【 死に場所 】place of death 全34節【第二部】(25)~(26) 読み時間約15分
( 荒歳流民救恤図 イメージ )
(25)
翌日の昼。仙蔵は約束通り、御救小屋の門脇で信一郎を待っていた。
信一郎はすでに小屋に来ており、元締手代の岡田宗泰と話を付けていた。
もうそろそろ来るだろうと、門から表を覗くと仙蔵が緊張した面持ちで立っている。
「おうっ、仙蔵っ」
信一郎の呼びかけに仙蔵は振り向き、頭を下げる。
「おっ、お世話になります・・・」
「ちょっと待ってくれ」と信一郎が中に戻り、岡田と配下の手代を連れてきた。
「先程話していた仙蔵でござます。なにとぞ、宜しく御願い致します。仙蔵、こちらは、この御救小屋を支配しておられる代官所元締手代・岡田宗泰様だ」
仙蔵は改まって深々と頭を下げていると、岡田が頭を上げるように声をかけた。
「仙蔵と申したな、短い期間だが宜しく頼む。御伊勢詣りとは殊勝な事、わしもいずれは伊勢に行きたいと思う故、力になろう。毎日はここにおらんから、手代の弥助に教わってくれ」
紹介された五十がらみの小柄な弥助は、紺のどてらに、地味な鼠色の合わせに股引姿で微笑んだ。
仙蔵は岡田同様に丁重に一礼する。
「仙蔵と申します。大して御役に立てませんが宜しく御願い致します」
「わしゃ、荻窪村の百姓の出だから、そんなにかしこまらんで良い」
信一郎は二人に頭を下げると、仙蔵に呼びかけた。
「おいらは、これで帰る。あとはこちらの差配に従ってくれ、たまに顔を出す」
仙蔵は「有り難うございます」と見送った。
信一郎の姿がすぐに見えなくなると、岡田が弥助に「後は頼んだ」と先に門の中に入って行った。
弥助の案内の元、仙蔵は御救小屋の中に入る。
ここ内藤新宿の御救小屋は、四百坪の敷地の中に五棟建つ。内、一棟は炊事場と風呂場の火を扱う建物。他の四棟は無宿、行倒人、大病人棟に別れていた。
幅三間(約5.4m)、長さ二十間(約36m)程の低い苫葺(とまぶき)屋根の長屋造り。
敷地には施米や炊き出しをもらうため、人でごった返している。
待合の土間には湯釜が置かれ、各地からの身元引受けの名主等も腰かけて待っていた。
玄関を覗くと、奥に役人の机が横に並び、物書き、そろばん勘定、取次ぎと多忙な様子。
仙蔵は弥助の後に続き、裏の出入口へ案内された。
板敷きの上がり端で足を拭いてから廊下を歩く。
襖の様な間仕切りがあり、左脇の廊下に五つ小窓程度の風通しが連なる。
昼間は働きに出る者も多く、子供が走り回り、女たちは子供をあやしたり掃除を手伝ったりしている。
廊下の一番奥の間仕切り部屋は暗く、足元には琉球畳が敷き詰められ広さは凡そ二十畳。
そこへ二、三十人程の病人が横たわり、こほこほと咳をする声が多く聞える。
咳き込む男の隣に寝ている男が「うるせえなっ、寝れねえだろうっ」と怒鳴り付ける。
ほとんど隙間のない空間で、廊下側にしか通気口がないから臭いがたち込める。
弥助は溜息を付き、顔を顰めて仙蔵を見つめた。
「ここは男の病人部屋だ。実情は施しで金がかかって、大した布団もなければ薬もねえ有様だ。飯と漬物だけじゃ良くならねえんだが・・・」
弥助の話では、重病人は小石川の療養所に運ぶべきだが、療養所も患者で溢れ返っているという。また、小石川も傷んだ病人長屋の建替えも出来ないほど金がないと漏らす。
夫役で手伝う近隣の百姓らが介抱しているが、飯や水を運ぶ程度でなす術もないといった様子。
「おいらは何をしたら宜しいんでしょうか・・・」
仙蔵は鼻で呼吸が出来ず口で息を吸いながら、うす暗い病人部屋を眺める。
「やる事は幾らでもあるが、最初は炊き出しの手伝いをしてもらいたい。昼夜交代でわしらは此処に詰めている。昼は明六つから暮六つまで。夜に詰めるもんは暮六つから明六つまでだ。夜は大した仕事もねえから、博打や酒、物取りがないか見回るだけだ。お前さんは夜勤はしなくていい」
