増税、還元、キャッシュレス。 そして明日は、ホープレス。

長編小説を載せました。(読みやすく)

【 死に場所 】place of death 全34節【第二部】 (24) 読み時間 約10分

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   (24)

 翌朝、明け六つに信一郎は伝造を伴い、内藤新宿を出立。

町奉行所への登所は、八つ時(午前八時頃)だった。

役所の町会所掛の用部屋で、信一郎は上役与力、古参の野本冶座衛門に書類を提出。

その時、他の同心達と一緒に、来月十二月八日を以て、内藤新宿の御救小屋を取払う事が申し伝えられた。

また、信一郎には、代官所と協議の上、十二月三日に取払いを町触として出すよう町名主達に手配するよう命じられる。

 一通りの通達が終わると、野本は顔を顰め気難しい顔で、じっと信一郎を見つめたまま近寄る。

「白沢、御役目大義であった。小屋を引払った後は、再びここへ戻って参れ。あと・・・この前の団子の詰め合わせ、うちの妻が至極喜んでおった。代わって礼を言う」

信一郎としても喜んでくれてほっとすると、野本が他の同心の目を憚(はばか)り「ちょっと」と手招きをして廊下に呼んだ。

「すまぬが、またあれを所望したいので、これでまた届けてくれ。つりはいらん」

野本は用意していた一朱金を財布から取り出し、誰にも見つからぬようにそっと信一郎に手渡した。

「いかほどお持ちすれば宜しいですか」

「先日と同じもので良い。それと、ものは相談なんだが、お主の顔の広いところを見込んで頼みがある・・・」

野本は信一郎に耳を貸すように近づいた。

「内密な話だ。さる大身の旗本様が痔ろうにかかっておってな、どの医者に見せても良くならん。誰か良い医者を見つけて欲しい。わしはこの御方はもっと大きくなられると思っておる。痔が酷くなってから、用を足すのも辛いと食も進まん。万が一の事があってはならんから方々を探しておるが、なかなか良い医者がおらんのだ、頼めるか?」

信一郎は、野本がこれほど気を揉んで焦っている姿は見たことがなく、また、内密な頼み事も初めてで少々困惑する。

「痔ろうでございますか・・・」

「し~っ、声を小さく・・・その御方は痔であることをひた隠しにしておられる。だから、まだ名は明かせん。まずは、口が固い者を連れて参れ」

信一郎は、痔の事で、国家存亡の危機の如く語る、野本の迫り来る真剣な眼差しに、噴出しそうになり、考える振りをしてなんとかやり過ごす。

急ぎ内臓に深い知識を持つ医者に当たってみると北町奉行所を後にした。

 

 昼を過ぎた頃、信一郎は伝蔵を伴い内藤新宿へ戻る。

その足で町名主等を町会所に呼び集めて、今後の町会所での施米の算段の通達など、なかなか多忙だった。

 寄合が終わると、今度は御救小屋へと足を運ぶ。

取払いの一件を代官所と協議し、宿場から何人の人員を出すかなど取り決める。

昨日話した代官所元締手代の岡田によると、仙蔵が取払いまでの期間手伝うなら一分金を支払うとの事だった。

 

