増税、還元、キャッシュレス。 そして明日は、ホープレス。

長編小説を載せました。(読みやすく)

【 死に場所 】place of death 全34節【第一部】(3)~(4)読み時間 約10分

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川崎市立民家園)

  (3)


 全国的に大飢饉が続く中、甲斐に隣国の商人が現れた。
商人等は相場よりも高値で米を買い集めた為、甲斐から米が流出した。
当然、米価は高騰。
 甲斐都留郡(大月市周辺)では三年以上続く飢饉で多くの死者が出ており、これが更なる追い討ちとなった。
食うに食われぬ百姓農民は座して死を待つより、強訴してでも米価を引き下げてもらおうと企図した。
 

   そして、天保七年八月二十日。
都留郡の犬目宿の百姓代・兵助と下和田村の武七が一揆の頭取となり、米を買い占める商人に対し強訴しようと決起。
   道中、一揆勢は幾つもの支流が合流するが如く膨れ上がった。
土地の百姓だけでなく、無宿人や無頼の悪党も加わると、気勢に変化が生じる。
 当初二日間は、火を付けたり暴力は振るわない等、規律を持った回状を近隣の村に出し、その合意の元に始まったものだった。
悪党無宿らが混在すると、一揆勢は、米を囲い江戸に流していた商人宅の蔵屋敷三十棟を一斉に打壊した。

   当初の発起人である頭取二人は目的を達したとして、兵助は落延び、老齢の武七は出頭した。
 その後、一揆勢の頭取は無宿人がなり、そのまま一揆を続け二手に分かれる。
村や宿場をも打壊し、略奪と放火を行い、進路を甲府方面へと進めた。
急遽、代官所がかき集めた手勢は、凡そ百名程度。

濁流の様に荒れ狂う一揆勢、約二、三千に一蹴されてしまう。
無軌道となった略奪集団は、勢い付いて甲府城下に雪崩れ込んだ。
   恐れをなした幕府の甲府勤番衆は戦いもせず、篭城を決め込む醜態を晒す。
 一揆勢は城下に入ると商家を打ち壊し、借用書を燃やし、金品米を奪った。

  役人共が無力と知れ渡り、各地で一揆打壊しが飛び火した。
総勢一万余人に膨れ上がり、甲府勤番・永見伊勢守は、隣国高島藩に援軍を求め早馬を走らせた。

 仙蔵の村は、一揆勢に炊き出しを行い、打壊しをまぬがれたが、後日、夜中に強盗が押入り、貯蔵米や種籾までを奪っていった。
日頃、陣屋役人らは偉そうに振舞うくせに、一揆の最中は城に立て篭もって村に現れなかった。
天保七年八月二十六日。ようやく、高島藩によって一揆は鎮圧された。

 

 九月に入り、仙蔵を初め村の男衆が、名主の冷嶋猪吉の家に寄合い、来年の田植えや冬を越す為の食料等どうするかを話し合っていた。
嵐のように過ぎ去った一揆の後で、誰も良い案は浮ばす時だけが過ぎていった。
 悩んだ末、仙蔵は冷夏や日照りにも強い蕎麦を植えたらどうかと村の衆に提案した。
百姓代の松次郎も「それは良い」と賛成し、男集も頷いた。
 ただ、問題があった。
名主の冷嶋猪吉は四十六となるが、自分の考えや意見をほとんど言わず、他人の意見を貶すばかりで、面倒は誰かに押し付けて逃げてしまうきらいがあった。
その裏では、陣屋の役人に袖の下を渡して取り入り、不作の百姓に金を貸し付けては、
わずかな田んぼを担保に取り上げ小作にし裕福になったと、一部の村人は噂し、陰で誹謗した。
   猪吉に借りがある村の半数近くの者は、その顔色を窺って生計を立てるしかない。

