【 死に場所 】place of death 全34節 【第2部】(31) 読み時間 約13分
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翌日、仙蔵はこれまで通り御救小屋で病人を介抱する。
取払い間近とあって、各地から名主、身受人らが続々と収容人を引取り小屋を後にする。
大病人や極大病人は動かす事が難しく、大八車に乗せて療養所などに分散して少人数づつ移し始めた。
そのため、いつもより喧騒であり、身受人がいない無宿の者達はどこか不安な様子で、送り出される人々を窓や縁側から眺めていた。
十二月五日。
内藤新宿の高札場の町触に、十二月八日を以って御救小屋を取払うと掲げられた。
以降、施米を受ける場所は町会所だけとなる。
この日の昼、病人部屋に作兵衛の身請人がやって来た。
「わしゃ、絶対戻らんよっ。冗談じゃない、あんな息子となんか一緒に暮らせるかっ」
身受人は困り果て、腕を組んで手を拱いていた。
「そうは言ってもね、ここにはもう居られないんだよ」
作兵衛は「嫌だね・・・」と背を向けた。
「息子さんの何が気に入らないんだね?」
「嫁にばっかり気を使って、わしの飯は変な物ばかり出してくる。早く死ねとわざとやっているんだっ」
身請人は困り果て、ちょっと待ってと一旦席を外した後、子連れの夫婦を伴って来た。
背中を向ける作兵衛に、息子が声をかけた。
「おとっつあん、帰ろう・・・」
作兵衛は振り返り、「お前たちの世話になりたくねえ」とまた背を向けた。
作兵衛の息子は「俺達は迷惑だなんて思っていねえよ・・・」と作兵衛の真後ろに座る。
「嘘言うんじゃねえ、子供だっているだろうっ。病人のわしがいたら邪魔だっ」
「そうやって意地を張るなよ。邪魔なんて事はない、おとっつあんが子供の面倒を見てくれれば良いじゃないか」
作兵衛は背を向けたまま、尚も抗う。
「飢饉はまだ終わっちゃいねえんだ、わしまでいたら食い物がなくなっちまうだろうが」
「なんとかなるさ、なあ?」
夫は妻に声をかけた。
「そうですよ、お父様。勝手に村を出てって、やっと見つかったと思ったらこんな所にいるなんて聞いてびっくりしたんですから。お米もだんだん値が下がってきましたし、なんとかなりますよ。だから帰って来てください。ほら、大吉もおじい様に帰ってきてって言いなさい」
大吉という五、六才の孫が、ちょこちょこと作兵衛に近づくと、ぴたりと立ち止まる。
孫の大吉は肩をとんとんと手を弾ませた。
「おじいちゃん、帰ろ・・・」
作兵衛は孫の声に心を動かされ、振り返って「大吉っ」と抱き締めた。
夫婦は「ねっ、大吉だっているんだから、帰ろう」と声をかける。
抱き締められる大吉は鼻を摘む。
「おじいちゃん、くさい・・・帰って一緒にお風呂入ろう」
作兵衛は感涙している中で、孫の一言で自分の臭いに驚き、大吉を放した。
くんくんと犬の様に襟元を引っ張って顔をしかめて呟いた。
「体を拭いてばかりだったからな・・・分かったよ」
その様子を見守っていた仙蔵とお里は、作兵衛一家に近づくと、息子夫婦が頭を下げた。
「ありがとうございます。さぞかし、御迷惑かけたことでございましょう」
お里は苦笑いを作兵衛から息子夫婦に向けた。
「ええ・・・まあ」
まだ残っている病人たちも、皆その様子を見ており、その中から声が上がった。
「女の介抱人の尻をよく触っていたぞーっ」
体裁の悪い作兵衛は「嘘だっ」と否定すると、更に他の病人も声を上げる。
「抱きついてひっ叩かれてたろーっ、しかも何人も」
作兵衛は火消しに躍起になる。
「よせっ、根も葉もない事を言うんじゃないっ」
要三は、とどめを言い放つ。
「今度は孫を抱き締めてやんなっ、さっさと出てけっ」
作兵衛ははっとして、孫の大吉に目を向け、感極まって再び抱こうとするも、孫は未だに鼻を摘んでいた。
やり場のない作兵衛は、要三らに向かって「うるせいっ。出て行ってやるよっ、こんな所っ。肩貸せ」と息子を呼びつけた。
