増税、還元、キャッシュレス。 そして明日は、ホープレス。

長編小説を載せました。(読みやすく)

【 死に場所 】place of death 全34節【第一部】(14)~(15) 読み時間 約13分

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   (14)

 仙蔵は独り小屋に取り残され、村にも帰れない。

風が強く吹き荒み日が没すると、より冷えてきた。小屋に入るが窓からは風がびゅうびゅうと入ってくる。行灯もなく頼りは月明かりだけだった。

当然、布団などもなく埃の被った筵を体に捲きつけて寒さを忍ぶがそれでも足りない。

小屋の奥の薪や破材を取り出し、土間で火を起こすといくらか温かくなる。

焚き火に手を翳し擦り合わせると、いくらか気分も落ち着いてきた。

 火の中に、血を流して自分を睨む猪吉の顔が浮んでくる。

猪吉の言い分は常軌を逸している。仙蔵は村を飢えさせないために蕎麦を買いに行ったり雉を取ったり、できる範囲でやった事。

それが気に入らない、皆と楽しく暮らしていくことがそんなに気に入らないのか。単に、酒宴で漏らした一言にすぎないじゃないか・・・。

猪吉を殺そうとしたから、戻ったら村八分になるか、猪吉を追放して、代わって名主になって借金を背負うか・・・。

 でも、順番を考えれば、助役か、百姓代の松次郎が次の名主となるのが筋だ。

なんとか口実をつけて、おいらを貶めたいんだろう・・・。

仙蔵は八方塞の状況に固く目を閉じ、膝と膝の間に頭を突っ込んで身を丸めた。

 

 寒さで目が覚めると、夜が明けていた。

食うものもなければ、銭もない。それより動く気力さえなかった。

目覚めと同時に昨日の一件が甦ってくるから、溜息ばかりが漏れてくる。

一度は起きたものの、仙蔵は再び筵に包まって横たわる。

どうにもならねえ・・・。

そう呟きを繰返すうちに再び眠りについた。

 

 ががっと大きな音と共に光が差し、仙蔵は目覚めた。

眩しさに目を細めると、「おいっ、飯だっ」と握り飯が入った竹包みを投げて寄こした。

「逃げるんじゃねえぞっ」

辰次の手下の一人は、そう良い残すと戸を閉めて行った。

仙蔵は昨日の朝から飯を食っていなかったが、食欲すら沸かない。

辰次の手下が、これからも握り飯を持ってきて放り込むのか。食わねば死ぬ。

いずれ、餌を欲しがるようになるのか。死ぬまでずっと幽閉され我を失うのか。

仙蔵の体が震え出す。再び身を丸めるが落ち着かず、横になって筵を被る。

目を閉じれば、血を流した猪吉が目に浮び、同時に訳の分からぬ罪悪感にも苛まれる。

頭が割れるように痛い、気分も悪い。更に固く丸くなって耐えていると気が遠のいた。

 夜になると、牢に繋がれ獄門を申し渡されるんじゃないか、このまま餓死してしまうような妄想に取り付かれる様になる。

疲れ果て気を失うように眠り、夜中であっても目を覚ますことを繰返す。

翌日の昼も、一日一度、辰次の手下が飯を放り込む。

 

 これが四日続いた昼も、辰次の手下が握り飯を放り込んで行った。

仙蔵は食欲がなく、床の上に包みを置いたまま。くすぶる煙が立ち上る様子に目を落としていた。

がさがさと小屋の裏手で音がし、手下が戻って来たのかとごろりと背を向け横になる。

「仙蔵か?おいっ」

その呼びかけに仙蔵は窓に顔を向けた。

松次郎が顔の半分ほど覗かせている。

身を起こすと、松次郎が更に呼びかける。

「仙蔵なんだなっ、大丈夫かっ」

「うん・・・」

飯も食わず、思うように動かぬ体に力を込めて立ち上がり、戸を開けて外へ出た。

松次郎は目を丸くして驚いている。

「閉じ込められているんじゃねえのか?」

「出入りは自由だ・・・」

仙蔵は眩しさに手を翳して松次郎を見つめた。

「げっそりしてるじゃないかっ」

髭も伸び髪もぼさぼさの仙蔵は、事の経緯を話すため、小屋の中に松次郎を導いた。

「さっき来た手下が猪吉の家から出て行くのが見えたんで後を付けて来たんだ。それにしても、ひでえな・・・」

 松次郎は小屋の中を見渡すと驚いていた。

「飯は食っているのか?」

「一日一回、手下が握り飯を持ってくるが食いたくない・・・」

仙蔵は置いたままの竹包みに目をやりながら力なく座り込み、猪吉の事や岡っ引きの辰次について話を始めた。

 

