増税、還元、キャッシュレス。 そして明日は、ホープレス。

長編小説を載せました。(読みやすく)

【 死に場所 】place of death 全34節 【第二部】(21)~(22) 読み時間 約15分

f:id:souchan82:20191024111133j:plain

       (江戸名所図会 7)

 

   (21)

 仙蔵が村を出て五日後。

小仏峠を越え駒木野の関所付近から、通行手形がなく締め出された者たちが、道の両脇に座り込んだり、物乞いをしたりする姿を多く目にする。

仙蔵は、憂き目漂う道中を菅笠で覆って逃れるように先を急いだ。

八王子、府中、高井戸宿と移動距離を伸ばし、一日におよそ九里を歩いたという。

 翌日は雪混じりのみぞれ雨が強く、高井戸宿で二泊した。

八日目の朝、雨足が弱くなり、凍えながらも内藤新宿を目指す。

江戸に近づくにしたがって、物乞いする者や座り込む者が増えるばかり。

雪が残る道端には、大量の雀が横並ぶ様に、雨ざらしの者らが動けなくなって座っていた。中には死人も含まれている様で木に寄り掛かって動かない者いた。

堪らず視界を遮って先を急いだ。

 蓑を被った付近の村の者が行倒人に声をかけていたが、その数が多すぎて手が付けれらず、辛うじて荷車に担ぎ上げられた者は新宿の方へと運ばれた。

うめき声が聞え、ちらりと目を向けると手を差し出していた。

仙蔵も施してやりたいが、一人に施せば他の人にも何かをやらねばならない。心苦しいがすまぬと呟き、菅笠を目深に被って足早に立ち去った。

 内藤新宿に辿り着き、茶屋で一服。

そこで江戸の三大神社の一つである平河天満宮を教えられ日本橋方面に歩く。

麹町の平河天満宮で奉納した後、日本橋に足を延し、道中の凄惨な光景を忘れようと江戸の中心を見物し宿泊した。

 

