増税、還元、キャッシュレス。 そして明日は、ホープレス。

長編小説を載せました。(読みやすく)

【 死に場所 】place of death 全34節 【第二部】(19)~(20) 読み時間 約15分

 

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 (江戸名所図会7)
 

  (19)

 初日の晩、仙蔵は笹子峠の手前、黒野田宿まで行き一泊した。

二日目の朝、難所の峠を越え、上野原宿の木戸が閉まる刻限ぎりぎりの暮六つに辿り着き、辺りはすっかり暗くなっていた。

 宿屋の主人に宿賃を尋ねると二百文だと告げられ、仙蔵は御伊勢詣と告げ、なるべく安く宿に泊まりたいと願い出ると、素泊まりで七十文ではどうかと言ってきた。

木賃宿に較べるとそれでも高いが足が張り、他を探すのも面倒で七十文で泊まる。

湯に浸かると飯も食わずに寝てしまった。

 

 三日目。朝早く霧の立ち込める中、仙蔵は宿場を出立した。

上野原から阿弥陀海道の宿場までは近く、仙蔵はここの茶屋で粉麦の焼餅を食べた。

この宿場は小さく、ほとんど人が見られない。茶屋に立ち寄る客は仙蔵一人だけ。

 暇そうな女中に、笹子峠から駒木野までおよそ七里と聞く。途中、鳥沢から犬目宿の間が険阻な山道と教えられた。

また、駒木野宿は甲州道中で一番厳しい関所があるとも付け加えた。

「そうそう関所で思い出したんですけど、今月の二日か三日にすごいものを見たんですよっ」

女中は、良い話し相手ができたと、仙蔵の隣の長椅子にとんと座る。

大名行列よりも多い、四、五十人の科人(とがにん)の行列が、江戸に送られるのを見たという。

仙蔵は早口の女中の大きな声に驚いて、喉に詰まった焼餅をお茶で流し込む。

「何があったんです?」

「お客さん、忘れたんですか?そりゃ、郡内騒動に加担した人たちですよ。見るも無残に縄目を付けられて、髭も伸び放題の薄汚れたねずみ色の着物姿でげっぞりしているじゃありませんか。その中の一揆の頭取でしょうかね、三十がらみの男の人が大きな鳥かごみたいな中で縛られて。他の人は、植木台に座られてさらし者として運ばれて行きましたよ。後は、そぞろ歩きであんまりにも気の毒なもんで、わたしなんか目を伏せてしまいました・・・でも、もう一人の犬目宿の宿屋の主謀者は、まだ捕まらずに逃げているらしいですけどね」

仙蔵は自分の事で頭が一杯で、騒動の事さえ忘れていた。

「どうしてわざわざ江戸に送られたんでしょう」

「さあ・・・わたしには分かりませんけど、多分見せしめじゃありませんか。大月の近くの村から始まった一揆の人たちが、この近くを通った時は、それは礼儀正しかったんですよ・・・本当の下手人は、米屋と無頼者ですよっ。何の為に、米屋を打壊したんだか分かりませんよ。一揆が終わってから更に米の値段は上がり続ける一方。この期に及んで、また囲い米をしているらしいんです」

女中は溜息を吐いて「やんなっちゃう。お米が入ってこないし・・・」と前掛けの紐をもじもじと伸ばしていた。

仙蔵は、逃亡している頭取であった犬目の兵助と、蕎麦の実を買いに行った自分となんとなく重なる。

「やむにやまれず、誰かがやらねばならなかったんでしょうね・・・」

「そうですよ、食べ物を博打みたいに弄(もてあそ)んだ罰(ばち)が当たったんですよ。お役人は全く逆の事をしているんです、米屋だけを処罰したらお役人の立場がなくなっちゃいますからね」