 松次郎は仙蔵から半時に亘って状況を聴き続け、大きく息を吐いた。

「猪吉は普通じゃねえな・・・」

松次郎は仙蔵をちらりと見た後、俯いて辺りに目をやり目頭に指を当て固く目を瞑る。

仙蔵は五日も考え続けても、八方塞の状況を変える手立ては浮かばない。

松次郎もかける言葉が浮ばず、長い沈黙が続いた。

「松さん、おいらはもう・・・このままここで死ぬか、猪吉と刺し違えるしかねえと思う・・・」

松次郎は眉間に皺を寄せて仙蔵を睨んだ。

「何て事を言うんだっ」

「もう無理だ・・・村へ帰っても猪吉の恨みは尋常じゃない。名主を降ろしたとしても借金を背負わされる。うちには銭なんかねえ・・・。どのみち、おいらが死ぬか、猪吉が死ぬかだと思う。猪吉はそれほど憎んでいる、おいらも・・・」

松次郎は腕を組んで頭が床に着きそうなほど前かがみになった。

「まあ、そう早まるな・・・」

「早まっているんじゃない、もう疲れた・・・松さんに会っているのも辛くなる」

松次郎は苦しそうな顔を上げ「どうしてだ」とうなるような声で仙蔵を見る。

「岡っ引きの辰次は、おいらが小屋を抜け出したら、松さんもただじゃおかねえって脅されている。誰にも迷惑かけたくねえ。だから・・・」

「だから、死にてえのか?」

「死にたいって言うより、迷惑かけたくない・・・」

仙蔵はゆっくりと横になって上を向いた。

松次郎は頭を掻き毟り、額を手で覆う。

「俺が思うに、猪吉はただ単に憎い訳じゃねえ。怖えのかもしれん」

「おいらが怖い?」

「それだけじゃない・・・お前さんがいない間に聞いたんだが、猪吉の倅の亀太郎は流行り病らしい。跡継ぎが病じゃ気が気じゃねえ。それも三月ほど前に血を吐いて医者にみせて分かったらしい。そんな折に、お前さんが蕎麦の買い付けに行って皆に喜ばれていただろう。親とすれば、本来ならそういった事の一切を、跡継ぎの亀太郎に任せたかっただろうよ。お前さんと大して年も変わらんから余計に目に付くし較べてしまう。それに、猪吉自身が言った通り、相当しんどいんだろう。寅吉や宗八、他の村の者に金を貸したはいいが、飢饉に一揆、それと年貢と過料が一気に圧し掛かると言うより、襲い掛かられたようなもんだから、偶然の積み重ねと理不尽さに耐え切れなくなった。だから、お前さんという人間が嫌でも目に付く・・・」

「それを八つ当たりって言うんだろう・・・おいらがぴんぴんしている事も気にいらねえって言ってた」

仙蔵は天井を見つめるのを止め、目を閉じた。

 松次郎は仙蔵の様子を伺うと、また深い溜息を吐く。

「いざとなれば、わしが代官に仲裁を求めに行く」

「仲裁したって表面だけだ。どのみち、あの憎しみは異常だ。亀太郎が死んだら尚更だ・・・正気の沙汰じゃない。どうせ死ぬなら、猪吉と刺し違えてやる・・・」

「落ち着けっ。もう少し待ってくれ。一応、わしは百姓代だ。名主だけでなく、公平に村民を監督しなければならん。だから、他に手はねえか考える。とにかく早まるんじゃない・・・」

松次郎は夕飯を持ってくるからと言ったが、仙蔵は食べていない握り飯を食うと断った。

「飯だけはしっかり食うんだぞ・・・」と言い残して松次郎は村へ帰って行った。

 