   甲斐の各地で起った一揆に参加することは、猪吉と役人にとって都合が悪い。
猪吉は、一揆勢が村に押かけた時は炊き出しを行い、被害が出ないように手を打った。
幾度か一揆勢が村を通りかかった時、行動を共にしようと誘われたが、猪吉はのらりくらりとかわして一揆に加わらなかった。
 結果的に一揆は鎮圧されて良かったが、村の備蓄米を炊き出しに使ったものだから、今度は自分たちの米が心配になり始めた。その上、強盗が追い討ちとなり更に深刻になる。
猪吉は、この状況でも村の長としての責任をのがれようと、百姓代の松次郎など、名主の補佐役の佐平が早く言わなかっただの、陣屋の申付けだのと人のせいにし、一部の村人は尚更良く思っていなかった。

   蕎麦の実を仕入れて育てるという仙蔵の提案に、皆も同調の雰囲気となったが、猪吉だけは面白くない。
小太りで右目の目尻にある大きな泣き黒子を上下に動かし怒らせる。
「へんっ、種籾すら奪われているのに、どっから持ってくんだっ。飢饉続きで蕎麦だって高騰してんだろうっ」
「猪吉さん、そうかっかしなさんな。村で貯めた金がある、その金で買付に行けば良い。さて、どこで買うかだ・・・」
 松次郎は猪吉よりも一つ年上の四十七。開村時、近辺の開墾に尽力した家柄で百姓代を勤めていた。村人の信頼は高く、村の米、作物、金銭管理、名主の不正監督を担っていたが、猪吉の役人への根回しの良さもあってか、最近では軽んじられていた。
とはいえ、金銭に関わる事であると、背の高い松次郎は猪吉を見下ろして宥め、仙蔵に目を向けた。
 仙蔵は松次郎を初め、皆に訴える。
「信州に行って二、三表買ってくればなんとかなる。猪吉さん、信州へ行く手形を書いて、陣屋の許しをもらって下さい」
「駄目だっ」
「どうしてです」
仙蔵は猪吉に詰め寄った。
一揆で種籾も手に入らんし、あっても高騰しているから、その分の金も残しておかねばならん」
猪吉に借金している、圭助も声を上げた。
「猪吉さん、来年も冷夏だったら本当に食いもんがなくなっちゃいます。せめて、蕎麦を植えておけば飢えません・・・よ」
 猪吉はぎっと圭助を睨む。
「圭助、今のは意見か?駄洒落か?」
「いやっ、まあその・・・」
松次郎が間に入り、 「村の金だ、皆の意見の多さで決めようじゃないか」と提案する。
「なんだって、こんな大事な事を挙手で決めるんだっ。もし、蕎麦が実らなかったらどうすんだっ。絶対に育つって事はねえんだぞっ。誰が責任を取るっ」
猪吉は、言い出しっペは仙蔵だと言わんばかりに睨みつけたまま文句を言う。
「責任を持って、おいらが信州に行ってくる」
仙蔵は名乗りを上げた。
「お前が責任取るって、どうやって取るんだっ。金なんかありゃしねえだろう」
「まあまあ抑えて。どうだろう、蕎麦の実の買付を仙蔵に任せてみては。意見があれば誰か言ってくれ」
松次郎はそう言うと一同を見回し、猪吉以外は誰も文句を言う者はなかった。
「そうか・・・じゃあ、仙蔵。もし、おめえが買ってきた蕎麦が実らなかったら、村八分だ。冠婚葬祭以外は村のもんとの関わりを一切絶ってもらうから、そのつもりでやれ。ふん、一揆なんて起こしても、米の値段は上がる一方じゃねえかっ。余計な事をしてくれたもんだっ」
猪吉は不愉快とばかりに咳払いをし、自邸に引っ込んで解散となった。

 

   (4)


 数日後。
松次郎が、圭助と荷運びの馬を伴って仙蔵の家に来た。
「仙蔵、お前さんに大変な役目を押し付けてすまんな」
信州に行くための通行手形と村の金を仙蔵に手渡す。
圭助の顔色は悪く言葉数も少ない。猪吉から見張るように言いつけられたことが想像できた。
「いいんだ、誰かがやらなきゃなんねえから・・・」
一揆の残党はまだいるから、くれぐれも気を付けて行くんだぞ」
松次郎が見送る中、仙蔵は圭助を伴い、馬を連れ信州に旅立つ。

 

