増税、還元、キャッシュレス。 そして明日は、ホープレス。

長編小説を載せました。(読みやすく)

【 死に場所 】place of death 全34節 【第2部】(29) 読み時間 約12分

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    〈 江戸名所図会 内藤新宿 〉

  

 (29)

 三日後、仙蔵は御救小屋の勤めを終え、四谷大木戸近くの臨時番屋に足を運んだ。

戸を開けると、鉤鼻の正平がいた。

「おうっ、仙蔵っ。でかしたっ!」

「えっ?」

正平はとてつもなく喜んで仙蔵の手を取った。

なにがなんだか分からない仙蔵は怖くなって腰が引ける。

「どどっ、どうしたんですっ、正平さんっ」

「どうしたもこうしたもねえ、おめえさんの持っていた熊の胆が本物だったんだよっ。おいらも白沢様のお供をして、薬種屋で聞いたから間違げえねえっ」

仙蔵は正平の顔を見つめたまま、眉を顰めて「えっ?」と更に疑う。

「だから、お前さんの熊の胆は寒中の熊の胆の中でも、更に極上品だってよ。良かったよ、白沢様も有名な医者を上役にも紹介できたぞっ」

「はぁ、そうですか。それはようございました・・・」

「なんだ、嬉しくねえのか?」

 仙蔵は、まあ、役に立ったらいいと思うぐらいで、それよりも、鴨の約束の方が気懸かりだった。

「正平さん、白沢様はいらっしゃらない様ですが・・・」

「お前さんは馬鹿だなっ」

唐突に、正平に馬鹿と言われて、仙蔵は少しむっとした。

「今に面白れえもんがくるから、待っていろ」

正平は、番屋の中を片付け、場所を広く開け始めた。

「これぐれえでいいか・・・まあ、上がって待っていようぜ」

気持ち悪いな・・・

仙蔵は足を洗って、番屋の畳に上がり正座して信一郎を待っていると、正平が茶を入れてもてなしてくれた。

「どうもすみません・・・」

仙蔵が頭を下げると、正平もかしこまって「いやぁ、こちらこそ」と頭を下げた。

 待っている間、仙蔵は御救小屋の事を思い出していた。

あと六日もすれば取払われ、路頭に突き出されるだの、島に送られるだのという噂が、どこからか広まってしまった。

その為、身寄りのない者たちの動揺は激しく、女子供はここに居させて下さいと哀訴する者が多く出た。役人や賦役の百姓達も宥めてみるが、不安に駆られて納まらない。

お里は病人の世話よりも、女や母親達に「なんとかなるよ」と言葉を並べるのが精一杯だった。

 心労からか病人は熱を出し、苛立つ者同士が、握り飯が大きい小さいなどと些細な事で揉め、喧嘩、いがみ合いも増えて、仙蔵が間に入って仲裁していた。

なんとか動揺を抑える切欠になればと、早々に鴨鍋を振舞いたいと気を揉んでいた。

 