 再び独りになった仙蔵は、猪吉は松次郎の動きを見越しての事だと考えた。

猪吉は、俺が名主を降ろされるか、おめえが名主になるかと言っていた。

それは、松次郎が代官所に届け出て初めて、代官の裁量によって新たな名主の選出方法が決まる。

猪吉は本気で名主を降りたがっている反面、女房子供の事、借金や小作となった者からの逆恨みも恐れている。おいらが悪党と繋がっているとかの罪で下手人となって、村八分になれば村人への脅しにもなる。そうなれば、猪吉への反発心は薄まるかもしれない・・・。

 理由は定かではないが、辰次は猪吉が名主であることが都合が良いらしい。

辰次は岡っ引き。その岡っ引きを束ねるのは、恐らく同心か与力、もしくは陣屋の手代。

役人にしてみれば、猪吉に金を貸している都合、猪吉の没落は貸し倒れとなりかねない。

それを恐れるなら、役人達は猪吉を守るだろう。

仙蔵は名主になる気もないが、罪をでっち上げられるのも時間の問題だと、行く末に絶望する。

松次郎が必死に打開策を考えてくれているだろうが、仙蔵自身が考えても無理だという結論しか出てこない。

もう、手詰まりだ・・・

 

 翌日の昼、小屋に近づく人の足音がした。仙蔵はそば耳を立て、松次郎か辰次の手下か神経を尖らせた。

ぞんざいに戸が開け放たれると、「ほらよっ」と大して仙蔵の顔も見もせず、飯の入った包みを投げて寄こし、再び戸は閉められた。

辰次の手下の様子からして、松次郎は昨夜、猪吉とは会っていないように思われた。

餌を与えるかの様に手下に投げられた飯を無視して横たわる。

ここにいたら一生、野良犬のように扱われる・・・

 仙蔵はままならぬ状況に息が詰まりそうになり、戸を開けて外に出た。

外は日の光が天高く輝き、があがあと鴨の鳴き声がのどかに聞えてくる。でも、それがなんの慰みにもならない。

薄暗い小屋の中で寝ようが、天日に晒されて寝るのも同じだと、外に筵を引いて横になった。

死んでもかまわないと、ごろりと横になると目を見開いた。

冬であっても地熱も相まって、意外に暖かい事を知る。

そのまま目を閉じると、眩しい光が和らぐ。

もうどうにでもなれ・・・いっそこのまま目覚めなくてもいい・・・。

そんな心持で寝入った。

 

 小一時間程の後だろうか、仙蔵は大声で名を呼ばれ、揺り起こされた。

「おいっ、仙蔵っ、死んでんのかっ!」

はっと目を覚ました仙蔵は、松次郎に抱きかかえられていた。

「松さん・・・死人は答えないよ」

「うるせえっ、生きているから答えるんだろうっ。こんな表で筵に転がっていたら何かあったって思うじゃねえかっ」

松次郎は目を真っ赤にして、唾を飛ばしながら怒鳴りつけた。

「意外と外の方があったかいんだよ」

仙蔵は目を瞬かせて起き上がると、「びっくりさせやがってっ」と松次郎もその場にへたり込んだ。

「夕飯と半纏(はんてん)。冷えると良くないから着替えやらを持って来た。日も傾いてきたから、中に入ろう・・・」

松次郎は持って来た風呂敷包を小屋の中に入れた。

仙蔵は松次郎が心配して来てくれたのは有りがたかったが、気鬱で体が重い。

やっと立ち上がって筵に付いた土を掃って中に入る。

松次郎は小屋での生活が辛かろうと、鉄瓶も持ち込んだ。

「水じゃあったまらねえから、茶でも入れようかと思ってな・・・」

松次郎は土間の焚き火跡を見て「ここで火を起こしてんのか?」と聞き、仙蔵がだるそうに「うん・・・」と返事を返す。

松次郎は火を起こし、鉄瓶を仙蔵に見せた。

「水はあるんだろうな?」

仙蔵は力なく顔を上げ、「裏に沢があるから汲みに行ってくる」と言うと、松次郎は「わしが行く」と出て行った。

親のように世話を焼いてくれる松次郎やお勝さんを巻き込めない。そして、申し訳ない、済まないと心の中で念じる。

 松次郎が鉄瓶に水を汲んで戻ってくると、仙蔵は「済まない、面倒かけて」と頭を下げた。

火の上に鉄瓶を乗せると松次郎は顔を顰めた。

「なんだ改まって。お前さんに非がある訳じゃねえ、気にすんな・・・まあ、茶でも飲もう。あれっ」

松次郎は荷物を調べると、ないないと言い出した。

仙蔵は自分の事で頭が一杯で、余り気にかけていなかった。

松次郎は額に手を当て、一人で落胆する。

「あーっ、肝心の茶を忘れた・・・」

「別にいいよ・・・」

「いい訳あるか、せっかくこんな重たい物を持って来て骨折り損だ、良い茶があったんだ。それを一緒に飲もうと思って、なんてこった。また、明日だな。お湯でも体が温まるから。あれっ、湯飲みもねえのか?」

