【 死に場所 】place of death 全34節 【第2部】(33) 読み時間 約14分
(33)
渋々、仙蔵は寺の門を潜る。
年始めは寺も檀家廻りがあったりするから、その手伝いじゃないだろうかと足取りは重い。
信一郎に御救小屋に連れて行かれた後、唐突に働いたらどうだと言った事から、もしかしたら出家を促されるのかと、益々、仙蔵は嫌な予感に囚われ頭が混乱する。
今度は、小坊主。ありうる・・・。
仙蔵は踵を返し、身を縮めて門を出ようとした。
「おいっ、仙蔵。どこへ行くっ」
正平と卯之吉が戻って来て、背を向ける仙蔵に声をかけた。
「あっ、ちょっと厠へ・・・」
「だったら、寺のを使えばいいじゃねえか。そこらは武家屋敷だから小便はならねえ」
卯之吉は「白沢様だけじゃねえから、早くしろっ」と袖を引っ張る。
「えっ、白沢様だけじゃないんですか?」
正平は頷いて、「ああっ、こんな事は滅多にない。大層御偉い方がお前さんに会いたいと御越しになられる。病人らに鴨鍋を振舞った事をえらく感心していたようだ」と微笑む。
仙蔵の妄想は更に膨らむ。
伊勢参りが、今度は御仏(みほとけ)か?
全国行脚の巡礼の旅のお供をする事になるのか?随行する者として適当な人物かどうかを見定めるつもりかもしれない。
どこまで行かされるんだ、北か。今は寒いから、南か・・・。
「早く来いよっ」
正平と卯之吉に両脇を抱えられて寺の玄関に入ると、高僧らしき中年の人物が出迎えた。
「遠いところ、よく来てくださった」
脇から小坊主が足洗い桶を持って来て、仙蔵は取り囲まれてしまった。
駄目だ・・・。
仕方なく玄関に腰掛け、「自分で洗います・・・」と上がりたくないばかりにゆっくりと足の一本一本、指の間も洗う。
仙蔵は心の内で、おいらは、鳥や魚を散々殺生してきたからと断ればいい・・・。
奥の方から、誰かが近づいてくる足音し振り返ると、信一郎だった。
「正平、卯之吉、遅いぞっ。先程、到着なされてお待ちになっておるっ」
「申し訳ありません、道に迷ってしまいまして・・・」
卯之吉が言い訳をして、頭を下げている。
信一郎の井出達に目を向けると、羽織袴でまるで別人の様に改まって凛々しい。
「白沢様・・・どうなされたんです、そのお姿は」
信一郎も緊張しているらしく、妙にそわそわとして落ち着かず、仙蔵にも言葉が荒い。
「どうもこうもねえっ、この様な姿でなければ御目通りできぬお方だ。早くしろっ」
よっぽどの高僧なのか・・・
まあ、どうせ死のうとしたこの身。御伊勢参りも出来ず、松次郎にも顔向け出来ずにいた。故郷に帰ることもままならず、江戸でも望みもなく一人寂しく日雇い仕事が続くより遥かに良いかもしれない。
僧侶になれば、松さんの子供らの供養もできるし、村にも立ち寄れる。
一石二鳥とお考えか・・・。
「分かりました、白沢様の仰せのままに致します」
「だったら、早く来いっ」
信一郎に急かされ、仙蔵は足を拭き後に続く。
高僧を先頭に、信一郎の後に続く。仙蔵は奥座敷を案内されると、廊下に正座する様に告げられる。
信一郎が廊下に平伏し、座敷に声をかける。
「ただいま、仙蔵を御連れ致しました」
奥座敷の襖が内側から開かれると、「入るが良い」と御目通りの許しが出た。
信一郎が深々と礼をしてから入室。
襖の脇から、廊下に控える仙蔵に「入れ」と小声で促した。
仙蔵も平伏し入室するや否や、上座に向かってそのまま平伏した。
