増税、還元、キャッシュレス。 そして明日は、ホープレス。

長編小説を載せました。(読みやすく)

【 死に場所 】place of death 全34節【第二部】 (24) 読み時間 約10分

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   (24)

 翌朝、明け六つに信一郎は伝造を伴い、内藤新宿を出立。

町奉行所への登所は、八つ時(午前八時頃)だった。

役所の町会所掛の用部屋で、信一郎は上役与力、古参の野本冶座衛門に書類を提出。

その時、他の同心達と一緒に、来月十二月八日を以て、内藤新宿の御救小屋を取払う事が申し伝えられた。

また、信一郎には、代官所と協議の上、十二月三日に取払いを町触として出すよう町名主達に手配するよう命じられる。

 一通りの通達が終わると、野本は顔を顰め気難しい顔で、じっと信一郎を見つめたまま近寄る。

「白沢、御役目大義であった。小屋を引払った後は、再びここへ戻って参れ。あと・・・この前の団子の詰め合わせ、うちの妻が至極喜んでおった。代わって礼を言う」

信一郎としても喜んでくれてほっとすると、野本が他の同心の目を憚(はばか)り「ちょっと」と手招きをして廊下に呼んだ。

「すまぬが、またあれを所望したいので、これでまた届けてくれ。つりはいらん」

野本は用意していた一朱金を財布から取り出し、誰にも見つからぬようにそっと信一郎に手渡した。

「いかほどお持ちすれば宜しいですか」

「先日と同じもので良い。それと、ものは相談なんだが、お主の顔の広いところを見込んで頼みがある・・・」

野本は信一郎に耳を貸すように近づいた。

「内密な話だ。さる大身の旗本様が痔ろうにかかっておってな、どの医者に見せても良くならん。誰か良い医者を見つけて欲しい。わしはこの御方はもっと大きくなられると思っておる。痔が酷くなってから、用を足すのも辛いと食も進まん。万が一の事があってはならんから方々を探しておるが、なかなか良い医者がおらんのだ、頼めるか?」

信一郎は、野本がこれほど気を揉んで焦っている姿は見たことがなく、また、内密な頼み事も初めてで少々困惑する。

「痔ろうでございますか・・・」

「し~っ、声を小さく・・・その御方は痔であることをひた隠しにしておられる。だから、まだ名は明かせん。まずは、口が固い者を連れて参れ」

信一郎は、痔の事で、国家存亡の危機の如く語る、野本の迫り来る真剣な眼差しに、噴出しそうになり、考える振りをしてなんとかやり過ごす。

急ぎ内臓に深い知識を持つ医者に当たってみると北町奉行所を後にした。

 

 昼を過ぎた頃、信一郎は伝蔵を伴い内藤新宿へ戻る。

その足で町名主等を町会所に呼び集めて、今後の町会所での施米の算段の通達など、なかなか多忙だった。

 寄合が終わると、今度は御救小屋へと足を運ぶ。

取払いの一件を代官所と協議し、宿場から何人の人員を出すかなど取り決める。

昨日話した代官所元締手代の岡田によると、仙蔵が取払いまでの期間手伝うなら一分金を支払うとの事だった。

 

