」

村人の拍手は也を潜め、再び場が凍りつき、皆、猪吉を見つめている。

 仙蔵はさっと猪吉の隣に近づき、耳元へ囁いた。

「猪吉さん、圭助を脅してわざと使い込ませて、おいらに罪をなすりつけようとしたってことは黙っておきます。そうじゃねえと、あんたに借金がある人たちだって、自分も脅されると思って黙っていないと思う。ここは寛大に宴会をするってことで手を打った方がいいと思いますよ・・・」

 

 猪吉は村の衆を一望した後、ゆっくりと仙蔵を横目で見る。

仙蔵は続けて、「あと、今後圭助一家に無理難題を言わないで欲しい・・・。そして、おいらにも意地悪しねえでくれ。そうすれば、この事は黙っている・・・」

仙蔵は賭けに出たが、猪吉は何を考えているか分からない。

 猪吉は再び村人を見渡しながらも、体は震えていた。

その震えは怒りだったのか、脅えていたのかは定かではない。ただ、一言返す。

「分かった・・・」

仙蔵は猪吉の硬直した顔に「じゃあ、宴会を開くって皆を安心させて下さい」と微笑んだ。

 仙蔵も恐ろしかった。猪吉がどうしてここまで自分を嫌うのか。

旅に出る前もそれほど話をした事もなく、年貢を納める手伝いや普請だって断った事は一度もない。ましてや迷惑をかけたこともない。理由が分からないものほど不安になる。

その不安が、雪だるまの様に膨れ上がり、頭に重く圧し掛かる。

 猪吉が村八分しようと企むほどの憎悪とはなんなのか。全くここら辺りがない。

親父の代の時に恨みを買ったのか。その又、先代の恨みなのか、不安が不安を呼び込んでいた。

 

 猪吉がやっと声を上げた。

「じゃあ、明日の夕時に宴会をやろう。宴会と言ってもそれぞれの家のもんを持ち寄って、酒を呑むくらいだが。場所は神社ではどうだろう」

村人も猪吉の口調のぎこちなさを感じ取っており、腫れ物に触るように妙に同調した返事をする。

「それはいい。夏祭りもできなかったし丁度いい機会だ。氷川様にお供えをして来年の五穀豊穣をお頼みしよう」

「そうだな、それがいいっ」

「無駄がないしな」

猪吉は皆に告げると、そそくさと家の中に入ってしまった。

 

 散会した後、村人たちは翌日が宴会と決まり足取りは軽い。

圭助とおきつは事の他喜び、仙蔵に頭を下げた。

特におきつは興奮した様子で振り返る。

「仙蔵さん、見ててほんと胸がすっとしたわっ、ありがとうございますっ。明日はお祭りだね。あんたも黙ってないで何とか言いなさいよ」

「せっ、仙蔵、本当にありがとう。これで、おいらは猪吉さんに理不尽な事を言われねえで済むと思う。けど・・・」

 仙蔵も猪吉の態度に引っかかっていただけに、圭助の顔色が冴えないのも分かった。

「圭助、もういい。久方ぶりの祭りだ。明日の事を考えよう」

「ああっ・・・そうだな」

おきつは圭助の物言いたさや不安を汲み取っていた。

「ちょっと、しっかりしてよね。いくら祭りだからって呑んじゃ駄目よ。あんたこそ水でも呑んでなさい」

「ええっ、ああ・・・。でも、お茶ぐらいは飲ませてくれよ」

三人が会話していると、松次郎もやってきた。

「仙蔵、とりあえずは良かったな」

村人がざわざわとしていると赤ん坊が泣き出したため、圭助とおきつは先に帰した。

仙蔵は松次郎と帰る途中にも、村の人々からも親しみをこめて「ありがとうな」と声をかけて去って行った。

 