仙蔵はこくりと頷いた。

「どうやって水飲んでいたんだ」

「手で汲んで・・・」

松次郎はうーんと唸り、辺りを見回す。

「あんまり来ない方がいいよ・・・」

仙蔵は誰かに見られる様で気を揉んだ。

松次郎は仙蔵に顔を向け、一旦息を整えた。

「こんな処にいつまでも置いておけねえ。もうかれこれ七日か、毎日連れ出された日も入れたら十五日ぐらいだろう。なんとかするから待ってろ・・・」

「無理だよ。猪吉だけじゃない、役人だっているんだ」

仙蔵は窓の外が赤くなるのを見て「そろそろ帰った方がいい。おいらは・・・」と言いかけたまま横になった。

松次郎は何か声をかけようと思ったらしいが、膝を叩いて立ち上がった。

「・・・また来るが、飯は食え。じゃあ、温ったかくしてな。病も流行っているから」

仙蔵はか細い声で「ありがとう」と言うと、松次郎は振り返りながらゆっくりと戸を開けて出て行った。

 

   (15)

 翌日、昼を過ぎても辰次の手下は現れなかった。

その後まもなく、静かに戸を開ける音。

仙蔵は入口に目を向けると、「元気か・・・」と松次郎が入ってきた。

「まだ、辰次の手下が来てない。そろそろ来てもおかくしないから手下が帰るまで隠れていた方がいいよ」

 仙蔵は松次郎と入れ替わりに、外に出て様子を窺っていると、「その事だったら心配はいらん。とりあえず、中に入ってくれ」と松次郎は荷を置いて座った。

仙蔵は小屋の中へ入ると、松次郎は風呂敷から弁当と湯飲みを取り出して仙蔵に渡した。

 松次郎は鉄瓶に水を汲んで戻ってくると火を起こし、そのまま煙草にも火種を付けた。

ふうと煙を吐き、一息付いてから「お前さんもやれ・・・」と煙管を突き出した。

仙蔵はどういう経緯かも分からぬまま煙草を吸おうか迷っていると、「落ち着くから吸え」と今一度突き出した。

しぶしぶ仙蔵は受け取って吸い込むと咳き込んだ。

「久しぶりに煙草を吸うとむせる・・・心配いらないってどういうこと?」

松次郎は、仙蔵から煙管を受取るともう一度吸い込んでから話を始めた。

「今朝、猪吉の家に行ってきた・・・」

松次郎は、怪我をした猪吉に仙蔵から全て訊いたと伝えた。

 

 抱えている借金や年貢の課料金、倅の亀太郎の事。また、仙蔵への仕打ちに言及した。

松次郎は猪吉にも同情していると告げ、今後、仙蔵との取り成しをしても、恐らく双方引く事はない。

 そこで、松次郎は仙蔵が江戸に出稼ぎに行く事にし、しばらく距離を保ってはどうだろうと提案した。

江戸に行くにも役人の取締りが厳しいから、通行手形の手配をしなければならない。

猪吉の合意がありさえすれば良い。だから、岡っ引きの辰次たちにも仙蔵から手を引くように告げたという。

 最後に、もし提案を受け入れなければ、石和ではなく甲府代官所に猪吉が不当に仙蔵を監禁し、濡れ衣を着せたと訴え出るつもりと付け加えた。

 すると、猪吉も倅の亀太郎の病状も良くないことから納得したという。

 

 「だから、お前さんはこんな処で死ぬ事はねえ。仙蔵の死に場所はここじゃねえんだよ。馬鹿馬鹿しいじゃねえか、単にお前さんが嫌いだという理由で死ぬ羽目になるんじゃ、おとっつあんもおっかさんも浮ばれねえ。どうせ死ぬなら思う通りの事をしてからでも遅くはねえ・・・」

