【 死に場所 】place of death 全34節 【第2部】(27) 読み時間 約10分
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「あっちーいっ、こっちが焦げちまうよっ。あっ、仙蔵、調度良かった。一緒に水かぶんねえか?」
仙蔵は病人部屋は寒いからいいと、ふんどし一丁の勝吾郎に断った。
「あれっ、芳蔵さんは?」
勝吾郎は柄杓の水を頭からかぶり、ぐぶぐぶと飛沫を上げながら答えた。
「芳蔵さんなら、今さっき弥助さんと表に出てったよ。だから脱いでんだ」
仙蔵の頬に勝吾郎の口から出た飛沫が当たり、袖で拭う。
「ちょっと待たせてもらってもいいですか?」
「だったら、一緒に火の番を手伝ってくれ。おいらが薪をくべるから、仙蔵は竹筒で吹いてくれ」
勝吾郎の後に続いて、竈(かまど)の火をふうと吹く。
「なっ、あっちいだろう、焼き付く様にあっちいだろう?」
仙蔵は後ろで薪を集めてくる勝吾郎に振り向いて、苦笑いで「うん、あっついね・・・」と答えて、ふーっとゆっくりと吹いて様子を見る。
「あっちいから着物なんて脱いじゃえよ、おいらみたいにさっ」
「でも、芳蔵さんが戻ってきたら怒られるんじゃないですか?」
仙蔵は竈の火を見ながら断る。
「だーぁっ、この野郎っ!また脱いで仕事しやがってっ」
芳蔵が戸を空けたまま怒鳴り出し、仙蔵はびくりと立ち上がった。
「すいやせんっ」
勝吾郎はこそこそと着物を羽織って帯を締め始めた。
「何度言ったら分かるんだっ」
「でっ、でもあっちいんですよ~っ」
口答えした勝吾郎に、むかっとした芳蔵は帯も締めやらぬ勝吾郎の首根っこを掴んで、
「おめえはあっちいしか言えねえのかっ!口を開けば、あっちいあっちいって、みんなあっちいんだよっ、こっち来いっ」と表に連れ出した。
「やめて下さいっ」
勝吾郎の声に、炊事場の男も女もなんだなんだと手を止め、表に顔を出した。
「この野郎っ!そんなに裸になりたけりゃ、これでも喰らえっ」
芳蔵は勝吾郎の着物を掴んで、はだけさせると雪の上に押し倒し、雪玉を作って投げつけた。
「どうだ、これでもあっちいかっ!岡田様に見つかったら俺が叱られるんだぞっ」
「すいやせんっ、もうしませんっ」
勝吾郎は雪玉を避けながら謝ると、「せっ、仙蔵が用があるらしくて来てますっ」と仙蔵を指差した。
えっ、と芳蔵が建物に振り返ると目が合った。
あっけに取られて口を開けたままの仙蔵に一部始終見られ、バツが悪かったらしく襟を直して「おおっ、仙蔵・・・さっき弥助さんとも話していたんだ」と何事もなかった様に近づいてきた。
仙蔵はちらりと勝吾郎に目を向ける。
その視線に気づいた芳蔵は苦笑いを浮かべて腕を組む。
「やんなっちゃうよ。年がら年中ふんどし一丁でうるせえから・・・おいっ、勝の字っ、炊事場では裸になるなよっ」ともう一押し勝吾郎をどやしつけた。
「へい・・・」
その騒ぎを聞きつけた弥助も顔を覗かせ、仙蔵と芳蔵が話している姿を見つけて寄ってきた。
弥助は、芳蔵と米の残量を見て話合っていたと告げ、岡田様の許しが出て握り飯二つならばと許可してくれた。
「ありがとうございますっ、若い者が喜びますっ」と仙蔵は頭を下げた。
「あれ、なんでお里さんが言いに来ねんだ?」
芳蔵は、実質、病人部屋の責任者のお里が言うべきだろうと首を捻った。
仙蔵は、芳蔵が見かけほど恐ろしい人ではないこと知るだけに、冗談めいた口調で告げた。
「実は、お里さんは芳蔵さんが怖いって言ってましたから、私はその代理です」
「えーっ、俺はお里さんの方がよっぽど気の強ええ女かと思っていたよ。ははっ」
弥助は「じゃあ、今夜の夕飯から、若くて動ける者は病人じゃねえ者と一緒に食うことにしよう。お里さんにも伝えてくれ」と用部屋に戻って行った。
病人部屋に戻った仙蔵は、お里に弥助の言(こと)付けを伝えると、ほっと胸をなでおろす。
「良かった、早く元気になってもらわないとね・・・」