 番屋の戸が、ガラガラと開けられると、ガリガリの卯之吉が入ってきた。

卯之吉も正平同様にうきうきとしながら中に入ってきた。

仙蔵と目が合うと「おおっ、仙蔵っ。待たせたねっ」と手を上げた。

訳が分からぬ仙蔵は、別に卯之吉さんは待っていねえけど・・・と困惑する。

 続いて信一郎が入ってきた。

仙蔵は畳から土間に降りて出迎えた。

「これはこれは白沢様、お待ちしておりましたっ」

「おおっ、仙蔵っ!大手柄だよっ、聞いたか?」

信一郎も皆と同様に喜んで仙蔵の手を取った。

「ええっ・・・まあ」

「極上品だったんだっ。上役も大喜びだし、その旗本様がな。まあ、いいからこっち来いよっ」

信一郎は、外へ仙蔵を連れ出した。

「なんですか、これはっ」

「なっ、すんげーだろうっ。その大身の旗本様に、上役と医者と一緒に御拝謁したんだ。そんで、御救小屋の事を話したら、これだよ・・・」

筵(むしろ)がかけられた大八車の荷物の脇をそっと上げ、仙蔵に見せた。

駕籠いっぱいの鴨に雉。箱に入った塩漬けの魚、それに野菜が山積みになっている。

仙蔵は首を振り信じらず「あるところにはあるんですね・・・」と呟いていると、信一郎が「さあっ、早く中に運び込めっ」と号令をかけた。

「えっさ、えっさ」と伝造、考助、正平、卯之吉が、手際良く手渡しで番屋の中に運び込む。

仙蔵は目をぱちくりと繰り返し、信一郎を見つめた。

「これを旗本様がくれたんですかっ?」

「いや、鴨鍋代として金をもらって、それで買った物と、裕福な者達からの差し入れだ・・・」

仙蔵は未だ信じられず首を振る。

「すごいっ、信じられませんっ。ありがとうございますっ」

信一郎は手を振った。

「礼を言わねばならねえのは、おいらの方だ」

信一郎は仙蔵の耳元でささやく。

「お前さんの熊の胆のおかげさっ。本当にありがとう、助かった」

仙蔵はうなづくも「お礼を申して頂けるなら、故郷(くに)の圭助でございます・・・私はあれを熊の糞としか思っておりませんでした。圭助の一家は借金で苦しんでいる中で、熊の胆を持たせてくれたんです・・・」となんだか圭助や松次郎にも申し分ない気持ちで一杯になってくる。

信一郎は、仙蔵の言葉を聞き、笑顔が消え大きな息を吐く。

「そうか・・・でもとりあえず、仙蔵のお陰で旗本様も救われた事に変わりはねえ。それに、あれだけの材料があれば鴨鍋もできるだろう・・・」

ええと仙蔵はうなづいてみるが、圭助の事が気にかかる。

「お前さんの故郷の方もなんとかする。とりあえずは良かったじゃねえかっ」

信一郎は仙蔵の肩をぽんと叩いた。

「明日の朝、おいらも御救小屋に行って、旗本様の書状を渡せば滞りなく皆で鍋が食える。お前さんが、せっかく獲ってきた鴨も紛れ込ませれば分からねえ」

「ありがとうございます・・・」

仙蔵は信一郎に頭を下げた。

 信一郎としては、何重にも嬉しい事となった。

旗本とも懇意となり、しかも、上役からも賞賛されて役所に戻る事となる。

信一郎と四人の岡っ引き達の喜びとは別に、仙蔵は一人取り残された様に故郷の事が気にかかって仕方がない。

胸の内がなんとももやもやとしたやるかたない気持ちで一杯となる中、番屋に運び込まれた大量の食材を見つめて、自らに言い聞かせる。

「あいつの熊の胆が、役に立ったんだ。少なくとも二百人を喜ばせることができる・・・」

圭助やおきつ、そして松次郎の笑顔が浮ぶ・・・。

 仙蔵は申し訳ないような心持ちとなり、信一郎に早々に挨拶を済ませ、他の四人にも頭を下げて番屋を後にした。

 

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    〈 荒歳流民救恤図 イメージ 〉

 翌朝、仙蔵は寒さで凍った鴨を駕籠に入れ御救小屋に到着すると、門前には正平、卯之吉、伝造、考助が仙蔵を待ち構えていた。

「おうっ、おいら達も手伝いに来たぜっ」

仙蔵は四人に頭を下げて、一緒に中に入った。

信一郎達が持ってきた大八車の荷が炊事場に運ばれて行く。仙蔵もすかさず持ってきた鴨を紛れ込ませた。

 信一郎は、元締手代の岡田と陽気に会話していた。

 仙蔵を見つけ、手招きをして呼び寄せる。

「この仙蔵のお蔭ですよ」

岡田も鴨鍋の事が嬉しかったらしく「おおっ、仙蔵。熊の胆を持っていたとはすごいではないかっ」と肩に手を乗せた。

「実はな、わしも弥助らに聞いて、ここの者たちをどう鎮めたら良いかと考えておったところだったんだ。身寄りのない者たちは、石川島の人足寄場に行く事になっておる。病の者もそっちに移って療養できる手筈だ。女子供も養育所なんかに移す手配が付いたから、美味い物を食えば少しは落ち着くだろう」

