なんだかネコ続きの話題となっていますが、私はすごくネコが好きな訳ではない。
どちらかといえば怖い。
思い返えすと、あまり良い記憶がない。
学生の頃、親戚の家のネコはおとなしいと聞いていたのでおっかなびっくりなでてみた。
すると、ネコは私の膝の上に乗ってきて目を閉じて気持ち良さそうにしていた。
私もネコの毛並みが柔らかく、暖かさに気を良くして談笑していると、いきなり私の撫でていた手をバリバリっと掻きむしって逃げていった。
あまりの痛さに声を上げて、親戚に「大人しいって言ったじゃんっ!ただなでていただけだろうっ」と被害を訴えた。
すると、親戚はなんでもない素振りで「機嫌が悪かったんじゃないの?あはははっ」と私の傷を心配する事もなく煎餅を食べながら笑っていた。
「こっちはちっともおかしくねーよっ。傷の手当をしないとっ」
私は引っ掻き傷を親戚にこれ見よがしにアピールした。
「大丈夫だよ、放っておけば治るから。それよりお茶飲む?」
ネコの機嫌の変わりやすさにも驚いたが薄情な親戚には呆れた。
そして約5、6年前、柴犬が看板犬であり、また、捨てネコを保護し里親を探す喫茶店によく通っていた。
ネコが好きというより、柴犬を散歩させる事が好きだった為だ。
その店には飼いネコもいた。
綺麗な毛並みの三毛ネコ。
私は過去に引っ掻かれた事があるから近づかずにいた。
ある日、柴犬の散歩が終わり、喫茶店に戻って椅子に座って寛いでいた。
柴犬は骨のおもちゃを持ってきて床にポトリと落として、私を見上げる。
「遊ぼうよ」と私の膝に手を乗せせっついてきた。
その仕草がとてつもなく可愛い。
柴犬と骨のおもちゃを引っ張り合っていると、三毛ネコも寄ってきて私の隣に座った。
柴犬が遊び疲れて床に伏せると、今度はネコが私に寄り添ってきた。
「ニャー」と泣くものだから、柴犬と同じ接し方でなでていると、
いきなりガブっと噛みつかれた。
「うぎゃーっ、痛ってーっ!」
咄嗟に手を引っ込めた。
すると、ネコの顔ごと引き寄せている状況に更に驚いた。
ネコの前歯は内側に反っている為、より深く食い込んでしまい、引き離そうにも離れず、噛み付いたくせにネコも「ぎゃー」ともつかない声を上げて逃げ出した。
余りの痛さと噛み付いたネコが離れない衝撃に二度と触れないと恐れる様になった。
前置きが随分と長くなってしまったが、これで私自らが好んでネコに寄っている訳ではない事は理解してもらいたい。
ネコが寄ってくるんです。
メシを食っている時、休憩している時に。
さて、最近も仕事で信濃町に出かけました。
先方への訪問時間よりも20分前に現地に赴き、周辺をフラフラしていると、神社を見つけました。
多武峯(とおのみね)内藤神社。
江戸時代に内藤清成が創建し、現在の場所に移築したもの。
(狛犬さんと本殿)
望んでも仕方がない様な御時世に、なにを願うか・・・。
ふと考える。
具体的に、仕事が上手くいくとか、良い生活ができるとかそういう類の願いをも浮かばず、ただ一つ祈願する。
原動力となる強い希望が欲しい。
自分を動かす強い希望があれば前進できる。
私はそれすらも失い諦めかけている事を知る。
自分の心持ちを神頼みするばかりではなく、自らに意識を持たせ、今すぐじゃなくても良いから自分自身で立ち上がろうと手を合わせました。
また、神頼みをしても願いが通じなければ、神様のせいにし、神仏を否定する様な理由にもしたくなかった。
(本殿左側にお稲荷様)
こちらにも手を合わせた後、右側の神馬殿にも参拝。
(神馬殿)
頃合いも良く訪問先に向かい、無事要件を済まし、千駄ヶ谷駅方面に向かう。
途中、置物のネコが二対塀の上に並んでいるのかと目を凝らす。
ふと、先程の狛犬さんの様で近づいた。
「よく出来ているな〜ぁ」
更に近づくと、二対のネコがちょっとだけ動いた。
「うわっ」
まじまじと見ても、2匹のネコは逃げない。
(左側のネコ)
(以前ブログに掲載したネコが右側に座っていた)
赴きのある家を守る狛ネコの様にも見える。
なかなかの近距離に近づいても、
ネコは目を閉じたまま動じない。
不思議なもので、一度守りネコの様に見えると、
そうなのではないかという理由を探したくなった。
ネコは家につくというから、
この家は安全なのだろうとか。
また、豪徳寺に井伊直考を呼び寄せた招きネコの様に、幸福をこの家に呼んでいる様にも見えなくもない。
人はある物事に対して、こうなんじゃないかと推測すると、その理由を探そうとする事に似ている。
ならば、自分に当てはめてみるのも一つの実験だ。
この様なネコに遭遇したのも、ツキが回ってくる前兆だと仮定する。
そして、その予兆を探す。
「そうだ、さっき内藤神社にお参りしたからだ。これも何かの縁」
こう考えたりもできる。
ちょっと話題が変わるが、「自分は運が良いと思う人と自分は運が悪いと思う人が宝くじを買った時、どちらが当たる確率が高いか」という心理学の実験をイギリスあたりの大学で行った。
結果、どちらも同じ当選確率だったという。
つまり、運の良し悪しも思い込みだととも言えなくはない。
ただ、ここで思う事は、月並みな言葉だけれども、
「宝くじも馬券も買わなきゃ当たらない」
ということだろう。
別にギャンブルに手を出せというのではなく、運の良し悪しは思い込みである可能性が高い。
私もそうだが、自身の少ない経験を元に未来を予測する。
しかし、予測する物事に幾度向き合い、経験しただろうか?
私がネコに引っ掻かれたり噛みつかれた経験は、人生でおそらく4、5回。
今後、ネコが私に危害を加える確率を計測するには、圧倒的に実験回数が少な過ぎて予測できない。
例え100回経験したとしても、
次の結果が予想通りとなる確率は誤差が大きすぎて解らない。
100回の実験では正確なデータは得られない。
そして、統計による確率の傾向でしかない。
実験においては、たった100回。
しかし、人生では100回の経験はそうそうできない回数だ。
良くも悪くも、自分の少ない経験数から結果を予測している事が大概だろう。
すると、私の予測はいい加減ということになる。
先にも上げたが、人は物事に「こうなんじゃないか」という仮説を一度立てると、その仮説に導く理由を探してしまう。
何かチャレンジしようとしても、
一度ダメなんじゃないかと思うと、出来ない理由を探し出だす。
そして、ダメな理由を列挙し、チャレンジをやめてしまう。
狛犬さんと狛ネコさんを見た私は、見方を変えた。
物事へのチャレンジに対して、出来る理由を探してみよう。
ネコに愛想を振り撒き、手を振って駅に向かった。
当たるか当たらないかは、買ってみなきゃ解らない。
自信があろうがなかろうが、やってみなきゃ解らない。
実験と思えば、気も楽だ・・・。
失敗しても上手くいっても、そこから何かは得られるだろう。
なにもしなければ、データもなにも得られないのだから。
「明日も実験だ」
(豪徳寺の招き猫)