増税、還元、キャッシュレス。 そして明日は、ホープレス。

長編小説を載せました。(読みやすく)

【 死に場所 】place of death 全34節 第二部(23) 読み時間 約10分

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  ( 江戸名所図会 熊野十二社 角筈村 )

 

   (23)

 南へ七八町、神田上水沿いに歩く。角筈村に入り右手に大きな用水路が広がる。

熊野十二社の鳥居が見えると、滝の音が聞えてきた。

「ここの神社へも参拝に来たのか?」

熊野の滝は、凡そ三丈の高さから水飛沫を散らしながら流れ落ち、水面を叩く。

信一郎が振り返ると、仙蔵は滝の音に掻き消されるようなか細い声で「はい」と答えた。

 江戸の景勝地としても、その名を知られる地域だが、優雅に舟遊びする者はない。

用水溜は上池と下池があり、周囲には茶店も散見できる。池の辺では、釣りをする村の者がちらほらと見えるが食料の足しにする様子で、楽しんでいる余裕はないらしい。

 池をぐるりと回り、枯れた松林の林道から甲州道中も見える。

人だかりが出来て「並べ、二列に並ぶんだっ」と役人らしい声とそれに驚き赤子の鳴き声まで聞えてきた。

 林を抜けると、竹を縦に菱形に組み合わせた柵が二十五間程続いている。

建物の裏手から横に抜ける。その幅八間余り。

どこかで見た様な造りと雰囲気。

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  ( 荒歳流民救恤図 イメージ )

 

 ふと見上げると、御救小屋の幟旗。

建物正面に出ると、門番と手配役人が立っている。

道中からわずかに離れ建物の前に列が続く。その数ざっと五十人はいるだろうか。

 信一郎は手配役人の男と話した後、仙蔵の元に戻る。

「お前もここに並べ。そうすりゃ米と握り飯、それに六百文が支給される」

仙蔵は信じられないと目を白黒させて、信一郎を見つめ目を見開く。

「どうした」

「もらえませんっ、私は施しが欲しくて迷っていた訳ではございませんっ」

仙蔵は突如怒り出し、来た道を辿る。

「おいっ、仙蔵待てっ」

信一郎は小走りで追いかけ、仙蔵の肩を掴んだ。

仙蔵は立止ると、涙を浮かべて信一郎を睨み付けた。

「あんまりじゃありませんかっ・・・」

信一郎も良かれと思ったことが裏目に出てしまい戸惑う。

「おっ、御役人様から見れば、私の様な者には施しを受けさせれば落ち着くとでもお思いでしょうが、一時の施しで凌いでも、来月はどうなるんですか?半年一年後も望みなんかありゃしません。何か望みがあるなら施しを受けても、後日、お返しも出来ましょう。でも、今の私には何もないんです、御返しすることも出来ないんです・・・生きていたって辛いばかりで、一体何の為に、何を頼りに生きていけば良いのかさえ分からないんですっ」

「仙蔵、落ち着けっ。おいらはそんなつもりでここへ連れてきた訳じゃねえ・・・誰だって急に困る事はあるし、突然、病気になる事だってある。お前だって、今まで年貢を納めていただろう。御公儀は民百姓を守ることが御役目だ。天子様から民を守る事を任されているにすぎん。だから、施米はもらって当然の事なんだ。互いに助け合い困った時の備蓄米だ。それを分配しているっ。お前を馬鹿にしているつもりはねえっ」

 仙蔵は真剣な眼差しで訴えかけてくる信一郎の言葉に呟いた。

「備蓄米ですか。それでも、江戸に長らく住んでいる訳でもございませんから悪い気が致しますので、受取れません・・・」

「どうしてだっ」

仙蔵はごくりと唾を飲み込んだ。

「まだ少しはありますから・・・」

信一郎は頑なに断る仙蔵を説得する。

「すっからかんになってからじゃ、どうにもならんぞっ。すでに五十万以上の人間がもらっているんだから、お前ももらっておけ。言い方が悪ければ、年貢の一部を返してもらえ」

