【 死に場所 】place of death 全34節 【第2部】(32) 読み時間 約12分
〈東京都水道歴史館〉
(32)
翌朝早く、仙蔵は目が覚めた。御救小屋に行かねばと身を起こしてみたが、もう出かける必要がない・・・。
喉が渇き、台所へ行って水を飲む。
立て付けの悪い戸を開けた。
外はまだ薄暗く、雪がちらりと降っている。改めて寒さを実感するとぶるっと身が震え、腕を擦る。御勤めがなくなり、もうすぐ年が明けると頭を過ぎる。これからどうすべきか不安になり戸を閉めた。
布団を体に巻きつけて、岡田に貰った給金と餞別の包みを開けてみる。
給金は一両二分の大金。餞別も一両。
驚きながら、当分の生活は大丈夫だと胸を撫で下ろすが、何が何でも伊勢に参らねばならない義務も生じ、気力も沸かず頭を抱える。
気を紛らわそうと、要三が書いた家の間取り図を手に取った。
これはこれで有難い事なのだか、仙蔵自身、次にどうするのか望みもない。
頑張る糧も失われ、見えぬ先行きの悩みは湯水の如く尽きることがない。
視界に触れない様に荷物入れに仕舞い、果てる様に寝転ぶ。
再び喉が乾き目を覚ます。水を飲んだついでに、再び戸を開けると雪は止み、厚い雲の奥からうっすらと陽の痕跡がぼやりと明るい。
もう昼か・・・。
腹は空いてきたが、飯を煮炊きする気力がない。
長屋にいても寒いだけだと、どてらを着込み表の井戸水で顔を洗い袖で拭く。
どんよりとした空の下、仙蔵は金が入った荷物を持って内藤新宿へと向かう。
年の瀬で、秩父往還の往来も忙しない。
懐に手を入れぶらりと歩き、四谷追分稲荷に差し掛かる。
いつか、正平さんと卯之吉さんが、この神社の舞台で稽古をしていたっけ・・・
仙蔵は、二人がいるのではと鳥居を潜り、境内を見渡すが人っ子一人おらず、静まり返った本殿に手を合わせる。寂しさに駆られると食欲も失い、そのまま臨時番屋に向かう。
こんこんと番屋の戸を叩くと、ごとごとと中から音がして、「誰だい、開いているよ」と返事が返ってきた。
仙蔵は岡っ引きの誰だろうと、思い浮かべながら中に入る。
「あれっ・・・」
中にいたのは老人で、片付けの最中といった風だった。
「どうしたんだい?」
仙蔵は初めて見る顔に戸惑いながら、「あの~っ、同心の白沢様と部下の方々はいらっしゃいますか?」と老人を見つめた。
「白沢様達なら、ここでの御勤めを終えて町奉行所に戻った。ここは元々水番屋の建物で臨時に使っていただけだから、もう引き払ったよ」
仙蔵は納得できず、再度老人に問いかける。
「じゃあ、もうここには白沢様達はいらっしゃらないんですか?」
「御救小屋も取り壊しとなったから、町会所掛りで時々来るかもしれんが、管轄が違うから、わしにゃよく分からん」
仙蔵は老人に頭を下げて、番屋の戸を閉めた。
行く当てを失い、大木戸から宿場を出て、人気のない川辺の流れに目を落とす。
春の様に長居も出来ず寒さが身に染みると、握り飯を買って長屋に戻る。
信一郎はまた来ると言ったが番屋も取り払われ、自身の寂しさに目が向いてしまう。
正平や卯之吉らの顔も思い浮かんでくる。
正平は、いつかまた舞台役者に戻りたいと願うが、背負いすぎて声が出なくなったと言っていた。
いつか、見てみたいな・・・。
翌日も何もする気も起こらず、ただごろごろと布団の上で気鬱なまま過ごす。
うとうとしていると、戸を叩く音に目を覚ます。
もう一度、こんこんと戸を叩くので、仙蔵は気だるい声を上げた。
「勝手に入ってくれ」
がらりと戸が開かれると、大家の忠兵衛が立っていた。
仙蔵は重い体を起こす。
「入っていいかい?」
「どうぞ」
仙蔵は座布団を衝立の裏から持ち出すと、「いいよ、いいよ」と忠兵衛は断った。
「どうなさったんです?」
「仙蔵さん、どぶさらいを手伝ってくれんかね」
「はっ?」
「だから、今から長屋のどぶさらいを皆でするんだよ。手伝っておくれ」
仙蔵は頷き、「分かりました、今行きます」と立ち上がった。
古びた長屋は六世帯で、妻子持ちや独り者が寄せ集まって暮らしている。