 翌日も江戸見物、神田明神で祈願奉納を済ませて川沿いに歩く。

和泉橋から遠方に祭りの様な人だかりが見えた。

仙蔵は何の賑わいだと、柳原の土手沿いを進んで行くと、それがなんであるかを知る。

 人々が大きな建物に向かって列をなし、幟旗には御救小屋と書かれていた。

土手に座っていたのは、途方に暮れた人々。また、人が戸板に載せられ運ばれていた。

 御救小屋に近づくと、周囲は竹を菱形に組んだ垣根が三十間程続き、建物の周囲を覆う。

中の様子はよく見えないが、赤子や子供等の泣き声。

「入れてくれっ」「旦那がいなくなったんですっ」等、老若男女の哀願嘆願、阿鼻叫喚が漏れ聞えてきた。

 仙蔵は只ならぬ様子に更に近づくと、行き場のなくなった人々が寒さの中で震えている。

施米と金を受取っただけで帰る人。また、小屋に収容されない人は、屋根となる橋の下へ向かうがそこも一杯で土手に座り込む。

神田川を挟んだ西側の対岸には、薄っすらと神社の鳥居が見える。

仙蔵はじろじろと野次馬見物をするのは不憫だと、対岸の神社へ向かう。

 橋の上から佐久間町界隈を一望すると、倒れている者、膝を抱えている者が混在する。

 道中より酷い有様。

足が竦み、どうすればいいんだと頭の中で繰返され、怖くなって寒さと暑さが一度に体を駆け巡り、強張ってきた。

手汗が滲み呼吸が荒くなる。胸の辺りがつかえるような圧迫感に見舞われた。

 最初に見えた賑わいは、祭りでも祝いでもなんでもなかった。

江戸への憧憬によって作り上げられた幻想。そして、打ちひしがれる人々の現実・・・。

 ここは安息できる新天地ではない。

江戸を目指すことが、生きる糧だと言い聞かせ旅立った。

松次郎や圭助一家のなどの希望も携え、歩き続ける事、三十余里。

雪の足止めもあり、日にちにして約八日。峠を三つも越え、富士の頂に手を合わせ感涙し、

また感謝し望みを更に募らせてやってきた。

そして、やっとの思いで到達した先に見えたものは、残雪の中、もろくも打ち砕かれた願

い。行き場を失った絶望の土手・・・。

 道中、身延山詣りなどで出会った人々は、江戸でも余裕のある人なんだと知る。

当てがなくても、江戸に行けばなんとかなる。目の当たりにしている惨景は、ほんの一部であって欲しいと願ってみるが、駒木野の関所や高井戸辺りの物乞いなどが甦ってきた。

 遅かれ早かれ、自分も御救小屋へ行く事になるんじゃないかと、ふと過(よぎ)る。

小屋の中で救いを求める声が耳鳴りのように響く。

遠くまで見渡せる場所に背を向け、足早に対岸へ渡る。

神社の鳥居を潜り抜け、礼もせずに手を合わせた。

 「お助け下さいっ」

縋る思いで何度も何度も祈り続けた。

仙蔵は早々に来た道を辿り、別の神社や寺を見つけると同様に神に縋り、力の限り祈りを捧ぐ。

祈り疲れても、祈り続けなければならないような切迫した気持ちに追い立てられた。

 

 翌日もその翌々日も、より大きな神社仏閣を詣ることで、災厄から逃れようと渡り歩き、御朱印を受け、寄進を行う。

雨が降ろうが雪が降ろうが、巡礼者の様に江戸の社を方々巡る。

心は晴れるどころか更に気が逸る。松次郎の子供等の供養や安寧、また、この飢饉が終わらねば、自らの安息もない等々、祈り救いを求め続けた。

参拝を終えても、不憫な人を見かけると信心が足りぬと、己の至らなさを責め始める。

 雪がみぞれ雨に変わり、堪らず飯屋に入って雨宿りをする。

出された茶が、やけに温かくうまいと感じた。食欲はなかったが何も注文しない訳にもいかず、五十文近くもする味噌汁と握り飯を頬張った。

事の他冷たい握り飯に薄い味噌汁だったが腹を満たし、わずかながら一息吐く。

仙蔵はこの日廻った神社などを振り返ると、沢山の参詣人がいたと思うと疑念が過る。

 

 おいらだけが神仏に手を合わせているんじゃない・・・だけど、一向に飢饉は続き、人は迷い嘆き飢えている。

江戸だけじゃない。全国の願いは、そして、何年も続く祈りはどこへ。

届かないのか。それとも、人間の驕りを戒める為なのか・・・。

としても、赤子に罪が生じるはずもない。赤子に罪があるとするなら、人間は生まれながらにして罪深いということになるじゃないか。

ならば、何故に人間というものを、この地上にいる事を御許しになるんだ。

兵糧責めという罰ならば、何を悔い改め、悟れと仰るんだっ。

他方、一部の人間は米を囲い込んで更なる財を貪り、左団扇(うちわ)で生きている者もいるじゃないか・・・。

 人間を戒めるなら、全部の人間が飢えなければ道理が通らない。

真に責めを負うべきは、お上と米を囲い込む米穀商じゃないのか?