するとまた、二人が廊下でなにやら話しているのを見ていた要三が痛がる様な声を上げる。
「お里さ~んっ」
「どうしたの」
仙蔵も要三に目を向けると、ぱっと目が合う。
要三は気まずいのか「なんでもねえ・・・」と違う方に目を向けふて寝を決め込む。
仙蔵は勝手な焼餅に、思わず「面倒臭せえな・・・」と呟いてしまった。
「駄目よ、あの人は身寄りがないから寂しいのよ」
お里は仙蔵に悲しそうな笑みを浮かべた。
「うーっ、お里さんっ」
また爺さんが声を上げ、「本当に背中から血は出とらんかね?」とわざと仙蔵を牽制するかの如く声を上げた。
仙蔵は「うるせ・・・」と言いかけたが、あのじいさんも身寄りがなくて不憫なんだと言い聞かせて閉口し、お里に尋ねる。
「あのおじいさんも身寄りがないんですか?」
「それが、いるのよ・・・でも、作兵衛さんは、長年、息子夫婦にいやみや文句を言い続けたのか、うるさがられて迎えに来ないのよ。ある意味気の毒だけど身から出た錆ね・・・だから、ぎりぎりまで引取りに来ないでしょう」
病人を労わらねばならぬ仙蔵だったが、わずかに優越感を抱く様な心境となり、悪い心だと封じようとする。
そうだ、不満があるから文句を言うんだ。そうそう上手くいっている人なんていやしない。
おいらだってそうじゃないか、世は理不尽だと今もそう思っているし、御救小屋に来てから尚更・・・。
ここはまだ話が出来る病人がいる棟だが、大病人、極大病人と呼ばれる重篤な病人は別の棟にいると聞く。
そこは流行り病で動けなくなった者ばかりで、仙蔵は行くこと許されない。
男女問わず老いも若きに関わらず、たまたま感染してしまった人たち。
仙蔵は、ふと消えてしまいたいと思いながら町を彷徨していたのに、体だけは丈夫であることに矛盾を感じる。
信一郎が、生きたいとすがる者あれば、死に場所を探していると喚(わめ)いた自分にも、世は理不尽だと言っていた事を思い出す。
生きたいとすがる者が、今、目の前にいる・・・。
おいらだって救われたいのに、何の因果で介抱なんてしている。ここが取払われた後、おいらだって望みなんかありゃしない・・・。
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「大丈夫?顔色悪いわよ」
お里が仙蔵に気を使って声をかけた。
「ええっ、大丈夫です」
「そう。もうすぐ夕飯だから、また手分けをして食べてもらいましょう。こっち来て・・・」
お里は、作兵衛のじいさんらに見つからぬ様に戸の影で、仙蔵に落雁を渡した。
炊事場から女が来て、皆と一緒に食べられる人は食堂へ連れて来て欲しいと言(こと)付けられる。
お里は動けない人たちの食事の介抱し、仙蔵が動ける者や若者を連れて食堂に向かう。
食堂に集まった病人部屋の若者たち、特に、市松は粥と握り飯、漬物と碌におかずもない飯でも、うれしそうに頬張っていた。
介抱人としての一日をやっと終えた仙蔵は、開放感に包まれるも束の間、また明日も来なければならないと思うと途端に憂鬱になり、重い足取りで家路を辿る。
翌日も昨日と同様、厠へ病人を連れて行き、飯を食わせ、体を拭いたり、身の回りの世話に手を焼いた。食器なども仙蔵が洗っているとすぐに時間が過ぎてしまう。
夕飯前に一息付いていると、弥助が仙蔵の下へやって来て、お里にも声をかけた。
二人が弥助に呼ばれると「どうだろう、仙蔵はほとんど休みなく働いているから明日休ませては」とお里に様子を伺う。
「仙蔵さんも休まないと疲れちゃいますからね。代わりに誰かお願いします・・・」
「それなら心配には及ばん、明日だけ他の女の人を手伝わせるから」
弥助は、女というところを強調する。
仙蔵はお里に頭を下げた。
「大変な時に休みをもらって宜しいんですか・・・」
「いいのよ、これでも二、三日はあたし一人で切盛りしてた時もあったから」
と言いながらも、お里は何だか少し不安な様子だった。
「やっぱり、明日も来ます」
「いいの、いいの。大丈夫だから。そんな事言っていたら休まらないわ」