「せっ、仙蔵と申します」
上座に控える侍から「まもなく参られるから控えるがよい」と申し渡される。
何が何やら分からぬまま、仙蔵は信一郎の指示で座敷の一番後ろの畳に座らされ、
その前に信一郎が平伏する。
慌てて、仙蔵も平伏する。
すっと襖が開く音が消えると、「上様の御成りである」と声が聞こえ、仙蔵はただただ身を低くし、額を手の甲に押し付けた。
「白沢、面を上げいっ」
「ははっ」と信一郎は低い声を響かせた。
「後ろに控えるのが、仙蔵か?」
「はっ」
「仙蔵、面を上げい」
仙蔵はいつ頭を上げるべきか計りかねていると、信一郎が小声をかけた。
「仙蔵っ、頭を上げろっ」
どきまぎしながら仙蔵は頭をさっと上げる。
上座には高僧ではなく、身なりの正しい四十代の武家が座っている。
脇に控える家臣らしき人物が、「仙蔵、前へ」と促す。
どこまで前に進み出れば良いのか分からずにいると、信一郎が廊下側に避けて、自分の隣に座るように指差した。
仙蔵は言われるがまま、ゆっくりと膝を前に進め、再び平伏した。
「面を上げて良い」
仙蔵は上目遣いで上座の武士をちらりと見るが、再び目を伏せる。
「こちらに、御座(おわせ)せられる御方は、作事奉行・近山左衛門尉様である・・・」
信一郎が、仙蔵に紹介すると今一度平伏する。
どうなんっているんだ・・・。
仙蔵は訳が分からず、村に返されるか何か咎めを受けるかと怯え、ただただ平伏を続けた。
「頭を上げてよいぞ、仙蔵」
近山左衛門尉は、穏やかな口調で呼びかけた。
恐る恐る仙蔵が顔を上げると、近山は微笑み「急な事で済まなかった」と気さくに労う。
(「復讐高田馬場」イメージ )
仙蔵は再び平伏する。
「勿体ない御言葉ですっ」
「ところで仙蔵。まずは、熊の胆を譲ってもらった事、礼を申す」
仙蔵ははっとして顔を上げると、この御方が痔だったのかと、近山の顔を見入った。
「あれほどの極上品、江戸ではなかなか手に入らぬ故・・・体調も次第に良くなってきておる」
近山は、信一郎と目が合うと咳払いをした。
仙蔵は「御役に立てて何よりでございます」と平伏した。
「この度は、余の方がそちに礼を申す立場であるから、そんなに畏まらんで宜しい。寒かったであろう、茶でも呑んでくつろいでくれ」
近山は廊下側に顔を向けると、控えていた家臣が部屋から出て行った。
その間に、近山は仙蔵に語りかける。
「白沢より、お主が江戸に出てきた経緯(いきさつ)を全て聞いた。誠、世は理不尽であると思うところである。余の御家も複雑で、若い時分にやけになって、一時は屋敷を飛び出して町場の博徒の家に転がり込んで放蕩していた頃もあった。しかし、分からんもので、色々とありながらも作事奉行を仰せ付けられる様になった・・・」
仙蔵は作事奉行と今一度聞き、「はっ、はいっ」と平伏した。
「そんなに硬くならずともよい。自慢する為に申した訳ではない。何が言いたいかと言うと、全ては偶然だって事だ。たまたま今の御役目を仰せつかっているに過ぎんという事。全ては、天地人がそろわねば難しい。のう、白沢?」
近山の問いかけに信一郎は「はっ」と一礼をした。
廊下から「茶の支度が出来ました」と声がかかり、近山が内に控える家臣に頷くと、襖が開かれた。
家臣と僧侶が、近山、白沢、仙蔵にそれぞれ膳に乗せられた煎茶と菓子を配膳する。
近山は仙蔵に微笑んで「その饅頭は美味いから食べてみるがよい」と勧めた。
( 新版御府内流行名物案内双六 イメージ )