 人気がなくなったところで、松次郎が口を開いた。

「圭助は良く言ったな・・・」

「うん、実は圭助は、わざと使い込む様に猪吉に指図されていたらしい・・・」

松次郎は立止って、仙蔵の顔を見つめた。

「どういうこったっ」

仙蔵は、猪吉の家の近くの水車小屋での一件を掻い摘んで話した。

 

 「そこまでしてお前さんをはじきたいのか・・・」

「松さん、おいらが猪吉に嫌われる理由が分かるかい?ずっと考えていたんだけど、全く思い当たらねえんだ。それとも、親父の代の時に何かあったのか・・・」

仙蔵は大きく溜息を付き、夕日に顔を向けた。

「そうさなぁ・・・わしが知る限りじゃあ、お前さんは真面目だし、他は誰も文句も言ってねえどころか、むしろ期待しておる、今回の事で余計に。まあ、少し目立つところはあるがね。明日、宴会になったのは、お前さんのお陰だと多くの者が思っておる・・・」

松次郎は腕組みして、再び歩き出す。

「親父さんの辰郎は大人しい男だったから猪吉と揉める事はしねえはずだ、思いつかねえ」

仙蔵も両親とも無口な人だった思い出が浮ぶ。

「でもまあ、明日の宴会は皆で楽しくやろう。飯食ってくか?」

松次郎は誘うが、仙蔵は断った。

「明日、宴会だからいいよ」

「そうか、猪吉とはあんまりかかわらねえこった」

 

 仙蔵が家に着くと薄暗く、家の中は真っ暗で、外で出て月明かりを頼りに行灯に火を入れる。

今更ながら、寡黙な両親を思い、粗末な仏壇の前で手を合わせる。

今日の振る舞いが正しかったのか、良く分からない・・・。

父の大人しい性格に物足りなさを感じていたのは確かだ。その反動で、つい言ってしまったのかとも振り返る。

圭助一家は喜び、宴会の事でも村人は喜んでいたよと、仏前で報告しながら己を擁護する。

これしかなかったんだ・・・。これで良いんだよな、おっとう、おっかあ。

返事などあろうはずがないと、自身の問いかけをふと自嘲し、一人飯の支度をする。

近所でもらったごぼうを鍋に入れ、残り飯を味噌で煮込んで啜った。

空腹は満たされたが、猪吉の顔が目に焼き付き溜息ばかりが漏れてくる。

依然、胸の痞えが取れぬまま布団に横になり、忘れようと目を閉じた。

 

 翌日、蕎麦の生育を見ると、苗は順調に育っていた。

早ければ十一月の半ばには収穫できる。それを又、春先に栽培して、順調に事が運べば、夏前にはもっと収穫できるはず。

実を結んでくれと、一尺程に生長した蕎麦を見つめる。

 仙蔵は家に戻って茶を飲んでいると、圭助とおきつが赤ん坊を背負って現れた。

宴会にはまだ時間があるのにどうしたと、仙蔵が出迎える。

「蕎麦の手伝いがあると思って顔を出した」

圭助の表情は晴れやかで、言葉も明瞭だった。

おきつが握り飯の包みを仙蔵に手渡した。

「そろそろお腹が減ったんじゃないかと思って。あたしもなにか手伝えることはない?」

「そっちだって赤ん坊がいて大変だろうに。まあ上がってくれ」

仙蔵はがらんとした居間に、圭助夫婦を囲炉裏の前に座らせ、茶を出した。

障子を開け、おきつに裏の畑を見るように言う。

「あら、結構育ったのね、馬のおしっこがかかっても」

おきつの皮肉に、顔をゆがめる圭助を見て、仙蔵はふっと笑う。

「圭助、しょんべんの事もおきつさんに話したのか?」

「ああ・・・ほら、蕎麦が全滅したらってどうしようって心配だったから」

おきつは茶を啜り、「この人の口癖って、いっつも『どうしよう』でしょ。あたしからしたら、人に聞く前に考えて欲しいもんです。他の人に馬のおしっこがかかった蕎麦のことなんて言えやしませんよ。みんな変なことを考えてしまいますから」と顔を顰める圭助に目を細め呆れている。