 一方、仙蔵はお八つ時まで、粗末な長屋で信一郎を待っていたが現れないので、鬱屈とした気持ちを紛らわそうと自ら臨時番屋に出向く事にした。

 四谷追分稲荷に通りかかると、なにやら人の怒鳴り声が聞えてきた。

「今こそ積年の恨み晴らしてやるっ!」

「返り討ちにしてくれんっ」

只ならぬやり取りに仙蔵は急いで鳥居を潜り、石畳を真直ぐ進むと奥に舞台があった。

その上で一人の男が、痩せこけた男の胸ぐらを掴んでいた。

 舞台の上で喧嘩が始まったのかと、仙蔵が更に近づくとどこか見覚えのある二人。

一目見たら忘れられないようなガリガリの男。そして、もう一人は鉤鼻の男。

岡っ引き同士の喧嘩なのかと、仙蔵は杉の木陰から覗き込む。

そういえば、信一郎が博打で儲けた金をガリガリの男に返せと言っていたのを思い出した。

見るからに、ガリガリの男は弱そうで一方的にやられてしまうと、仙蔵は舞台下に行き声をかけた。

「こんにちわっ。昨日、白沢様にお世話になりました仙蔵と申しますっ」

ガリガリ男の胸ぐらを掴んでいた鉤鼻の男がふと、仙蔵に目を向けると、なんとも体裁悪そうにガリガリ男を一瞥して手を放した。

「おっ、おう・・・なんでぇ、こんなところで」

「番屋へ行こうとここを通りかかったら、大きな声がしたもので寄ってみたら、御二方がいらっしゃったものですから。どうかなさったんでございますか?」

仙蔵は、掴まれた襟を直すガリガリの男を窺い、鉤鼻の男を見つめた。

「なんでもねえ、ちょっと待ってくれ」

鉤鼻の男が舞台から降りて、仙蔵に近寄ってきた。

「今のは見なかった事にしてくれ・・・」

仙蔵はやはり、ガリガリの男から金を無心するか博打の金を催促していたのを口止めしようとしているのかと、今一度ガリガリ男を見つめた。

「言いません、決して言いません・・・」

仙蔵の心の内では、信一郎の宿に泊めてもらった時、二人の事を気にかけていたから報告すべきか否か迷っていた。

鉤鼻の男はそうした仙蔵の心を見抜いてか「白沢様には言わねえでくれ・・・頼む」と更に近寄ってきた。

仙蔵に鉤鼻男がしかめっ面して拝み倒す様に迫り来るので、身を引いた。

「頼む・・・」

 弱々しい声に目を向けるとガリガリ男も背を丸めて低姿勢で片手で拝んでくる。

やられている奴までもが頼んでくるとはどういうことだと、仙蔵は「どうして?」と思わず聴いてしまう。

ガリガリ男は鉤鼻の男を見てから話し出した。

「今のは喧嘩じゃねえ・・・芝居の稽古だ」

仙蔵は脅かされているから、咄嗟に出た嘘かと眉を寄せた。

「卯之きっつさん、いいよ・・・」

鉤鼻の男は唐突にふっと苦笑いを浮かべ、舞台の階段に腰掛けた。

「白沢様にはしばらく芝居の事は忘れろって言われている・・・。おいらは正平って言うんだ。そして、こちらが卯之吉さんだ・・・」

仙蔵はガリガリ男の事を、こちらと言った事が妙だと思い、卯之吉に目を向けると、うなづいて頬骨を上げて微笑んだ。

仙蔵は二人の顔を左右に往復させ、どういう力関係なのか訳が分からなくなった。

「えーと、こちらが卯之吉さんで、あなたが正平さんですか・・・今、芝居と仰いましたが練習ですか?」

「ああっ・・・」

正平は頷き、前かがみになり腿の上に腕を乗せ、地面に目を向けた。

「おいらは、まあまあ名のある芝居小屋で役者をやっていた・・・。人に楽しんでもらうのが何よりも心地良くって役者をやっていた。けど、一年ぐれえ前に突然、台詞が飛んで何をすればいいんだか分からなくなっちまった。なんつうか、頭が真っ白になった。言葉が出ねえもんだから余計に焦っちまって、声がうわづって女形みたいな声で客に笑われちまった。もう駄目だと思ったら、勝手に体中が震え出した。自分が怖くなって舞台を降りた・・・」