 一方、仙蔵はお八つ時まで、粗末な長屋で信一郎を待っていたが現れないので、鬱屈とした気持ちを紛らわそうと自ら臨時番屋に出向く事にした。

 四谷追分稲荷に通りかかると、なにやら人の怒鳴り声が聞えてきた。

「今こそ積年の恨み晴らしてやるっ!」

「返り討ちにしてくれんっ」

只ならぬやり取りに仙蔵は急いで鳥居を潜り、石畳を真直ぐ進むと奥に舞台があった。

その上で一人の男が、痩せこけた男の胸ぐらを掴んでいた。

 舞台の上で喧嘩が始まったのかと、仙蔵が更に近づくとどこか見覚えのある二人。

一目見たら忘れられないようなガリガリの男。そして、もう一人は鉤鼻の男。

岡っ引き同士の喧嘩なのかと、仙蔵は杉の木陰から覗き込む。

そういえば、信一郎が博打で儲けた金をガリガリの男に返せと言っていたのを思い出した。

見るからに、ガリガリの男は弱そうで一方的にやられてしまうと、仙蔵は舞台下に行き声をかけた。

「こんにちわっ。昨日、白沢様にお世話になりました仙蔵と申しますっ」

ガリガリ男の胸ぐらを掴んでいた鉤鼻の男がふと、仙蔵に目を向けると、なんとも体裁悪そうにガリガリ男を一瞥して手を放した。

「おっ、おう・・・なんでぇ、こんなところで」

「番屋へ行こうとここを通りかかったら、大きな声がしたもので寄ってみたら、御二方がいらっしゃったものですから。どうかなさったんでございますか?」

仙蔵は、掴まれた襟を直すガリガリの男を窺い、鉤鼻の男を見つめた。

「なんでもねえ、ちょっと待ってくれ」

鉤鼻の男が舞台から降りて、仙蔵に近寄ってきた。

「今のは見なかった事にしてくれ・・・」

仙蔵はやはり、ガリガリの男から金を無心するか博打の金を催促していたのを口止めしようとしているのかと、今一度ガリガリ男を見つめた。

「言いません、決して言いません・・・」

仙蔵の心の内では、信一郎の宿に泊めてもらった時、二人の事を気にかけていたから報告すべきか否か迷っていた。

鉤鼻の男はそうした仙蔵の心を見抜いてか「白沢様には言わねえでくれ・・・頼む」と更に近寄ってきた。

仙蔵に鉤鼻男がしかめっ面して拝み倒す様に迫り来るので、身を引いた。

「頼む・・・」

 弱々しい声に目を向けるとガリガリ男も背を丸めて低姿勢で片手で拝んでくる。

やられている奴までもが頼んでくるとはどういうことだと、仙蔵は「どうして?」と思わず聴いてしまう。

ガリガリ男は鉤鼻の男を見てから話し出した。

「今のは喧嘩じゃねえ・・・芝居の稽古だ」

仙蔵は脅かされているから、咄嗟に出た嘘かと眉を寄せた。

「卯之きっつさん、いいよ・・・」

鉤鼻の男は唐突にふっと苦笑いを浮かべ、舞台の階段に腰掛けた。

「白沢様にはしばらく芝居の事は忘れろって言われている・・・。おいらは正平って言うんだ。そして、こちらが卯之吉さんだ・・・」

仙蔵はガリガリ男の事を、こちらと言った事が妙だと思い、卯之吉に目を向けると、うなづいて頬骨を上げて微笑んだ。

仙蔵は二人の顔を左右に往復させ、どういう力関係なのか訳が分からなくなった。

「えーと、こちらが卯之吉さんで、あなたが正平さんですか・・・今、芝居と仰いましたが練習ですか?」

「ああっ・・・」

正平は頷き、前かがみになり腿の上に腕を乗せ、地面に目を向けた。

「おいらは、まあまあ名のある芝居小屋で役者をやっていた・・・。人に楽しんでもらうのが何よりも心地良くって役者をやっていた。けど、一年ぐれえ前に突然、台詞が飛んで何をすればいいんだか分からなくなっちまった。なんつうか、頭が真っ白になった。言葉が出ねえもんだから余計に焦っちまって、声がうわづって女形みたいな声で客に笑われちまった。もう駄目だと思ったら、勝手に体中が震え出した。自分が怖くなって舞台を降りた・・・」

 以降、正平は舞台に立つのが恐ろしくなり、台詞もつっかえ出した。

景気づけに酒を呑んでから舞台に立つようになったという。

今度は酒がないと駄目だから、量が増えて足がふら付く。誰にも言えず、とうとう舞台にすら出なくなって興行主に酔ってからんでしまった。

興行主は正平の様子がおかしいと事情を問い質し、信一郎に相談した。

しばらく芝居を忘れる為に、信一郎を手伝う事になったと語る。

「白沢様だって苦しいのに面倒かけているから悪りいし、怖えけど、うづくんだ。おいらにはこれぐれえしか出来ねえ・・・」

正平は大きな溜息を付き、「なんでこんなになっちまったんだ・・・情けねえ」と震える掌を見つめる。

「焦るな・・・また立てるよ、きっと。正平は背負いすぎてたんだ・・・」

 卯之吉によると、大きな芝居小屋でも赤字の所が多く、興行主も良く代わるという。

正平がいた芝居小屋も理解のある興行主に代わったばかりで、なんとか一座を盛り立てて赤字を解消しようと意気込んでいた矢先だった。

「でもよぉっ、おいらから芝居取ったら何が残るってんだいっ。このままじゃ白沢様のお荷物じゃねえかっ。情けねえったらありゃしねえ」

「そんな事言ったら、俺なんかなんもねえ・・・博打に勝てない渡世人崩れで、しかも力もねえ・・・」

卯之吉も肩を落として正平に並んで腰を下ろした。

正平はちらりと卯之吉の横顔を窺って、また地面に顔を向けた。

「卯之きっつあんは、人を和ませるじゃねえか・・・誰に見せるでもねえ芝居の稽古に寝ずに付き合ってくれるし、今日も嫌な顔一つしねえで付き合ってくれる。どれだけ助かっているか・・・本当は博打だってわざと負けてくれたんだろう?」