作兵衛は夫婦に付き添われ、お里や同部屋の病人らに挨拶をする。
去り際、作兵衛が振り返った。
「仙蔵さん、鴨と鮭の粥、美味かったよ。ありがとう。お前達も減らず口ばかり叩いてないで達者になれよっ」
要三がそれに応える。
「元気になったら、やたらと尻触るなよっ」
「うっせーぇっ」と言い残し、作兵衛は小屋を出て行った。
翌六日。要三らは、石川島の人足場で養生するため小屋を出る事になった。
仙蔵とお里は出立の支度をし、病人怪我人を大八車に乗せる手伝いをする。
一度に全員を送り出せず、二日に分けた第一陣に要三が入っていた。
仙蔵は要三に肩を貸し、病人部屋から大八車のある広場へ連れ出した。
要三は「最後まですまねえな・・・」と仙蔵に声をかけた。
「最後って、そんな寂しい言い方はよして下さい」
要三は、にやりと顔を歪めて恥ずかしそうな笑みを浮かべる。
「そうだな、これが最後って訳じゃねえ。しばらくの間だ・・・。忠兵衛長屋、だったな?」
仙蔵はこくりとうなづいた。
「はい・・・」
「お前さんもこの先大変だろうけど、きっと、その忠兵衛長屋に居てくれよっ。じゃねえと、お前さんの家を建てられねえからな。もし、引っ越す時は、文を人足場に出してくれ」
別れ惜しい要三は、矢継ぎ早に言葉を続けた。
「分かりました。長屋を出るときは文を出します」
「きっとだぞっ」
要三はぐっと堪えた後「きっと、足を治してお前さんの家を建ててやる・・・」と呟いた。
仙蔵も「それまでに、なんとか地べたを用意できればいいんですが・・・」と皮肉な笑みを浮かべた。
「なんとかなるさ・・・」
「そうですね、なんとかなりますね・・・」
二人の会話は、これきり途切れたまま、仙蔵と役人らが要三を大八車に乗せる。
「ありがとうな・・・きっと文を出すからよっ」
要三は座り直してほほ笑んだ。
「焦らないで養生して下さい」
「ああっ、ちゃんと直すよ。おめえさんも元気出すんだぞっ」
役人が馬引きの男に出立を命じる。
要三は「またなっ」と満面の笑みで大きく手を振る。
「またっ」
仙蔵も、それに答えて大きく手を振った。
仙蔵とお里が病人部屋に戻ってみると六、七人残っているだけで、がらんとしていた。
多いときは二、三十人もいたが、半数以上は帰村、または移動し退去した。
残りの収容者は、明日の第二陣で人足場や養生所へと送られる。
「明後日(あさって)で、お里さんや皆さんともお別れですね・・・」
お里は、寂しそうに立ち尽くす仙蔵に落雁を渡す。
「これでいいのよ・・・ここがいつまでもあっても困るでしょう」
「そうですね、辛い人たちが増え続けるって事ですからね」
仙蔵は去った病人部屋を見つめ、江戸に出て来て初めて親しくなった人たちとも別れると思うと、再び、孤独な日々に戻る不安に煩う。
信一郎は長屋で待っていろと言うけれど、わずかに働いたこの場所が離れがたいものとなり、じわりじわりと寂しさがこみ上げてくる。
力が抜けた仙蔵は廊下に座り、お里にもらった落雁をかじる。
「あたしも、ずっとここでお勤めするのが辛かったのよ。でも、この前の御馳走を頂いて報われた感じがしたわ、ありがとう・・・」
お里とは反対に、当初、仙蔵はあれほど介抱人を言い付けられた時、止めてしまいたほど嫌だった。癖のある小うるさい病人たちとも親しくなるに連れ楽しくもあった。その差異もあって、お里の礼の言葉が自分とは同じ気持ちではないと知り、なんだか切ない気分も重なった。
「こちらこそ、お世話になりました・・・」
仙蔵とお里はそれぞれの思いを抱えながら、再び病人介抱に戻る。
翌七日は、からりと良く晴れていた。
御救小屋の収容人を全て退出させる日。
年若い市松も人足場で養生する事になっているが、仙蔵はその後を事を考えると心配にもなった。
「達者でな~っ」と最後の退出者を乗せた大八車に手を振って見送る。
収容者を全て見送った仙蔵は空っぽになった小屋を見つめる。
人の心配などしている場合ではないと自らを省みると気分が塞いできた。