 以降、正平は舞台に立つのが恐ろしくなり、台詞もつっかえ出した。

景気づけに酒を呑んでから舞台に立つようになったという。

今度は酒がないと駄目だから、量が増えて足がふら付く。誰にも言えず、とうとう舞台にすら出なくなって興行主に酔ってからんでしまった。

興行主は正平の様子がおかしいと事情を問い質し、信一郎に相談した。

しばらく芝居を忘れる為に、信一郎を手伝う事になったと語る。

「白沢様だって苦しいのに面倒かけているから悪りいし、怖えけど、うづくんだ。おいらにはこれぐれえしか出来ねえ・・・」

正平は大きな溜息を付き、「なんでこんなになっちまったんだ・・・情けねえ」と震える掌を見つめる。

「焦るな・・・また立てるよ、きっと。正平は背負いすぎてたんだ・・・」

 卯之吉によると、大きな芝居小屋でも赤字の所が多く、興行主も良く代わるという。

正平がいた芝居小屋も理解のある興行主に代わったばかりで、なんとか一座を盛り立てて赤字を解消しようと意気込んでいた矢先だった。

「でもよぉっ、おいらから芝居取ったら何が残るってんだいっ。このままじゃ白沢様のお荷物じゃねえかっ。情けねえったらありゃしねえ」

「そんな事言ったら、俺なんかなんもねえ・・・博打に勝てない渡世人まがいで、力もねえ・・・」

卯之吉も肩を落として正平に並んで腰を下ろした。

正平はちらりと卯之吉の横顔を窺って、また地面に顔を向けた。

「卯之きっつあんは、人を和ませるじゃねえか・・・誰に見せるでもねえ芝居の稽古に寝ずに付き合ってくれるし、今日も嫌な顔一つしねえで付き合ってくれる。どれだけ助かっているか・・・本当は博打だってわざと負けてくれたんだろう?」

卯之吉はふっと笑う。

「本当に勝てないんだよ。でも、正平、お前が心配なんだ・・・。仙蔵さんと言ったね。この事は白沢様には言わないでくれ、心配するから」

仙蔵は、正平の話を聴いている内に、郷里で猪吉と岡っ引きに閉じ込められた小屋を思い出して呟いた。

「全てが終わったようで辛くて悔しい。けど、どうしていいのか分からない・・・」

ふと正平と卯之吉が顔を仙蔵に向ける。

「そうだ、そんな感じなんだよっ。今まで出来ていたことが突然出来なくなって、どうしようもなくて、地獄へ真っ逆さまに落ちた気持ちなんだっ」

正平は立ち上がって、仙蔵の手を取った。

 卯之吉は二人の様子をちらりと見て、階段に背中を寄りかからせ溜息を吐く。

「俺なんか木偶の坊だから、いてもいなくてもどうでも良くて、怒ったりする心も持っちゃいけないと思えてくることがある、たまにだけどね・・・そういえば、お前さんはここ二、三日、番屋に来ていたけど、どうしたんだい?」

「無宿人か?」

正平も仙蔵の顔を覗き込む。

仙蔵は、信一郎との出会い、そして、郷里の甲州での出来事を掻い摘んで話した。

 

 卯之吉はひどく納得したように頷いた。

「本当にこの世は道理が通らない・・・俺だってガリガリに生まれてきたかった訳じゃない。農民の家に生まれたって、兄弟が多ければ田畑を継げる訳でもない。次男三男は丁稚に出されるしかねえ。奉公先が酷い処だったら、そこでずっと耐え続けるか、飛び出るか。飛び出したら飛び出したで奉公先は見つからない。俺は丁稚にも出されねえで捨てられたようなもんだけど・・・」

仙蔵は、諦めた様に呟く卯之吉が不憫で語りかける。

「辛いとか虚しいとか思いませんか?」

「えっ、生きていてって事かい?」

「ええっ、まあ・・・」

仙蔵がはぐらかした核心に、卯之吉は「そういう役回りなんだろうって思っている。正平は舞台で二枚目を演じ、おいらはこの世でどうにもならない役回り。俺が二枚目を演じることなんて世間が許さないから・・・」

「ちょっと待ってくれ、卯之きっつあさん。舞台と世の中は違うぜ。舞台では化粧もするし、何を演じるかも設定もこっちで決められる。後は、客が入るか入らねえかの問題だ。卯之きっつあんだって、舞台の上に立ちゃ大抵の役はできる。それに女形だってできるよ。だけど、世間に出れば、そうはいかねえ。それは客だって分かっているんだよ、この世が思い通りにいかねえことぐらい。だから、芝居を見て、主人公に自分のやるせない思いを乗せるから、声援や掛け声なんかをするんだ。おいらは、云わば世間のやりきれない思いを晴らす為に演じているにすぎない。けど、舞台から降れば、お客と同じで悶々としているよ。卯之きっつあんもやってみればいいのに」