緊張する仙蔵は、一旦、信一郎に目を向けた。
信一郎が頷くのを見て、仙蔵は一口食してみる。
蕎麦の香りが広がり、中の餡の甘みに仙蔵は笑みを浮かべた。
「これは蕎麦饅頭でございますね」
「そうだ。お主と白沢の出会いが蕎麦屋だという事も聞いておる」
近山も一口食べて、うんうんと笑みを浮かべた。
「ところで、先程、天地人と申したが・・・その意味、分かるか?」
仙蔵は口の中の饅頭を飲み込んでから返事をする。
「いえ、存じ上げません」
「この世の成り立ちは、天地人で出来ておるという。天は空であり、時節、時期。地はいわずと知れた大地。場所、取り巻く状況。人は、我ら人間の事。救うも痛めつけるも人間。その人間同士の関わりだと申す。つまり、この三つがそろわねばなかなか事が進まん。どんなに時期が良くても、場所が悪かったり、回りの人間に恵まれなかったりすると、事は上手くは運ばん・・・」
「はい」と仙蔵は近山の言葉に聞き入った。
近山はちらりと信一郎に目を向けると、再び仙蔵に語りかける。
「お主は、余の若い時分と少し似ておると思ってな。災いは思いがけないところからやって来る。お主は名主に嫌われ爪弾きに遭い、村を出る事になり、村の者から餞別として熊の胆を渡されたと聞く」
仙蔵は膳から下がって平伏した。
「おっ、恐れながら、お願いの儀がございますっ」
「なんだ、申してみよ」
「熊の胆を持たせてくれました圭助と申す者は、借財があり大変苦しい生活をしておりますっ。上様に御献上致しました物が極上品なれば、わずかでもかまいませんので、圭助に幾ばくか宛がって頂きたく存じますっ」
仙蔵は手打ちになる恐れを抱きながら平伏を続けた。
近山は、信一郎を見定め、静かに頷く。
「これを預かってきた・・・」
仙蔵が顔を上げると、信一郎が脇から手紙を二通すっと滑らせた。
「読んでみろ・・・」
一通は、故郷の松次郎からで、白沢様が御新造様を御連れになり、江戸での仙蔵の様子を聞いたと書いてある。
御伊勢参りは、村を出る方便だから気にせず元気であればよい。息災に暮らせよと認(したた)めてあった。
「白沢様が御新造様をお連れに・・・」との文言を見て、仙蔵は「えっ」と声を漏らし、信一郎を見つめた。
「しっ、白沢様、私の村に参られたのですかっ!?」
信一郎は照れ臭そうに、「身延(みのぶ)詣りのついでだ・・・もう一通あるだろう。読んでみろ」と惚けた。
仙蔵は残りの手紙を開くと、瞬時に手紙を閉じたくなるような汚い字が蛇の様に縦にうねり並んでいた。目を細め、ぐっと顔を近づけ解読を試みると圭助からだった。
仙蔵、元気ですか。
有難い事に、白沢様が熊の胆の代金と仰って三十両をお届け下さいました。
仙蔵がどうしてもおらに渡して欲しいと、白沢様にお頼みしてくれたことも聞きました。本当にありがとう。これで猪吉さんに借金を返して自由になれます。
女房のおきつと子供は、相変わらず元気です。
仙蔵、またいつか会いたい。会ってお礼を言いたいです。
圭助、おきつ。
仙蔵は手紙を読み終えると、信一郎に平伏した。
「わざわざ遠い御道中を・・・誠に、誠にありがとうございますっ」
仙蔵はやっと肩の荷が下りたと、顔を伏せたまま大きな安堵の息を吐いた。
「お主は、この世は理不尽で、生きる望みもないと申しておるそうだな」
仙蔵は近山に問われ、顔を上げた。
「先々の事を考えますと・・・」
近山は立ち上がり、仙蔵に近づいた。