 仙蔵は往来に目を向けて女中の話を聴いていた。

米を作りもしない商人が抱え込み、人の困窮などお構いなしに、より高く売りさばいて利益を上げる。

 農業は天気との勝負。手間はかかるし一定の税を納めねばならない。

四年も不作続きなら、役人だって商人だって世間がどうなっているか分かりそうなものだ。だが、役人は別として、商人は敏感である故、その動きは早いから米を抱え込む量も尋常ではない。自分の事だけで世間が見えなくなってしまった結果が打壊し。

郡内騒動は、商人が元凶と思われても仕方ない。

 人の不幸で忙しいってのも、やるせねえ・・・

桶屋幸太郎の難渋な表情が思い出された。

 仙蔵はこれからの身の振り方を思うと、小さな溜息が漏れ立ち上がった。

「ご馳走様・・・」

女中は仙蔵の口を歪める顔を見て、自分も立ち上がる。

「宜しかったら、焼餅を持って行きます?駒木野までお越しになるんでしたらお腹すいちゃいますよ」

仙蔵はまた途中の宿場で高い飯を食うのも気が引けたので、焼餅を三つばかり携え茶屋を後にした。

気を取り直し、「なんとかなるっ、なんとかするっ」と言い聞かせながら道中を進む。

 

 初めて見る猿橋という珍しい造りの橋がある。

その両脇に枯れた草花と木彫りのこけしの様なものが手向けてあった。

下を覗けば、絶壁の間を流れる川筋は荒く、幾重にも白糸がうねった様であり、岩に当たって砕け散って飛沫を上げる。

落ちたらあの世と、思わず身を仰け反った。

つい数日前まで、消えて無くなってしまいたいと悶えていた事を思い出すと、怖いと思った自分が情けないやら生きたいと思うやら、矛盾した感情に当惑し自嘲する。

村を出て三日だが、初めて見るものばかり。見物したいものは浮ばなかったが、お天道様の下歩き続けるうち、気分が晴れる程ではないが、冷静に今の心持を皮肉っている自分に気付く。

