増税、還元、キャッシュレス。 そして明日は、ホープレス。

長編小説を載せました。(読みやすく)

【 死に場所 】place of death 全34節 【第2部】(30) 読み時間 約13分

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( 新版御府内流行名物案内双六 イメージ )

   (30)

 夕方になると、炊事場から勝吾郎や女集が、豪勢な鴨と鮭が入った粥をお盆に載せて病人部屋に現れた。 

「お里さん、仙蔵、夕飯を持って来たぞ~っ。動ける者は、食堂に行ってくれっ」

「なんだか美味そうな匂いだな~っ」

隣の部屋から食堂へ移動する親子連れも覗き込む。

「うわぁ、美味そうだね」

お盆を取り囲んで廊下に人だかりができると、弥助も現れて「さあっ、食堂に行ってくれっ」と立ち止まらない様に誘導をする。

作兵衛の爺さんは、体は弱っているが立ち上がり「ふえ~っ、豪華な粥じゃないかっ」と目を白黒させている。

お里は作兵衛にお椀を持って行く。

作兵衛は早く食いたいと、手を伸ばした。

お里はすっと引っ込める。

「なんで?」

「これ、仙蔵さんがお偉い様に頼んでくれたからなんですよっ、お礼を言って下さい」

作兵衛は仙蔵をちらりと見やると、「へっ?」と今一度お里を見つめた。

「だから、仙蔵さんにお礼を言って下さいっ」

作兵衛は偉そうに手を上げた。

「おう、すまんな・・・」

「ちゃんとありがとうって言わないなら、子供に上げてしまいますよっ」

見かねたお里は、作兵衛を目ねつけた。

「お里さんは怒るとおっかねえーな。ありがとよ、仙蔵」

お里は呆れ顔で仙蔵に目を向けて渋い顔をした。

「そんなんじゃ、息子さん達は迎えになんて来ませんよっ」

「いいんだっ、あんな親不孝な息子っ、こっちから縁切ってやるさ。おーっ、こいつは鴨だな、昔は良く獲ったもんだ。ほら、お里さん、一口やるから口開けて」と匙で鴨を掬ってみせる。

「いりません、気持ち悪いっ」

お里もいい加減嫌になって、他の病人に配って食べさせる。

 仙蔵は、要三や市松といった動ける者達を食堂へ連れて行く。

勝吾郎や女集もそれぞれが病人部屋と食堂へと手分けをして、介添えをしたりと世話を焼く。

 この日の夕食は、御救小屋に歓喜が沸き起こった。

食堂の面々は、台の上の置かれた品々に目を見張る。

白米に鴨鍋、そして、焼き鮭。大根とごぼうの煮浸し、きんぴら。

御救小屋開設以来、最初で最後の豪華な夕飯。

 御救小屋の支配役である岡田宗泰が、食べる前に収容人に注目するように言う。

「此度、異例の夕食となったのは、名は明かせぬが、さる旗本様による御好意。そして、北町同心窮民送り方の白沢信一郎殿、町の商家などによる差入れ。そして、ここにいる介抱人、仙蔵の尽力の賜物である。よって、心して食す様に。尚、五日後、各々退去致す事になるが動揺する事なきように。ここが取り払われた後、身寄りのない者は放り出され、島送りになるなどと根も葉もない噂が立っているようだが、この食事を見ても分かるように、御公儀はその様な無体な事はしないから安心して欲しい。よって、喧嘩や諍い等無き様、助け合いを心がける事、以上」