「わしも他の者も様子を見に来るから心配せんで良い」
弥助の口添えもあって、十日目にして初めての休みをもらえる事になった。
再び、夕飯の準備に取り掛かる。
昨日同様、お里が病人部屋。仙蔵が病人を食堂に連れて行き食事を取らせる。
要三は、爺さんの作兵衛が病人部屋に残って、お里に食べさせてもらう事をひがんで
「今日は、足の調子が芳しくねえ・・・」とごね始めた。
仙蔵はまたかと硬く目を瞑る。少々きつい事だが、「少しでも歩いておかないと仕事ができなくなってしまいますよ」と年上の要三を諭す。
要三は顔を歪め、上目遣いで仙蔵を見つめている。
「一緒に食堂へ行きましょう。腕を回して下さい」
「分かったよ・・・」
要三は仙蔵の肩に腕を回し立ち上がる。
「要三さんは結構いい腕っぷしですけど、どんな仕事をしていたんですか?」
「大工だ・・・屋根から足滑らしちまってこのザマだ。そんでお払い箱、ツイてねえ・・・」
要三はくじいた左足を引きずりながら、仙蔵と共に歩く。
仙蔵は要三にどう言葉をかけて良いか分からず、「医者に見てもらったんですか?」と聞く。「ああっ、医者が言うには、痛みが治まるまでは安静にしていろってだけさ」
要三は本当に痛いらしく顔をゆがめて立ち止まった。
「それに良くなっても、その日暮らしに変わりねえ・・・おいらは、上州は富岡から十五で江戸に奉公に出されてから、かれこれ二十年ずっと江戸にいる。水呑み百姓の倅は口減らしだから、帰る場所もねえってこった。たとえ、身請け人が来たところで居場所はねえ・・・おめえさんの国はどこだ?」
「甲州です」
仙蔵は要三を支え、廊下を進む。要三は痛みをこらえながら話を続ける。
「じゃあ、おめえさんもおいらと同じで、丁稚に出された口か?」
仙蔵は要三とは事情は異なるが、否定をすると話が煩雑になると思い「ちょっと違いますが、帰る場所はありません・・・」とだけ答えた。
要三は横目をちらりと仙蔵に向け、「どんな場所でも、時々思い出すんだよな。帰っても仕方ねえのによ、ふっ・・・」と自嘲する。
食堂が見えた仙蔵は「まずは飯を食って、早くその足を治しましょう・・・」と重い要三を連れて中に入り、椅子を持って来てもらって要三を座らせる。
先に来ていた市松は、もりもりと汁と交互に食べているが、この若者も未だに身請人が来ない。
百姓でも、農業だけでなく商売もする豪農もあれば、裕福な本百姓もある。中程度、小作、水呑みと多種多様。中程度なら丁稚には余り出されないが、兄弟の多い貧しい農家の子供達は大抵丁稚奉公に出されてしまうから、江戸にはその日暮らしの者や出稼ぎ者が五十万人以上もいる。
そういった人間は、裏長屋などで細々と暮らしている。
宵越しの銭はもたないと息巻く職人もいるが、別の見方をすれば、いつ死んでもおかしくはないという裏腹な強がりとも言える。
仙蔵も父母を亡くしたが、江戸に出てきてから死というものが、長い年月を経た結果ではないという事をまざまざと見せつけられた。
たまたま偶然に、今日この日も病にかからず生きているにすぎない。
仙蔵は今、この場で介抱人をしていることだって偶然の成り行きで、皮肉とさえ思う。
白沢信一郎に出くわさねば、今頃どうなっていたのかも定かではないし、この御救小屋に厄介になっていたかしれない。
だからと言って、介抱している自分が良いとは思えない・・・。
明日は我が身、他人事とは思えない。だから、無性に焦りの様な気持ちと取り壊された後の事を気にかけながら、皆の食事の様子を眺めていた。
食事を終えた病人怪我人を部屋へ連れて行き、目の回る様な一日が終わった。
仙蔵は食器の後片付けに外へ出て、井戸の近くで洗い始めた。
「あっちいなぁ、もう~っ」と裏手で勝吾郎の声が聞こえてきた。
仙蔵は手を止めて、勝吾郎は外で何をしているのかと見に行く。
「あっ、着物姿・・・」
仙蔵の声に気づいた勝吾郎は、使わなくなった材木や柵に使っていた竹や紐などの資材の片づけをしていた。