 正平の言葉に卯之吉は驚いた様にふと笑った。

「無理だよ、俺は今の岡っ引きの御役目で精一杯だ。芝居なんかやったら、白沢様に笑われるだけだ」

「御役目・・・そうか、おいらはいっぱしの岡っ引き気取りを演じているだけだ・・・。そう考えてみると、舞台を降りても結局は何かしらの役目を演じているのか。だったら、卯之きっつあんは、もっと前に出るとか、好きな役を演じればいいんじゃないか?」

卯之吉は首を振り、空を見上げる。

「俺は元々そういう役回りなんだよ、御武家の様にはなれない・・・世の中、そういう人間がいないと成り立たない」

「そんな事言ったら身も蓋もねえよ。おいら達百姓(庶民)は、お武家や金持ちの為に生きている訳じゃねえ。侍ばかりが主役って訳じゃねえ。一心太助の話もあるし、落語の主人公だって貧乏長屋の住人だったりするじゃねえか。卯之きっつあんは、卯之吉って名の目線で生きる主役だ。これから剣術や捕縛の鍛錬をして、悪人をとっ捕まえれる劇に変えることだって出来る。そうだ、隆々とした体を作ってさ。いわば、その筋骨は世間という舞台での衣装だよっ」

正平の弁舌はどんどん熱くなり興奮してくる。

 仙蔵はそんな正平がなんだかうらやましく思う。

再び舞台に立つという思いが、今の辛さと格闘し耐えられている。それ故に焦り、再び舞台に立つ望みと恐怖の間で凌ぎ合っている・・・。

仙蔵自身には、正平の様な強い思いがない事に「おいらはなんもないな・・・」と溜息が漏れる。

 

 「おうっ、そこで何してんだ」

三人が溜息を付いて座り込んでいると、信一郎がふらりと現れた。

仙蔵、卯之吉、正平がはっと立ち上がって驚き、一同声を揃える。

「白沢様っ」

「なんでぇ、鳩が豆鉄砲喰らったみてえだな・・・なんか隠し事でもあるのか?」

信一郎は、ふと仙蔵がどうして卯之吉と正平と一緒にいるのかと眉を顰めながら近寄った。

「なんでここにいるんだ」

仙蔵は二人から口止めされており、咄嗟に神社の本殿に顔を向けた。

「番屋に白沢様を訪ねようと、たまたまここの神社の前を通りかかりましたら、偶然御二方にお会い致しました・・・」

信一郎は本殿に頭を下げてから、仙蔵に顔を戻す。

「ふ~ん、ここはどんな御利益がある神社だか知ってんのか?」

「存じません」

信一郎は、今度は正平の顔を覗き込む。

「お前さんは知っているよな」

「はっ、はい・・・」

「なんだ、言ってみろ」

「芸事・・・です」

信一郎はうなづくと、今度は卯之吉に迫り寄る。

「卯之吉・・・そういえば最近、正平と一緒にいるが、ここで何している?」

「いえ、その、今日はする事がありませんので、二人で酒でも呑もうかとここで待ち合わせしておりました・・・」

信一郎は、正平に視線を戻し「待ち合わせだったら、ここじゃなくても良いだろう。まるで、神様に何かを見せる様じゃねえか。焦る気持ちも分かるが、もうしばらく忘れろ・・・ついでに言っておくと、お前さんのいた森本座はなんとか大丈夫だ」

正平は驚いて目を見開いた。

「大丈夫って、どういうことでございますか?」

「おいらもよく分からねえが、誰かが谷町になって寄付したらしい」

「本当でございますか?まさか、白沢様がどこかの商家を脅して出させたとかじゃ・・・」

信一郎は正平をぎっと睨む。

「どうしておいらがお前の為に脅しをかけなきゃならねんだっ。それこそ、悪徳役人じゃねえかっ。本当に誰だか分からねえんだよ。でもまあ、良かったな。でもそんだけ気を揉むって事は、芝居の事を忘れてねえって事だろう・・・。それはそうと、仙蔵、さっきお前さんの長屋に行ったところだった。おいらも疲れているから率直に言うと、御救小屋で働かねえか?」