 まもなく大月を過ぎ、鳥沢宿を抜けると上り坂が続く険しい山道となった。

疲労も重なり息が切れ、喉も張り付きそうな犬目の峠。

その頂に辿り着くと風が吹きつけ西日が眩しい。

往来の旅人たち十数人が、枯れた松林の間から遠くの眺望に感嘆して立ち止まっている。

「まあっ、綺麗なこと」

「これぞ、絶景かな~ぁ」

大げさとも思える太った旅人に、仙蔵は半信半疑でどんなもんだと眉を顰めて近寄ってみる。

太った旅人が仙蔵の疑い深い顔を見て、指差した。

「ほれっ、あれを御覧よっ」

見ず知らずの太った旅人が汗を掻きながら満面の笑みで、もう一度「ほれっ、こっちさ来い」と手招きを繰返す。

妙に馴れ馴れしい男に急かされ、おずおずと男も女も入り混じる場所に歩み寄る。

旅人は、大きな富士を突き刺す様に「見よ、この絶景っ」と我が物とばかりに見せ付けた。

「おおーっ」

仙蔵は思わず太った旅人に顔を向け、同じく笑みがこぼれる。

「なんて凄いんだっ」

 燃える様な夕映え、両脇の松林が縁(ふち)。その中央に大きな富士の山。

裾野は雲海で覆われ、日輪が西の奥から雪の山頂や雲、大地を橙(だいだい)色に染める。

その後光が仙蔵や他の旅人らも包み込む。

 神仏に一番近い場所と言われる富士。

仙蔵は胸が熱くなり、おのずと手を合わせると涙が流れ落ちる。

 教えてくれた太った旅人も仙蔵の顔を見てうんうんとうなづき、その目からも涙が夕日に照らされ、きらりと輝き袖で拭う。

仙蔵と恵比寿の様な旅人は見つめ合うとうなづき、富士に向かって再び合掌する。

仙蔵自身、なにを願うとか、無事を願うといったことさえもない。

あの猿橋から下を眺めて咄嗟に身を引いた時と同様に、そこに思慮はない。

 富士を眺めてはまた拝む事を繰返していると、若い女の一向の話が聞こえてきた。

「もうそろそろ降りませんと真っ暗になってしまいますよ。ほらあそこの御茶屋さんだって店じまいですって」

女たちの視線の先には、腰の曲がった老婆が掘っ立て小屋の暖簾を下ろしていた。

仙蔵は女を見、再び老婆に見入る。

「あんなおばあさんがこの峠で店をやっているんだ。たくましい・・・」

どうやら女三人と男の共を連れての旅らしい。

仙蔵は女と目が合い「どちらまで」と聞くと、「身延(みのぶ)詣りです」と答えた。

「あんさんはどちらへ?」

「江戸に出てから御伊勢詣りへ」

「ほう、それはけったいな事ですね」

連れの男が感心している。

「まあ、無事に行ければですが・・・」と仙蔵は言葉を濁す。

「道中御無事で、御多幸をお祈り致します」と女たちが頭を下げた。

仙蔵も「皆さんもお気をつけて、御息災に」と一礼し、それぞれ反対方向に歩き出す。

絶景を教えてくれた太った恵比寿の様な男はどこかと辺りを見渡してみたが、すでにいなかった。

あと一刻ほどで宿場の木戸が閉まってしまうと歩調を速めて峠を下る。

 

 犬目宿には、それから半時程で到着したが、関所があった鶴瀬よりもものものしく町役人だけでなく、関所からの役人らも多く見られた。

阿弥陀海道の茶屋の女中が、一揆の頭取の兵助がこの宿場の百姓代だと言っていたから警備が多いのだろうと察した。

 犬目宿は、江戸からの身延詣りの客が峠を越える前に泊まるため、他の宿場に較べて旅人が多かった。とはいえ、一揆が治まってまだ三月。まばらといえばまばらだった。

仙蔵は真冬の風を受けながら安宿を探すが、そういった処は誰もが考える事で満杯だった。

仕方なく、百文もする木賃宿に泊まる。

宿は、値段の割には隙間風がびゅうびゅうと入り込み、仙蔵の首筋を撫でてゆく。堪らず湯に浸かってみるも、その湯がまたぬるい。

早々に部屋に入って、昼間の焼餅の残りを食べて早々に床についた・・・。

 

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( 富嶽三十六景「犬目峠」)

   

   (20)

 内藤新宿の臨時番屋の外は暗くなり、信一郎は行燈に火を入れる。

仙蔵も喉が渇き、茶を飲んで一息吐くと、岡っ引き四人がぞろぞろと戻ってきた。

 風に吹きさらされた岡っ引き達は、寒さが身に沁みて体を縮め手を擦る。

「只今、帰りました。おおっ、寒みい・・・」

「御苦労だったな。で、どんな塩梅だった?」

 信一郎は手ぶらの四人が大げさに疲れた風に装うので、怪しんで日中の様子を聞く。

「へい、行倒人も迷い人もおりませんでした」

信一郎は岡っ引き連中の顔をそれぞれ見渡し、眼を細めて小首を傾げた。

「変だな、昨日は八人もいたよな。そんで今日はこの仙蔵一人か。それもおいらが連れて来ただけかよ・・・」

「足を伸ばしてみたんですがおりませんでした」

信一郎は未だ信じられんと、今一度問い質す。

「本当に見て廻ったんだな?で、正平、どこら辺廻ってきたんだ?」

正平と呼ばれる鉤鼻の役者面の岡っ引きが「いっ、板橋方面まで見て参りました。そうだよな?」と他の三人に同意を求める。

他も互いに顔を見合わせて、うんうんと頷き合う。

「なんで板橋なんだよっ、呆れた・・・雁首揃えて四人で板橋見物かっ。板橋には板橋役人がいるだろうっ。板橋に何かあるんか?博打か?二手に分かれて見廻るのが常道だろうっ、よりによって四人で板橋って・・・訳分かんねえ」