「知ったとしても、誰も蕎麦つゆが馬のしょんべんなんて誰も思わねえよ」

「いやね、そこまで言わなくていいじゃないの、気持ち悪い」

仙蔵は夫婦の明るい様子に安堵し、竹皮の包みを開けた。

「本当に貰ってもいいの?」

「もちろんですよ、仙蔵さんにはこんなんじゃお礼にもならないけど食べてください」

おきつは茶を置き、正面に向き直って頭を下げた。

続いて圭助も頭を垂れる。

「助かったよ、本当にありがとう」

仙蔵も頭を下げた。

「いいよ。じゃあ、頂きます。おいらばかり食べるけど、お二人はもう食べたの?」

「ええっ、あたしたちは来る前に・・・それより、お話を持って来たんです」

おきつは勿体つけたように、その先を話さず、にこにこしている。

「どうしたの」

仙蔵は食べようとした握り飯を乾かないように、再び包む。

「仙蔵さんが買い付けに出る前、あたしの実家から相談されましてね」

本題をなかなか切り出さないおきつに痺れを切らし、圭助が先走る。

「要は、嫁の話だ」

「なにさ、あたしの兄さんに頼まれた話だよっ、邪魔しないで」

「嫁?」

仙蔵は思わず手を止めた。

おきつは嬉しそうに「幼馴染で、栗原宿で笹子屋っていうお団子を売っている、おさよちゃんっていう十九になる人がいるの。器量は良いし、優しいし、体は丈夫だし、」と指折りおさよの長所を上げていく。

「頑固でなかなか嫁に行かないから、行き遅れの女子らしい・・・」

おきつはぴしゃりと圭助の膝を叩く。

「うるさいわね、失礼でしょ。あれ、何言おうとしてたんだっけ・・・あっ、そうそう、頑固って言うより、しっかり者なの。どう?」

「どうって、いきなり言われても・・・。見ての通り、うちは貧乏だし」

「そんなの気にする事はない。おらが言うのもなんだけど、うちはもっと貧乏だっ」

圭助は急におきつの肩を抱き、自分も話しに加わりたくて割り込んでくる。

「ちょっとやめて、貧乏自慢してどうすんの。そもそもあんたが町場で酒なんか呑むからでしょっ。この貧乏神はさておき、一人でいるのも良いけど、仙蔵さんとお似合いだと思うの」

飢饉続きで食い扶持の事に頭を痛め、嫁を貰うという考えすらなかった。

 昨日の晩も一人で仏壇に手を合わせ、飯を食い、寝て起きて、苗を見て考えていた。

がらんとした、この家は物音しかしない。

 それに較べ、圭助のところは借金もある。文句を言われながらも圭助は嬉しそうだ。

親父に、男は頼っちゃいけないと教えられた。

けど、この寂しさを消すためには、誰かがいないと消せない。

結局は、誰かに頼ることになる。親父もおふくろに・・・。

「おきつさん、大丈夫かな」

「なんです?」

「畑も痩せているけど、お団子屋さんに奉公してんじゃ・・・」

「どうしたの?昨日の仙蔵さんじゃないみたい。この人だって、お酒さえ呑まなければ仕事もするし、あたしだって一人で生きていけって言われても、この子もいない。ねえ?」

おきつは赤ん坊に顔を寄せて微笑んでいる。

仙蔵はなんだか落ち着かなくなり、急に祝言のことやら考えると不安になった。

「あっ、あんまりないことだけど、一度、ここをその人に見てもらってもいいかな?」

「ここにおさよちゃんを連れてくるって事?」

「うっ、うん。話が急でびっくりして。それより、おいらで良いのか分からねえ・・・」

仙蔵は茶を飲むと、再び包みから握り飯を取り出して食べ始めた。

おきつは呆れたようにふと笑い、「連れて来ても良いけど、気に入らないからって、その場で断らないでね。おさよちゃんだって仙蔵さんに断られたなんてなったら、恥ずかしくて帰れなくなる」と握り飯を食べる仙蔵を覗き込んだ。