それでも、奴等はのうのうと生きている。

奴等を打ち壊したのは、神仏ではなく同じ人間だ。

何故、その人間が身を潜めたり、爆死したり、磔になったりしなければいけないんだっ。

滅茶苦茶で、理不尽極まりない世の中だ・・・。

 仙蔵は同じ甲州ではあるが、見ず知らずの郡内騒動の頭取だった兵助が逃げおおせる事を願う。その一方、瓦版で配られた大塩という役人が自死せねばならぬ理由が分からない。

飯屋で休んでいると、怒りばかりが込み上げる。

なんで石みたいに冷たい握り飯と薄い味噌汁で、五十文も払わねばならないんだっ。

飯屋の親父までもが、悪人に見えてきて外に出た。

 みぞれ雨は続き、地面からは雪解け水が痛いほど足に沁みてくる。

人家もまばらな薄暗い道を歩けば、軒先で佇む幼子や年増の女が立っている。

江戸に出て来たばかりでも、それが何であるか分かる。

仙蔵は菅笠を目深に被って通り過ぎる。

 あの人達が何をしたってんだっ。

子供は親を選べず、生きる時も選べない。

元禄の頃に生まれていたなら、こんな事もなかったのかもしれない。

神様がいるなら、この世が妥当だという証(あかし)を見せて下さいっ。

今日も明日も、川に人が流れ、海に消えて行く訳を・・・

仙蔵は憤懣を募らせながら湯島の木賃宿に泊まった。

 

 「御客さん、起きてくださいな」

女中の声で目が覚めると相部屋の男等はすでに出立したらしく、最後に残っていたのは仙蔵だけだった。

「もう四つ時(午前十時)ですよ・・・」

目覚めた仙蔵は薄目を開けると女中が立っている。

夢の中から出てきたような、色白の美人・・・。

とうとう天国に来たかと、仙蔵は自嘲しながらにんまりと気だるいため息を吐いた。

どこぞの姫様かと思うほどの気品がある立ち姿。

もう、苦しまなくてもいいのかとほっとしてきた。

 その女中は大仰に溜息を吐き、さも忙しそうに障子を開け放ち、寒々しい外気を入れた。

身を起こすと、撫でる様な風に仙蔵は身を震わせ、否が応でも目が覚める。

二階の窓から外を覗くと、隣の屋根瓦は雪に覆われていた。

こんな日に御詣りに行く気にもなれず、再び布団の上に座り込んで思案していた。

姫様の様な女中は、邪魔だと言わんばかりに片付け始める。

もう一泊したいと言うと「いいですけど、一旦部屋の中を掃除したいから、どこかで食べてきて下さいな」と追い出すように箒で畳の上をさっさと掃き始めた。

仙蔵は動きたくなかったが、きつく当たられるだけでなく、外にいるのと変わらず寒い。慌てて着込んで外へと出た。

 道は雪と雨でぬかるみ、足場を探して飛び跳ねて歩くのも一苦労。

宿屋の近くの飯屋でぶっかけ飯を食うが溜息しか出てこない。

少し暇を潰してから宿屋に戻り、一階の火鉢のある部屋で寒さを凌ぐ。

江戸に出てきてから、ずっと参拝を続けていたものだから、行かないのもなんだか具合が悪い。

行かねば罰が当たる様な、怠け者の様な気にさえなって気が重い。

ふと、昨日の夕暮、雨と雪の中で軒先に佇む子供と女を見かけた情景を思い出す。

あの痛ましさに、胸が締め付けられて熱くなる。

 祈り続ける日々。だが、一向に希望は見えず、神仏への疑念が再燃する。

「子供が、捨てられるほどの罰とは何だ?こんだけお参りしても路頭に迷うなら、下手な望みなんて捨てた方がいいのか・・・」

仙蔵は心地悪さに居ても立ってもおられぬほどとなり、別の女中に火鉢を二階に持って行っても良いかと聞くと、奥の方から朝叩き起こされた姫君の様な女中がしゃしゃり出て、

「火事は御免ですよっ」と嫌味を浴びせて顔を引っ込めた。

 仙蔵はあっけにとられながら二階に火鉢を持って、元の部屋で寝転んだ。

美人でも、底意地悪けりゃ目も覚める・・・。

ふて寝しながらそんな事を思うが、部屋は十畳もあって、なかなか温まらない。

手足を擦りながら、苛立ちばかりが募ってゆく。

懐の巾着を取り出して中身を見ると、一分金二枚と一朱金、銭が少し。

松次郎から預かった一両は使えない・・・

いかんともしがたい苛立ちと焦りに拍車をかけた。

江戸に出て来た意味も分からなくなり、もはや伊勢詣りに行くべきかも分からなくなってきた。

さりとて、戻る場所もなければ行く当てもない・・・。

 日中する事もなく、習慣の様に参拝には出かけた。

上野や亀戸にも足を伸ばすが、やはり生じた疑問から、祈願や供養といった気持ちがどこかそぞろになってしまう。

仙蔵は宿屋を点々としながら参拝を続けるが、奉納をする余裕もなくなってきた。

 