仙蔵はちらりと信一郎に目を向けた。

「返してもらえるんですか?」

「ああっ、町奉行所も代官所も民を守るのが役目だ・・・」

仙蔵は不承知ながら、施米をもらう列に並ぶ。

 後方から先頭に向かって並ぶ人々は様々だったが、男の数が多く、皆困窮した様相。

病身の者、杖をつく老人、赤子を背負う母親、手を綱いて一緒に待つ幼子。江戸の七割方は出稼ぎのまま居ついた、その日稼ぎの者。

 門は二ヵ所あり、施米と炊き出しを受取る入口と出口で別れている。

出口では、門番や周辺の村の手伝い人に頭を下げて人々は去ってゆく。

甲州道中から少し離れ、その奥には先ほど迂回した熊野十二社が鎮座し林が生い茂り、

からすや鳥の鳴き声が、やけに木霊する。

 

 その間、信一郎は御救小屋支配役の代官所元締手代の岡田宗泰と話合っていた。

御救小屋の支配は代官所で、米や金の用意の他、町場の行倒人や無宿、その日稼ぎの困窮者を引き受け、病気の者は小屋で看病を受け三食受ける事ができる。また、無宿で健康な者であれば、二食を受け、日中幕府の工事などで働くこともできた。

ただし寝泊りできるのは百日限りとし、身元引受人がいる場合は、その者に引取らせていた。身元引受人がなく健康な者は、石川島の人足寄場で働くか、そこで手に職を付ける事になる。

御救小屋では、施米施金、炊き出しの他、身寄りの照合、備蓄米などの管理、看病と、すべき事が幾多に及び人手を必要としていた。

 先月、十月二十八日。神田佐久間町、増設した花房町の御救小屋二十一棟が取払いとなった。収容延数、五千八百余人。

江戸四宿の内、品川、千住、板橋の三つの御救小屋は、明日十一月十九日に取壊しが決定されている。理由は、米価の下落と町も落ち着いてきたというものだった。

 それでも困窮人は多く、ここ内藤新宿の御救小屋も近々取り壊しが決定されるだろうとの事だった。その後は、引き続き町会所にて施米等を行う。

 

 元締手代の岡田は、近頃では栄養不良で病を併発する者も増え困っているという。

近隣の村に手当てを二、三両渡し、二名ずつ手伝いに来ているが、村も多忙な為、人手も足りないとも零す。

信一郎は列に並ぶ仙蔵に目を向けた後、岡田に相談を持ちかける。

「人手が足りないなら、思い当たる者がおります」

「おおっ、白沢殿のお知り合いとなれば、願ったり叶ったりでござる。して、どのような人物でござろうか?」

「年は二十六で、健康な者です。身元もしっかりとしておりますが・・・」

先程も、裏目に出たような感じとなった事もあって、信一郎は躊躇った。

途中で会話が途切れてしまった岡田は困惑して信一郎を覗く。

「いかがなされました。病も流行っている故、壮健な者なら尚の事、尽力願いたいっ。とにかく、人手が欲しい」

岡田の強い思いに信一郎も即答したかったが、勝手に決める訳にも行かぬと、しばし猶予を願った。

岡田は期待していたものが急速にしぼんだものだから、落胆甚だしく悲壮な面持ちで、

「この前も手伝いの者が病と称して来なくなってしまって・・・」と溜息を漏らす。

信一郎は襟足を掻きながら、「誠に御訊きしづらい事で御座いますが、そのなんでしょうお手当はいかほど頂けますか?いや、その者は甲州から御伊勢詣りに行く途中、江戸に立ち寄っておりますが、なんせ諸色高で御参りにも行くに行けずにいる者でございまして・・・」

岡田は金の話を出されて嫌な顔をすると思いきや、ぱっと笑みを浮べた。

「ほう、それは殊勝な事ですな。その様な心意気の者であれば、尚の事お願いしたいっ。拙者もいずれ伊勢詣りに行ってみたいと思っていたものですからっ、いいな~ぁ」

信一郎としては、できるだけ高い手当をもらえる様に話したつもりだったが、伊勢詣りの心粋の話題に摩り替わってしまい困惑する。

「いや、その、手伝いの手当はいかほどかと・・・」

「えっ?ああっ、手当でございますな。そうですなぁ、はっきりとは申せませぬが、明日の午前中に三奉行様の寄合で、ここの取払いの日程もはっきりすると存じます。御代官様にも話しておきますが、最後まで御手伝い頂けるなら、白沢殿の御顔を立てて一分(ぶ)程は御用立てできるかと存じます」