 岡田の挨拶が終わると、皆手を合わせて謝辞を述べてから箸を取る。

収容人達は、歓声を上げながら食べると思いきや、黙々と食べ始めた。

女だけでなく男の方からも啜り泣く様な声が聞こえてくる。

「うめえよ、本当にうめえ・・・」

「こんなもんが、また食えるなんて嬉しいね」

炊事場の芳蔵が「おかわりはあるからな」と声をかけると、子供らは我先にとお椀を持って鍋の前に集まった。

仙蔵は食堂を見回していると、要三のお椀が空になっていたのを見て近づいた。

「お代わり持ってきましょうか」

要三は驚いた様に仙蔵を見つめた。

「これ・・・お前さんが用意してくれたのか?」

仙蔵は自分ばかりではないと手を振った。

「ほんの少しだけ手伝っただけですよ」

「すまねえな・・・」

要三は落ち込んだ風に下を向く。

「もっと食べて足を早く治しましょう」

仙蔵は鴨鍋のお代わりを要三の前に置く。

「お前さんに何も返せねえ・・・」

「おいらなんて、ちょっと手伝ったぐらいですから気にしないで下さい」

要三は済まなそうに仙蔵を見上げた。

「そうはいかねえ、これは立派な借りだ」

 要三は唐突に立ち上がり足を引きずって、元締手代の岡田に近づいた。

「岡田様、私は要三と申します。これまで罪を犯した事はございませんが、石川島の人足寄場に行く事になりますけど、江戸に残しちゃくれませんかっ」

岡田は突飛な訴えに困惑し、「江戸に残るとは、一体なんだ」と眉を寄せる。

「重労働することになるのはかまいませんが、なんとか江戸で働かせて下さいっ」

「先程も申した様に、島に送る事はない。要三と申したな、これまで何をしていた?」

「大工をしておりましたが、屋根から落ちて足をくじいてから無宿となり、こちらでお世話になっております」

 岡田は要三のくじいた左足を見る。

「石川島には罪を終えた者もおるが、無宿の者が独り立ち出来る様にする場所でもある。手に職をつけられる様に教えも受けられる。大工の素養をもっと身に着けたければ学べば良いし、他の職人になりたければ学ぶこともできる。療養所もあるから安心せい」

要三は石川島の様子を聴いて胸を撫で下ろし、岡田に頭を下げて足を引きずって座に着いた。

「仙蔵、いつかお前さんの家を建ててやりてえ・・・」

「いきなりどうしたんですか。それより、早く食べないと冷めてしまいますよ」

要三は俯いたまま顔を上げようとせず、膝を掴んだ。

「御救小屋に世話になったとはいえ、こんな風に取り計らってくれた一飯の恩を忘れる訳にはいかねえんだ」

仙蔵はそんな大げさなものじゃないと否定すると、「最後まで聞いてくれっ」と感情を押さえ付け、赤らむ目を仙蔵に向けた。

「おいらだって、ここまで身を落とすなんて考えた事もなかった。まさか自分が長屋を追い出されて住む場所もなくなるなんて信じられなかった。ここに住まわせてもらおうなんて更々・・・。そんなおらがここで世話になって、自分が情けなくて情けなくて、駄目な奴だと思うようになった。ここを出た後だって、いずれ野垂れ死にするんだと諦めていた・・・でも、この心づくしの飯、お前さんだって大変なのに借りが出来ちまった」

「借りだなんて思わないで下さい、本当に大した事をしてないんです。それにおいらも一度は施しを頂きましたから・・・」

要三は首を振り、「いや、おらはここを出て石川島でしっかりと足を治す為にも望みが必要なんだ。何かをする為に元気になる。やみくもに元気になんてなれねえ。だから、いつかお前さんの家を建てる為に養生すると決めた・・・」とくじいた足を擦る。

 仙蔵は恥ずかしさもあって手を振った。

「そんな大げさなっ。ほとんどの食材は見ず知らずのお偉い様と同心の白沢様、そして町場の寄付です。おいらなんて微々たるものですから。さあ、食べましょう」

要三の気持ちは幾ばくか落ち着きを取り戻し、塩鮭にも手を伸ばした。

「うめえな・・・鴨も鮭もこんなにもうめえ。仙蔵も一緒に食えねえのか?」

仙蔵は介抱する事で忘れており、ふと、入口の方に振り返る。

 