   二人は信州との国境付近の教来石(きょうらいし)宿で、蕎麦の実を探してみたが、一揆の混乱で藩兵が道中を検め、蕎麦どころではない様相。
   宿場の商人に、諏訪の高遠藩は将軍様に献上するほどの蕎麦の産地だと教えられる。
仙蔵たちは甲州道中を北上し、下諏訪の宿場に行ったが、ここでも一揆の余波で高騰し、わずかな村の金では買えなかった。
 そこでまた、佐久地方に行けばあるのではと教えられ、中仙道を西に進みながら買い求めるが、依然村の金で賄えるものではなかった。
 戸隠や善光寺方面にあると聞き、追分宿から北国道中へ。
なんとか買える値段であっても、他の村なども同様の考えで、買われてしまった後だった。
   仙蔵は買付ができなければ、名主の猪吉に村の金を無駄に使っただの、豪遊していただのと難癖をつけられて村八分にされる。
そのため、十日も費やした時間と金の目減りに焦りを感じながら、蕎麦の実を求めて北上した。

 

 蕎麦の実を探すこと十四日、仙蔵たちは善光寺に辿り着く。
善光寺詣をした後、圭助が体調が悪いと言い出し、参拝客のための安宿に泊まる。
   翌朝、圭助が出立できないと言うので、仙蔵は独り馬を連れて戸隠へ向かった。
蕎麦を栽培する村の名主に事情を話し、わずかでも良いから売って欲しいと頼み込む。
 越後や上州などからも蕎麦の実を求めてきたため、一表の半分、二斗だけならということで、なんとか蕎麦の実を買う事ができた。
 仙蔵は急ぎ折り返し、夕方に善光寺の宿屋に戻ると、派手などんちゃん騒ぎが二階から聞こえてきた。
うるさくて圭助が眠れなかろうと容態を心配した仙蔵が二階に上がると、圭助は知らぬ泊り客と一緒になって酔っ払い、半裸姿で両手に扇子を持って踊っていた。
馬鹿騒ぎの先頭になって踊り狂う圭助。
愕然とする仙蔵は、夢か幻でも見ているような感覚に陥った。
 この日の早朝、圭助は腹が痛いと布団の上にうづくまっていたのが嘘だったのか?
仙蔵は買付のことで頭が一杯で、この日も休みなく奔走していたから疲れて幻覚をみているのかと目を瞬かせた。
「みんな~っ、やってるか~ぁ」
日の丸が描かれた扇子をくねくねと振り回す。

酒で顔を真っ赤にしてタコ踊りを数人と入り混じって繰り広げている・・・。
 

 仙蔵は、この時ようやく思い出す。
圭助が猪吉に借金をした理由は、無類の酒好きであったこと。また、普段は気が小さく、酒が入ると人が変わって、誰それかまわず驕ってしまう癖があった。
仙蔵は踊りを止めさせ、圭助の胸ぐらを掴んで責めてみたが、酔っていて話にならない。
 翌朝、仙蔵は圭助に前夜の事を問い質すと、畳に額をこすりつけて謝った。
「もう二度と酒は呑まんっ!このことはどうか、猪吉さんには言わないで下さいっ」
赤子の様に泣きじゃくる圭助に仙蔵は頭を痛めた。
 もし、このことを包み隠さず村の者に伝えたら、圭助一家は村八分では済まされず、村の金を使い込んだとして代官所に連れて行かれるかもしれない。
豊作続きだったら、まだ大目に見てもらえるだろうが、蕎麦の実半表しか買えなかったことからして、自分まで巻き添えになる。
 仙蔵は宿屋で多額の勘定を済ませると、残りわずかしか手元に残っていない。
戸隠で買い付けた蕎麦の代金を書いた証文の他、各宿場で泊まった宿屋の金額も帳面に細かく記載していた。
これまでの旅費から計算すると、二日分しかない。早々に村に帰らなければ、一文無しになってしまう。
 仙蔵は歩調を速め、帰る道すがら、圭助が呑み食いに使った金額をどうしようかと頭を悩ませていた。
圭助はその傍らで「お願えだ、誰にも言わんでくれっ。今後一切酒は呑まねえから。かかあと子供がおるでっ」と、引っ切り無しに懇願していた。
   仙蔵は、派手なタコ踊りをしていたくせにと睨みつけ、少し黙ってくれと言っても、圭助は涙を浮べて訴え続ける。
   仙蔵は半表しか買えなかったことや、帰りの宿、圭助の使い込みの事やらで頭が一杯になり、気疲れしてしまった。
野宿を避けたいがため、約九里の道をひたひたと急ぎ、なんとか上田宿まで辿り着く。
 圭助は「おらあ、野宿する」と言い出したが、仙蔵独りで宿に泊まることも出来ず、宿屋に頼み込んで、農具小屋に泊まらせてもらうことで節約をした。
圭助は事あるごとに「すまねえ、本当にすまねえ」と念仏のように繰り返すばかり。
と言いつつ、仙蔵よりも早くぐうすか寝る有様。
猪吉の差し金の監視役である圭助は役に立たず、かえって仙蔵の足を引っ張った。
 翌朝も足早に帰路を急ぎ、甲州道中に戻ってきた。
路銀は百文足らず、後は村まで夜通し歩くか、野宿するしか術はない。
馬も半表の蕎麦の実を背負っての強行で、言う事を聞かず歩きも鈍い。