「えっ、一分もですか?」

信一郎は随分な額に驚いた。

「先程も申しましたが、病が流行って欠員が出てから拒む者が多くて難儀しております」

「左様でございましたか・・・では、明日か明後日に再び参ります」

信一郎は頭を下げると、岡田も深々と一礼し「では、先程の御一件、こちらからも宜しく御願い致します」と小屋の中に戻って行った。

 信一郎は一分金と聞くが思い止まる。

「待て・・・あいつの事だから、また妙な事を言い出すかもしれねえ・・・」

信一郎はそんな事を一人思い悩んでいると、仙蔵が施米と金をもらって戻ってきた。

「頂いて参りました・・・」

「なんでぇ、浮かねえ顔して。さっきも言ったろう、お前の預けた取り分だってっ。またなにか言いたそうな顔しているな」

仙蔵は小さい麻袋に入った米と握り飯の包を見つめて呟く。

「小屋の中を見たら、尚更不憫に思えてきました・・・広い大部屋と幾つか仕切りがあって、多くの者が病に臥せっておりました・・・」

信一郎は手当ての金額を口にしようと思ったが、まだ定かではないと言うのを止め、神社へと向かう。

「おい、こっちの方が近道だ」

仙蔵は顔を上げ、信一郎の後に続く。

 

 神社の鳥居の前まで来ると、信一郎は振り向いた。

「折角だから、手を合わせて行こう・・・」

仙蔵は力なく頷く。

二人は本殿の階段を登り、二礼二拍手の後に一礼を行う。

信一郎は、飢饉が早く治まる事や御役目が早く終わる事、借金が消える事等、思いつく事を幾つも願っていると、力が入り顔が紅潮する。

力みが抜けふうと顔を上げて振り返ると、仙蔵は早々に済ませて階下で待っていた。

「なんだ、早えじゃねえか・・・」

「別段、私の事で願うこともございませんから・・・」

「なにかしらあんだろう」

「願っても無駄です。あの御救小屋の人たちだって散々祈っていたでしょうに」

信一郎はどっと溜息を吐く。

「それを言っちゃあおしめえよっ。なんだ、江戸に出て来て神社詣りで拝み倒した末に、やさぐれたって訳か。そうか、本当は死にたくないんだろう?前にも言ったが、真に心に決めた奴は誰にも言わねえで事を起すもんだ。蕎麦屋で騒いで役所でも番屋でも何処でも行くって言っていたが、あれは相談相手がいなかったから役所って考えたんじゃねえのか?文句を付けたのは口実だ。そうだろう?」

 仙蔵は信一郎に睨まれて、ああっと声を漏らし俯いた。

「ここは神前だ・・・おめえが信じようと信じまいと、おめえの本心を聞かせてくれ」

本殿を見つめた後、仙蔵はこれまでを振り返り、目を伏せた。

「遠からず当たっております・・・村では私が気に入らぬばかりに押し込められ、追われるように御伊勢参りと称して出て参りました。しかし、御伊勢に行った後、恐らく路銀も底を付きましょう。その後どうすればいいのか。江戸に戻っても望みはなく、飢えに苦しむだけに思えてなりません。国には戻れませんし、辛く寂しくいっその事消えてしまいたい気持ちを抱えながら、日雇い仕事をして暮らしておりました。誰にも相談できずにいたところ、あの不味い蕎麦と値段に怒りが込み上げて、つい・・・」

 信一郎は無言のまま頷き、本殿に向かって一礼する。

「御公儀も役所も、本来、民百姓の為にあるもんだ・・・。それに、おいらは町会所掛の臨時の窮民送り方。そのおいらに相談したからには早まるんじゃねえぞ、分かったなっ?」

仙蔵は、信一郎が自身に言い聞かせるような口調に顔を上げた。

「分かりました、御迷惑はかけません・・・」

「約束だぞ・・・正直なところ、この御役について二月経つが、ずっともやもやしてやがる。今までは、町を見る目が怪しい者に向いていた。ところが、今度は迷い人や行倒、困っている人間を捜さなきゃならねえし、自身番の連中がちゃんと世話をしているかも見回らなきゃならねえ。見る目ががらりと変わっちまった。悪人だったら、この野郎って力も湧くが、困窮人を見かけると堪らなくやるせなくなって、全然慣れねえ・・・」

 信一郎はいらいらとし「畜生、こんな事話すことじゃねえ。おいらもどうかしている、帰るぜ。明日か明後日、お前さんの長屋に行くから待ってろ。くれぐれも変な事は考えるなよ」と番屋に戻る脇道で振り返る。