仙蔵は弥助の後を追い、再び玄関に戻る。
「まあ、こういった長屋が四つあるが、炊事場を頼むよ」
続いて、同じ敷地にある別棟の炊事場の中に入る。
竃(かまど)の上に大釜が四つ並び、備蓄米を四、五人の男が釜に入れ、桶の水を注ぐ。
煮炊きする場は暑く、皆、腕を捲くって襷(たすき)をかけて威勢良く働いている。
仙蔵は病人の介抱をするより、こっちで力仕事をしている方が良いと少しばかり安堵した。
大釜の一つが炊き上がると「おう、炊けたぞ。せーのっ」とこれまた大きな桶にぶちまける様に入れる。
五、六人の女衆が待ち構えて団扇で扇ぎ、頃合を見計らって順次握って、竹皮の上に乗せていく。
仙蔵も仲間に加わると水汲み作業。その次は、女衆と混じって握り飯を竹皮で包み、それを乗せた大きなお盆を外の配給係に運ぶ。
弥助はその日消費した備蓄米の台帳に記録を付け、人手が足りなければ自分も手を貸して、全体に目を配っている。
仙蔵の働き振りを見て、「結構、力仕事だろう。初日だから無理しなくていい。ちょっと休め」と皿に乗せた二つの握り飯を渡した。
仙蔵は昼食を済ませ、再び忙しなく働いていると薄暗くなり、行灯が点され片付け作業に入る。
皆手分けをして早々に荷物を持って炊事場の建物から出て、弥助が米など盗まれぬように錠前をかける。
暮六つの鐘を聞く前に、皆それぞれの村や町場へ戻って行った。
弥助は仙蔵を呼び「今日はもうこれで仕舞いだ、明日は朝から頼む」と帰ることを許され、成子坂の長屋へと戻った。
夕飯は、昼の残った握り飯を食い、疲れてごろりと横になる。
元締手代の岡田の言葉が、ふと過る。
御伊勢詣りに行く事になっていたが、白沢様がなんとか手当を多くもらえる様に言ってくれたんだろう・・・。
唐突に、十分な治療を受けられず横たわる人々が、信一郎の面影を掻き消し、臭いまで伴って頭の中に浮んできた。
仙蔵は自分もいずれあの病人の様に満足な治療も受けられずに死んでいく様な、妄想が膨らみ、堪らず体を起こして水を飲む。
息を付くと、どうして皆、御伊勢詣りと言うと見る目が変わるんだろうと動きを止めた。
仙蔵は道中や江戸の大小に関わらず神社仏閣を参拝した。
だが、役人百姓問わず、御伊勢と申せば感心だと羨望の眼差しで自分を見た。
確かに、御伊勢は別格で、天照大神様を奉る総本山だ・・・。
そもそも神社に優劣があるのか?
御利益とか、自分の事を祈っていいのか?
仙蔵は益々分からなくなり、腕を組んで頭を捻る。
分からねえ・・・
( 江戸名所図会 淀橋水車 )
翌日、仙蔵は早朝から御救小屋で炊き出しや雑用を手伝う。まかないも出て食う事には困らなかった。冬は日暮れも早いから一日があっという間に過ぎてゆく。
これが五日続き、仕事にも慣れ、一緒にお勤めする近隣の百姓とも親しくなってきた。
江戸に出て来て、馴染みの顔が出来るのは初めての事で嬉しさも出てきた。
特に、勝吾郎という男は、仙蔵とも年が近く二十七で、場末の中野村で麦を作っているが、やたらと江戸っ子の様に威勢良く振舞う。
冬なのに炊事場は暑いと言って、ふんどし一丁で火の番をするから、黙っていても目立つ。
喉が渇けば水を溜めた桶に柄杓を突っ込んで、頭から水を被って「あっちいなーっ」と一人で声を上げて、同調するよう皆に語りかける癖がある。
そんな感じの男だから、入ったばかりの仙蔵にも、「あっちいなっ、水でも被らなきゃやってらんねーよっ。お前さんも被るかい?」とわざわざ水を汲んだ柄杓も持ってきた。
「おいらは、外へこれを持っていかないと・・・」
仙蔵は握り飯のお盆を持ち上げて断った。
「そっか・・・なんだか火を見ると心の臓が沸き立つって言うのか、かっかしてくるんだっ。そう思わねえーか?」
勝吾郎は、ははっと一人で笑って水を口に含んで上を向き、ガラガラと口を濯ぐ。