 番屋での勤めを終えて来た信一郎と四人の岡っ引き達が、食堂の中の様子を眺めていた。

仙蔵と目が合った信一郎は、中に入って来た。

「おう、仙蔵・・・だいぶ板に付いてきたじゃねえか。とはいえ残り五日だけどな」

「白沢様、お陰様で皆も喜んでおります」

仙蔵が頭を下げると、要三は白沢と聴き、立ち上がろうと台に手を付いて踏ん張った。

「しっ、白沢様でございますか?要三と申します」

「難儀そうじゃねえか、いいから座ってろ」

要三は背筋を伸ばして頭を深々と下げる。

「この度はありがとうございますっ」

信一郎は手を振って、照れ臭そうにちらりと仙蔵に目をやる。

「おいらじゃねえよ、さる旗本様の心遣いよ。それに、この男のお陰さ・・・」

仙蔵の肩に手を乗せて微笑む。

要三は二人の様子を見て、今一度信一郎に頭を下げる。

「白沢様、経緯は存じませんが、私はこの飯のお礼に仙蔵に家を建ててやると約束しましたが、しばらくは会う事はできないと存じます。つきましては、白沢様と仙蔵がお知り合いであれば、どうしたら訪ねる事が出来ましょうか?」

信一郎は仙蔵の顔を覗き込んで、「お前さんの長屋を教えてやればよかろう・・・仙蔵、嫌なのか?」と不思議がった。

「嫌だなんて滅相もございません。私は大した事をしておりませんので、とても要三さんに家を建ててもらうなんて申し訳ありませんし、割りに合いません」

仙蔵は信一郎と要三に慌てて説明する。

「なにごちゃごちゃ言ってんだ。お前の屁理屈はどうでもいいから、教えてやれ」

「教えろ」

要三は信一郎の言葉にうなづいた。

仙蔵は成子天神社脇の忠兵衛長屋であると教えると、要三はぶつぶつと復唱した。

信一郎も安心したと笑みを浮かべ「ここからすぐの長屋だ。仙蔵、ちょっと顔貸してくれ」と食堂を出る。

 仙蔵は要三に頭を下げてから、信一郎に続いた。

「いかがなされました?」

「ここの勤めが終わったら、おいら達も鴨鍋を食う事になっているから、昨日みてえにさっさと帰るんじゃねえぞ」

仙蔵は自分も食べられると聴き驚いた。

「誠でございますかっ?」

正平が脇から顔を覗かせ、「おめえさんが食わねえでどうすんだよっ」と微笑む。

仙蔵も介抱しながら、美味そうだと思っていたから尚の事嬉しかった。

 食事を終えた要三に、仙蔵は肩を貸して廊下を歩く。

要三は「きっと、おめえさんの家を建ててやるからな。二、三年、いやもっとかかるかもしれねえけど待っててくれ。だから、借りを返す為にも変な事を考げえねえでくれ・・・」と足を擦りながら仙蔵に微笑んだ。

仙蔵は余りにも要三の力が入るものだから照れ臭くなった。

「要三さん・・・」

「なんだよ」

「本当に気持ちは嬉しいんだけど、家を建てる地べたがない・・・」

「そこら辺に建てちまえばいい。文句言う奴の戸を二度と開かねえ様にしてやるから大丈夫だ。おまけにそいつの口にも釘を打ち込んでやるよ、ふふっ」

要三を部屋に連れ戻った仙蔵は所用を済ませ、夜勤の者と交代した。

 

 その後、仙蔵はお里と共に食堂に向かうと、働く者へも鴨鍋などの御馳走が用意されていた。

「うわーっ、改めて見ると本当に豪華ねっ」

すでに集まって座る者達の中に、信一郎たちを見つけると、正平が手を振った。

「おーい、こっちに来いよ」

仙蔵はお里と共に空いている席に座る。

岡田が「では、我々も頂きます」と手を合わせると、皆も食べ始めた。

 炊事場掛りの者達は、仙蔵とは離れた場所で食事をしていたが、相変わらず賑やかだ。

「この鴨鍋、あっちーなっ」と勝吾郎は口に入れたものをはふはふとしながらほおばっていると、芳蔵が「ほんと、あっちーなぁ」と二人で笑い合い和気藹々(あいあい)と食べている。