日中、男は働きに出る者が多く、三人の女と仙蔵ともう一人の男が出てきた。
どぶさらいと言っても、井戸水なんかの排水の溝に溜まった泥などを掬うだけで造作もないが、体が重い仙蔵には少々苦痛だった。
忠兵衛に鍬(くわ)を渡され、仙蔵は泥を掻き出し、大きな笊(ざる)に入れた。
もう一人の男が天秤棒を担いで捨てに行く。これを交代で行う。
女衆は掃き清めたり、厠の掃除に精を出す。
さほど時間もかからず作業を終えると、忠兵衛が「ご苦労さん」と声をかけて散会となった。
それから二、三日何もする気になれず、ふらりと釣竿かついで、熊野十二社脇の溜池に糸を垂れる。
寒さに凍えながら、一時も辛抱してやっと小さな鯉が釣れた。
ああっ、そうだ。勝吾郎さんの所へでも行こうかな。でも、この鯉じゃ土産にもならないか・・・。
勝吾郎の奥さんが熱を出していると聞いたから、仙蔵はもっと大きな鯉を持って見舞いの品にしようと更に意気込んでみるが、時間ばかりを費やし、がたがたと震えて日が暮れてしまった。
翌日も、仙蔵は大物の鯉を狙って釣りに出かけるが、小さな鮒が二匹連れるぐらいで、人に持っていく様な代物とは言いがたく、持ち帰るのも面倒で逃がしてしまう。
三日連続、仙蔵は釣りにでかけようと支度をしていると戸を叩く音がした。
再び、大家の忠兵衛ががらりと入ってきて、仙蔵のつり道具が目に入る。
「仙蔵さん、御勤めが終わってから仕事は決まったかい?」
唐突に言われ、仙蔵は嫌な事を思い出させるなと、どんと気分が落ち込んだ。
あからさまに不機嫌な態度もできず、「年の瀬ですし、どうしようかと考えておりました」とはぐらかす。
忠兵衛は腕を擦りながら、「良かったら、日雇いの仕事でも紹介しようか?」と気にかける。
また、望みもなく日雇いの仕事を終え、くたくたになって一人帰る姿を思い描くと、とても戻る気になれない。
時々、なんの為に働いているのか。そしてまた、生き長らえてもなんの楽しみも見出せず、この生活がずっと続くと思うとやりきれなくなっていた日々が思い出される。
「仙蔵さん、どうした具合でも悪いのか?」
反応がないと忠兵衛は心配して声をかけた。
「まあ、ちょっとだるくて・・・」
忠兵衛は大家だから、仕事をしていない店子は、家賃を滞納する心配もあるのだろうと、仙蔵は勘ぐって先周りした。
「この間いらっしゃった、同心の白沢様が御勤めが終わっても待っていろと仰ったので・・・」
忠兵衛はうなづくと「お前さんを信用しているから、何か困った事があったら相談しておくれ。力になるよ」と言って出て行った。
仙蔵はいらぬ勘繰りに、自分が一番気にしている事なんだと気づくと、なんだか大家さんに悪い事をしたように思えて気分が悪くなり釣り竿を持って外へ出た。
その後、仙蔵にしては珍しく一匹も釣れず、これまた肩を落として長屋に戻る。
なんとしても大物とまで行かなくとも、中くらいのものを持っていかねば、勝吾郎に会えないと半ばむきになってきた。
翌日は寝過ごし、夕方にでも、場所を変えてみようと小麦粉と米粒を練り合わせていた。
昼頃、また戸が叩かれた。
忠兵衛が仕事の話を持って来たのかと、仙蔵は仕方なしに愛想良く「はいはい」と粉を払って戸を開けると、正平と卯之吉が立っていた。
仙蔵は驚いて「えっ」と目を見開き、声を上げる。
「ようっ、久しぶりだなっ」
二人は息を切らせながら手を上げた。
「どうなさったんです?この前、大木戸の番屋に参りましたが、もう取払いだって聞いたものですから」
卯之吉はがらがら声で「喉が渇いた・・・」と疲れた様子。
「どうぞ、中へお入り下さい」
仙蔵は茶碗に水を入れて卯之吉に渡し、続いて正平にも渡すと座布団を用意する。
「淡路町から来た・・・」
急いで来たらしく、正平は上がり端に腰掛け「もう一杯水をくれ」と茶碗を差し出すと、卯之吉も「おいらにも」と茶碗を出す。
「随分とお疲れのようですが、どうかしたんですか?」
卯之吉が水を一気に飲み干す。
「白沢様がお呼びだっ」