 信州と甲州の国境のつた 蔦木(つたき)宿手前で馬が動かなくなり、馬小屋でも良いから寝床を探そうということになった。
しかし運悪く、藩兵が一揆の残党狩りで、宿場の宿屋はすでに満杯。
馬小屋ですら藩の小荷駄隊の馬でひしめき合い、屋根のある所で寝られない。
馬はそんな事はお構いなしに歩くのを渋り、仙蔵を梃子摺らせる。
   宿場役人に事情を話せば話すほど怪しまれ、通行手形を見せても一揆の残党ではないかと疑われた。
 圭助は潔白の身であるのに役人に脅え、ガタガタと震えて言葉にも詰まる。それが為、役人は圭助ばかりを尋問した。
仙蔵は、これまでの道中記録台帳を見せ、事細かに説明し、やっと解放された。
が、外に出れば辺りは薄暗く、細かな雨も降ってきた。
役人に蕎麦の実だけでも濡れない場所に置かせて欲しいと言っても、藩兵の積荷と一緒になりかねないと断られてしまう。役人は仕方ないと、釜無川の橋の袂に道具小屋があるから、そこへ泊まれと許された。動きたがらない馬に干草を分けてもらい、圭助に引かせて行く。
 二人が道具小屋に着くと雨脚が強くなり、馬を外に出しておけず小屋の中に入れた。
「おらが馬の番と荷物を見ている。今日も仙蔵に助けられたから、ゆっくり寝てくれ」

仙蔵は圭介の言葉に気を許し、疲れ果てて横になると、すぐに寝てしまった。

 