口に水を含んだままぐぶっと咳き込み、口を膨らませ動きを止めたかと思うと、今一度咳き込んでぶーっと噴き出した。
それを見ていた年長で、炊事場の責任者である芳蔵が「汚ねーなっ、飯にかかるじゃねえーかっ」と顔を顰めて、勝吾郎を叱る。
勝吾郎は咄嗟に口を押さえるが、今度は口の中の水が鼻からどっと流れ落ちてきた。
「いやだ~っ勝っちゃん、外へ行ってよっ」
女衆も一様に眉間に皺を寄せて、手で追っ払う。
「すっ、済まねえ・・・」
勝吾郎は顔を手で覆って外へ駆け出して行った。
あっという間の出来事で仙蔵もどうしていいんだか当惑していると、再び勝吾郎が戻ってきた。
「さみーなっ、雪舞ってらぁ。顔が氷つきそうだ」
勝吾郎は相当寒かったらしく、手拭で顔と両腕をごしごしと擦って震えている。
すると、炊き出しに並んでいたらしき男等十人程が押し寄せてきた。
「おらあ、五日ぐれえ風呂に入ってねえんだが入れてもらっていいか?」
「こちとら、七日だいっ。先に入れてくれっ」
「俺は十日だから、もっと先だっ!」
「そりゃ先輩だな、譲るよ」
勝吾郎は押し寄せる男達をつっけんどんに押し戻す。
「譲り合ってんじゃねえっ。ここは風呂場じゃねえーてんだっ、出てけ、馬鹿野郎っ」
それを見ていた芳蔵が「おいっ、勝の字っ。そんな言い方はねえだろうっ。そもそもおめえがそんな格好で表に出るから風呂場と間違われるんだろうっ。着物を付けろっ」と今一度叱りつけた。
勝吾郎は仙蔵と目が合うと、「またどやされちまったよ」と首をすくめて見せた。
仙蔵はどう返して良いのか分からず、渋面の愛想笑いで誤魔化した。
どやどやと間違って入ってきた男達は、「なんだ、あいつは着るもんがねえんだ。おら達よりも気の毒だな・・・」と外へ出て行く。
「裸じゃ冬は越せねえ・・・」
勝吾郎は男達を追っかけて行って、「うるせーっ、着るもんはあるっつーんだよっ。おととい来やがれすっとこどっこいっ!」とびしゃりと戸を締め付けた。
「おいっ、釜が泡吹いているじゃねえかっ。ちゃんと調節しろ」
芳蔵に再三叱られ、右往左往しながら持ち場に戻って火加減を調節するが、「あっちいあっちい」と勝吾郎は一人で賑やかだった。
仙蔵も気さくな面々のお陰で、炊事場で働くことに喜びの様なものができ、仕事にも慣れてきた。
(26)
それから三日間手伝いを続けていると、弥助が炊事場に入って来て仙蔵に寄ってきた。
弥助は話す前から難渋な面持ちでちらりと仙蔵の目を見る。
「どうだ、体はきつくないか?」
「はい、野良仕事をずっとしてましたから、体だけは丈夫です」
仙蔵は微笑んでみるが、弥助は頬をわずかに上げるだけで頷いた。
「折角慣れたところで悪りいんだが、ここ数日で三人も介抱人が体調崩しちまってな。奥の病人部屋で介抱してくれんか?」
仙蔵の笑みがふっと消えた。
「えっ・・・」
「済まねえが、手が足りん。手伝ってくれ」
弥助は入ったばかりの仙蔵に頭を下げた。
頭まで下げられ、仙蔵も断る訳にもいかず「顔をお上げになって下さい、分かりました・・・」と了承した。
「早速で悪いが、もうすぐ昼飯を配るんで付いて来てくれ」
介抱人が倒れてしまう様な場所で働けるかと不安になる。
病をうつされてしまった介抱人はどうなったんだろう・・・。
ここは今住んでいる長屋よりも環境が悪いから、病を患ったら何処で療養すればいいのか。
どんどん病気になっていくことばかりが頭に浮かんでくる。
ぎしぎしと廊下を進み、薄暗い病人部屋の前に来る。
ごほごほと咳き込む病人と漂う匂いに、窓はないかと部屋の中を見渡してみると小窓程度。
「どの様な事をすれば宜しいんですか?」
弥助は一人で介抱している四十がらみの女を呼ぶ。
「お里さん、ちょっといいかい?こっち来てくれ」
お里と呼ばれる女は、病人に粥を食わせる手を止めてやってきた。