正平は「まさか、こんなに迷うとは思わなかったよ」と時間を気にして言った。
「お急ぎでしょうか?」
「ああっ、おめえさんを早く連れて来いってな。ちょいとばかし休ませてもらってから行くぞっ」
卯之吉は厠へ行きたいと言い、仙蔵は案内する。その間、正平は草履を履いたまま、土間に足を投げ出して大の字に寝転んだ。
仙蔵は寒かろうと湯を沸かし、茶を飲んでから出立する事になった。
支度をしながら、仙蔵は二人に急ぐ訳を聞くと、卯之吉は「正平が近道だなんて言うから、間違ったんだ」と愚痴を零した。
「そんな事言ったって、卯之きっつぁんだって付いて来たじゃねえかっ」
正平も反論する。
大人しかった卯之吉が文句を言うことに、仙蔵は少々戸惑いながら「まあまあ」と二人を宥めている内に湯が沸いた。
安物の茶を差し出すと、言い合っていた二人がそろってふうふうと口を尖らせて茶を啜る。
仙蔵はふっと吹き出すと、正平が「なんだよ」と熱そうに茶碗を畳の上に置いた。
「いえ、お二方の口が小鳥のくちばしの様に見えたもので・・・」
仙蔵が二人の顔を見ると、「くだらねえ・・・」と正平は鼻であしらう。
卯之吉は茶碗を指差して「これ、あっちいから水を入れてくれ」と触ったり放したりしている。
仙蔵は茶が熱すぎたとかと水を足した。
二人が茶を飲み一息つくと、ぼやいていた卯之吉が「じゃあ、そろそろ行かねえと・・・」と立ち上がる。
仙蔵も荷物を持って長屋を後にした。
二人の後に続く仙蔵は、ガリガリだった卯之吉が少し太った様にも見える。
どてらを着ているからかとも思うが、どこか様子が違う。また、足も早く疑念を抱きつつも先を急いだ。
市ヶ谷辺りまで来ると、仙蔵は疲れて茶屋を指差し「少し休みましょう」と正平に頼む。
正平は休憩に同意するが、卯之吉は「まだ半分しか来てねえ。御茶ノ水で休もう」と歩き続けた。
あっけにとられた仙蔵は、どうなっているんだと正平に視線を送る。
正平も困った顔で「だとよ・・・」と歩き続けた。
御茶ノ水の水番屋近くの茶屋に付くと、倒れ込む様に仙蔵と正平が座った。
卯之吉は背筋正しくゆっくりと腰かけ、女給に「おうっ、すまねえがすぐに温ったまるものをくれねえか」と二枚目役者の様に妙な節を付けて呼びかける。
女給は「でしたら、お汁粉か甘酒がござます」と頭を下げた。
仙蔵は甘酒と言おうとする間に、卯之吉が「おう、二人とも汁粉でいいよな?」と有無を言わさんばかりに笑顔で目を見開いている。
圧倒された正平は「あっ、ああ・・・それでいいよ」と頷き、仙蔵も正平に倣って「はい」と返事した。
「頑張れ、あともう少しだ」
卯之吉は仙蔵の長屋で休んで以来、疲れを知らない様に曇り空を見上げて微笑む。
「なんだか清々しいな~っ」
仙蔵は首を捻ると、正平が小声で「寒みいよな・・・」と呟いた。
卯之吉は立ち上がり、両手を回しながら周辺を見渡し、「蒲焼の匂いがする、うまそうだなぁ。あそこの水番屋の一階はうなぎ屋なのかぁ」と鼻をくんくんと鳴らしている。
「卯之吉さん、どうしたんですか?少し見ない間に元気ですね・・・」
正平は仙蔵にぼそりと囁く。
「こっちに戻って来てから、がらりと変わっちまったんだ。飯も良く食うし・・・調子狂っちまう」
仙蔵は正平の話を聴き、やはり町奉行所に戻ったことで待遇が良くなったのかと、胸を張って自信に漲る卯之吉を見つめた。
「どうした、仙蔵。なんだかやつれた様だが、ちゃんと飯食っているのか?」
仙蔵は驚き、目を剥いた。
卯之吉さんが飯の話をしている・・・。
御救小屋で鴨鍋を食べている時なんかは、でこっぱちの伝造に奪われそうになるほど、のろのろとしていたのにと尚更分からなくなってきた。
お汁粉が運ばれてくると、ふうふうと湯気を吹き消しながら食べる。
さすがに卯之吉も熱いものは難しいらしいが、白玉をはふはふと口の中で転がし、「この汁粉、うめえなぁ」と女給に声をかけながら味わうが、食べ終わるのも早かった。
すると卯之吉は「もう一杯食うか?」と仙蔵に問いかける?