仙蔵は信一郎の呼びかけに「はい、有り難う御座います」と丁重に頭を下げ、二人は分かれた。

「明日か明後日には、きっと長屋にいろよっ」

今一度、信一郎は念を押す。

「はい、きっと待っております」

 

 番屋に戻る道すがら、信一郎の気分は晴れない。

己が拠り所としていたものが、仙蔵と出会った事で全てが不確かなものに思えてしまう。

同心の倅として生まれたからには、同心になる・・・。

そして、神仏の御前では手を合わせる。

生きる意味は、御役目を受け継ぎ家を守る事が、定めと信じていた。

 とはいえ、同心は足軽身分。どう足掻いても旗本にはなれない。

一代限りの御役は、目こぼしの様に世襲を見逃されているにすぎない。薄給にしがみ付き、町場の付届けで潤っていた時は昔の話。飢饉続きで付届けは減り、借金は増えるばかり。

家格や身分の高い者に蔑まれる事は、日常茶飯事。

武家も同じだ。どこに生れ落ちたかで、大抵決まっちまう・・・」

 信一郎は、仙蔵との出会いにも疑問が湧いてきた。

なんであの時、仙蔵と出会ってしまったのかと、後悔にも似た思いが過る。

生きる意味に向き合う事をしなかったという訳ではなかったが、それをしてしまったら、今の身分や状況に満足できる訳もない。

ましてや、今の御役目から色んな考えが出てきて憤りさえ覚える。

 同心として町場を守り、家を守って子に引き継がせて生きる事が正しいのかと首を傾げてしまう・・・。

 信一郎は頭を振って先を急ぐ。

父の遺志でもある御役目をしっかり毎日続けるんだ、神仏は見守っておられるっ。

足早に歩みを進めていても、救いを求める民百姓の顔が浮んでは消える。

世上の平安なくして、おいらはここを離れられない・・・。

犯罪も飢饉が続くにつれ、増えてゆく。

信一郎は己一人の力じゃどうこうできるものではないと足取りが重くなる。

「どうしろってんだっ、奇跡でも起らなきゃ・・・」

 

