【 死に場所 】place of death 全34節【第二部】(18) 読み時間 約12分
(18)
仙蔵の心とは裏腹に、空は澄み渡り旅立ちには申し分ない。
師走の寒さは和らぎ風も穏やかであったが、仙蔵は逃げるかの様に菅笠を目深に被り、往来の人々の目を避けて進む。
石和宿の木戸に差し掛かると、仙蔵の心持を見抜いたように「そこの者、待て」と役人に手形を求められた。
仙蔵は素直に往来手形を取り出した。
「こんな時分に伊勢詣りか・・・」
役人は不快な眼差しを向けた。
仙蔵は五穀豊穣と亡くなった死者を弔う為だと告げると、役人も押し黙って頷き、
「行って良しっ」と不服ながら通過を許可した。
仙蔵は心の内で、飢饉の差配に失敗したから、一揆が起きたくせに偉そうに振舞うなと呟き、石和を抜けた。
旅は始まったばかりだったが、松次郎との別れや慣れない独り旅で歩調も速くなり、途中で疲れてきた。
あと一里程で、おさよがいる栗原宿。
仙蔵は懐に手を入れ、おさよにもらった巾着を取り出して見つめる。
出来る事なら、全てを打ち明けて身を寄せたい、やるかたない事情と不透明な先行きに惑わされる。
とはいえ、松次郎との約束もあり、おさよは親類と一緒に団子茶屋を切り盛りしている。
圭助には、婿に行った事にしてくれと書置きをしたこともあり、気弱から迷いが生じているんだと、我に返り再び歩き出す。
栗原宿へ行った事は数回だけ。おさよがいる茶屋がどこにあるのかも分からない。
もし、宿場の入口付近にあって気付かれてしまったら、元も子もないと心掛ける。
見つからない様、菅笠で顔を隠して宿場を通過しよう。
年明けに会いに行くと、交わした約束を反故にする悔しさで足取りは鈍る。
束の間の夢だったんだ。一緒に狩りに出て、喜び合い飯を食った夢。
今のおいらじゃ、迷惑をかけるだけだ・・・。
おいらが思うほど、おさよさんは気にしてねえ。約束すら覚えていないだろう。
それに、夫婦になる契りも交わしていない。おいらが逆上(のぼ)せただけの事、勘違いだ。
栗原を抜ければ、全てが形見・・・。
仙蔵は巾着を懐に仕舞って、栗原に向かう。
昼前に栗原宿が見えた。宿場の木戸は、一揆勢に打壊されたのか、簡素に修繕された木材が白く新しい。
一揆の再来を慮って役人が立って目を光らせている。
木戸の付近を確かめると宿や茶屋などは見えず、人の姿は余り見かけない。
仙蔵は門番に頭を下げて宿内に入り、目立たぬ様に菅笠を深く被り直す。
道の両脇に店屋は点在する小程度の小さな宿場町。
旅籠屋など数件の奉公人が乾いた道に水を撒き、道端を掃き清めながら、客はいないかと辺りを見回している。
仙蔵は声をかけられぬよう遠巻きに端を抜けようとするが、奉公人らしき小僧に捕まる。
「旦那、どこから来たの?良かったら家に泊まって下さいよ」
小僧が下から仙蔵の顔を見ようと、執拗に菅笠の中を覗き込んでくる。
忌々しいと仙蔵は菅笠に手をかけて、「甲府から出たばかりだ」と早足に小僧を振り切る。
「だったら、うちで一休みして下さい」
小僧は声を上げて、仙蔵にまとわり付いてくる。
所用で先を急ぐと、仙蔵は更に足早に進むと小僧は諦めた。
目立たぬ様にしたつもりが、小僧のせいでそこらの店の者が客になるのではと顔を覗かせている。
仙蔵は、おさよが見ていない事を祈りながら先を急ぐと、宿場外れの木戸が見えた。
その手前では旅芸人の集団らしき旗竿。
茶屋の前に簡素な長椅子が幾つか置かれ、そこへ七、八人が腰掛けて一服している。