岡田は荷物が運ばれる様子を見ながら「働く者も一緒に夕飯を食おう・・・」と仙蔵に微笑んだ。

仙蔵は信一郎と岡田に褒められると、否応なく圭助らの顔が浮かんできて素直に喜べない。

その一方、御救小屋の取払いの準備も始まり、身請人やらも続々と待合所に詰めていた。

夕食までの間、信一郎らは番屋に戻る事になり、仙蔵も病人部屋に向かう。

物思いに拭けり足取り重く廊下を進んでいると、仙蔵を見つけたお里が駆け寄ってきた。

「ねえっ、夕飯は豪勢なんだって?仙蔵さんが三日ぐらい前に『後のお楽しみ』って言っていたのはこの事かい?」

「ええっ、まあ・・・」

仙蔵は思惑を超え大規模なものとなり、自分の力は微々たるものだと言葉を濁す。

「すごいじゃないのさっ。働いている人たちだってその話で持ちきりだよっ。一体どうやって、こんなに用意できたの?」

「なんていうか、北町同心の白沢様が、お偉い旗本様に頼んでくれたらしいんです・・・」

一から話すのも時間がかかると、仙蔵は掻い摘んではぐらかす。

「すごいね~っ、こんな事、お偉い様だってなかなか出来るもんじゃないよっ」

お里が余りにも迫り寄るので、仙蔵は後ずさりすると声が聞こえてきた。

 「おーっ、あっちあっちっ。仙蔵っ、すごいじゃねえかっ。一体どんな手を使ったんだ?」

「相変わらず、うるさいわねっ。静かにしてちょうだいなっ」

お里が仙蔵を飛び越えて文句を言う。

さっと仙蔵が振り向くと勝吾郎が汗を拭う。

「ちゃんと着ているんだ・・・」

仙蔵は二人に挟まれ「うれしいわね」「あたぼうよ、ところでどんな手を使ったんだ」と前から後ろから声をかけられていると、作兵衛の爺さんも部屋の中から声を上げる。

「お里さん、背中から血は出てねえかっ」

「足が痛いよっ、お里さんっ」

四方八方から声が聞こえると、寝ていた病人が声を上げる。

「うるせーな、じじいっ。頭が割れそうだっ」

仙蔵は飛び交う声を潜り抜け、頭が痛いと叫ぶ男を厠へ連れて行く。

尚も、勝吾郎は仙蔵の後に付いて来た。

「なあ、教えてくれよ。どんな手を使ったんだっ」

仙蔵は病人を歩かせながら「お役人に頼んだんです・・・」と誤魔化した。

「だーっ、この野郎っ」

「あっ、芳蔵さん・・・」

「こんな所で油売りやがってっ。今日は特に忙しくなるんだから早く来いってんだっ」

芳蔵に見つかった勝吾郎は、腕を引っ張られて炊事場へ戻って行った。

 病人部屋の昼飯は、いつも通りの粥に漬物。動ける者は食堂で、握り飯と味噌汁、漬物が施された。

 

 食事が終わり、仙蔵は要三の肩を支えて歩くと、風に当たりたいと言い出した。

「この前みたいに放っておかないでくれ、凍えちまうから。それと、ちょっと話したいことがあるんだ・・・」

要三は冗談めかした事を言いながらも、どこか不安な様子だった。

 仙蔵は風除けのある場所に要三を座らせ、自分も隣に座る。

要三は寒空を見上げ、ふうと一息吐き、足を擦った。

「なんだかどんよりとした日は、足が芳しくねえ・・・」

仙蔵も空を見上げ、うなづいた。

晴れぬ心は共に同じで、仙蔵は仙蔵で、御救小屋が閉鎖されたら村に帰されるかもしれないと溜息をふうと吐く。

 暫し、両人は会話もないまま空を見上げていると、要三が口を開く。

「あのさぁ・・・」

要三は言いづらいのか目を逸らし、俯いたり見上げたりする。

「どうしました?」

「おら、この先どうなっちまうんだ・・・。身請人がいねえ者は、石川島に行くって聞いているが、その後はどこかの島で働かされるっていうじゃねえか。おいらは罪を犯した訳でもねえし、ただ怪我をしただけなのにどうしてそんな所に行かなくちゃならねんだ・・・」

「えっ、人足寄場に行くと島送りなんですか?」

仙蔵も石川島の人足寄場について全く知らず、要三に聞き返してしまう。

「定かじゃねえけど、あそこは罪を犯した者らが集められて、御公儀の普請なんかで働らかされるらしい・・・おいらが何したってんだっ。怪我しただけだぞっ、ひでえとは思わねえか?だから最近眠れやしねぇ、貧乏な家に生まれたばっかりに、居場所はねえからって江戸に出されて、足を滑らし島送り。それでこき使われて死ぬって考えると、おいらは、どこへ行っても邪魔なんだって思えてくる・・・・」