( 日本風俗図会10輯 イメージ )
「何故、この白沢信一郎が、わざわざ甲州のお主の村まで行き、熊の胆の代金を渡したか分かるか?」
仙蔵は目の前に立つ近山を見上げると、すぐに平伏した。
「申し訳ございませんが、私には見当もつきません・・・」
「白沢はな、余にこう申した。『世上は理不尽で、生れ落ちた身分も環境も選べない。この天保の世で災難、人災が偶然重なった結果、多くの民が死に至った。だが、道理が通らず滅茶苦茶で、無作為の偶然が集積した世は、時として、幸福をもたらす』と・・・。それが、お主の熊の胆であり、余の体調の改善にもつながった。つまり、理不尽の世は、逆もしかりとも言える。そして、白沢は神に奇跡を祈るだけでなく、自らも義を尽くさねば、神様にも不敬だと、お主の村の者に熊の胆の代金を届けたいと名乗り出た。己も行動せねばならんとな・・・」
仙蔵はゆっくりと近山の顔を見上げた後、信一郎にも平伏する。
「私の様な者の為に、誠に、誠にありがとうございますっ」
信一郎はふっと微笑む。
「お前さんに借りができたからな。それに、近山様は私の借金を全て返済して下さった。それだって、仙蔵の村に行くって言ったからだ」
近山は仙蔵の前にしゃがんで顔を覗き込む。
「余は、相手が誰であれ、恩に報い約束を守ると言った白沢の心意気が気に入った。いずれ、この白沢を家臣に迎えたいと考えた。それには、借金があっては困るのでな・・・」
信一郎は近山に一礼をする。
「誠に、有難き御取り計らい、恐れ入るばかりでございます。仙蔵、私の方こそ礼を言う。有難う・・・」
信一郎が仙蔵に頭を下げる姿に、仙蔵は慌てて止めに入った。
「白沢様っ、おやめになって下さいっ。勿体無い事でございますっ」
近山はその場に正座し、仙蔵を見つめる。
「仙蔵、世は時として、誠に残酷この上ない。それも往来で人と人がすれ違う様に、災難や幸運に遭遇する。ただの偶然というだけで理由もない事ばかりだ。理不尽で無作為の偶然が折り重なる世であるからこそ、人間は先が見えず不安であると思う。何故、助け合いが必要かと申せば、世上が理不尽であるから、いつ誰がどうなるかも分かん。栄華を極める者、その日暮しの者も、良くも悪くも明日の事など分からんからだ。仙蔵、お主に頼みがある・・・」
仙蔵は近山に顔を向け「いかなる事でございましょう」と再び平伏する。
「余の代理として、御伊勢詣りに行ってはくれぬか?」
仙蔵は、はっと顔を上げた。
「おっ、御伊勢でございますか・・・」
「左様。生きる望みもないと申す、お主に是非頼みたい」
仙蔵は断る訳にもいかないが躊躇い、言葉を詰まらせた。
近山は押し黙る仙蔵の前から立ち上がり、家臣に頷く。
その意を汲んだ家臣は、座敷から姿を消した。
「そこで、お主と共に伊勢に参る者を用意した・・・」
仙蔵は近山と信一郎の顔を見入った。
「どなたでございましょうか?」
信一郎はにやりと微笑む。
「一人じゃ寂しかろうと思ってな」
「卯之吉さんですか?」
信一郎は厳しく眉間に皺を寄せた。
「なんで卯之吉なんだっ。あいつはお前さんの村に連れてったから行かん」
近山の家臣が廊下から声をかけた。
「お連れ致しました」
「暫し待て。ところで、仙蔵、先程の蕎麦饅頭をまた食いたいか?」
仙蔵は平伏する。
「大変美味しゅうございました」
「その饅頭を作った者と一緒に参れ」
仙蔵は、今度は饅頭職人かと首を捻り、ぽかんとした面持ちで、近山に見入る。