明日、片付けが終わったら、いずれ御救小屋は跡形もなく取り壊される・・・。
「よおっ」と後ろから、誰かが仙蔵の肩を叩いた。
仙蔵は振り返ると、小ざっぱりした藍の重ねの着物にどてらを纏った勝吾郎がいた。
「あれ・・・今日はあっつくないんですか?どてらなんて着て」
「あっちい訳ねえよ、もう煮炊きすることもねえからな。おら達も明日でここともおさらばだ・・・」
「御役が終わって良かったですか?」
「これで芳蔵さんにもどやされねえけど、出稼ぎ先じゃぁ、この前みたいな御馳走なんて出る事はねえだろうな。だから、あんな風に宴会みたいのがあったらと思うと名残惜しいな・・・あん時は美味かったぜ」
仙蔵は勝吾郎が似たような思いを持っていたことが嬉しく、笑みがこぼれた。
「おいらはちょっと手伝っただけですけど・・・」
「そういえば、お前さんは成子天神の近くに住んでいるんだろう。おらは中野村だから、良かったら家に来いよ。がきが四人もいて大した持て成しは出来ねえけど」
「えっ?」
仙蔵は耳を疑った。
「だから、お前さんの長屋とおらの家は近けえから来いって言ったんだ」
「本当ですかっ?」
勝吾郎は仙蔵の喜びように驚いた。
「なんだよ、そんなに喜んだって御馳走なんて出ねえぞ」
「いいんです、御馳走なんて。今度、鯉か鮒を釣りに行きましょう。それで、勝吾郎さんの家で鯉こくかなんかを食べましょうっ」
「そいつはいいねぇ~っ」
江戸に出て、初めて人の家に招かれた喜びで涙が出そうになる。
信一郎には親しく気にかけてもらっているが、越えられない身分がある。
一年近く、百姓の誰とも仲良くなれずにいたから、その嬉しさたるや、初めて人として受け入れてもらえた様な心持ちだった。
「年明けてから二月(ふたつき)三月(みつき)出稼ぎに行くから、それまでだったらいつでも来てくれ。釣りの場所なら知っているから連れてってやるよ」
「はいっ」
仙蔵は更に具体的になってきて高揚してきた。
「なんだい、お前さん、顔が赤けえけど、あっちいのか?」
「ええっ、あっちいんですっ、なんだか急にっ」
「風邪でもひいたか?」
がらがらと炊事場の戸が開いた。
仙蔵と勝吾郎が振り返ると、芳蔵が出てきて二人を見つけて近づいてきた。
「やべえ、なんか言われる・・・」
ぼそりと勝吾郎が呟いて芳蔵から目を逸らす。
「おう、勝吾郎ここにいたのか」
勝吾郎はびくびくしながら頭を下げた。
「はい、最後の退所人を見送っていました・・・」
芳蔵はふうと遠くの往来に目を向けた。
「これで全員いなくなったか・・・忙しかったけど、勝吾郎も良くやってくれた」
どやされる事が多く、芳蔵に怯え癖が付いていた勝吾郎は、その労いの言葉にはっと顔を上げると微笑んでいた。
「大した問題も起きなくて、やっと肩の荷が下りた」
芳蔵は空に顔を上げ、腰を伸ばした。
一番火事が怖かったと言い、一棟が燃えてしまうと、冬の空風に煽られて全ての小屋が焼けてしまいかねない。病人が多いから尚更用心し、方々に目を配らねばならなかったという。
「片付けは明日にしよう、帰っていいぞ。仙蔵、鴨鍋ありがとうな」
芳蔵は手を上げて微笑むと、玄関奥の役人部屋に去っていった。
「あーっびっくりした。てっきり油売っているだの言われて、どやされるかと思ったよ」
勝吾郎はほっと胸を撫で下ろすと「じゃあ、帰るか。いつでも来てくれよ。また明日」と炊事場へ荷物を取りに戻る。
仙蔵は続々と去ってしまう寂しさで、無理矢理笑顔で「また明日っ」と声を張る。
病人部屋に戻ると、お里の姿はなく、粗末な寝床と残された臭いだけが漂っていた。
口では息が出来ないような異臭が薄れたのか、仙蔵の鼻が慣れてしまっていたのかは定かではないが、あのすえた様な臭いを思い出すと、作兵衛の爺さんや要三らがその場に居るように思い出される。
寝床と言っても畳の上にわずかに弾力のある筵を敷き、その上に布を宛がったものにすぎない。
枕は藁を丸めた物で、くずが散乱している。