その脇で、一座の男が小さな子供に南京玉簾を手ほどきしている。
「そうじゃねえ、ここを摘んで広げんだよ」
仙蔵は立止って、茶屋の屋号に目を向ける。
笹子屋、ここか・・・。
腰掛ける親方らしき年長者が、茶屋の中に向かって声をかけた。
「お姉さん、追加でみたらし三本ね~っ」
仙蔵は茶屋の中からおさよが出てくるのを一目見ようと、近くの木陰に腰を下ろし草鞋を直す素振りで屈んだ。
「おまたせしました~っ」と良く通る声と共に、おさよは藍の木綿に前掛姿で出て来た。
団子を乗せた皿を渡すと、旅一座の親方らしき男は「お姉さん、べっぴんだね~っ。どうだい、うちの一座に入って芝居なんてしてみねえか?」と笑いながら声をかけた。
「おほほ、いやですよお客さん。冗談なんて言ったってお団子負けませんよ」
おさよは笑ってあしらうが、他の芸人も「冗談じゃないさ。親方の言う通り、あんたなら毎日客が詰め掛けるってもんさ」と団子片手に近寄った。
「はいはい、ありがとうございます、お戯れでも嬉しいですよ。毎日、皆さんでわたしをお誘いにいらっしゃって、うちのお団子を沢山食べてくれたら考えますよ」
「毎日ってか?そんな事したら旅は続けられなくなっちまうし、おまんまが毎日団子になって串だらけだ」
「親方。だったら、赤穂浪士四十七串の討ち入りって芝居はどうです?」
「四十七串?なんだいそりゃっ」
「赤穂浪士が、刀の代わりに団子の串で、吉良上野介をぶすぶすと突き刺す芝居ってのはどうです?」
「くっだらねっ、吉良上野介の首はどうやって討ち取るんだよっ。イガ栗みてえに全身串だらけにでもするってえのか?そんなの馬鹿馬鹿しくて誰も見ちゃくれねえよ。舞台のオチは、『名を改め、イガ上野介であるっ』ってかっ!ぶはははっ」
おさよを囲み、旅一座がくだらないと手を叩いて勝手に笑い出し、その場を和ませていた。
仙蔵はおさよの働く姿を見て、儚い想いに踏ん切りが付いたように思う。
誰もが下を向いて歩く様な世で、旅一座も苦労しているだろうに、わずかな休息を楽しんでいる。
例え、連れ添っても苦労するだけだ。おさよさんは此処(ここ)で働くことが性に合っている。
これでいい・・・。
仙蔵は木陰を潜って廻り、栗原宿の木戸を振り返る。
幸せになってくれ、おさよさんの分も祈ってくるよ。お達者で・・・
仙蔵は戻らないと心に決め先を目指すが、割り切れぬ思いは依然残り足取りは重い。
日が暮れるのも早いからさっさと歩けと、自らに鞭を打ち遠方の山々に目を向け進む。
更に進むと、川沿いに続く景観となり、大きな寺に差し掛かる。
仙蔵は寺に立ち寄り、松次郎に頼まれた供養と圭助一家、おさよの安寧を願って手を合わせた。この先、道々にある神社仏閣に手を合わせていこう。
勝沼宿を抜け、鶴瀬宿に辿り着いたのは昼時だった。
鶴瀬には、御番所と呼ばれる関所があった。往来の旅人、隣に流れる川では荷も改める。
仙蔵は通行改めの建物の前に一列になって並び、手形を用意して十人程順番を待つ。
一揆の頭取の一人が逃げており、厳しく改める。
一人一人の吟味に時間がかかり、仙蔵の番が廻ってきた。
役人が往来手形を見て「御伊勢参り・・・誠に行くつもりか?抜け詣りじゃあるまいな」と驚いた後、じろりと仙蔵に目を向けた。
「正真正銘の往来手形で御座いますので、嘘偽りは御座いません・・・」
仙蔵は役人とは余り目を合わさぬよう節目がちに答えた。
役人はふうと溜息を付く。