 仙蔵は大きく息を吐き、松次郎の顔を見つめた。

「思う通りの事って言われても、何も考えられないよ・・・村から出たことねえし」

「何でもいいじゃねえか、例えば、江戸の町を見るも良し、伊勢詣りに行くも良しだ。風の向くまま気の向くまま、好きな事をしてみれば良い。いずれわしもお前さんも死ぬんだ」

「でも、田畑や家を放って行く訳には・・・」

仙蔵は急な話で迷ってしまう。

 松次郎は鉄瓶からしゅうしゅうと蒸気が上がる様子を見て、手元に置く。

水差しに入った水を鉄瓶の中に入れくるくると回し、懐から袋を取り出して茶を入れた。

煙草を一服してから、自分と仙蔵の湯飲みに茶を注いで渡す。

「ほら、飲め。お勝が作った弁当も食ってくれ・・・」

 仙蔵は茶を一口啜っただけで、床に置いた。

「田んぼと家は、わしが借りる事にする。その借り賃だが、これでどうだ」

松次郎は懐に手を入れ、服紗を取り出し仙蔵の手前で広げた。

「五両ある。これでお前さんの田畑を貸してくれ・・・」

仙蔵は金を見てすぐに服紗を閉じる。

「駄目だよ、うちの田んぼにそんな価値はねえ・・・松さんだって大変なのに」

「いいんだ、うちはなんとかなる。この金があれば、何処へだって行けるだろう。伊勢は厳しいかもしれんが」

松次郎は煙管の煙を潜らせて、気恥ずかしそうに微笑んだ。

「本来なら、仙蔵が出て行く云われなんてねえ。だけど、この村だって来年も冷夏になった時にはどうなるか分からん。せっかく、大変な思いをして蕎麦の実を買って来てくれたんだ。その礼もしてなかったし・・・」

仙蔵は首を振って、包戻した袱紗を松次郎に手渡す。

「そんなの当たり前じゃないか。みんな困っているんだ。おいらだってあれがなくちゃ、飢え死するかもしれない。松さん、気持ちだけで十分だ。だから納めてくれっ」

 松次郎も受取ろうとはしない。

「わしはお前さんを息子の様に思っている。知っての事だが、うちの赤ん坊は三人ともに死んでしまったから尚更、あいつらの分まで生きて欲しい。仙蔵までもが死んでもいいなんて言われたら、また子供を失うようで身が裂かれるように辛い。叶うもんなら、伊勢詣りでも江戸でも全国行脚して、赤ん坊や騒動、天災で死んだ者らを供養してやりてえ・・・それもあって、お前さんに頼みたい・・・。とはいえ、五両ばかりじゃ全国は廻れねえ。お前さんは、またこの村に戻って来よう来まいが気にすることたぁねえ。おやじさんとおふくろさんの位牌は、わしが守る」

 松次郎の子供の供養と言われては、仙蔵も断る訳にもいかない。

俯く松次郎の鼻を啜る音があばら屋に響き、煙管をぐりぐりと握っている。

「でも、こんな大金もらえないよ・・・」

仙蔵が戸惑っていると、松次郎は入口に顔を向け鼻を啜る。

「いいんだ、わしがしたかった事をお前さんにやってもらいてぇ・・・そして、十年いや二十年先でもいいから、いつか話を聞かせてくれ」

仙蔵は松次郎の丸めた背中を見つめながら、済まないと心の中で謝る。

「分かった、松さんのために供養してくる・・・」

松次郎は鼻を啜り上げると振り返った。

「ああっそうだ・・・出稼ぎを理由にするより、供養と五穀豊穣祈願の名目で、猪吉に巡礼なんかに使う往来手形の届けを書かせよう。なんなら、伊勢詣りに行ってくるか?そうすれば、どこへだって行ける」

仙蔵はこくりと頷いた。

「それがいい・・・」

松次郎は自身に言い聞かせるように呟く。

 火の上の鉄瓶がかたかたと蓋を押し上げ、しゅうと蒸気を上げる。

その音が、松次郎の鼻を啜る音を隠し、また、仙蔵も目頭を抑え堪え切れずに漏れてしまう声もまた掻き消した。

 松次郎は立ち上がり、「これから猪吉んとこへ行って届けを書かせる。茶を置いていくから飲め。それと、往来手形は三日ぐらいかかるかもしれねえから、ここは寒いし汚ねえから一緒に村へ帰るか?」と仙蔵の顔を覗く。