   「うわっ、どうしようっ!」
この声に仙蔵は、びくりと目を開けた。
圭助は干草を持って右往左往し、それを蕎麦の実が入った俵に押し当てている。
仙蔵は眠い目を擦って、どうした事だと圭助に聞く。
「うっ、馬のしょんべんが俵にかかっているっ!」
俵を別の場所に動かせば良いにもかかわらず、干草でしょんべんの水分を吸収させようと躍起になっていた。
   仙蔵は慌てて圭助を突き出し、重い俵を移動させた。しょんべんがかかった底の部分を見ると水滴が滴りどうにもこうにもならない。
「すまねえっ、仙蔵っ!まさか、こいつがしょんべんするなんて思わなんだっ。どうしようっ」
「馬が糞尿するのは当たり前だ、お前が馬の番をするって言ったじゃないかっ!」
今日、村にやっと帰れる日なのにと悔しさを堪えきれず、圭助の頭を小突いた。
「痛え〜っ、すまねえ〜っ!」
圭助は頭を押さえてどうして良いのか分からず、干し草を持ったままうろたえる。
「少しは手伝えっ!」
「無理だぁ〜っ、どうすればいいっ、どうしようっ!」
圭助は騒ぐばかりで、仙蔵は早くしないと全部駄目になると俵の紐を解き、濡れた蕎麦の実を外へ掻き出した。
底の四分の一が染みている。俵全体も湿気があり、圭助に外が晴れているか見させる。
「はっ、晴れているよっ」
圭助は半分泣きっ面で笑みを漏らし、何故かほっとしている。
仙蔵は今一度小突きたい衝動を抑え、小屋の筵を日の当たる河原に敷く。
そして、重い俵の端を圭助に持つように言って外に運び出した。二人で筵の上に蕎麦の実を出して乾燥させる。
平らに蕎麦の実を広げるように圭助に言うと、鼻をすすりながら「はい」と言って手伝う。
この作業を昼まで続けていると、仙蔵も腹が減って仕方がない。宿場に行って飯を食う事も考えたが、圭助一人には任せておけず、握り飯を買ってくるように言いつけた。
 走って買いに行った圭助だったが、小一時間経っても帰ってこない。
不安になった仙蔵は、広げた蕎麦の実を一旦小屋に仕舞い、迎えに行こうと準備していると、「迷っちゃった〜ぁ」と握り飯の包みを持って舞い戻ってきた。
おかげで、再び河原に蕎麦の実を広げて乾かさなくてはならず、小屋でもう一晩泊まるはめになった。
 夜も更け、村を出てすでに十七日が過ぎていた。
仙蔵は残りの五十文足らずを握り緊め、村の衆や猪吉にどう説明しようかと眠れなくなってしまう。
問題の張本人は、とっくにぐうすか寝ている・・・。

 

   仙蔵は提灯の頼りない灯りに、記録台帳を近づけて見つめる。
一揆の後で物価高とはいえ、五百文近く合わない・・・。
圭助のイビキが耳に障り頭を抱える。
 仙蔵は収支を合わせるために筆を取り、記録台帳の宿賃などに棒を加える。
   下諏訪宿 木賃宿百十五文を二百十五文。

物価高に付き、宿賃高騰と付け加えた。

飯代、二十五文を三十五文。

   追分宿 木賃宿の後に、注意書きとして、木賃宿に泊まれず旅籠とした。
百二十二文を、二百 二十二文と書き換えた。
全て書き換えてみても二百文近く合わない。
残金が、台帳よりも多い場合は良いが、少なけば猪吉に何を言われるか分からない。
 仙蔵は蕎麦の実の証文に手を加えた。
和紙を石で少しずつ削り、六の上の部分を消して手を加える。
代金、一貫六百二十二文を一貫八百三十三に。
少しいびつだが、雨に濡れたと言えばその様に見えなくもない。
仙蔵は大して眠れぬまま朝を向かえ、圭助を起こして村へと急ぐ。

 

    夕方、仙蔵と圭助が村に着くと、松次郎を始め村人が大手を広げて喜んで出迎えた。
仙蔵は飢饉で蕎麦の実も高騰しており、半俵よりも少ない量しか買えなかったことを告げると、松次郎は「わざわざ買いに行ってくれただけでもありがたい」と労う。
 二人が村へ戻った事を聞きつけた猪吉は仏頂面で現れ、疲れている仙蔵を労ることもなく、「いくらだった。どんだけ、どんだけ買ったんだっ」とその内訳を聞き出そうとする。
 猪吉の言い方に、仙蔵は腹を立てながらも押さえ込み、記録台帳と残りの銭を渡した。
「村の金を呑み食いに使わなかっただろうな?」
猪吉は労う事もせず難癖をつけ、はなっから仙蔵に疑いをかけた。
圭助は二人のやり取りを聴きながら、仙蔵が本当の事を言うんじゃないかと脅えている。
松次郎や他の村人らは、二人を労おうとささやかな宴を開こうと提案した。
 案の定、猪吉がしゃしゃり出る。
「そいつはならねえっ。備蓄米だってあとわずかなんだぞ。今日はもう遅いから寝ろっ。また明日だ」
仙蔵は猪吉に借金などないのに、まるで使用人にでも言うような口ぶり。
予定の半分にも満たない量しか買えなかったことなどもあり、猪吉と目を合わせる事を避け、松次郎は帰ろうと仙蔵に声をかけた。
 松次郎は仙蔵が疲れているだろうからと、自宅で飯を食うように招いた。
松次郎の女房のお勝も、わが子が戻った様に喜んで出迎えた。
「ご苦労だったね。ささっ、早く上がって。飯と言ってもたかが知れたもんだが」
仙蔵は独り身だから自宅に帰っても食う物の用意がない。