「郡内騒動の翌月、駿河、三河と東海道沿いでも一揆があったばかりだぞ。米ばかりでなく諸色全般に渡って高騰しておる。宿屋も三百五、六十文に跳ね上がっていると聞く。それに逃亡人の改めも厳しく、強盗も多い。余程気をつけねばならん。今一度糺すが、それでも伊勢に参るのか?」
「はい・・・・」
仙蔵は神妙に頭を下げると「関所を通る度に厳しく改められるからしっかり手形を持って行け、くれぐれも失くすことがない様に。無事を祈る、行って良し」と役人は手形を返した。
仙蔵は鶴瀬の御番所に許しを得て、宿内の蕎麦屋に入ろうと、障子戸の入口脇に「諸色高値に付き、かけ蕎麦一杯二十三文」と貼紙があった。
村を出て初めて金を使うことになるが、これほど高いと尻ごみしてしまう。入るか入るまいかと思案していると、旅の男が背後から仙蔵と同様に貼紙に立止った。
仙蔵は振り返って、男に「随分と高いですね」と眉を顰(ひそ)める。
「今の御時世こんなもんさ。特に、甲州道中は高いって評判だ。諏訪藩は参勤交代で甲州道中を使わず、わざわざ中山道を東に抜けて、上州から江戸に入るそうだ」
男は溜息を吐き、仕方ないと先に蕎麦屋の戸を開く。
「お前さんも入るか?美味めえか不味いか知らねえけど」
仙蔵は何処も高いと聞かされ、他を探すのも面倒になり、男に付いて店に入った。
店の女中は笑みの一つも浮かべず無愛想な態度で「お客なの?」と店に入っているにも関わらず嫌味な調子で聞いてきた。
「お二人さん、ここに座って・・・」
仙蔵と旅の男が一緒だと思ったらしく相席になった。
男は三十半ばで、くっきりとした眉が印象深い。旅なれた様子で荷は少なく椅子に引っかけると、不機嫌な女中に声をかける。
「蕎麦って、天ぷらなんて物もあるのかい?」
「あと、山菜蕎麦も・・・」
男は「天ぷら蕎麦は幾らだ」と聞くと「五十六文・・・」と答える。
「う~ん、高けえな・・・じゃあ山菜蕎麦は?」
「三十文・・・」
男は下唇を歪めて「じゃあ、山菜蕎麦をくれ」と諦め、顔を顰(しか)める。
「お連れさんは?」
女中はいらいらした調子で、仙蔵を急かす様に注文を聞く。
仙蔵はかけ蕎麦を頼むと、女中は無言で立去り厨房へ向かって注文を読み上げる。
随分と横柄な女中の態度に仙蔵は入らなければ良かったと、戸口に目を向けた。
「相当な馬面(うまづら)だな・・・」
「おいらですか?」
仙蔵は唐突に言い出す男をぽかんと見つめた。
「お前さんは丸顔だ。さっきの感じの悪りい女中さ、腐った干草でも食ったんだろう・・・」
仙蔵は余り見ていなかったと、今一度厨房に入っていった女中が出てこないかと注目する。
仙蔵が厨房の入口にかかる暖簾を見つめていると、「お前さん、江戸に行くのか?」と男が聞く。
「ええっ、まあ江戸へ出てから、御伊勢参りに行こうかと・・・」
「えーっ、こんな世上だぞっ、呆れたね」
男は信じられないと首を振る。
「御番所の役人も驚いていました・・・。東海道も物価が高いって」
「ああっ、おいらは江戸で桶屋をやってんだが、どれもこれもが二倍三倍は当たり前よ。おまけに忙しさも二三倍ってきたもんだ」
仙蔵は桶屋を営む男に不思議な目を向けた。
「そんな忙しい親方が、どうしてまた旅なんてしてんです?」
桶屋の男は腕を組んで、首を捻り眉間に皺を寄せ、う~んと唸り始めた。
仙蔵はなかなか言い出さないので、昔聞いた風な事を口にした。
「なんかで聞いたんですけど、風が吹けば桶屋が儲かるって。そんな塩梅なんですかね」
桶屋はちらりと仙蔵を見て、大きく溜息を吐いた。