信一郎は機嫌悪く首を振り、溜息を吐く。

まだ言い足りない信一郎だったが、岡っ引きたちが「板橋宿までは行きませんし、博打はしてませんっ。すいません」の一点張りに匙を投げて話を切り替えた。

当たりめえだっ。それはそうと、今日の夜勤は誰なんだ」

「あっしと卯之吉です」

正平が信一郎の顔を見る。

「お前らは今廻ってきたばかりだろう、そのまま夜勤か?」

正平はううと唸って固まっている。

「おめえら・・・夜勤前から博打のために番屋に集ったのかっ。そんで、おいらに見つかったから慌てて飛び出したまんまだったんだろうっ。それにこれ・・・お前の荷物がここにあるもんだから、戻れなかったって訳か」

正平は額に手を当て、「すいやせん」と謝る。

「今日、おいらが帰って来た時、おめえらは博打やってたよな?」

「白沢様、どうかお願いです。もうしませんからお咎めだけは・・・・」

四人は土間に手を付いて懇願した。

「汚れるから頭を上げろ。それはそうと、おめえらの中で一番勝っているのは誰だ?」

 正平が手をゆっくりと手を上げた。

信一郎は頷いて「勝率はどんぐれえだ?」と聞く。

正平は上目遣いで「なっ、七割前後というところです」と答えた。

「そん次は誰だ」

「はい」と白髪まじりの孝助が手を上げた。

「勝率は?」

「五分でしょうか・・・」

信一郎はふ~んと頷き更に聞く。

「三番目は?」

でこっぱちの伝造が手を上げる。

「五分を行ったり来たりです」

信一郎は、枯れ枝の様にガリガリにやせ細った卯之吉に目をやると、「七割がた負けております」と恥ずかしそうに答えた。

「卯之吉、お前は皆に借金があるんじゃねえのか?」

信一郎がじろりと他の三人に目を向けると途端に視線を外した。

「仲間内で博打なんてしたら、仲間じゃなくなるだろう。親はいつも正平なのか?」

信一郎が正平に顔を向けると、慌てて手を振る。

「いえいえ、順ぐりにやってますっ」

「いかさましてねえのか?」

「まさか、冗談でもそんな事を言わないで下さい。仲間内でいかさまなんてしたら袋叩きに合いますよっ」

信一郎は、黙って聴いている仙蔵にちらりと目を向けてから、正平を見つめた。

「どうしておお前が七割勝って、卯之吉が三割しか勝てねえんだ?」

正平は「さあ・・・」と首を傾げて困り果てる。

「丁半は、奇数と偶数の二つだけを予想して銭を賭けるよな。でも、百回やったら均等に勝率は五分って訳でもねえけど・・・正平、やっぱりおめえ、いかさましてんじゃねえのか?」

「白沢様、いかさまなんてしたら続けられなくなりますよ~ぉ」

信一郎の眉がぴくりと跳ね上がり、正平を睨みつけた。

「今さっき、博打はしねえって言ったばっかりじゃねえかっ。額に刺青入れて表歩けねえようにしてやるぞっ」

正平は「それだけは勘弁して下さいっ」と再び平に手を付き懇願する。

信一郎はやり切れないと不快を露わに首を回す。

「みんな、今まで勝った分を返して全部清算しろ」

「ええっ!そんな殺生な~っ」

信一郎は正平と顔がくっ付きそうな程顔を寄せた。

「これで博打は仕舞いだっ・・・額に刺青がいいか、清算するかどっちがいい?次、番屋でやったら、皆お払い箱だ。他の連中に見つかったらおめえらだけじゃねえ、おいらだって罷免される。本当に庇い切れねえからな・・・」