「そんなこと言ったって頑固なんだろう?墓石みたいな顔だったら、おらあ、やだね」

また、圭助がちゃちゃを入れると「墓石ってどんな顔よっ」とおきつが睨みつけた。

「こうやって、角ばっててさ」と圭助が四角く指で描いていく。

「馬鹿馬鹿しい。おさよちゃんは色白で小さな顔よ。目元もすっとして賢い顔してんのっ。仙蔵さん、ちょっと考えておいてください」

「あっ、ああ・・・」と仙蔵は茶を飲んで、おきつに頭を下げた。

「ところで仙蔵、蕎麦でも何でも手伝うことはないか?」

圭助が話を変えて、畑に目を向けた。

急な嫁の話に仙蔵は独りになりたくなった。

「大丈夫。手伝ってもらいたいのは収穫の時だから」

「じゃあ、あたしたちはそろそろお暇(いとま)しますね」

圭助とおきつは帰って行った。

「また宴会で・・・」

 

   (8)

 仙蔵は圭助たちが帰った後、ごろりと寝転び、ぼーっと天井の煤を眺めて想像する。

「おさよさんかぁ・・・」

色白で器量良しと聞き、頬が緩む。

「おいっ、仙蔵」

はっと飛び起き、畑の方に体を向けると障子が開いていた。

「あっ、松さん」

「何、にやにやしてんだ・・・」

「にやにやなんてしてないよっ。歯に飯が詰まったから舌で取ろうとしたんだ」

松次郎は縁側に座って、首を傾げた。

「ふーん、まあいいや。夕方、宴会だろう。今から山に行って雉(きじ)でも取りに行こう」

「あっ、そうだ。すっかり忘れていたよ。おいらも何か持っていかなくちゃだった」

 

 仙蔵は手製の小弓を持って、松次郎と山に入る。

松次郎の放った矢は、見等外れの方角に飛び、雉は嘲笑うかの様に飛び立つ。

「目が霞んで駄目だ・・・」

仙蔵は瞬時に小弓を引き、松次郎が逃した雉に向け、ぱっと矢を放つ。

きーっと泣き声が山に木霊し、雉(きじ)が草むらに落ちた。

仙蔵は小一時間で三羽を射止めていた。

「相変わらず、いい腕してんな。最近見えずらくてしょうがねえ。猟師に商売換えした方がええかもしれんぞ」

「松さんはここで待ってて」

仙蔵は射落した雉を拾って、松次郎に渡す。

「もう一羽くらい取ってこようか」

「お前さんが猟師なんてなったら一年と経たねえ内に山から雉がいなくなっちまうな、これだけ獲れば十分。そろそろ帰って、こいつを絞めよう」

 

 山を降りて仙蔵の家に戻ると雉を絞めて吊るす。

「これは松さんが獲ったことにして欲しい・・・」

「どうしてだ?折角、お前さんが仕留めたもんだろう」

仙蔵は石に腰掛けて弓の張り具合を見ながら「昨日の事もあったから目立ちたくない・・・」と呟いた。

「そうか・・・手ぶらじゃなんだからこれを持ってけ、漬物だけど」

松次郎は自分の荷物を取り出した。

仙蔵はそれを受取ると「頃合を見て、宴会を抜け出すよ」とびーんと弦から手を放す。

「おかしなもんだ。そもそもお前さんを労う宴会なのに、目立たねえように先に帰るって」

「いいよ、揉めたくないから・・・」

共に溜息を吐くと、会話が途切れた。

「女衆が神社で準備しているから、お勝にこの雉を渡してくる。お前さんは後から来るといい」

松次郎はまだ血が滴る雉を束ねると、神社に向かった。

 