「はい、なんでございましょう?」
「あんたと一緒に介抱してくれる仙蔵だ。宜しく頼むよ」
お里は狐目でちらりと仙蔵を見やると、口をひくひくさせ何だか物言いたそうな顔して、弥助に「ちょっと・・・」と引っ張って仙蔵から離れた。
「あたしは女の人が良いって言ったんですけどねぇ・・・」
「捜したんだがおらんでな、上手くやってくれ」
弥助とお里のひそひそ話は全て仙蔵の耳に入ってきたが、建物の様子を見る振りをして知らぬ顔をするしかなかった。
「男の人は気が利かないじゃありませんか。二日ばかりいた人だってぼさっとしてた癖に熱出して・・・かえって邪魔なんですよ」
「まあ、そこをなんとか。他には勝吾郎しかおらん」
「もっと困りますよっ。一日中裸でいて、いちいち気合みたいのがうるさいから邪魔ですっ。病人だって余計に具合が悪くなってしまいます」
お里という年増の女が随分と気が強い事が分かると、仙蔵は益々嫌になってきた。
帰りたい気もするが、信一郎との約束もあり、ここで帰っては顔に泥を塗る事になると様子を窺う。
まかりなりにも役人である手代の弥助が、お里に気を使って宥めている。
「ここは一つ、なっ、お里さん」
お里は手を擦り合わせながら、左の頬をゆがめて難色を示し続ける。
「どうするんですか?もし、あたしも熱出したら男の人だけになってしまいますよ。いいんですか?」
仙蔵は、お里の脅迫めいた物言いに恐る恐る二人の方に目を向けた。
すると、お里は仙蔵を見ながら「男の人は扱いづらい」と文句を言っている。
咄嗟に目を逸らした仙蔵は、こりゃわざと聞えるように言っていたんだとぞっとする。
怖い・・・、嫌だ。この先あの年増の女につべこべ言われ続けるのかっ。
倒れた介抱人は、あの女の嫌味で痛めつけられたのが原因なんじゃないのか・・・。
この場を逃れたいと、仙蔵は咄嗟に二人の間に入った。
「弥助様、はばかりに行っても宜しいですか?」
じろりとお里に睨まれ、弥助は引きつった愛想笑いを浮かべた。
「おっ、おう・・・その奥を出た所だ。気をつけてな」
仙蔵は頭を下げて厠へ逃げた。
おっかねえ~っ・・・。あんなおばさんと一日中一緒いる方が変になっちまうよ。
用を足したは良いが戻るしかない。
余りのろのろしていると何を言われるか分かったものじゃないと、急いで戻る。
すでに弥助の姿はなく、病人部屋を覗くと気配を察したのか、さっとお里が振り向いた。
「ちょっと、あんた。そこで手を上げているおじいさんにお粥食べさせてあげてっ」
仙蔵は生きた心地がしなかった。奥の方に目を向けても手を上げている者はなく、捜していると、「手前だよっ」とこれまたきつい言い方でどやされた。
「おっ、お粥はどこですか・・・」
おずおずと仙蔵がお里にお伺いを立てると、「そこの戸の裏側に用意してあるから、匙で食べさせて上げてちょうだいっ」
はいはいと仙蔵は粥を持って、やせ細った爺さんの元へ行った。
爺さんは辛そうではあるが自分で体を起こせるようで、肘を付き起き上がろうとしている。
「ちょっと待って」と仙蔵は枕よりも高い藁を丸めた物を爺さんの背中に宛がう。
上体を起して座椅子の様に座らせ、匙で粥を食べさせる。
爺さんの横に置いてある布切れで口元を拭くと、次から次へと粥を持って食べさせて回る。
年寄りばかりでなく、同年代の若者や中年と年齢は様々。
やっと息を付いたかと思えば、「しょんべんに行きてえ・・・」と声が聞こえ、仙蔵は三十半ばの男に近寄る。
男は足を怪我しているだけで、風邪などは患っていないという。
肩を貸して起き上がらせ、厠へ連れて行く。
その帰りに、男は「少し外の空気に当たりたい」と言い出した。
雪がちらつき、仙蔵は病人着では寒むかろうと自分の羽織を男の背中にかけて、縁側に連れて行き腰掛させると、再び病人部屋に戻る。