 どうすべきか決断できず、二(ふた)月(つき)、三(み)月(つき)と悩むばかり。

神仏に縋ろうとも物価は依然高く、浪費が続く。

残金を確かめるうち、佐久間町の御救小屋の土手下の惨状が頭を過ると、途端に自分があの場所に戻り、「入れてくれ」と叫んでいるような想念に陥る。

このままじゃ、まずいっ。おいらもあの土手で途方に暮れることになる。

 頼る人はないかと浮んだのは、木挽町の桶屋幸太郎だったが、今更覚えているかもどうかも分からない。それになんと言えば良いのかも分からず迷惑をかける事を避け、品川、板橋、千住と大きな三宿を廻ってみるが、落ち着ける様な場所はなかった。

 千住宿は特に悲惨を極め、近郷の関東諸国のみならず、在方の東北からの流入民が大挙するが力尽き、関所付近で行倒人ら、多くの死者で溢れかえっていた。

 仙蔵は折り重なった死者を目にし、目眩と頭痛、吐気を発症。

自分の後の姿と恐怖に駆られ、逃げる様にふらふらと木に摑まりながら西へと戻る。

結局、最初に足を踏み入れた内藤新宿に親しみがあったのかは分からないが、振り出しに戻る。

そして、宿屋の主人に近辺で店借ができる長屋を紹介してもらった。

 

   (22)

 信一郎は、煙管の灰をかかんと打ちつけて落す。

仙蔵がこの内藤新宿近辺に長屋を借りていると聞き、眉を寄せ前のめりになった。

「ちょっと待て、どこの長屋だ」

仙蔵は不機嫌な信一郎をちらりと覗き、目を逸らす。

「成子天神社近くの忠兵衛長屋です・・・」

「嘘じゃねえだろうな?近頃じゃ長屋を追い出される奴も多いから、御府内でも身元が確かな者でなければ、なかなか貸してくれねえだろう」

仙蔵はちらりと信一郎を窺い、小さく頷いた。

「往来手形を宿屋の主人に見せて、伊勢詣りの時期を見ているからと言って紹介してもらいました。店借りの大家さんは、町名主の手前もあるからと言って、故郷の百姓代の松次郎さんへ文を送ってもらい、確認を取った上で住んでおります」