 お八つ過ぎ、仙蔵も神社の鳥居を潜った。

まだ予定時間より早かったが、待ちきれない男たちは輪になって、持ち寄った土産を肴に酒を呑んでいた。

「おっ、来た来た来たっ。仙蔵、早くこっち来て一緒に呑もうっ」

「ほらっ、駆けつけ三杯っ」

村人から酒の入った茶碗を渡される。

松次郎もすでにやっていて声をかけた。

「雉鍋がもう少しでできるぞっ」

騒乱続きで、食も乏しい中、久しぶりのご馳走とあって男も女もはしゃいでいる。

大きな鍋をかき回していた圭助も仙蔵が来たと知ると、しゃもじを放り出してやってきた。

「久々の雉鍋だっ、うれしいね~っ」

圭助はおきつに火から目を離さないように言われると「もう少しで出来るからなっ」と喜んで戻っていった。

松次郎は浮かぬ顔つきの仙蔵に「皆が楽しそうにして良かったじゃないか。とりあえず、笑って」と背中に手を回して、酒席の輪の中に入るように導く。

 

 その後を追うように、仏頂面の猪吉は女房と娘二人を連れて現れた。

男たちは猪吉一家に気付くと酒を置き、猪吉の周りに集う。

女房と娘たちは支度を手伝いに行き、猪吉も酒席に加わった。

猪吉に村人は酒を差し出し、一口で呑み干すと「おーっ」と歓声が上げ、「良い呑みっぷりだっ」と拍手が沸き起こった。

 猪吉が茶碗を茣蓙の上に置くと、輪の中央を挟んで正面に座る仙蔵が目に入った。

当然、仙蔵も猪吉と目が合ったため頭を下げた。

宴会とあって、猪吉も笑みを作って茶碗を上げて見せた。

早くから来ていた連中は、既に酒が回り「雉鍋はまだか~っ、女衆も早く来いよっ」と声をかける。

女たちも「はいよ、子供たちも手伝っておくれっ」と支度をしながら、よもやま話に花が咲き笑い合っている。

 仙蔵はそんな様子を見ながら、ちびりちびり呑んでいると、隣の男が酒を注ぎ足した。

「仙蔵~っ、おらあこんな嬉しい日は久しぶりだぁ。一時は村を焼かれんじゃねえかと生きた心地がしなかった。おめえさんが蕎麦も買って来てくれたから、飢え死にしなくて済むかもしれんと思うと、おらあ、泣けてくる・・・」

 その隣に、猪吉の使用人で、昨日真っ先に拍手をしてくれた宗八が、「ああっ、泣き上戸のおめえが呑むと湿っぽくなるんだよ。けんど、考えてみれば去年の秋以来じゃねえのか」と親しみを持って仙蔵に酒を注いだ。

「一年ぶりかぁ・・・また、皆とこうして楽しくやれればいい」

仙蔵はしみじみと振り返ると、宗八も「そうだな」と頷き酒が進む。

 「出来たよ~っ」

圭助とおきつが二人して大鍋を酒宴の真ん中に置くと、女達を子供らが手伝い、持ち寄った土産を皿に乗せて来た。

男たちだけだった円座に女子供も加わり、神社の境内一杯に広がった。

どこからともなく「猪吉さん、先にやっちまっているけど、お供えをお願いしますっ」と声が上がると、酒や食べ物をお盆に載せて、本殿に祭られている氷川様にお供えした。

村人は猪吉の後ろに並び、なんとか生き残れた感謝と来年の豊作を願って、式礼を共にした。

 再び座に付くと、猪吉が宴会の音頭を取り本格的に始まった・・・。

仙蔵は皆の酔い具合を見計らって、松次郎に声をかける。

「おいらは用を足しに行たって言ってね。このまま帰る」

「ああっ、気をつけてな」

仙蔵は周囲に気付かれぬよう宴会を抜け出し一人帰った。

 

                         (9)へ続く。