その男に続くように、我も我もと次々に厠との往復が始まり、気づけば十五人ばかりを連れて行く。
病人だから倒れない様に気を使う。やっと一段落付くとくたくたになって廊下に座り込んでしまった。
すると、お里がまたまた見計らった様に仙蔵の元へやってきた。
びくりとしてお里を見上げると、帯の内側から何かを取り出して仙蔵に差し出した。
「良かったら食べて」
「えっ、なんですか・・・」と紙の包みを受け取ると、落雁だと言う。
お里も仙蔵の隣に腰を下ろして座り、一緒に病人部屋を眺め、初めて笑みを浮かべた。
「ありがとう。厠に連れて行くのが一番大変なのよ・・・あとは三日に一回のお風呂なんだけどね。動けない人は体を拭いてやるのも大変なの。今まで男の介抱人は突っ立っているか、面倒臭がって大して動いてくれないし、あたしみたいな女に言われると頭にくるようで長くは続かなかったのよ」
仙蔵は恐る恐る落雁の包みを開けて「頂きます」と歯で半分割って口に入れる。
お里も落雁を取り出して口に入れ、ほっと一息つく。
「あと十日もしたら、この人たちどうなっちゃうんだろう・・・」
久しぶりに甘い物を口に入れ、落雁ってこんなに美味いものだったんだとしみじみと味わう。
「お粥しかないけど、他にはないんですか?」
先程の険相は消え、お里は困った顔ながら口角を上げた。
「もっとお魚とか食べさせた方がいいんだけど、おじいさんだと歯がなかったり、病人だから骨を取ったりして上げないといけないから手間がかかるの。それに、お金がないから買えないし、漬物ぐらいしか出せないのよ。人数が多いからね・・・」
お里はやるせないと首を振り、もう一つ帯に忍ばせた落雁を口に入れた。
「そういえば、要三さんいないわね・・・」
仙蔵は誰だと聞くと、「最初にあなたが厠に連れて行った人」と辺りを見渡している。
「あっ」と仙蔵はやにわに立ち上がり、「その人、風に当たりたいって縁側に座らせたままだっ」と急ぎ迎えに行く。
縁側に見に行くと、要三が仙蔵の羽織を着込んでガタガタと震えていた。
「殺す気かぁっ、おらぁ地蔵じゃねえんだぞっ」
「はいはい」と仙蔵は宥めて、要三に肩を貸し立たせた。
要三は執拗に「おっちんじまうよっ、こんな雪が舞う中じゃ」とぶつくさ文句を言っている。
死にはしねえよと心の内では思いながら歩かせると、「痛てえっ」と声を上げた。
ふと、何かを踏んだかと思えば、要三が怪我をしてる左足。
「痛ってーぇ。おらの足を潰す気かっ」とこれまた大げさな事を言い出した。
済まないと仙蔵が体勢を整えて、部屋に連れていくと、「お里さん、こいつに足を潰されそうになったよ~っ」と子供の様に言いつけた。
お里はちらっと仙蔵に目を向けると、苦い顔で首を振った。
要三を元居た寝床に座らせて、一旦廊下に出ると、お里も廊下に出てきた。
「気にしないでね。要三さんは独り身だからあたしに甘えているのよ・・・」
はあっと仙蔵はうなづくと、「お里さん、踏まれた足がひしゃげたみてえだ、痛いっ」と呼んでいる。
仙蔵は小窓に振り返り、三十半ばの親父が何言ってんだと、力が抜けて外に向かって溜息をどっと吐く。
その次は、口がへの字に曲がった爺さんが「おい、新入りっ。背中がかゆい」と呼ぶ。
仙蔵は振り向きざまに、手招きする爺さんを見て、だからなんだと言いたかった。
背中がかゆいなら、かいて下さいぐらいの言葉を言えとむかむかしながら近づいた。
爺さんは「この藁を束ねたもので箒みたいに背中の上から下へずずずっと広い範囲でかいちゃくれねえか・・・」としっかりと茶せんの様な道具まで準備していた。
仕方ないと、仙蔵はその藁を束ねた茎の少し硬い部分を縦にして、背中の上から下へとこすりつけると、「痛いっ」と仰け反った。
この爺さんも「殺す気かっ」と要三と示し合わせたかのような台詞でもって睨んでいる。
たまんねえ~っ・・・。