要三は涙ぐんで空を見上げて呟いた。

「冗談じゃねえ・・・」

「おいらも似ていますよ・・・」

仙蔵がそう呟くと、要三は赤い眼差しで睨み付ける。

「少なくとも、お前さんは丈夫じゃねえかっ」

「確かに自分でも不思議な程、体だけは丈夫なんです。皮肉な事なんですが・・・」

「皮肉って、どういう意味だ」

要三は納得ゆかぬと眉を顰めて訳を聞く。

「おいらはもともと甲州の貧乏百姓でしたが、些細な行き違いで、名主に嫌われて伊勢参りと称して村を出てきました・・・沢山、御府内の神社仏閣を参詣しましたが、歩けば何処かしらで行倒れた死人を見かけました。金があるところには食料があるけど、金がなければ救いを求めて彷徨い死んでゆく。物心も付かない赤ん坊は死んで、幼子は捨てられる。かたや、米を囲い込んで値を吊り上げたり、平気で人を騙したりしている人間が、得意げに大声上げて闊歩している。おいらはふと、神様はいないんだと思いました。理不尽な世に、生きる意味も理由もない。そんな世で何をよすがに生きればいいのか、望みが潰えてやけになってしまったんです。ですから、御伊勢に行ったところでどうになるでもなく、独りぼっちで行く当てもない。いっそ消えてしまいたという気持ちで死に場所を探していたところに、お役人様に声をかけられました。そんなおいらが病にもならず、この御救小屋で働いているんです。これを皮肉と言わないでなんと言いましょう。生きたい人がここを頼って、死んでもかまわないと思っていたおいらがここで介抱をしている。取り払われた後、要三さんと同じかは分かりませんが、望みがない事には変わりはないんです。また、悪い事が起こるんじゃないかと・・・」

「お前さん、死のうとしたのか・・・」

「まあ・・・でも、今となってみると分かりません。辛さから逃れたい気持ちは確かですが、故郷でお世話になった人の顔が浮かんでくると、生きろと語りかけてくるんです。でも、帰ることもできないし、伊勢参りの餞別も貰っていても神様を信じられない。知り合いもなくて疲れてしまったんです・・・」

 要三は顔を顰めながら引きつった笑みを浮かべた。

「おっ、おいらが言うのも変だけど、お前さんは、ずっと一人で考えて誰にも話さなかったから思い詰めちゃったんじゃないのか?話を聞いていて、おいらもこの先、ずっと重労働にさせられて死ぬだけだと思っていたけど、考えてみれば、この足じゃ重労働はできねえ・・・」

仙蔵もうなづくと、要三は鼻でふんと自嘲した。

「こりゃ駄目だ。どうなるんだろう・・・」

「さっき、療育所とかもあると、岡田様が仰っておりましたから・・・」

 