卯之吉はふっと笑う。

「本当に勝てないんだよ。でも、正平、お前が心配なんだ・・・。仙蔵さんと言ったね。この事は白沢様には言わないでくれ、心配するから」

仙蔵は、正平の話を聴いている内に、郷里で猪吉と岡っ引きに閉じ込められた小屋を思い出して呟いた。

「全てが終わったようで辛くて悔しい。けど、どうしていいのか分からない・・・」

ふと正平と卯之吉が顔を仙蔵に向ける。

「そうだ、そんな感じなんだよっ。今まで出来ていたことが突然出来なくなって、どうしようもなくて、地獄へ真っ逆さまに落ちた気持ちなんだっ」

正平は立ち上がって、仙蔵の手を取った。

 卯之吉は二人の様子をちらりと見て、階段に背中を寄りかからせ溜息を吐く。

「俺なんか木偶の坊だから、いてもいなくてもどうでも良くて、怒ったりする心も持っちゃいけないと思えてくることがある、たまにだけどね・・・そういえば、お前さんはここ二、三日、番屋に来ていたけど、どうしたんだい?」

「無宿人か?」

正平も仙蔵の顔を覗き込む。

仙蔵は、信一郎との出会い、そして、郷里の甲州での出来事を掻い摘んで話した。

 

 卯之吉はひどく納得したように頷いた。

「本当にこの世は道理が通らない・・・俺だってガリガリに生まれてきたかった訳じゃない。農民の家に生まれたって、兄弟が多ければ田畑を継げる訳でもない。次男三男は丁稚に出されるしかねえ。奉公先が酷い処だったら、そこでずっと耐え続けるか、飛び出るか。飛び出したら飛び出したで奉公先は見つからない。俺は丁稚にも出されねえで捨てられたようなもんだけど・・・」

仙蔵は、諦めた様に呟く卯之吉が不憫で語りかける。

「辛いとか虚しいとか思いませんか?」

「えっ、生きていてって事かい?」

「ええっ、まあ・・・」

仙蔵がはぐらかした核心に、卯之吉は「そういう役回りなんだろうって思っている。正平は舞台で二枚目を演じ、おいらは舞台でもこの世でも、どうにもならない役回り。俺が二枚目を演じることなんて世間が許さないだろう・・・」

「ちょっと待ってくれ、卯之きっつあさん。舞台と世の中は違うぜ。舞台では化粧もするし、何を演じるかも設定もこっちで決められる。後は、客が入るか入らねえかの問題だ。卯之きっつあんだって、舞台の上に立ちゃ大抵の役はできる。それに女形だってできるよ。だけど、世間に出れば、そうはいかねえ。それは客だって分かっているんだよ、この世が思い通りにいかねえことぐらい。だから、芝居を見て、主人公に自分のやるせない思いを乗せるから、声援や掛け声なんかをするんだ。おいらは、云わば世間のやりきれない思いを晴らす為に演じているにすぎない。けど、舞台から降れば、お客と同じで悶々としているよ。卯之きっつあんもやってみればいいのに」

 正平の言葉に卯之吉は驚いた様にふと笑った。

「無理だよ、俺は今の岡っ引きの御役目で精一杯だ。芝居なんかやったら、白沢様に笑われるだけだ」

「御役目・・・そうか、おいらはいっぱしの岡っ引き気取りを演じているだけだ・・・。そう考えてみると、舞台を降りても結局は何かしらの役目を演じているのか。だったら、卯之きっつあんは、もっと前に出るとか、好きな役を演じればいいんじゃないか?」

卯之吉は首を振り、空を見上げる。

「俺は元々そういう役回りなんだよ、御武家の様にはなれない・・・世の中、そういう人間がいないと成り立たない」

「そんな事言ったら身も蓋もねえよ。おいら達百姓(庶民)は、お武家や金持ちの為に生きている訳じゃねえ。侍ばかりが主役って訳じゃねえ。一心太助の話もあるし、落語の主人公だって貧乏長屋の住人だったりするじゃねえか。卯之きっつあんは、卯之吉って名の目線で生きる主役だ。これから剣術や捕縛の鍛錬をして、悪人をとっ捕まえれる劇に変えることだって出来る。そうだ、隆々とした体を作ってさ。いわば、その筋骨は世間という舞台での衣装だよっ」