「えっ、御救小屋でございますか・・・」

仙蔵の表情は曇り、信一郎から目を外した。

「十二月八日の取払いまでの二十日間だけだ。手当ては一分も出る。お前の事を代官所の役人に話したら、御伊勢詣りの事をいたく感心してな、是非とも来て欲しいと言ってくれてんだ。悪りい話じゃねえぞ」

仙蔵は笑み一つ見せず、しばらく黙って考え込む。

「お手当ては有り難いものでございますが・・・」

「なんだい、嫌なのか?」

仙蔵はこくりとうなづいた。

「どうしてだ」

「施米を受けましたが、辛いんでございます・・・」

仙蔵は折角の話を悪いと思い、信一郎をちらりと見ると眉間に皺を寄せており、再び目を伏せて申し開く。

「私もいずれあそこで病を患って死んでしまう様な気になったんです」

「またそんな事言ってやんのかっ、まだ起こってもいねえ事に怯えてどうするっ。人間いつかは死ぬんだっ。今、人手が足りなくて困っている所を助けてやってもいいじゃねえかっ。それともなにか?神仏に祈っても御利益なけりゃ、もうお手上げか?何もかもが無意味だとでも言いてえのかっ。神仏が見えなくても、目の前の困っている人間は見えんだろうっ。先の事ばかり心配して、今のおめえは、今を生きてねえじゃねえかっ!」

 信一郎は辺りを見渡し、仙蔵の腕を掴んで神社の池に引きづる。

「よく見てみろっ、これが今のてめえだっ。世間様の事を見る目を持っていながら、おめえは死ぬ怖さに取り付かれて全く見えてねえんだ。この淀んだ枯葉ばかりの池にてめえの面(つら)がはっきりと見えるかっ?」

仙蔵は信一郎に組み伏されて、池に顔を突っ込みそうなほど迫る。

「どうだっ、ごみが浮いた水面に、てめえが見えるかっ!」

「みっ、見えませんっ」

仙蔵が答えると、信一郎は襟首を掴んで立ち上がらせた。

「御救小屋に駆け込んだ人間の心に寄り添ってやれるのは、お前だと思った・・・死のうとまで思い詰めたお前なら、おいらなんかより分かってやれると思う。だから、手伝っちゃくれねえか?」

仙蔵は池を振り返る。

死を望みながらも恐れ、そればかりに気を取られ我を失っていたと肩を落とした。

「大したことは出来ませんが・・・」

「すまねえ、手荒な事をしちまって。でも、誰だってどうにもならねえ時は訳が分からなくなる。他人のおいらだから見える事もある、お前にはそういう事ができると見込んでの事だ・・・明日、昼に御救小屋で待っている」

信一郎は仙蔵に詫びると「なんだ、まだ居たのか?早く呑みに行けっ、そして忘れろっ」と正平と卯之吉を追っ払う。

仙蔵は長屋へ戻り、信一郎は臨時番屋に向かった。

 

 その道すがら、水路脇に季節はずれの小菊が一輪だけ咲いている。

信一郎はしゃがんで、何でこんな所にと思いながら妻の久子を思い出し、流れる水面を覗き込む。ゆらゆらと己の顔がゆがんでいる。

おいらだって見えちゃいねえじゃねえか・・・。

八つ当たりして偉そうな事を言っていたのではと、悪い己が出たと自身を詰(なじ)る。

そりゃそうだ、鏡はまっ平らじゃなければ屈折して見えやしない。

でも何が、おいらを曇らせる・・・。

再び仙蔵を思い出すと、なんだか面倒な事を持ち込んでくれたとふと過る。

信一郎は苛立つ自分が嫌になり、番屋に向かう。

 

         第二部(25)へ続く。