 信一郎は「えっ」と声を漏らし、仙蔵を上目遣いで見据えた。

「さっき帰る場所はねえって言っていたじゃねえか。今もそこを借りているのか?」

「申し訳ございません、かろうじて寝る処だけはございます」

信一郎は立ち上がり、宿の障子を開けた。

「もう夜も更けてきたから、明日、おめえの長屋に行く。でも、なんで帰る場所はねえって言ったんだ」

仙蔵は信一郎の背中に呟いた。

「白沢様は戻る場所はあるかと仰られましたので、御役人様の事ですから国に帰そうとなさると思いまして、戻る郷里はないという意味でございました」

「そうかい・・・じゃあ、一応、長屋住まいなんだな?」

「はい」

 信一郎は酔った勢いで窓枠に腰掛け、酔い覚ましに夜風に当たるが、階下を除くと身震いし戸を閉めた。

仙蔵に悟られぬよう、すました顔して座っていた場所に寝転ぶ。

「そんなら身元は、村の人間が証したってことか。一応、念の為に大家に聞かなきゃならねえが・・・」

仙蔵は、肘枕をして自分を見つめる信一郎と目が合った。

「お前さんの話に嘘偽りがなけりゃ、兵助とは無関係って事だ。で、伊勢に行かねえでぐずぐずしているのは、神仏を信じられなくなったって訳か?」

仙蔵は息を大きく吸い、「白沢様、私もお酒を頂戴しても宜しいですか?」と訊く。

信一郎はちらりと徳利に目をやり「ああっ、好きにやってくれ」と仰向けになった。

 仙蔵は二三杯引っかける。

「白沢様・・・」

信一郎は気だるく目を向ける。

「なんだい・・・」

「一つ聴いても宜しいですか?」

信一郎はああと言い、窓の淵から外を覗いた事を後悔して目を閉じた。

「白沢様は神仏がいると思いますか?」

「さあな・・・」

「江戸に出てくる前は、神仏がいるとかいないとか考えもせず手を合わせておりました。だけど、初めて江戸に出てきて、不憫な人たちを目の当たりすると、とてもいるとは思えなくなりました。そう考えますと、御伊勢に行っても皆も私も救われず、ここに居てもいつ飢えるのかと毎日が怖くなってしまいました。かろうじて、浜宛の日雇い工事やらで生活して参りましたが、ただその日を繰返すだけ。長屋に帰れば、一生このまま一人で過ごすのかとか、寂しく死ぬ事が頭を渦巻くばかりで、夢も望みもありません。日雇いだから仲の良い人もできず、たまに酒を呑んで紛らわすだけ。私だって好き好んで江戸に居るわけじゃありません・・・。理不尽な世上は、滅茶苦茶で道理なんてありゃしない。御武家か金持ちか、貧乏に生れたかで決まってしまう。さいころ賭博と同じですよ・・・いや、生れる時にさいころすら投げられないんですから」

信一郎は、やけに饒舌に愚痴を言い出した仙蔵が気になり、ふいと目を開けると、猪口へは注がずに徳利ごと口を付けて呑んでいた。

「酔っちまったか・・・しょうがねえな」

「少しは酔いましたが、この世の無情を忘れるほどではありません。どうして赤子が間引きされたり捨てられたりするんですかっ。望まない子だったら、どうして母親に宿るんですかっ。それこそ本末転倒じゃないですかっ」

仙蔵は徳利を膳の上にたんと置き、ふうと太い息を吐き散らす。

 信一郎も身を起こし、酒を煽る。

「それについちゃ同感だ・・・。なんせ、先月だけでも捨て子と女房を捨てたって記録が百六十件程もあった。確かに赤子に罪はねえ。親は選べねえし生きる時代も場所も・・・」

 信一郎は再び襖を開けて女中を呼び、酒と湯豆腐を持ってこさせた。

座り直した信一郎は、猪口を仙蔵の前に突き出した。

「注いでくれ・・・お前さんは、おいらがうらやましく見えるかもしれねえが、同心なんつったって所詮足軽よ。公方様(将軍)には一生御目通りは叶わねえし、旗本様からは蔑まれ、番屋の四人も雇っちまっている。同心のほとんどのもんは借金だらけだ。おいらの女房なんかひいひい言ってらぁ。富くじでも当たらなけりゃ、抜け出せねえ・・・」