信一郎の機嫌は殊更悪くなり、溜息ばかりが繰返される。

「ああっ、気分悪りいっ、ここに居てもしょうがねえ。正平、卯之吉、交代で仮眠を取ってちゃんと夜勤しろよっ。そんで孝助と伝造はさっさと帰れっ」

一同は声を揃えて「はいっ」と歯切れよく返事をする。

「ああっ、頭痛くなってきやがった。番屋が賭場なんて目も開けてらんねえ」 

信一郎は畳の上の糸くずを見つけて摘み、ぐりぐりとねじりながら溜息を漏らす。

「そもそも、なんだってこんな御役・・・うんざりだ」

 

 黙っていた仙蔵も信一郎の様子を伺い、岡っ引き連中もその動向に注目する。

無言の番屋は重苦しく、信一郎はねじった糸くずを火鉢に放り込んで立ち上がる。

「仙蔵っ、気分悪りいから場所を換えて話を聴く。着いて来いっ」

信一郎は四人を横目で睨みながら足袋を履き、「さぼるんじゃねえぞ・・・仙蔵、荷物も持って来い」と雪駄を履く。

続いて、仙蔵も荷物を抱えて草履を履き、信一郎に続いて外へ出る。

 岡っ引き四人組が一礼する。

「御勤め御難儀でございましたっ」

信一郎は、岡っ引き四人を睨みつけた。

「ふんっ、何が御難儀だ、分かっているなら博打なんてすんじゃねえ。風邪引くなよっ、引くわけねえか。仙蔵、付き合え・・・」

 

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 ( 猿わか町夜の景 歌川広重 イメージ )

 

 暮六つの鐘が鳴り、大木戸が閉められた内藤新宿

三味線や唄、手拍子が宿や居酒屋から聞え、飢饉の最中とは思えぬ程。

酒は辛さを忘れる為のうさ晴らしに売れ、芝居小屋も現実逃避とばかりに盛況だった。

信一郎は小料理屋などの店の中を幾つか覗くが、どこもどんちゃん騒ぎ。

「うるせえな・・・しょうがねえから、おいらの宿に行くか」

信一郎はぶらぶらと町中を歩き、仙蔵は少し後から付いて行く。

 角屋という信一郎の定宿の暖簾を潜ると、丁稚と女中が出迎えた。

「おかえりなさいませ、白沢様」

信一郎は足袋を脱いでいると、まだ若い女中が足袋を受取る。

「こちらはお連れ様でございますか?」

信一郎は仙蔵を手招いた。

「戻るところはあるのか?」

「まあ、いや、なんとも・・・」

「どっちなんだ、あるのかねえのかはっきりしろ」

仙蔵は首を傾げながら「ありません・・・」と答える。

「まあいい、こいつも一緒に泊めてくれ」

丁稚の小僧が、仙蔵に足を出すように言うと「おいらは自分で洗うからいいよ」と冷たい桶の中に足を入れた。

「そうは参りません、これはあっしの仕事ですから」とじゃぶじゃぶと洗って、足の具合を眺めてから雑巾で拭いた。

「どうぞ、お上がりになって下さいませ。女将様、白沢様がお戻りになられました〰っ」

 小僧の呼びかけに女将が足早に現れ、丁寧に三つ指を付く。

「今日もお寒い中、御難儀な事でございました」

「御難儀か・・・女将、もう一人頼む。それと、銭湯行ってからおいらの部屋で一緒に飯を食うから用意してくれ。全くむしゃくしゃするぜ・・・」

女将は一人ぶつくさと嘆く信一郎の顔をぽかんとして見つめる。

「どうなさったんです?」

「なんでもねえ、手拭をくれ」

信一郎は二人分の手拭を女中から受け取り、銭湯に向かった。

 