「えっ!」
仙蔵は、正平の顔を見る。
正平は首を捻って「おいらはいらねえよ」と断った。
「卯之吉さん、食べるんですか?」
「ああっ」と言って、もう一杯お汁粉を注文する。
仙蔵と正平は茶を啜って、お代わりのお汁粉を啜る卯之吉を眺める。
卯之吉が満足げに食べる様子を、二人は物珍しそうにじーっと見つめていると、「食うか?」と箸に摘んだ白玉を見せた。
二人は「いらねえ」「いりません」と首を横に振る。
にんまりと白玉を食う卯之吉を見て、やはり肉付きが良くなっていると仙蔵は確信した。
でも、つい十日かそこらで人の食欲が、これほど変わるものかと疑った。
「ああっ、美味かった~ぁ。さてと、行くかっ」
お汁粉を食べ終えた卯之吉は立ち上がる。
仙蔵も一緒に立ち上がる。
卯之吉は茶屋の奥にある品書きを目を細めて見入っている。
「おやきと蕎麦がある・・・食ってもいいかい?」
正平は眉間に皺を寄せた。
「まだ食うのかよっ!早く仙蔵を連れて行かねえとっ」
卯之吉は目を細めて、正平を睨み付けた。
「なんだよっ、間違ってねえだろうっ!白沢の旦那がお待ちなんだぞっ」
正平もだんだん腹が立ってきて睨み返す。
卯之吉はあっさりと諦め、ぱっと目を見開いた。
「あっ、そうか・・・じゃあ、勘定済ませてくる」と金を女給に渡し、「待たせたなっ、後は休憩なしで行くぜっ」とひらりとどてらをなびかせて歩き出す。
正平は「訳分かんねぇ・・・こっから目と鼻の先じゃねえか。お前さんを迎えに行く時だって、ここで、おやき食ったんだぜ」と仙蔵に耳打ちした。
「えっ、来る時もここに寄ったんですか?」
「ああっ・・・それに二日前から定町廻りでもねえのに、捕縛の練習をする様になった」
仙蔵はいつか四谷追分稲荷で芝居の練習をしていた時、正平が卯之吉に提案していたのを思い出す。
「それって、正平さんが『舞台を降りても、結局はそれぞれの役を演じている』って仰っていましたよ。それに卯之吉さんが、世の中には嫌な役回りを演じる人間が必要だとかなんとか言ったのに対して、正平さんが自分の人生は自分が主役だという様な事を仰っていました」
歩きながら正平は、小首を捻って眉を寄せた。
「そんな事言ったっけ・・・」
「はい。正平さんは、誰だってなんらかの役を演じるなら、卯之吉さんは岡っ引きの御役で、もっと活躍するために剣術、捕縛の鍛錬をして、筋骨を鍛えればいいと仰っていました。筋肉は衣装だとも言ってましたよ・・・」
正平は視線を動かしながら記憶を辿り「ああっ、そんな事言ったかもしれねえが、例えばって事だよ。だって、そこから抜け出すには、何かを変える必要があるじゃねえか・・・じゃあ、おいらのせいかよ~っ。参ったな」と顔を歪めた。
仙蔵は返答に困り「別に悪いという訳じゃないと思いますが・・・」とはぐらかした。
先頭切って快活に歩く卯之吉が振り返った。
「仙蔵、良かったなっ」
「えっ、なにがです?」
「白沢様は約束をちゃんと守ったって事よっ」
意味が良く分からない仙蔵は困って、正平に目を向ける。
正平もふと微笑みを浮かべ、「間違っちゃいねえな・・」と胸を張って歩く卯之吉の背中に頷いた。
仙蔵は正平にも「なにがです?」と聞いてみるが、「あともう少しだ」と言うだけだった。
坂を下り、淡路町の武家屋敷の並びに入ると、卯之吉がふいに足を止めた。
「あれ、どこだっけ・・・」
それまで自信に満ち溢れていた卯之吉が、わずかに困った顔をした。
正平も「そこを左じゃねえのか・・・」と左右の道を見渡した。
「いやっ、あそこに寺の屋根が見える」
卯之吉が指差す方へ、正平が顔を向けると、「ああっ、そうだ。あの寺だ」と今度は二人並んで寺を目指した。
山号の前で立ち止まり、仙蔵は目を細めた。
「代山寺(だいさんじ)・・・なんだか嫌な予感・・・。この寺に白沢様がいらっしゃるんですか?」
正平と卯之吉は声をそろえた。
「ああっ」
仙蔵は立ち止まる。
今度は寺で働けと言うんじゃないだろうかと、門を潜るのを躊躇った。
今一度二人は声を揃えた。
「仙蔵、早く来いよっ」
第二部(33)へ続く。