 仙蔵はふっと信一郎に目を向ける。

信一郎が酒を呑み込むと、仙蔵は畏まって今一度ゆっくりと注ぐ。

「こんなにご馳走になってしまって申し訳ございません・・・」

信一郎は煙管に火を付ける。

「いいんだ、ここの宿は見廻りを頼まれているから大丈夫だ」

「本当でございますか?」

「ああっ」

「誠ですか?」

信一郎は煙をふっと仙蔵に吹きかけた。

「うるせえなっ、何度もきくんじゃねえ。がばがば徳利で呑んでいた奴の台詞かよっ」

仙蔵は深々と頭を下げて「申し訳御座いません」と手をついた。

「嫌な事思い出すから、よせ。酔いが覚めちまう・・・そうだ、番屋にいた四人なんだが、あいつらも最初はお前さんと似た様な目をしていた。だが、仙蔵、お前は世を理不尽だと言って恨みがありそうな感じだった。江戸では辛うじてでかい一揆や打壊しは起きてねえが、いつ始まってもおかしくはねえ。無宿や流入者を含めれば四、五十万もの人間が御救米と金を受け取っている。佐久間町の御救小屋じゃ、出て行った人間もひっくるめて五千人以上も収容していた。こんな御時世だから第二の大塩様が、この江戸に現れても不思議じゃねえ。小火(ぼや)も一月に一度くれえ出ているから、そのたんびに誰かが蜂起したんじゃねえかとビクビクしてんのさ・・・」

仙蔵は手酌をする前に私も頂戴しますと断ってから、酒を流し込んだ。

「もう、うんざりです。早く飢饉が終わって欲しいです」

「そうだな、今年の麦はよく育ったって聞いたから、少しは落ち着くだろうよ・・・それ呑んだら寝るぞ」

信一郎は煙を吐き出すが、自分の方へ隙間風が押し戻すと手を振って散らす。

富くじ当たらねえかな・・・」

 

 翌朝、仙蔵は信一郎に起こされる。

目覚めた仙蔵は目を見開くと、気分が悪く頭を押さえた。

用意された飯は信一郎だけが食い、大木戸近くの臨時番屋に向かう。

 

 戸をがらりと開けると、正平と卯之吉が夜勤明けで待機し、交代の伝造と孝助も詰めている。

「お早う御座います」

「お早う、なんかあったか?」

信一郎が問うと、正平は仰々しく頭を下げた。

「昨夜は特段異常はございませんでしたっ」

「なんだい、随分と元気じゃねえか。さては、また博打やってたんじゃねえだろうな?」

「いえいえっ、もう決して致しませんと心に刻み込んでいますからっ」

卯之吉に目を向けると、相変わらずガリガリに痩せている。

「ちゃんと飯食っているか?正平に巻き上げられてねえだろうな?」

信一郎は卯之吉の顔を覗き込む。

「はい・・・昨日は寝ずに」

卯之吉が言いかけると、正平が割り込んできた。

「寝ずに寝ずの番をしてたもんですから。なっ?だから、卯之きっつぁんは眠いんだよなっ。早く帰って寝よう、痩せちまうからなっ」と正平は卯之吉の口を封じるかのよう遮る。

「では、あっしらは帰りますんで、これにて失礼致しやすっ」

正平は卯之吉の荷物まで持って、そそくさと番屋を出て行ってしまった。

「なんだいありゃ・・・」

信一郎は小首をかしげて振り返り、一番年上の白髪交じりの孝助に「なんか知っているか?」と訊ねる。

孝介は落ち着き払って「全く存じません・・・」と首を振り、「そういえば、明日は十八日ですが役所の方に参られますか?」

「ああっ、そうだった。何か御奉行から申渡しがあるかもしれねえ。孝助、明日ここを頼めるか?戻るのは夕方になるかもしれん」

「はい」

 信一郎はさてどうするかと思案し、明日、町奉行所に行った後、八丁堀の屋敷にも戻りたいと思案する。妻である久子とは、十一月の初日以来会っていない。

急遽、この御役に就いてからというもの、多忙というより、やるせなく気鬱になるばかり。

誰にも言えぬが、早く退きたいのが本音だった。

 信一郎は上がり端に腰掛け、腕を組む。次の算段を思案する訳でもなく、なんとなく昨夜、仙蔵と話した事が頭に残っていたせいか、己が非力である故にいかんともしがたく、手を拱(こまね)くもどかしさ。所詮は同心だと己を宥めすかし、静かに長い息をふうと吐く。

ちらりと孝介、伝造、仙蔵に目を向ける。

「おいらは仙蔵の長屋の大家に話を聴いてくるから、孝介は留守番しながら明日持っていく書類やらを用意してくれ。伝造は町名主やらを回って、自身番がしっかり世話をしているか様子を聴いてきてくれ。その後は、いつも通り町廻りと周辺道中廻りだ」