 「あーっ、いたいたっ。仙蔵さん、何処行ったかと思っちゃったわよっ。ちょっと、こっちを手伝ってちょうだい」

お里が慌しく呼びに来た。

要三がお里に手を振った。

「おらが話を聴いてもらっていたんだよ、すまねえ」

仙蔵は要三をゆっくり立ち上がらせ「弥助さんに、要三さんの事聞いてみますね。でも、おいらの事は作兵衛の爺さんには言わないで下さい」と頼んだ。

「あんな助平な嫌味爺(じじい)に、死んだって言わねえよ。おらにだって、仮病だろうなんて言いがかりを付けてくるんだから」

要三は少しほぐれた様に微笑んだ。

 お里は病人達の体を拭いたり、三日ぶりの風呂の準備に追われる。

「おーっお里さん、わしの体を拭いてくれ」

作兵衛の爺さんは、まだ順番でもないのに勝手に病人服を脱いでうつ伏せになって、目を閉じて待っていた。

 仙蔵は、要三を座らせた後、寒かろうとうつ伏せの作兵衛の背中を手拭で擦る。

目を閉じていた作兵衛は、お里が背中を拭いているもんだと思っていた。

「ああ~っ、気持ちいいねえ~っ」とうっとりと目を閉じたまま。

仙蔵は、離れた場所で、他の病人の体を拭いているお里に、爺さんを指差して合図を送る。

お里もそれに答えて、「作兵衛さん、背中のかゆいところはないですか?」と遠くから声をかけた。

「背骨の真ん中辺りを強く拭いてくれ」と作兵衛は目を閉じたまま偉そうに言う。

仙蔵は作兵衛の背中を強めに擦ると、「お里さん、ちょっと強ええなっ、もっとなでる様に」と、溜息の様な妙な息遣いをし始めた。

「そこからもう少し、腰の方へさがってくれ・・・それから、尻の辺りを」

仙蔵は仕方なく腰の辺りまで拭いてやり、手を止めた。

「お里さん、どうした。もっと下へ」

仙蔵は気味が悪くなり、しばらく作兵衛の様子を眺めていた。

「どうしたんだ、お里さん。わしの尻を撫でる様に。分からんかな、わしが教えてやろう。交代だっ」

作兵衛は目を開けて、背中をねじって顔を向けた。

「うわーっ、なんでお前さんがいるんだっ!」

部屋の皆もその様子を見ていて、どっと笑うと、作兵衛の爺さんは急に胸を押さえ出した。「心の蔵がぁっ」

明らかに仮病だと、仙蔵は動じることなく「心の蔵がどうかしたんですか?どくどくと元気に音でも上げているんですか?」としらけながら聞く。

「うるさいっ、お前さんの顔を見て、胸が苦しくなったんだっ。お里さんっ」

作兵衛の爺さんは藁をもすがる様に、お里に向かって手を伸ばす。

「尻出して下さい、おいらが拭いてやるよ」

仙蔵が作兵衛の病人着を脱がせようとする。

「やめろっ、脱がすなっ。自分で拭くっ」

作兵衛はじたばたと抵抗し、仙蔵の持つ手拭を奪った。

「あっち向いてろっ」

誰も爺さんの尻なんか見たくもねえと仙蔵は言いかけるが、好きなように爺さんに拭かせた。

「ほれっ、持ってけ」

ばつの悪い爺さんは、仙蔵に自分の尻を拭いた物を渡すと、さっと背中を向けて狸寝入りを決め込んだ。

いい気なもんだと仙蔵は、汚れた手拭を摘んで捨てようと裏口に出た。

 

 「あっち~いなっ、ちくしょうっ」

勝吾郎が炊事場から出てきたところに、仙蔵と鉢合わせする。

「おう、仙蔵。今日は鴨鍋だろう。それに飯も炊くから、一日中ずっと火の番をしてなくちゃならねえっ。見てくれ、汗が止まらねえんだ。おっ、調度良い。その手拭貸してくれねえかっ」

勝吾郎は、仙蔵が指で摘んでいた手拭をさっと奪った。

「あっ、それは駄目ですよっ」

「うるせーな、いいじゃねえかっ。減るもんじゃあるめえし」

勝吾郎は、爺さんが尻を拭いた手拭でごしごしと顔を拭いた。

「うん、なんかくせーな・・・なんだいこりゃ?」

仙蔵は本当の事を言うと面倒になると思い「沢庵の桶を拭いたやつです・・・」と嘘を吐くと、勝吾郎はもう一度手拭の臭いを嗅いだ。

「あ~っ、確かに沢庵臭せーなっ。でもまあ、食い物だからいいか」

「それ捨てますから、返して下さい」

「だったら、おらがもらうぜっ」

勝吾郎は手拭をねじり鉢巻にした。

「これで汗が止まるってもんよっ、さあっ、いっちょ鍋を作るかっ」

勝吾郎は自分の頬をぱぱんと叩いて気合を入れた。

仙蔵はすかさず勝吾郎の頭から手拭を奪いにかかる。

「やっぱり返して下さいっ」

「なんでだよっ、どうせ捨てるんだろうっ」

「でも、それは汚いから」

「いいじゃねえかっ。汗を止めるだけなんだから、けちけちすんなよ」

 なかなか戻ってこないと芳蔵が現れた。

「だーっこの野郎っ!この忙しい時に二人で遊んでんじゃねえっ」

仙蔵も巻き添えを食って、芳蔵にどやしつけられた。

「鉢巻の奪い合って、お前らタコかっ!」

「いえ、違います・・・」

仙蔵は芳蔵の言う意味が分からず小首を傾げる。

 仕方なく、勝吾郎が頭に巻いているものは、さっき作兵衛という爺さんが尻を拭いた物だから捨てようとしたと丹念に説明した。

「うえーっ、あの助平爺さんのかよっ」

勝吾郎は、慌てて手拭を毟り取るが、やり場に困り、芳蔵に「いります?」と手渡そうとした。

「なんで、助平爺(じじい)のもんを俺によこすんだっ!そんなもん燃やしちまえっ。早く仕事に戻れっ」

仙蔵は、作兵衛が助平であると誰もが周知している事に驚いていると、勝吾郎が手拭を摘んでそっと返す。

「悪かったよ・・・」

「どういたしまして・・・」

仙蔵は指で摘んで、風呂を沸かす焚火の中に放り込むと、勢い良くぼっと燃え去った。

病人部屋に戻った仙蔵は、湯に入れる病人怪我人を四、五人連れて介添えし、忙しく働いた。

 

                 第二部(30)へ続く。