 信一郎が番屋の前に戻ると、一旦呼吸を入れ、塞ぐ気分を入れ換えて中に入る。

孝助は書類を机の上に重ね置いた。

「お帰りなさいませ。明日、御役所へ御持ちになる書類を一通り揃えておきましたので御確認下さい」

「すまねえな。本当はおいらがやらなきゃいけねえ事をやってもらって・・・」

孝助は畏まって頭を下げた。

「この様な事ならば御安い御用でございます。物書きやそろばんは好きでございますら・・・」

信一郎は改めて孝助に向き合って見つめた。

「もう少し辛抱してくれ・・・この飢饉が治まれば、どこか世話するから。だからと言って、博打の為にそろばん弾くのは止めてくれよ」

孝助は頭を下げて「申し訳御座いません。本来なら一番年長者の私が止めねばならぬ立場で御座いますのに、一緒になって熱くなってしまって・・・」

「誰にでもあるこった。頼んだぞ・・・」

「私の事を御気にかけてくださるのは大変嬉しゅうございますが、正平の方が・・・」

信一郎は土間で足袋を脱いで払う手を止めた。

「正平がどうかしたのかい?」

孝助は信一郎の足を洗うかどうかを聞くと、泥濘(ぬかるみ)に入ったから洗うと言って桶の中に足を突っ込んだ。

「あ~っ冷てえっ」

「正平の奴、どうも焦っているらしくて、いつまでも世話になっている訳にいかないと・・・」

畳に上がった信一郎は煙管を取り出し、ぽかりとふかす。

「しょうがねえな、だからって憂さ晴らしに博打なんかされちゃかなわねえ。折角、卯之吉をまっとうにしたのに、また元に戻っちまう。今度会ったら言っておく」

孝助は信一郎と目が合った拍子に、言いかけた言葉を引っ込めた。

「なんだい?」

「いえ・・・あっそうだ。明日は御登所でございますから、これから御屋敷にお戻りになって、そこから御役所に参られましたらいかがでしょう?」

信一郎は「ああっ、そうだな・・・」と孝助に目をやった。

「夜勤は誰だ」

「正平と卯之吉でございますが、」

信一郎は正平に一言言ってやらねばと考えていると、「私が申しておきます」と孝助は先回りをした。

「しばらく屋敷に戻ってないから、そうしてくれると有難い」

 それから間もなくして、伝造が戻ってきた。

信一郎は、伝造に付いてくるよう言うと外に出た。

八丁堀までおよそ一時はかかるし、風も出てきて寒さが沁みる。

「なあ、伝造。駕籠で行くと、ここから八丁堀まで幾らかかる?」

「そうですね、三百文から四百文ってところでしょうか」

信一郎は懐を探り、手持ちを確かめた。

また、明日の登所で上役の与力にも付届けをせねばならんと思い出す。

困ったな、なに買っていけばいいんだ。饅頭の詰め合わせを前に持っていた時は鼻息をふうと漏らして喜んでなかったし・・・。その前は最中(もなか)を贈ったら、上あごに張り付いたと嫌味を言われたし、先日の団子の詰め合わせはどうだったろう・・・。

この飢饉の中、付け届けなんて贈らなくていいか。なんなら、ところてんでも持って行ってやろうか、上役を押し出すって意味で丁度いいかもしれねえ・・・。

信一郎は悩みながら、だらだらと大木戸へ向かうと、ひゅーと風が吹き信一郎の袖を派手に揺らす。

ふん、風にまで舐められちまったな・・・・。

「伝造、お前さんも外廻りで疲れたろう。駕籠乗って行くか」

伝造は少し驚いて、「えっ、いいんですか?」と頬を緩ませ、額を輝かせた。

「ああっ、おいらが良いって言うんだから文句は言わせねえ。駕籠かきのお前さんが、乗り心地を確かめてみるのも良いじゃねえか」

「ありがとうございますっ」

伝造は嬉しくなって体が熱くなったのか、額から汗を流して喜んでいる。

信一郎の袖をばさばさと執拗に風が吹きつけるのがうっとおしくなり、腕を組んだ。

「それでなんなんだが・・・お前の知り合いとかで、もうちょっとなんと言うか、融通を利かせてくれる様に頼んではくれねえか?」

伝造は額の汗を袖で拭うと、信一郎があっちの方を向いて首筋を掻いている。

「近道ですか?」

信一郎は眉を顰め、伝造に流し目を向ける。

「まあ、近道もなんなんだけれどもっ、これだ・・・」と袖を振って見せた。

「奴凧((やっこだこ)でございますか?」

「凧(たこ)じゃねえーよっ!駕籠に乗りながら凧飛ばしてどーすんだっ」

信一郎はぎっと伝造を睨み付けた。

「安くしてくれって、頼んでくれっつうんだよ・・・」

伝造は「へい、すいやせん・・・」と苦い顔で汗を拭って突っ立っている。

信一郎はいらいらして「早く行って頼んでこいって言ってんだ、でこっぱちっ」と急き立てた。

伝造は脱兎の如く、駕籠屋に駆け出した。

 

 寒い中待っていると、やっと伝造が戻ってきた。

「どうだった?」

もじもじと寒さを紛らわしながら信一郎が訊くと、伝造は申し訳ないと先に謝った。

「すいやせん、ここから八丁堀までだと、負けても二人で七百文だと申しておりまして・・・」

「なんだ、負けてねえじゃねえか・・・」

信一郎は大きな溜息を吐いて、どうするかを考えた後、「もういい。明日、ここから役所に行く」と踵を返した。

伝造は上手く交渉できなかったと、今一度謝まった。

「何度も頼んでみたんですが、すいやせん・・・」

「しょうがねえよ・・・何処も諸色高なんだ。伝造、おめえさんはもういい。今日はこれで上がってくれ」

肩を落として力の抜けた信一郎に伝造は、「宜しいんですか?」と今一度顔を覗き込む。

「ああっ、おいらも宿に帰って準備するから、明日の明け六つに宿に来てくれ、供を頼む。そんで、番屋の孝助たちには何かあったら宿にいると伝えてくれ」

はいと伝造は返事をすると番屋へ戻って行く。それを見届け、信一郎も宿に戻る。

 

 先月と今月の行倒人、迷い人、捨て子、町名主との寄合記録、寄付を届け出た人物を表彰する名簿、町触の実行状況を纏めた書類を確認し飯を食う。

一人だけの食事は味気なく、自邸に戻るべきだったとも思うが、如何ともし難い御役目の事を久子にべらべらとしゃべってしまいそうで、また、借金の返済等もあり、明るく振舞えそうにない。これで良かったんだと箸を置く。

「来月には終わるだろう。それからだ・・・」

 

    第二部(24)へ続く。