寝床を片付けようと、奥の方から筵と布を分け始める。
後から戻ってきたお里も、反対側から片づけを手伝う。
仙蔵は筵や布はどうするのかと、お里に聞くと「あとで弥助さんに聞いてみるから、端に寄せておきましょう」と手際よく片付けていった。
「なにこれ・・・」
お里は手を止め、布の下から取り出した紙に見入っていた。
「どうしたんです?」
仙蔵はお里に近づいた。
「この絵、見て・・・」
差し出された絵に仙蔵ははっとした。
「これって、要三さんの寝床よね?」
家の間取り図に、玄関、居間と書いてある。よくよく見れば、客間なんて文字が書き込まれ、八畳とまで細かく記載されていた。
足が難儀な要三は、持て余す時間に仙蔵の家を思い描いていたことを知る。
「本当に建てる気なんだ・・・」
図面の下には、上州屋要三店、第一号と炭で書いてある。
要三は、仙蔵の家を建てる事を切欠に、大工の店を持つ望みを知ると胸が詰まって、さっと図面を懐に入れて廊下を走り、裏口に出た。
そして、南に位置する石川島の人足場に向かって頭を下げた。
要三さんっ、ありがとう・・・
( 川崎市立日本民家園 イメージ )
最終日の十二月八日。
冷たい北風が強く、空は雲が立ち込めていた。
今後、施米炊出しは町会所に移されるため、米俵やそこで使う道具類を、働く者達総出で何台もの大八車に積み込んでゆく。
帳簿類は代官所役人が全て纏めていたので、昼には作業が終わる。
病人部屋の物などは、伝染病の拡大を恐れ全て焼却処分となった。
御救小屋支配役・岡田宗泰が、働く者全員を集合させた。
「御役目は之にて終了となった。これまで、皆も良く働いてくれた。給金は各々の村名主に渡す事になっておる故、後で受け取る事になろう。では、大儀であった・・・」
仙蔵の思いとは裏腹に、御救小屋はあっけなく閉所となった。
夫役の村人達は、岡田や役人に頭を下げて、続々と去って行く。
お里も荷を纏め、「仙蔵さん、子供が待っているんで、あたしはこれで失礼します。ありがとうね、何かあったら代田村を訪ねてね」と頭を下げて家路を急ぐ。
「こちらこそ、ありがとうございますっ。お達者でっ」
仙蔵は後姿のお里に手を振った。
「おうっ、仙蔵。女房が熱出しているからこれで帰るが、いつでも訪ねてくれよ」
どてらを着た勝吾郎も手を振って急ぎ足で中野村へと去って行った。
勝吾郎ともっと話がしたかった仙蔵は戸惑い「じゃ、じゃあそのうち訪ねますねっ」と言うのが精々で手を振って見送る。
次々と仙蔵の前から人が去ってゆく。取り残された様な心持ちで寂しさが募る。
仙蔵はぽつりと独り立ち尽くしていると、手代の弥助が呼びに来た。
「岡田様が御呼びになっておる」
仙蔵は弥助に続き、玄関脇から奥座敷に通された。
岡田は座って待っており、仙蔵の顔を見ると、閉所を告げた先程とは打って変わり笑顔になった。
「御苦労だった、今日まで良くやってくれたっ」
仙蔵は平身低頭で「こちらこそお世話になりました。全ては岡田様のお導きでございます」と謙(へりくだ)る。
「いやいや、お主が鴨鍋を振舞おうとした心が動揺を抑えることにもつながった。お陰で、大した混乱もなく取払いに至る事ができた、礼を言う。しかしながら、御鷹場と上水での狩猟は二度とならんぞ」
「えっ、御存知でございましたか」
「知るも知らぬも、この辺一帯は代官所支配も含まれておるから耳に入る。あの山に鴨の首が三つあったと聴き、もしやと思って白沢殿にお伺いして知った。だが、大身の旗本様からの要請と、収容人の動揺を落ち着かせてくれた事により、この度は目を瞑ろう」
「誠に申し訳ございません・・・・」
仙蔵は今一度、平伏すると、岡田は奥に控えていた弥助を呼んだ。
弥助が部屋に入ってきて、仙蔵の前に包みを置く。
岡田は仙蔵に面を上げる様に言うと「約束の給金だ。受け取ってくれ」と微笑む。
更に、岡田はもう一つの包みを差し示す。