仙蔵の隣のお里も「何度も言うけど、久しぶりですよ。こんなご馳走っ」と鮭を口の中に入れて嚙みしめる。

 信一郎の隣に座るガリガリの卯之吉は、大根の煮浸しをのろのろと口に運んでいると、でこっぱちの伝造が前から「卯之吉は鴨鍋とか脂っこい物は食わないだろう」とお椀を取ろうと手を伸ばす。

すかさず信一郎と正平が、前と左から伝造のでこをぱちりと叩く。

「盗むんじゃねえっ」

伝造はでこを押さえ「すいやせん・・・」と頭を下げた。

年長の考助は「仙蔵さん、どれも美味しいものでございます」と頭を下げた。

「いえいえ、おいらなんて、大した事はしてませんから」

仙蔵は謙遜しながら鴨鍋を味わう中、故郷でも皆で囲炉裏の鍋を食べたことを思い出し、隣の信一郎の声をかける。

「白沢様・・・」

「それにしてもうめえなっ。なんだい?」

信一郎は鴨鍋に舌鼓を打つ。

「あの~っ、熊の胆の件でございますが・・・」

 仙蔵は低姿勢に信一郎に伺い立てた。

「心配するな、帰り道話そう・・・」

信一郎は休めた箸を手に取り、きんぴらを摘んで口に放り込む。

「う~ん、こいつもいけるなっ、酒が欲しくなる。仙蔵、忘れちゃいねえから早く食わねえと伝造に食われちまうぞ。卯之吉、お前はもっと食って太れっ」

食べるのが遅い卯之吉も血色良く、鴨の汁を啜ってうなっている。

大量に炊いた飯、鴨鍋もなくなり、皆満足して宴はお開きとなった。

 

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     (熊野十二社)

 

 信一郎は仙蔵、岡っ引き達を連れ立って御救小屋を後にし、熊野十二社に立ち寄る。

まず、信一郎が本殿に上がり手を合わせた。

仙蔵の熊の胆のお陰と一日の無事の御礼を申し上げ、早く飢饉が終わり、来年の豊作を祈願する。

続いて、卯之吉、考助、正平、伝造も並んで参拝する。

最後に、仙蔵も後に続いて参拝するが階段を下りてきた。

「溜息なんか吐くな、神様に失礼ってもんだろう」

信一郎が咎めると、仙蔵はぼそりと呟いた。

「御救小屋が取り払われたら、私はどうなるんでしょう・・・まだ村には帰れません」

「じゃあ、どうしたいんだ?」

信一郎は、俯く仙蔵を問い質す。

「分かりません。この先、どうしていいんだか、こうしたいという望みが浮かばないんです・・・」

 

 正平は仙蔵に微笑みかけ、顔を覗き込む。

「いいじゃねえか。望みがねえなら、神様に生きる望みを下さいって願えば。仙蔵は多くの人を喜ばせたんだ。お前さんだって喜んだっていいんじゃねえのか?」

ガリガリの卯之吉も正平の言葉に頷く。

「そうだ、おら達も嬉しかった。こんな棚から牡丹餅の様な出来事は滅多にない。それに、怪我人の要三は恩義を感じて家を建ててやるって約束して、それを生きがいに怪我を治すとまで言っている。今度はお前さんが自分の事を祈ってもバチは当たらない」