「入れ・・・」
襖が開かれると、近山の家臣の隣に平伏した女子が廊下に座っていた。
仙蔵ははっとする。あの紺色の着物。
顔を上げた瞬間、仙蔵は声を発した。
( 日本風俗図会10輯 イメージ )
「おっ、おさよさん・・・おさよさんなのかっ?どっ、どうしてっ!」
仙蔵は信一郎と近山の顔を交互に落ち着きなく目をくるくると動かした。
信一郎は、おさよに「こちらへ参れ」と呼び、仙蔵の隣に座らせた。
「あの蕎麦饅頭は、おさよが作った。その蕎麦の生地はどこのだと思う?」
再び、信一郎は微笑む。
「まさか・・・村のですか?」
「ああっ、お前さんが戸隠から買ってきた蕎麦の実が、村で多く実ったそうだ。良かったな・・・」
仙蔵はおさよを見て、また、信一郎、近山を見上げて頭を畳に押し付けた。
「ありがとうございますっ」
「仙蔵さん、全て白沢様からお伺いしました・・・御苦労なさいましたね」
その言葉に仙蔵は顔を上げると、おさよが微笑んでいる。
仙蔵は嬉しくなって再び畳に顔を押し付け、押し殺した感情が溢れ、涙が溢れてしまう。
「おさよさんっ、すまねえっ。嘘ついてすまねえっ!」
「いいんです、分かっていますよ。どうしようもなかったんですよね。仙蔵さんが婿に行くって聞かされた時、すぐに嘘だと思いました。なにか事情があったんだと・・・だから、うちの笹子屋の饅頭が評判になれば、いつか仙蔵さんの耳に入るんじゃないかと思って。蕎麦粉をおきつさんから貰って、この饅頭を仙蔵饅頭って付けたんです・・・」
仙蔵は手拭で涙をふき、顔を上げた。
「仙蔵饅頭?」
「はい・・・」
信一郎は「驚いたぜ」と微笑む。
「おいらの妻が、偶然、栗原宿で休みてえって言ったんだ。それで、笹子屋に入ったら、蕎麦粉で作った仙蔵饅頭はいかがですかって、このおさよが勧めてきた。甲州で仙蔵って言うもんだから、どういう訳か聞いたら、お前さんの事だって言うじゃねえか。卯之吉なんて、ばくばく食って、お前さんがうらやましいって言ってたぐれえだ」
「はあっ、それで・・・」
「なんだい、それでって」
信一郎はいぶかしんで仙蔵を見つめる。
「先程、こちらに参ります道中、やけに卯之吉さんが張り切っておられるだけでなく、食欲も旺盛だったもので」
「卯之吉の奴、おさよみたいな綺麗な嫁さんもらうんだって、急に心に決めたらしくてな。つい最近、御茶ノ水の茶屋の娘に一目ぼれしたって相談されたよ」
仙蔵ははっとして「あっ、来る時、寄った店だっ」と鼻を啜って信一郎を見つめた。
「見たのかい?」
「はい、慎ましい感じの女給さんでした」
「ああっ、多分その女だ・・・でも、おさよには負けるだろうがね」
おさよは顔を赤らめて俯き、信一郎は少し意地悪く仙蔵に流し目で見やる。
「募る話もあるだろうが、余もこれから行かねばならぬ所がある。仙蔵、此度の一件、改めて礼を言う」
近山が立ち上がると、仙蔵は平伏し「私などは何もしておりません」と申し上げる。
「いや、熊の胆の一件、そして、稀にみる好漢を引き合わせてくれた。これも理不尽であるが故の偶然の幸運。仙蔵、伊勢に行ってくれるな?」
近山左衛門尉の言葉に圧倒された仙蔵は、おさよと信一郎に目を向ける。
即答しない仙蔵に、信一郎は「まだ、生きる望みがねえとでも言うのかっ?」と苛立つ。
「いえっ、滅相もございません。いいんですか、おさよさん?」
「もちろんです、その為に白沢様に連れてきてもらったんですから」