「それとは別に、鴨鍋の礼という訳ではないが、わしからの餞別だ。当初、お主は伊勢参りの話をしておったであろう。わしの分という訳ではないが御参詣の折に一つ頼みたい・・・今後とも多忙で、わしの御伊勢参りは先となろう。よって、世上の安寧を御祈願してもらいたい」
仙蔵は申し訳ない気持ちで一杯になり、再度平伏する。
「おっ、恐れながら申し上げます。御伊勢に参ると申しておりましたが、今すぐという訳にもゆかず迷っておりますのが実情でございます。でっ、ですから、岡田様の御気持ちだけということで、こちらは御賜りになる訳には参りません」
「なにも、すぐに参れとは言っとらん。今は冬でしかも物価も高い。春にでも行けば良かろう。戻ってきたら、代官所に御札と土産を届けてくれれば良い」
岡田は仙蔵を見つめ大きくうなづき返答の余地を与えず「では、またいずれ会おう」と立ち上がり去ってしまった。
仙蔵は岡田の背中に追いすがることもできず困惑していた。
その場に残る弥助は、仙蔵に受取るように勧めた。
「せっかくの御厚意であるから、お受けしなければ岡田様に対して無礼にあたる。お受けになった方が良い」
「かしこまりました・・・」
仙蔵は膝を突き出し、前に進み出て、平伏してから二つの包みを受取った。
弥助は申し訳ないと考え込む仙蔵に「収容人らは喜んでおった。それに、わしも御相伴に預かれて嬉しかったぞ。では、達者でな」と礼を言って立ち上がる。
仙蔵も弥助に一礼をして立ち上がり、奥座敷を後にした。
下賜(かし)された包みを懐に入れ、今一度病人部屋に戻る。
薄暗くがらんとした部屋は、寝床だった痕跡もない。ただ、黴臭い様な懐かしい臭いだけが、仄かに漂うだけだった。
今日で本当に終わりなんだ・・・
仙蔵は去って行った病人達を思い出し、一礼すると自分も玄関に戻る。
残務処理に忙しい役人達に「短い間でしたが、ありがとうございました」と深く頭を下げた。
仙蔵が立ち去ろうとすると、役人達は手を止め、多くの者が集まってきた。
「我らの方こそ、あのような心遣いに礼を言わねばならん、そうだな?」
手代の一人が進み出て、役人でありながら仙蔵に一礼をする。
「ありがとう、美味かったぞ」
それに続き、皆、礼節正しく頭を下げた。
「達者でなっ」
仙蔵はこれで別れとなる事を惜しみながら「どうぞ、皆様に御多幸がありますよう御祈りしております」と今一度、深く頭を下げて立ち去る。
御救小屋の門前に出た所で、再度一礼し建物全体を見渡した後、帰路を辿る。
熊野十二社の脇に差し掛かり、仙蔵は鳥居の前で立ち止まった。
玉川上水が分水し、神田上水に合流する熊野の滝がざざあと流れ落ち、その音が鎮守の林を包み込む。
岡田から賜った餞別と、要三が残して行った家の間取り図が思い出される。
皆のそれぞれの願いや望みに副いたいと思う。その反面、既に過去となってしまった日々が、瞬く間に遠く流れ去り、名残惜しく侘びしい。
先の事を思えば心細く、すがる様に鳥居を潜る。手と口を漱(すす)ぎ、本殿に手を合わせた。
信一郎や卯之吉らの顔も浮かび、岡田、要三、病人部屋の人々と続く。
そして、故郷の松次郎や圭助らの息災を祈る。
仙蔵は自分の事になると気が引け、目を開けてしまった。
正平の言葉が蘇る。
望みがねえなら、望みを下さいって祈ればいいじゃねえか・・・。
同時に、仙蔵は行倒人や御救小屋での大病人、町場で見た惨状を思い出すと、再び疑念が生じる。
神様は本当に居られるのか・・・。
それでも、神様が居らねば、救われぬと目を閉じる。
「神様、願わくば、生きる望みをお与え下さい」
仙蔵はまた一人になってしまったと自己憐憫に見舞われ、更に願う。
「望みを下さい、生きる望みをっ。どこで生きれば良いのでしょうかっ、どうぞ生きる望みをっ」
そう祈る間にも、縋り付く自分が嫌になってきた。
神を疑い、どう生きれば良いのかさえ分からなくなる。神様、居て下さい・・・・。
堂々巡りで鬱々とし、仙蔵は目を開けると大きな溜息が漏れてしまう。
これからどうする・・・。
本殿に一礼し、長屋へと戻る。
第二部(32)へ続く。