仙蔵は渋面で「ごめんよ、力加減が分からなくて」と謝ると、「筆を使う様に丹精込めてやるんだ。その背中のかき方で人格が判明する・・・」と出鱈目な事を言い、「続けてっ」と偉そうに指図する。
さっきは箒って言ったじゃないかっ・・・仙蔵は極力力を入れず背中を藁で撫でると、
「うーっ、お里さん助けてくれっ。引っかき殺されちまうっ」と声を上げた。
結局、お里に甘えたいだけじゃねえかっ、と仙蔵は爺さん自作の藁の背中かきを放り出す。
爺さんの隣で寝ている者が水を欲しがり、これ幸いにその場を抜け出す。
仙蔵は水では寒かろうと、お里に大量の湯のみはないかと尋ね、廊下にお盆を準備した。
仙蔵は炊事場に行くと、勝吾郎は相変わらず「あっちいなっ」と真っ赤な顔して、ふんどし一丁で声をかけてきた。
「ぎゃあぎゃあ騒いでいるのは、おめええぐれえだっ。あっ、てめえまた着物脱ぎやったなっ」
「許しておくれよ、芳蔵さん」
病人を冷やさぬ為とお湯をもらい受け、仙蔵は炊事場に戻りたいと後ろ髪をひかれるように病人部屋に戻り、三十ほどの湯飲みにお湯を注ぐ。
水を少し加えたお湯を配りましょうと、お里に言うと「気が利くわね」と二人で手分けをして配って回る。
仙蔵は右の奥から配り、お里は左の奥から順次飲ませていった。
怪我人の要三に「あったまるから飲んで下さい」と湯飲みを渡そうとすると、「おらぁ、いらねえ」と断った。仙蔵はあっそうと次の男に手渡して飲ませていると、「お里さん、おらにも湯をくれっ」と要三が大きな声でねだっている。
すると、廊下側のへの字口の爺さんも負けじと「お里さんが注いでくれた湯が飲みてえっ」と声を上げる。
おいらが注いだんだよっと、仙蔵は横目でじいさんの呆れた振る舞いを見つつも、他の病人にも白湯を飲んでもらう。
その中の十五、六歳の若者にも白湯を渡すと、「腹が減った」と言い出した。
「さっき粥を食ったばかりだろう」と仙蔵が言うと、「あれじゃ足りないよ。握り飯を三つぐらい食べないと腹が膨れない」と嘆く。
言われてみれば、この年頃で粥の一杯で足りるはずもない。仙蔵はお里を廊下に呼び、育ち盛りの若者がもっと食いたいと言っていると告げた。
お里も困っているようで、「あたしも食べさせて上げたいけど、ここの決まりで病人は三食出るから、量にも限りがあるのよ・・・」と重い口調で溜息を吐く。
「あの子は市松って言うんだけど、ここに来て風邪をこじらせちゃったの。国は下野らしいんだけど、なかなか身請けの人が来なくてねぇ・・・来た時よりも具合が悪くなっちゃったみたい」
仙蔵も事情を聞き溜息を吐く。病人部屋の環境の悪さはなんとかならないかと思うが、十日後には取り払われるから、今更なす術もない。
仙蔵はお里に「まかないでもらった握り飯をあの子に上げてもいいですか?」と聞くと、「あんたの食べるものがなくなっちゃうでしょう・・・」と二人で困っていると、弥助が様子を見に来た。
お里が弥助の顔を見るや否や「ちょっと弥助さん、市松のご飯の量をもっと増やして上げてくれませんかね?」と前掛けの裾をひっぱりながら頼んでみる。
弥助も十分承知しているといった風に腕を組んでうなり出した。
「市松か・・・あいつの国の身請人と未だに連絡付かんで困っているんだ。どうも親が渋っているらしくてな・・・下野も飢饉で大変らしくて」
お里は手を振った。
「それはそれとして、今日明日のご飯の話ですよ。御救小屋に来て病にかかって、余計に具合が悪くなっちゃ弥助さんだって体裁悪いでしょうに・・・仕方がないから、仙蔵さんが自分のおにぎりを上げたいって言ってくれているんですよっ」
弥助はちらりと仙蔵を見て、ほっと胸を撫で下ろした様に微笑んだ。
「上手くやってくれているんだな・・・」
仙蔵はええっとうなづいて「もう少し飯の量を多くできないもんですか?」と頼んでみる。