「うんまあ、そうと言えばそうだろうな・・・最近は樽みたいな大きな物を頼まれる事が多くなっちまってなぁ。儲かる事は儲かるんだが手放しでは喜べねえんだな、これが・・・」
仙蔵は桶屋の困り様が殊更気になる。
「でも、こんな御時世、世間は食うにも大変なんだから良い事じゃありませんか」
桶屋はゆっくりと首を振って訳を話し出そうとすると、蕎麦を持った女中が机の上にどんっと丼を置き、つゆが跳ねてこぼれた。
桶屋はすかさず女中をどやし付ける。
「おいっ、馬面女中っ!少しは気をつけて持って来いってんだっ。袖が濡れちまったじゃねえか」
女中は謝りもせず、桶屋を眺めている。
女中は確かに間延びした顔をしており、仙蔵にも鼻の穴がぽっかりと見えた。
桶屋はその態度に更に腹を立てて立ち上がった。
「突っ立ってんじゃねーよっ、布巾(ふきん)ぐれえ持ってこいってんだっ」
仙蔵はいきり立つ桶屋の気持ちも分かるが、とにかく諌めようと慌ててしまう。
「まあまあ、親方。ここは一つ・・・」
「なんだ、ここは一つって。二つも三つもあんのか?お前さんだって腹立つだろうっ。こんな馬みてえなツラして、愛想もクソもねえ。おまけに馬鹿面さげてドンってなんだっ、こぼしてんじゃねえよ」
女中は「ふんっ」と鼻息を突発的に吐き出すと、厨房へ引っ込んだ。
「待てっ、この野郎っ」
桶屋の怒りは甚だしく、立ち上がって厨房に入って行きそうな勢い。
仙蔵は咄嗟に桶屋の腕を引っ張った。
「放せってんだっ。おいらは滅多に怒らねえが、あの馬面には我慢ならねえっ!」
桶屋の大声に厨房から蕎麦屋の親父が顔を出して、「すいません、堪忍して下さい。まだ雇ったばかりなもんで」と平身低頭で謝っているが、桶屋は「親父っ、お前さんが謝ってどうするんだっ、あの馬面女中が謝って然るべきこったろうっ。出て来い、馬面っ!」と火に油を注ぐ調子になってしまう。
どんどん桶屋の顔が真っ赤になり、仙蔵は困惑しながらも今一度状況を振り返った。
「待って下さい、桶屋さん。ちょっと違っています・・・」
この一言で桶屋の怒りの矛先が仙蔵に、ぐわっと向いた。
「てめえっ、おいらが間違っているだとっ!おめえだってあのふざけた態度を見ていただろうっ」
「はいはいっ、確かにあの女の態度すこぶる悪いものでございますが、おいらは農村育ち、桶屋さんは江戸育ちとお見受け致します。だから、馬を良く見ているんです」
桶屋は何が言いたいのか分からず、更に息巻く。
「だからなんだってんだっ」
「はっ、はい・・・ですから、馬は利発で気性がとっても細やかなんです。人が何を考えてるかとか、望んでいるかとか、よく見ているもんなんです。自分より下だと見たら蹴飛ばします」
「誰が馬の講釈なんか聞きてえって言ったっ!」
仙蔵は両手を桶屋の前に出して、「まあまあ、落ち着いて下さい。なっ、何が言いたいかと言うと、あの人は馬ではありません、牛ですっ。ほら、牛ってぬぼーっとしてて、常に間延びして食ったもんをまた口で噛んで、口を横に動かしているじゃありませんか。おまけによだれを垂らすは蝿は飛ぶ。さっきも蕎麦の汁だってこぼしたじゃありませんか。なにを言われも黙って口をもごもごして、たまに口を開けば、もーと鳴く。だから牛面(うしづら)女中だと思うんです・・・いかがでしょう?」と立ち塞がった。
「いかがってなんだっ!長々説明聞かされて、私が間違っておりました。牛でしたって、おいらが納得するとでも思ったのかっ。馬でも牛でもどっちでもいいっ。とにかくあの長い馬面・・・あーっ、どっちでもいいっ。親父、とにかくあの長い女中に教えておけっ」