 仙蔵は四日ぶりの風呂。

脱衣所で着物を脱いでいると、信一郎の眼が気になった。

「そういう気はねえから安心しな。一応、刺青と病がねえか確かめただけだ・・・」

仙蔵は前を隠して「体だけは丈夫です」と言って浴場に行き、体を丹念に洗っていると、信一郎は瞬く間に風呂から上がる。

「おーい、早くしてくれよ」

仙蔵はまだ湯に浸かっておらず、「しばしお待ち下さいっ」と慌てて湯をかけ流して、どぶんと浸かった。

 浴場に顔を出した信一郎は、既に着物姿。

「腹減ったから、早くしてくれ」

仙蔵はもっと浸かりたいのはやまやまだったが、銭湯代も払ってもらっている手前、早々に上がって着物を羽織った。

 

 仙蔵と信一郎は宿に戻り、二階の部屋の襖を開けると、周到に膳が並んでいた。

仙蔵は久しぶりに飯と味噌汁、焼き魚と大根の煮物を眼にして、ごくりと唾を飲み込む。

二人は膳の前に座り「さあ、食ってくれ。なんだか気分が悪くなったから一緒に付き合ってもらおうと思ってな・・・」

 仙蔵は余りの待遇に驚いて、箸も取らずに信一郎と膳とに眼を往復させた。

「どうした・・・食わねえのか?」

「いえ、私みたいな者が、御役人様に御馳走になって宜しいんですか?」

信一郎は猪口に酒を注ぐと、「お前さんもやりな、ほらっ」と徳利を突き出した。

「御相伴にお預かり致します」

仙蔵は平に手を付き、「誠に申し訳ございません」と酒を注いでもらう。

信一郎は猪口の酒を流し込むと、「おいらだっていつもこんな風にしている訳じゃねえ、たまたまだ・・・見ての通り、あいつらが番屋で博打なんてやりやがって。情けねえって言うのか切ねえっていうのか、その他もろもろだ・・・」と再度自分で酒を注ごうとした。

「白沢様、今度は私が・・・」

仙蔵は慌てて信一郎の猪口に酒を注ぐ。

「ありがとよ。で、あの馬鹿共のおかげで話は途切れちまったが、伊勢にはまだ行ってねえって言ってたな?」

「はい、年が明ける前に江戸に辿り着いてからは、大きな神社や寺を巡っておりました・・・」

「そうか。でも、一年近くも伊勢にも行かねえで何をしていた。お前さんも知ってるだろうが、甲州一揆の頭取だった犬目宿の兵助という者は、まだ捕まってねえ。手配書によれば、年の頃は四十を過ぎているとあるから、お前さんじゃねえ。ただ、江戸に逃げ込むって事もありうるし、兵助を助けて匿う奴もいるかもしれねえ・・・」

 仙蔵は信一郎が未だ自分に警戒している様子に申し開く。

「おいら、いえ、私は兵助さんの地域とは違いますし、全く存じません」

信一郎は魚に箸を伸ばし、口に放り込んだ。

「なにがどう違うんだ」

「私の村は国中(くになか)という方面で、甲府に近い場所で米や畑で生計を立てております。一方、犬目宿の方面は、郡内という地域でございまして笹子峠小仏峠など険しい山々が連なり、米作に適しません。ですから、綿織物や絹織物などを売った金を年貢として納めております。国中は米の備蓄などもあって餓死することはありませんでしたが、郡内は米を買わねばならない方面ですから、大そう疲弊され・・・」

仙蔵の言葉が鈍り、信一郎は酒を勧める。

「それで、米屋が売り惜しんで値を吊り上げたって訳か。江戸も大阪も似た様なもんだが、大阪は特に酷かったらしい。今年の二月に西町与力の大塩様が蜂起したのを知っているか?」

仙蔵は酒を呑んでから、うなづいた。

「はい、お噂は・・・」

「あれも米穀商と・・・まあ、おいらが言うのもなんだが大阪の役所が、米を江戸に回そうとしたからだと。一揆の残党が江戸に紛れ込むやもしれんから三廻の他にも増員して巡邏している。越後でも騒動が起こったから江戸もぴりぴりしている。だから、念のため事情を聞かねばならん・・・」