粥飯と焼き魚、漬物が有り難かく、先に粥を平らげ、魚をじっくりと味わっていた。
 すると、帰ったはずの圭助が、仙蔵がいる松次郎の家を尋ねてきた。
松次郎の家とあって、圭助は仙蔵に外に出てくるように頭を下げる。
仙蔵は箸を置き、表に出た。
「どうした・・」
「仙蔵、お願いだから猪吉さんには、あの事を絶対に言わないでくれっ」
「分かったから、早く帰って休んだ方がいい。明日、蕎麦を植える手伝いをしてもらうから」
圭助は手拭いで汗を押さえると、背を丸めて夜陰に消えて行った。
 仙蔵が家の中に戻ってくると、松次郎が心配そうな面持ちで覗き込んだ。
「聞くつもりはなかったんだが、圭助の奴なんか仕出かしたんか?」
「まあ、ちょっと・・・」
仙蔵は信頼する松次郎にさえ、具体的なことを言わずに魚を食べ続ける。
「あいつは昔っから唐変木だからなぁ、おめえさんも苦労しただろう・・・」
「でも、無事に帰って来れた」
お勝が、仙蔵に茶を出す。
「明日の朝、自分で飯を作るのも億劫だろうから、泊まってけ」
「ありがとう、でも今日は帰るよ。随分と家を空けていたから」
仙蔵が断りを入れると、お勝は「あんたがいねえ間、この人が掃除をしておけって言ったもんで掃いておいた。なんもなかったからすぐに終わったけど・・・」
「そうだね・・・」
仙蔵はふっと息を漏らし苦笑いをする。
「悪りい事は言わねえから、早く嫁をもらえ。嫁がいれば明るくなるってもんだよ」
「痩せた田畑の百姓の家に嫁なんて来ねえよ。まっ、なんもなけりゃあ片付けるのも楽でいい。おっかあが死んだ後、おっとうはなんもしなくなって隠れて泣いていた。そんで二年後にはおっとうもあの世に追っかけて行っちまった。相当辛かったんだろう、一人ならそんな思いもしなくても済む・・・」
「そら辛かろうが、でも・・・」
お勝は、良かれと思ったことが裏目に出てしまい言葉に詰まった。
 見かねた松次郎は「仙蔵は疲れているんだ、握り飯でも持たせてやれ」と急き立てた。
お勝は膝をさすりながら立ち上がり、炊事場へ向かった。
「すまんな、疲れている時につまらねえ事を・・・」
「もう随分前のことだ。気にしてねえし、それだけ気にかけてくれてんだと思っているよ。そんなことより、明日、蕎麦を植えて早く芽を出させねえといけねえ。松さんも手伝っておくれ」
仙蔵は茶を啜り、笑みを作って明るく振舞う。
「あっ、ああ。そりゃ苦労して買ってきてくれたもんだから手伝うよ。だけど、旅で疲れてんだ、代わりにわしがやろう」
 仙蔵は松次郎が圭助と他の若い者とやってくれたらと思うが、馬のしょんべんに濡れたこともあり、心配で任せっきりにはできなかった。
松次郎に頼んでおいて芽が出なければ、松次郎にまでとばっちりが行きやしなかいかと心は晴れない。
ちゃんと芽が出てくれればいいが・・・。
仙蔵は大量に発芽させ、苗にして植え替えするまでは不安でならない。
「大丈夫、戸隠で栽培方法を聴いてきた。少しコツがいるらしいんだ」
松次郎は怪訝な面持ちで「そうか」と頷いた。
お勝が握り飯を包んだものを持ってくると、仙蔵は有難いとそれを持って自宅に戻った。

 

                     

(5)へ続く。