仙蔵は小首を傾げて、厨房から顔の上半分を覗かせる女中を見つめる。
「あの・・・長い女中じゃなくて、やたらと長い顔した女中です・・・」
「うっせーっこの野郎っ!さっきから細けえ事いちいち言いやがってっ。おめえは重箱の隅をつつく啄木鳥(きつつき)かっ!それとも、揚げ足鳥かっ。いいんだよ、意味が分かりゃっ。今度変な事言ったら、おめえを啄木鳥って呼ぶぞっ。てやんでえっ、なんで迷惑被ったこっちが気を使って正確に表現しなくちゃならねえんだっ、しゃらくせえっ」
仙蔵は桶屋の捲くし立てる猛烈な勢いに押されながらも「それは嫌です・・・」と静かに椅子に座った。
桶屋が頭を掻き毟っていると、親父は「申し訳御座いませんっ」と頭を何度も下げて引っ込んで、すぐにかけそばを持ってきた。
「すいません。旦那のもすぐに新しい物を持ってきます」と桶屋に侘びを入れると、「もういいよこれで。馬も牛もどっちも、でえ嫌えだ・・・馬鹿馬鹿しい」と桶屋の怒りもだんだんと治まり、ふて腐れて椅子に腰掛け荒ぶる鼻息を整える。
がらりと蕎麦屋の戸が開き、町役人が入ってきた。
「おう、表まで大声が聞こえたが、揉め事か?」
蕎麦屋の親父は役人に頭を下げた。
「いえ、なんでもございません。ちょっとした手違いがございましたもんで、奉公人を叱っておりました・・・」
役人は蕎麦屋の中を見渡すと、「あんまり叱ると、逆上して蹴飛ばされるぞ」と親父に釘を刺して出て行った。
「おめえさんのお陰で、どうやら面倒にならずに済んだ。ありがとよ・・・」
桶屋は照れ臭そうに伸びた蕎麦を啜る。
仙蔵はいえいえと一緒になって蕎麦を箸で摘まんだ。
知らぬ者とはいえ怒った後、無言でずるずると食べ続けるのも辛くなったのか、桶屋が仙蔵に話しかける。
「さっきの続きだけどな・・・」
「なんでしたっけ」と仙蔵は箸を止めた。
「桶屋が儲かるって話さ」
「ああっ、そうです。なんだって儲かっているのに納得いかないです?」
桶屋はずずっと、最後の蕎麦を食べ終わると、ごっつさんと箸を置いた。
「いやな、小さな桶が売れるんじゃなくて、漬物を商うような大きな樽ぐれえのが売れるんだ。なんでか分かるか?」
仙蔵は桶屋が山菜蕎麦を注文したことから、「飢饉で保存の利く漬物が売れるから?」と言うと、桶屋は首を振った。
「江戸でも行倒人やら病人があんまりにも死ぬんでな、その棺桶って訳だ・・・桶屋のおいらが三倍儲かるってことは、棺桶作りが間に合わねえってぐらい人が死んでいるって事だ。ひでえ処じゃ、漬物を取り出して、そのでかい桶の中に放り込むって話だ。更にひでえのは、墓場に埋められたばかりの棺桶を暴いて、桶だけ盗んできやがるって話もあるぐれえさ。それじゃああんまりにも不憫だと思ってな、急遽棺桶作りを引き受けた。そんでまた、材木が足りなくなったときたから、その調達に木曾の材木を仕入れに行くって訳だ。死人が増えて桶屋が儲かるなんて、なんとも言えねえ話だろう。全く世の中どうなっちまってんだか、人の不幸で忙しいってのも、やるせねえよ・・・」
仙蔵も腕を組み、眉間に皺を寄せて前かがみになった。
「なんて言っていいんだか・・・江戸では墓場を暴いて罰(ばち)は当たらないんですか?」
「そりゃ、役人に見つかりゃぁ重罪だ。でも、罰(ばち)ってなると、世の中分からねえもんで、そういった連中に必ず当たるってもんでもねえ。死なねえで、大手を振って歩いている奴もいるしな・・・」