「おうっ、仙蔵。ごみをまとめとけって芳蔵さんに言われてさ。全く人使いが荒いよな。体動かすとあっちいよ。おらは汗っかきだから着物が濡れて気持ち悪りい・・・」
仙蔵はふと、御救小屋が取払われたらどうするのかを聞いてみたくなった。
「勝吾郎さん、ここのお役が終わったらどうなさるんですか?」
「えっ、おらかい?いつも通り、種まきの時期まで出稼ぎさ・・・出稼ぎって言っても江戸の何処かだけどな。お前さんは?」
「決まっていません・・・」
力ない返事に勝吾郎は手を止め、仙蔵の顔に目を向けた。
「なんだか元気ねえな、どうかしたのかい?」
「いえ、もうすぐここも取払われるから、行く当てがない人もいて、なんというか・・・」
勝吾郎は汗を拭き、立ち上がる。
「酒も博打も御法度だけど、せめて最後ぐらい景気良くぱあーっとお開きにしてえもんだ。そうじゃなきゃ、おらも気が滅入っちまうよ」
「勝吾郎さんはいつも元気なのに、そんな風になる事があるんですか?」
「反対だよ、景気良い振りをしてるだけさ。そうでもしなけりゃ、やってらんねえよ。おらの家だって楽じゃねえのに駆り出されて、かかあもがきも養わなきゃならねえ。先が見えねえってのは辛れえよ、誰だって。だから火を見るんだ・・・」
唐突な事を言い出す勝吾郎に仙蔵は「火ですか?」と眉間に皺を寄せる。
「火を見るとかっかして活気が出てくるような気がしてな。そう思わねえか?」
「まあ、分からなくはないですけど・・・」
会話が途切れると勝吾郎は背を向け、再び片づけを始めた。
仙蔵は小屋の取壊しが間近に迫っている事を実感する。
「こりゃ、のこぎり持ってこねえと駄目だな・・・」
勝吾郎が長い竹がまとめられず独り言を呟いた。
仙蔵ははっと思いつき、「勝吾郎さん、その竹捨てるんですよねっ?」と聞くと、その声のでかさに驚いた勝吾郎はひっと肩をすくめた。
「びっくりさせんなよぉ~っ、これかい?捨てるやつだよ」
「もらってもいいですか?」
仙蔵が目を見開いて勝吾郎に迫ると「あっうん、いいんじゃねえの。どうせ捨てるもんだし・・・」となんだなんだと仙蔵の変わり様に驚いている。
「じゃあ、この紐ももらってもいいですか?」
「あっああ・・・いいんじゃねえの」
仙蔵は竹を何本か手に取り、乾いた色味具合を見て「これもらいますね、のこぎりはどこですか?」と聞くと、その裏の道具小屋だと指差した。
仙蔵は急いで道具小屋に入ってのこぎりを見つけると、竹を適当な長さに切って、それを二本持ってきた。
「これ、もらいますね」
「いいんじゃねえの・・・それ、どうすんだい?」
「この麻袋ももらっていいですか?」
「いいんじゃねえの・・・」
「勝吾郎さん、近々景気良くぱあーとやりましょうっ」
「なんだい急に、教えてくれよ」
やけに仙蔵が意気込んで笑顔を見せるもんだから、勝吾郎も何かが始まると顔をほころばせた。
「後で分かりますよっ」とだけ言い残して、仙蔵は竹や紐を麻袋に入れて皿洗いに戻った。
片づけを終えた仙蔵は病人部屋に戻ると、お里が声をかけてきた。
「どうしたの?仙蔵さん。やけに元気ね。なにか良いことでもあったの?」
「これからみんなを元気にするんですよ」
やにわに仙蔵が妙な事を言い出し、お里は「えっ?」と顔に力を入れ覗き込む。
「どうやって?」
「近々わかりますからっ」
仙蔵はお里に含み笑いでうなづいた。
「なんだい、気味の悪い笑い方して。変な事を考えているんじゃないだろうね」
「後のお楽しみですよっ」
仙蔵が上目遣いでお里を見つめると、「なにをおっ始めようってんだい?」と気にかかって不安そうな目をする。
「心配しないで下さいっ」
「疲れておかしくなったんじゃないだろうね?」
「まあ、おかしいって言えばそうかもしれないですけど・・・」
「大丈夫?今日はもうおしまいにして帰りましょう。夜勤の人も来ているから」
仙蔵はうなづき、弥助達役人の用部屋に行き、明日一日の御暇を頂戴した御礼を述べ退所した。
第二部(28)へ続く。