仙蔵は勧められた酒もほとんど呑まず、すぐさま信一郎の猪口に注いだ。

 

 料理に手を付けない仙蔵を見て、信一郎は話題を変える。

「番屋にいた正平を覚えているか?」

「正平さんでございますか?さて・・・」

「一人でべらべら捲くし立てて、博打で一番勝っていた男だ」

仙蔵は思い出し、はいとうなづいた。

「あいつは、元々役者だ・・・興行主に相談されて身元を引き受けた。そんで、白髪交じりの考助は、元番頭。でこぱっちの伝造は駕籠掻きをやりながら手伝っている。一番負けていたガリガリの卯之吉は何をやっていたか分かるか?」

仙蔵はさてと首を捻り、「なんだか根が真面目そうですから僧侶ですか?」と適当に答える。

信一郎は飯を平らげて、爪楊枝を咥えてみせた。

「こんな風な楊枝みてえな奴だが、博徒だったんだよ。ふふっ」

「あの人、一番負けていたじゃないですかっ」

仙蔵は、博徒らしかぬ出で立ちと負けっぷりに、ふっと笑ってしまう。

信一郎も呆て笑う。

「ばかだろ~っ?柄じゃねえのに博徒になって諸国を渡り歩いては負け続け、流れ流れておいらがとっ捕まえた。とっ捕まえたというより、他の連中が逃げる為に押し出されたって言った方が早ええ。あれでも太った方だ」

仙蔵は今一度首を捻る。

「さっきも、相当ガリガリでしたけど・・・」

「捕まえた時は、ガイコツみてえに痩せていた。まあ、下っ端の使いっぱしりだ。貧乏くじを引かされたってな奴だな」

「お気の毒ですね・・・」

信一郎は肴を摘んで酒を呑み、仙蔵の顔を見てふと天井を見上げた。

「まあ、おいらの親父が面倒見が良かったから、方々から相談がある・・・どうしてあいつ等の話をしたか分かるか?」

仙蔵はちらりと信一郎の様子を窺うと、天井に顔を向けながらも目だけが自分に向いていることにわずかに肝を冷やした。

「存じません・・・」

信一郎は座り直してから、ぐっと仙蔵の顔を覗き込む。

「最初、両国橋の屋台で、親子が飯を食ってから心中したって話をしたのを覚えているか?」

仙蔵は静かにうなづく。

「はい、昨年の今頃と御聴き致しました」

信一郎は煙管を取り出して、太い煙をふうと長く吐く。

「おいらが知る限りじゃ、自ら命を絶つって人間は、何らかの予兆はあるもんだが本人は覚悟しているから、そりゃ気付かれねえ様にするもんだ。でも、お前さんは違った。死ぬっていう人間が、糞不味い蕎麦に文句を付けるとは思えなかった。それでずっと訳を聴いていたんだが、どうも腑に落ちねえ・・・一年も伊勢参りにも行かず、江戸で何をしていた?」

 仙蔵は信一郎に正面から糺されると、言葉に詰まってしまう。

「でっ、ですから、江戸の各地の神社仏閣で祈願して、頃合を見て伊勢に参ろうと思いましたら、二月に大阪で大乱、六月には大雨などが続いて、日が伸びてしまって日雇いなどをしておりました・・・」

信一郎は酒を呑むと、再び仙蔵に「お前さんも呑め」と勧めた。

仙蔵は急に「いえっ、沢山頂きましたので結構でございます」と断った。

「さっきから全然呑んでねえが、酔ってなにか言っちまうのが怖くなったのか?」

「私はそれほど酒が強くないものですから・・・」

「そうかい、お前さんが物をくすねたり騙したりする人間とは思っちゃいねえ。犬目の兵助は追われる身だが、土地の百姓から見れば義民だろう。そして、大阪の大塩様は御公儀に弓を引いた。他方、大阪の民百姓からすれば救民の為の義挙だ。お前さんと蕎麦屋で会った時、値を吊り上げていた親父に文句を言った事は、おいらも同様に見過ごす訳にはいかなかった。あん時、お前さんは理不尽な世だとも言ったな?」