桶屋は「やんなっちまうよ」と溜息を漏らし、厨房に向かって声を上げた。
「お~い、親父。蕎麦湯くれ」
親父は顔を出して「へい、ただいま」と土瓶を持ってきた。
「馬、じゃねえ、やたらと長げえのはどうした・・・」
桶屋に言われて親父は奥に顔を向けた。
「へい、奥ですっかり反省しております・・・」
「そうか、もう少し笑えば顔が縮むって言っておけ。それと、この蕎麦湯も金を取るのか?」
親父は「滅相も御座いません。どうぞごゆるりと」と頭を下げて引っ込んで行った。
桶屋は土瓶の蕎麦湯を湯のみの注ぐ。
「お前さんもどうだい?」と土瓶を差し出した。
仙蔵は頭を下げて、蕎麦湯を注いでもらう。
「だから、旅と言っても楽しむって感じでもねえ・・・さっきも言ったが、江戸へ行っても大変だぞ。御伊勢参りときたら尚の事。そう言えば。去年の九月頃、伊豆帰りの材木商の話じゃ、大潮と台風がかち合って、東海道の二川宿辺りも相当流されたって話だ。それに加えて三河でも一揆だっていうじゃねえか。無宿もんも増えて危ねえからあんまり勧められねえ。金を持っている旅の連中は、真っ先に狙われるからな」
桶屋の話を聞けば聞くほど、仙蔵は気鬱になって懐に不安が過(よぎ)る。
「ちょっとお訊ねしますが、江戸から伊勢まで幾らかかりますか?」
桶屋は蕎麦湯を飲みながら、少し考えて「そうさなぁ・・・こんな時分じゃなけりゃ、只で泊めてくれる所もあるらしいが、今は少ねえだろう・・・。宿賃も倍近くだし、往復で考えると、最低でも二両、いや、三両は必要かもしれねえ。それでも、足止喰らわなきゃだけど・・・」
仙蔵は頭が重くなって無言で湯飲みを見つめていると、桶屋が「どうした、顔色悪りぞ」と気遣って覗き込む。
「そんなにかかるもんなんですね・・・」
「今は殊更物騒だからな・・・もし困った事あったら木挽町の桶屋忠兵衛を訪ねてくれ。しばらく江戸には戻れねえから、幸太郎に教えられたっておいらの親父に相談してくれ。先を急ぐから、これで失敬する」
幸太郎と名乗る桶屋に「申し遅れました、おいらは仙蔵と申します」と頭を下げると、
「覚えておくよ。おーい、勘定頼むぜ」と奥に向かって呼びかけた。
親父が手もみをしながらやってきた。
「御一緒ですか?」
「ああっ」
桶屋の幸太郎が懐から財布を取り出す。
仙蔵は「いいえ、一緒じゃありません」と親父に言うと「いいじゃねえか。おいらはお前さんに助けられたんだから払って当然」と立ち上がる。
「〆て五十文でようございます」
「五十三文だろう」
幸太郎は、そうだろうと親父の顔に目やると、「いえ、先程うちの女中が粗相をしましたから、切りの良いところで」と断った。
「そいつはいけねえ。騒いで負けさせたみてえだから、ここはきっちり払う」と台の上に銭を置く。
「江戸も大変だから困ったら、きっと木挽町の桶屋忠兵衛を尋ねるんだぜ」
幸太郎は振分け荷物をさらりと肩にかけ、菅笠をぱっと被ると颯爽と蕎麦屋を後にした。
仙蔵は支払いの礼も間々ならぬ速さに後を追い、蕎麦屋の入口から声を上げた。
「ありがとうございますっ、道中、御無事でっ」
幸太郎もその声に振り返って手を振った。
「おめえさんも無理すんじゃねえぞ~っ」
仙蔵も蕎麦屋に長居は無用と、荷物を纏めて往来に出て先を急ぐ。
旅に出る前は、まるでこの世から逃出す気分だった。
慣れ親しんだ山々や人。故郷への名残り惜しさは捨て切れないが、只ひたすら江戸を目指す事で望みが湧き、そして、新たな出会いが心強くさせた。
第ニ部(19)へ続く・・・