卯之吉の言葉に、「そうだぞっ」と信一郎も他の者も、うんうんと大きくうなづいた。

それでも仙蔵は、あれは圭助の物であって自分の物ではないからと言い、素直に喜ばない。

「あれはたまたまの偶然です・・・」

 信一郎は埒が明かぬと仙蔵の肩を掴む。

「お前さんは、最初、世の中は理不尽で道理が通らねえって言ったなっ?」

仙蔵は皆に囲まれる中、信一郎を見上げて力なくうなづいた。

「ええ、まあ・・・」

「仙蔵の言う、理不尽って意味は、滅茶苦茶で道理が通らない事に対して、悪い意味での偶然の出来事の重なりの事を言っていたんだろう?でも、富くじだって大きな箱の中に手を突っ込んでかき回して、取り出した札が当たるってことは、これだって、いかさまがねえ限り、道理が通らねえ偶然の幸運だ。富くじに応募した人間が多ければ多いほど当たる確率は低くなるってことは、更に奇跡的な偶然だ。博打だってそうだ、丁半なんかは、当たる確率は二つに一つだ。でも、卯之吉を見てみろ。七、八割負けてんだぞっ。五分の勝率じゃねえ。ってことは偶然負けが続いたって事だとも言えなくもねえし、その一方で二、三割は勝っている。いずれにせよ、諦めないで賭け続ければ、いつか勝つ事だってありうる。確率は低いかもしれねえが、その低い望みに賭け続けるしかねえんだ。なあ?卯之吉」

信一郎が卯之吉に目を向けると、「ええっ、まあ・・・」と恥ずかしそうに苦笑いをする。

「でもまあ、卯之吉の場合は博打は性に合ってねえから、おいらの元で働いて望みを探している。おいらと卯之吉が出会ったのだって偶然だ。道理なんて通ってねえ。定町廻りでもねえ、おいらにぶつかってきて勝手に捕ったんだからな。どんな出会いだって良くも悪くも偶然だ。男も女も、どこで生まれたかも。全てを神様が決める訳じゃねえだろう。いちいち、道で人とのすれ違い、男と女の出会いだって決めてるとなると辻褄が合わねえ。神様が出会いを決めたんなら離婚なんてありえねえ。第一、神様が赤ん坊が死ぬ事を決めていたら合点がいかねえ。仙蔵、おめえも言っていたじゃねえか」

 仙蔵は逃げ場を失ったかのようにうなづいた。

「ええ、まあ・・・生まれたばかりの赤ん坊が死ぬ事や死産などを、神様がその様にお定めになるとは到底思えません・・・」

「そうだろう。神様はおいら達を見守ることはあっても、そんな事はなさらない・・・と思う。見た事もないから断言はできないが、己の良心に宿っておられると思う・・・。だから、正平が言ったように、生きるという望みを欲する事は、既に望みが生じているんじゃねえのか?生きるって事に・・・」

仙蔵は頷くが、信一郎の言葉に抗う様にぼそりと呟く。

「生きたいと望んでも、喜びもなければ辛いだけです。それに、この辛さが生れ落ちた定めならば、やりきれません」

「定めだと?変な占い師が人に運命がある様なまやかしを言うが、あれは違うと思う。定めとなれば、おいらと仙蔵は必然的に出会った事になるじゃねえか。そんな訳あるかい、全てが運命だと言うんなら死産の赤子の理由が立たねえ。もし、死産が運命だと言う奴がいるなら、全ての出来事を神に押し付ける所業だ。それに、赤子の死因を偽ることにもなる。それでも定めと言うのか?」

 仙蔵は定めでなければ、これまでの出来事をどう折り合いを付けたら良いのか益々分からない。

「お言葉でございますが白沢様、定めでなければどうして私は辛い思いをしなければならないんですかっ、教えて下さい」

「今、起きている事が事実なんだろう・・・。理由なんて付ければ、幾らだって付けられる。でも、それは勝手な解釈で事実じゃねえ。おいらは、理不尽で道理の通らない偶然の重なり合いの連続が、今なんだと思う。偶然の幸運も不運も、それはお前さんが見せてくれたじゃねえか」

信一郎の言葉に、仙蔵は心底から納得できないが、偶然の出会い、熊の糞と思っていた物が、偶然、極上品の熊の胆だった事を突きつけられ、「ええっ、まあ・・・」と詰まりながらもうなづいた。