仙蔵は少し考えた後、「他の人に詮索されるのも嫌だから、ここにいる」

「そうか、じゃあ、また明日飯を持ってくる」

松次郎は溜息と共にうなづいて小屋を出て行った。

 

 独りきりになると、鉄瓶の蓋が小刻みに音を立てる以外静まり返り、がらんとした寂しさと何もない不安に包まれる。松次郎の置いていった服紗を広げ小判を握る。

「伊勢と江戸・・・」

どちらも見知らぬ土地、双方共に知り合いもいない。

村に残りたいのはやまやまだが、それもできない。

未知の土地への不安から、ここに留まろうとしているに過ぎない。

松次郎が言っていたように、ここを死に場所にしてはいけないんだと言い聞かせる。

「辛いまま死ぬんじゃ悔しいじゃないか、死ぬ場所ぐらいは自分で決めよう。こんな汚い場所じゃなくて・・・」

ふと、おさよの顔が甦る・・・。

 

 仙蔵は目を開け、天井を見つめた。

楽しい事、行ってみたい所、見物に出かけたい所を頭に描こうと切り替える。

腹がぐうと鳴り、弁当の蓋を開けた。

薄黄色の鮮やかな卵焼き、そら豆ご飯に漬物が添えられてあった。

金子だけなく、卵も貴重なだけに、お勝が弁当をこしらえる姿が眼に浮ぶ。

そして、亡き母親の姿とも重なる。

 

おっかあもおっとうも、おいらが死にてえなんて言ったら、身を裂かれる気分なのか・・・。

身を裂かれるってどんな気持ちなんだろう。

おっとうが苦しんで死にたいって言ったら、おいらは子としてその苦しみをどうにか取り除いてやりたいと思う。それでも、死にたい気持ちが治まらなければ、今度はおいらは自分を責めるだろう。現に何も役立てず、不甲斐ないと思った。

 でも、どうにもできなかった。おっとうはおっかおが死んでから、悲しみに暮れていた。

仙蔵自身も辛く、それを和らげる術が見出せなかった。悲しみが癒えぬまま、おっとうは体を壊して亡くなってしまった。

苦しみが強ければ強いほど、見守る側は早くなんとか楽にしてあげたいと思う。

それがままならぬ時、喪失と自分の至らなさを責めてしまう。

 いくら血を分けた親兄弟であっても、身も心も別人だ。起る出来事も考えも違う

別の人格。

身近な者であればあるほど、簡単に自分とは別であると割り切れない葛藤。

おっとうの死も、おっかあの死も、おいらの死ではないが、残された者はもっと何が出来たんではないか。また、どうして死ななければならないんだと、後悔とやりきれなさは強く残り続ける。

 これが親の立場とすれば、特に母親は子を生むから、父親より尚更、自分の分身、体の一部の様に思うだろう。

仙蔵はそう考え進め、松次郎の心を慮るが、子供がいない今は満足な想像すら出来ない事に至る。

それと似た様なもので、身近な人であっても自分の問題ではないから、他人の思いは正確には分からない。また、苦しみを代わって引き受ける事もできない。

 

 仙蔵は親族がいなくとも、松次郎の様な親しい他人にも強い影響を与える。

対して、心底仙蔵を憎む猪吉からすれば、仙蔵が消えることが自身の安泰を実感するかもしれない。

仙蔵は猪吉の顔が目に浮ぶと、それも違うと首を振った。

猪吉の保身の為に命を絶って消える事も、刺し違えて死ぬ事も、どっちも正しいとは思えない。

とはいえ、村を離れ、全ての事柄を自身から切り離す事は、自分を否定するようでもある。

しかし、留まる事は自身を消滅へと追い込んでしまいかねない・・・。

 握っていた金子を見つめると、松次郎に言われた言葉が甦る。

思う通り、したい事をして死ねと・・・。

五両もの大金。松次郎としても大金に変わりない。

松次郎の精一杯の気持ち、明日をも知れないこの御時世。他人の松次郎までも巻き込んでしまっている。

仙蔵は受取れないと心が傾く。全てを自身から切り離すためには、松次郎の有り難い気持ちも切り離さないといけない。

村を出るにしても、それがけじめだと考える。

思う事をして、好きな場所で死ぬ為には・・・。

 

                              (16)へ続く。