 二人は声を揃えて返事をし、伝造は番屋を出て行った。

信一郎は黒紋付の羽織を着て、「じゃあ、お前さんの長屋に行くぞ」と仙蔵は後に続き、番屋を出た。

「成子天神社ってえのは、中野村の方だったな?」

「はい、秩父往還沿いでございます」

 本来なら、伝造に行かせれば良く、わざわざ薄ら寒い中、信一郎が出かけるべき事ではないが、自身で確認しないとどうにもすっきりとしない心持ちだった。

神仏を疑い、望みなくした者が、伊勢詣りにも行かずに江戸に残っていること自体が妙な話だが、言い分は分からなくもない。国に帰すといっても、村にも戻れないらしい。

このまま見逃して、長屋住まいでその日暮らしを続けるのが妥当なのかと思案しながら歩いていた。

一方、仙蔵は村へ返されてしまうようで、心中穏やかでない。

 途中、四谷追分稲荷に差し掛かり、鳥居を前にして信一郎は頭を下げた。

仙蔵に目を向けると、鳥居やその奥の社殿を覗き、そして、辺りを見回している。

「行くぞ・・・」

信一郎の言葉に仙蔵は、去り際に会釈するだけで稲荷を後にした。

 

 互いに話すこともなく、仙蔵の長屋に辿り着く。

長屋の大家である忠兵衛を訪ねると、甲州各田村百姓代、松次郎と書かれた手紙を渡された。

信一郎はじっと文面を確かめ、大家に預かっていいかと断り、手紙を懐に入れる。

身元を確かめた信一郎は、仙蔵の案内の元、店借している長屋の戸を開けた。

 土間を入ると蓑と菅笠が戸の裏側に掛り、手前に水瓶と台所に茶碗と皿が並べて伏せてある。四畳半の一間。奥には着物が二着衣文かけに下げられ整頓されている。

火鉢と布団、ちゃぶ台に衝立。貧乏住まいで盗む物も見当たらぬほど簡素な暮らしぶり。

 昼日中でも暗い間取りに信一郎は外へ出た。

「仙蔵、今幾ら持っている・・・蕎麦屋で五文しかねえって言っていたのは本当か?」

仙蔵は頭を下げて、長屋を離れるように「こちらへ」と導いた。

人家のないところまで来ると、仙蔵は「申し訳ございません・・・五文というのは方便でございます。伊勢詣りに頼まれた奉納金の一両はございますが、私の持ち合わせは、それほどはございません・・・」と再度頭を下げた。

「困ったな・・・」

信一郎は腕を組み、頭を下げる仙蔵から往来に目を向ける。

仙蔵も何を言われるかとびくびくしながら様子を窺う。

信一郎は左右を見渡したり見上げたりすると、眉間に皺を寄せた。

「なあ、仮においらが帰ったら、おめえはどうする・・・死ぬか?」

仙蔵はちらりと上目で信一郎を見て、地面を見つめたまま黙り込んでしまった。

 余りもに長い沈黙が続く。

信一郎は返答が長引くほど悪い方へと転ぶような予感もする。

己自身でも何故、こんなに在方の百性一人が気にかかるのかも良く分からない。

やるべき勤めを思い出すと、二つ三つはすぐに浮んでくる。

他に身元が分かった人間を帰す手筈や、無宿で働ける者を浜宛や人足場へ斡旋することを代官所とも協議せねばならない。しかも明日は、町奉行所にも書類を携えて報告する日。

世間では危篤の人間が山ほどいる。

死ぬとも生きるともつかない仙蔵は、俯いて突っ立っているばかり・・・。

つかみどころのない胸の痞えを取り除けぬまま、信一郎は仙蔵に呼びかけた。

「とりあえず付いて来い・・・」

 

 

 

   第二部(23)へつづく。