 「運命とか定めとか信じたくねえ。おいらの祖父と父は、事故で死んだ・・・妙な事に二人とも崖から足を滑らせてな・・・でも、そうなる運命だったとか、誰かの身代わりに死んだなんて、簡単に一言で片付けられる問題じゃねえんだ。冗談じゃねえ」

仙蔵はふと信一郎を見上げた。

「忘れもしねえ、十五の八月。父が死んだって聞いても訳が分からなかった。朝、行ってくると振り返った父が、翌日、遺体で戻ってきたんだからな。傷だらけの遺体を見ても信じられずに嘘としか思えなかった。また生き返るんじゃないかって必死で呼びかけた。でも、やっぱり生き返る事はなかった。あの時、元服して間もねえ見習い同心で、どうして良いのか訳が分からねえし、信じられねえで涙が止まらなかった。しばらく、御勤めをしなくて良いと役所から言われた・・・。今こうして時間が経ってみても、納得できねえよ。祖父と父が同じ事故なんだからな。だから、おいらも、いずれ崖から落ちて死ぬんじゃねえか、おいらの死に場所は崖なんじゃねえかって、ふと浮かんでくることがある。そのせいか、高い場所が嫌れえだ。祖父と父は、崖から落ちる定めとか運命とかなんかじゃねえ。未だに理由は見出せねえが、落ちた事は事実だ。偶然の重なりかもしれねえが、心の奥底にわだかまりの様なものが、今もある・・・身近な人間の死とは、そう簡単に納得できるもんじゃねえ。特に事故なんてなるとな」

 信一郎は、正平や卯之吉達にも、この話をした事はなかった。

仙蔵を始め皆閉口し、信一郎が抱えている憂鬱にかける言葉も浮かばない。

 仙蔵は亡き父母の事を思い出すが、信一郎の心が分かりますとも言えなかった。

親の死に向き合った事は共通しているが、人それぞれ状況も違う。

静まり返った薄暗い本殿前に佇む六人。

 

 仙蔵は居た堪れず無言のまま、今一度、本殿の階段を上り、神様に手を合わせた。

白沢様や皆様に御加護がありますように・・・。

それを見ていた、正平、卯之吉らも続いて今一度、手を合わせる。

 信一郎は、深い祈りを捧げ、戻ってきた仙蔵に「なにを祈ったんだ?」と聴く。

「いろいろでございます・・・」

仙蔵は立ち止まって信一郎を見つめてから頭を下げた。

信一郎はその意味深な挙動に、自分の事を祈ったのだと感じ、照れ臭そうにふと笑みを浮かべた。

「いろいろと祈ってくれたとは嬉しいね、世の中は訳の分からねえ事ばかりだ・・・定めとか運命なんて、しゃらくせえ・・・」

 年長の考助が口を開く。

「全くでございます・・・私も家を火事で焼き出された事が定めだとは思えません。いつ何が起こるなんて分かりません。幸せがいつまでも続くような気でおりましたが、一夜にして一変してしまいました。何故、火事になって私が焼き出される事になったかなど、見当も付きません」

信一郎は考助を見て、うなづいた。

「お前さんのところは、もらい火だから尚更納得いく訳ねえよな・・・」

「はい・・・」

「互いに苦労するな・・・」

信一郎は考助を元気付けた後、仙蔵に振り返った。

「仙蔵、辛いときは、辛いって言えば良い。そして、助けを求める事は恥ずかしい事じゃねえ。おいらだって仙蔵に救われたと思っている。だから、今度は神様に祈った事をおいら自身が行動しなくちゃならねえ。だから、熊の胆の件も含めて何とかする。明日から、町奉行所に戻らなきゃならないが、しばらく待ってくれ」

 仙蔵は信一郎の目を見るが俯いた。

望みもなき先々への不安は取り除けぬまま、か細く返事をした。

「もう十分、白沢様にはお世話になっておりますが、お待ちしております・・・」

「あと五日で御救小屋は取払いになるが、呼びに行くまで長屋で待っていろ。分かったな?」

信一郎は念を押すと、仙蔵と別れた。

 

                         第二部(31)へ続く。