「そうだな・・・確かに御救小屋がぶっ倒れ小屋だから取り壊しなんて評判が立ったら、それこそ笑い物だしな・・・」
お里は気を揉んで、「なにをのんきな事を。変な冗談やめて下さいな」と顔を横に振る。
余計な事を言ってしまったと弥助も渋い面持ちで腕を組んで一考する。
「分かった。今日は岡田様がおるから相談してみる。まだ、誰にも言わんでくれ」
弥助は考え込んだまま、病人部屋から立ち去った。
仙蔵とお里は、どうにかならんものかと廊下で考え込んでいると、要三が二人で話しているのが気になるらしく「お里さんっ、足を擦っておれよ~っ」とまるで死に際の様な声で手を伸ばして呼んでいる。縁側で怒鳴りつけた勢いはどこへやらと仙蔵は呆れた。
「はいはい、夕食の事で話し合っているから、自分で擦って待っていてね」
お里のあしらい方は慣れたものだった。
「なんだっけ?」
要三に気を取られて二人とも何を話していたんだか忘れてしまった。
「ご飯の量の話です」
仙蔵が思い出すと、二人して今一度長い溜息をふう~っと吐く。
仙蔵は炊事場の責任者の芳蔵にも頼んで、若い年頃の者や歩ける者に粥とは別に握り飯を出してもらうことをお役人に頼んでもらったらどうかと、お里に提案してみる。
お里はう~んと拗ねた様な目で仙蔵を見た。
「どうかしたんですか?」
「いやね、芳蔵さんは頑固だし、おっかないのよ。口添えを頼んでもねえ・・・」
仙蔵は、自分だって最初は十分きつかったじゃないかと、目を丸くしてお里を見返すと、「あっ、今あんた、あたしだって怖いと思ったでしょうっ」と意地悪く笑みを浮かべた。
「いえ、そんな事決して思いません。おいらが芳蔵さんに頼んでみます、八日間炊事場を手伝っていたもんですから。芳蔵さんは見かけよりもおっかなくないですよ」
仙蔵もにやりとお里に微笑んだ。
「あっ、やっぱり今あたしの方が怖いっていう顔したわねっ、もうっ」
お里が仙蔵の肩をしなを作って叩くと、今度は爺さんが「あーっ、背中が痛てえっ!お里さんっ、血が出てねえか確かめてくれねえかっ」と焼餅を焼いて呼んでいる。
じじいに負けるかもんと、要三も「お里さん、足がっ」としきりに自分の左足を指を差して呼び始める。
すると、他の男達もどこが痛てえだの、頭がくらくらするだのと、お里を求め始める。
「びっくりするでしょ。一銭もお金出してないのに、こんなに要求ばっかりしてきて」
仙蔵は大きくうなづく。
「お里さんはすごく慕われているんですね・・・」
「違うのよ、あたしは亭主持ちだし、子供も三人もいるのよ。あの人たちだって、最近までは大人しかったのよ。でも、一月(ひとつき)ばかり前に他の御救小屋が取り払われたって噂を聞いたらしくて、今後の事を考えると不安で堪らないんでしょう。だから、ああやって何かにつけて呼んで不安を紛らわしているのよ。今までいた介抱人も体調を崩した人も多いけど、やり切れなくなっちゃうのよ・・・手伝いで来ているたって半ば強制でしょ。あたしたちだっていつどうなるか分からない中で介抱して、いつか、ここに来なくちゃならなくなると思うとね・・・」
「おいらも最初、御救小屋に並ぶ人を見た時、急に自分もどうにかなっちゃう様な気になって怖くなったんです」
お里は大きく溜息を吐いて、「みんな、そうよ。誰だって最初は往来の道で、行倒人や病人がいれば声もかけていたけど、それが頻繁に見かける様になって、死人までも多く見る様になると辛くなって目を背けちゃうのよ。いずれあたしらも路傍で死ぬのかってね・・・」
仙蔵は自分ばかりが、そう感じていた訳じゃないと知ると安堵もした。反面、やる方ない気持ちに一層包まれ、何かしなければと駆り立てられる様で気も逸る。
仙蔵は居た堪れなくなり、お里に芳蔵からも言ってもらうよう頼んでみると告げ、炊事場に向かった。
第二部(27)へ続く。
( 江戸名所図会 )