信一郎の問いに、仙蔵は束の間振り返って頷いた。

「ええっ、まあ・・・」

信一郎は煙管を咥えて吸い込んでみるが火が消えており、中身を火鉢に捨て、再び火を付ける。

「ふーう。分からなくもねえ・・・大塩様も檄文の中で『この地獄を救い、死後の極楽、仏を眼前に見せるような世に戻したい』ってな事を書いたらしい。何が言いてえかっていうと、似てんだよ。一揆を起こした兵助や大塩様と・・・。この江戸で何か起こそうって事はないか・・・」

仙蔵は身を仰け反って大きく手を振った。

「滅相もございませんっ」

信一郎は吐き出した白い煙の中から仙蔵を見つめる。

「もちろん、お前さんが一揆の頭取なんて思っちゃいねえ。覚悟した奴は、着々と水面下で準備をするもんだ。これまでの様子からして、偵察の為にわざと騒ぎ立てて、どのぐらい役人が出てくるのかを探る為って事も考えられるが、どうだ?」

仙蔵は畳に頭をこすり付けんばかり平に手を付く。

「白沢様、私にはそんな大それた事などできませんっ」

頭を下げる中、宿に泊めてもらい飯までご馳走してくれる理由が分かったような気がした。

この白沢という役人は、自分を兵助の仲間だと疑い、酔わせて白状させようとしているんだと。そう思うと、急に体が震え始めた。

信一郎はじっと仙蔵の様子を見つめ続け、再び煙をぼかりと上らせた。

「ならば、どうして江戸に居続けるんだ。江戸は知っての通り、毎日施米を受けようと、町会所や御救小屋に人が並び、土手には死人が転がっている有様だ。いくら死体を片付けても追っつかねえ。そんな中で、おめえはさっきから神社廻りと言ってばかりだ。物価は高けえから金だって底を付く。疑うのも当然だろう」

「ですから、神仏に縋(すが)って・・・」

仙蔵は頭を畳に付けたままでいると、信一郎が立ち上がった。

「そいつは嘘だ、だったら御札とか御朱印かなんかを見せてみろ。この荷物に入っているのか?」

仙蔵が顔を上げると、信一郎が竹駕籠の荷物に近づいて腰を屈め指差した。

「大したものは入っておりませんっ」

信一郎は中身を開けるように言うと、仙蔵は仕方なしに蓋を開けた。

服を取り出し、その下から包み紙、服紗と小袋が現れた。

服紗を開くと小判が一枚。そして、小袋の中からは黒い玉の様な物が出て来た。

仙蔵は包み紙を信一郎に手渡した。

御朱印と奉納札はたったの十枚・・・どういうこった」

信一郎は御朱印や札を仙蔵に突きつける。

仙蔵は震えながら受取った。

「なんだか怖くなったんです・・・」

信一郎は俯いた仙蔵の覗き込む。

「なにがっ」

仙蔵はちらりと信一郎に目を向けるとさっとそむけた。

「この世に、神仏なんておりません、から・・・」

 信一郎は胸糞悪いと表情をさっと変えて立ち上がり、酒が足らぬと女中を呼んだ。

階上の信一郎の機嫌悪そうな声に、寸間(すんか)で女中が慌てて駆け上がり銚子を三本持ってきた。

仙蔵に受け取らせると、信一郎は盆の上から銚子を取って手酌で注いで飲み干した。

「またまた妙な事を言ってくれるじゃねえか。伊勢参りに行こうって奴が、神も仏もいねえだなんて・・・嘘つくなよ、正直に話せ」

仙蔵は御札を見つめ、駕籠の中に仕舞って頭を下げた。

「はい・・・」

 

     第二部(21)へ続く・・