近山も痺れを切らして、難渋な皺を寄せる。
「行ってくれるなっ?」
「はいっ、必ずや代参致しますっ」
「ならば、此度の礼金と伊勢に参る餞別を後で受取るが良い。では、江戸に戻ってきたら報告を待っておる」
そう言い残して、近山は座敷を後にした。
「有難き幸せに御座いますっ」
信一郎、仙蔵、おさよは深く平伏する。
三人が顔を上げると、再び近山が戻ってきた。
「一つ言い忘れた事がある。手を尽くしても理不尽な状況が続く時は、そこから離れろ。不幸や不遇の連続を止めるには、余が屋敷を飛び出した様に新たな偶然を求めるしかない。伊勢に参って、二人で今後の事をよくよく考えるが良い。達者でな・・・」
そう言い残すと、近山左衛門尉は去って行った。
その後、近山の家臣が進み出る。
信一郎、仙蔵、おさよが平伏すると、「こちらが此度の礼金。そして、こちらが、伊勢参りの餞別でござる・・・」と服紗包みを二つ差し出す。
仙蔵は今一度平伏する。
「有難き幸せにございます。きっと御伊勢に代参してまいります」
「ならば・・・」と家臣が懐から包みを出して、二つの包みの隣にそっと置く。
仙蔵は更なる包みに目を向け、家臣を見上げた。
「拙者は高田五郎衛門と申す。わずかではあるが、わしからも餞別だ。帰ってきたら話を聞かせてくれよ」
高田も去り際に微笑み、近山の後を追った。
「はいっ、必ずや御報告申し上げますっ」
仙蔵は、近山と高田の心遣いに敬服し、信一郎とおさよの義理堅さに心から平伏する。
信一郎によってもたらされた奇跡によって、おさよとも再会することができた。
孤独と辛苦に耐え忍んだ一年の思いが溢れ涙が滴り落ちる。
代山寺を後にした、仙蔵とおさよ。そして、信一郎らは、ここで別れることになった。
「おいら達は役所に戻らねえといけねえ・・・」
仙蔵は深く信一郎に頭を下げる。
「本当に有難うございますっ。遠い私の故郷まで足をお運びになられただけでなく、おさよさんまでお連れ頂いて、感謝してもしきれません」
「良いって事よ。おいらだってお前さんの御蔭で、いずれ近山様に御取立て頂ける事になったんだ。こんな事は滅多にあることじゃねえ、富くじが当たる様な奇跡だ。足軽身分の同心が取り立てられることなんて道理が通らねえ。だから、役所の連中に知れたら理不尽だと、今度はおいらが言われるに違げえねえさ」
信一郎は照れ臭そうに微笑む。
正平も信一郎の話に喜び、仙蔵とおさよに「いつ、出立するんだい?」と聞く。
仙蔵は少し考え、おさよを見つめてから、信一郎と正平、卯之吉に頭を下げる。
「できれば、正月の初め辺りに、御伊勢で参詣できればと思います」
卯之吉は少し驚いて、「伊勢まで十五六日はかかるから、すぐにでも出立しねえといけませんね?」と信一郎に意見を求める。
「ああっ、そうだな。さみいから春でもいいんじゃねえのか?」
仙蔵は「いえ、思い立ったが吉日でござますので、三日後に出立致します」と旅立ちの日を決めた。
「それなら見送りに行ってやる。長屋から品川へ下って東海道か?」
信一郎は腕を組んで仙蔵の顔を覗き込む。
「とんでもございません、御多忙であるのに御見送りなんて申し訳ございません。私の方から町奉行所の方へ御挨拶致しましてから出立致しとうございます」
「そうかい。なら三日後、北町奉行所へ寄ってくれ」
「はい、では御伺い致します」
信一郎たちは町奉行所へ、そして、仙蔵とおさよは来た道を辿る。
最終節(34)へ続く。