正平の弁舌はどんどん熱くなり興奮してくる。

 仙蔵はそんな正平がなんだかうらやましく思う。

再び舞台に立つという思いが、今の辛さと格闘し耐えられている。それ故に焦り、再び舞台に立つ望みと恐怖の間で凌ぎ合っている・・・。

仙蔵自身には、正平の様な強い思いがない事に「おいらはなんもないな・・・」と溜息が漏れる。

 

 「おうっ、そこで何してんだ」

三人が溜息を付いて座り込んでいると、信一郎がふらりと現れた。

仙蔵、卯之吉、正平がはっと立ち上がって驚き、一同声を揃える。

「白沢様っ」

「なんでぇ、鳩が豆鉄砲喰らったみてえだな・・・なんか隠し事でもあるのか?」

信一郎は、ふと仙蔵がどうして卯之吉と正平と一緒にいるのかと眉を顰めながら近寄った。

「なんでここにいるんだ」

仙蔵は二人から口止めされており、咄嗟に神社の本殿に顔を向けた。

「番屋に白沢様を訪ねようと、たまたまここの神社の前を通りかかりましたら、偶然御二方にお会い致しました・・・」

信一郎は本殿に頭を下げてから、仙蔵に顔を戻す。

「ふ~ん、ここはどんな御利益がある神社だか知ってんのか?」

「存じません」

信一郎は、今度は正平の顔を覗き込む。

「お前さんは知っているよな」

「はっ、はい・・・」

「なんだ、言ってみろ」

「芸事・・・です」

信一郎はうなづくと、今度は卯之吉に迫り寄る。

「卯之吉・・・そういえば最近、正平と一緒にいるが、ここで何している?」

「いえ、その、今日はする事がありませんので、二人で酒でも呑もうかとここで待ち合わせしておりました・・・」

信一郎は、正平に視線を戻し「待ち合わせだったら、ここじゃなくても良いだろう。まるで、神様に何かを見せる様じゃねえか。焦る気持ちも分かるが、もうしばらく忘れろ・・・ついでに言っておくと、お前さんのいた森本座はなんとか大丈夫だ」

正平は驚いて目を見開いた。

「大丈夫って、どういうことでございますか?」

「おいらもよく分からねえが、誰かが谷町になって寄付したらしい」

「本当でございますか?まさか、白沢様がどこかの商家を脅して出させたとかじゃ・・・」

信一郎は正平をぎっと睨む。

「どうしておいらがお前の為に脅しをかけなきゃならねんだっ。それこそ、悪徳役人じゃねえかっ。本当に誰だか分からねえんだよ。でもまあ、良かったな。でもそんだけ気を揉むって事は、芝居の事を忘れてねえって事だろう・・・。それはそうと、仙蔵、さっきお前さんの長屋に行ったところだった。おいらも疲れているから率直に言うと、御救小屋で働かねえか?」

「えっ、御救小屋でございますか・・・」

仙蔵の表情は曇り、信一郎から目を外した。

「十二月八日の取払いまでの二十日間だけだ。手当ては一分も出る。お前の事を代官所の役人に話したら、御伊勢詣りの事をいたく感心してな、是非とも来て欲しいと言ってくれてんだ。悪りい話じゃねえぞ」

仙蔵は笑み一つ見せず、しばらく黙って考え込む。

「お手当ては有り難いものでございますが・・・」

「なんだい、嫌なのか?」

仙蔵はこくりとうなづいた。

「どうしてだ」

「施米を受けましたが、辛いんでございます・・・」

仙蔵は折角の話を悪いと思い、信一郎をちらりと見ると眉間に皺を寄せており、再び目を伏せて申し開く。

「私もいずれあそこで病を患って死んでしまう様な気になったんです」

「またそんな事言ってやんのかっ、まだ起こってもいねえ事に怯えてどうするっ。人間いつかは死ぬんだっ。今、人手が足りなくて困っている所を助けてやってもいいじゃねえかっ。それともなにか?神仏に祈っても御利益なけりゃ、もうお手上げか?何もかもが無意味だとでも言いてえのかっ。神仏が見えなくても、目の前の困っている人間は見えんだろうっ。先の事ばかり心配して、今のおめえは、今を生きてねえじゃねえかっ!」

 信一郎は辺りを見渡し、仙蔵の腕を掴んで神社の池に引きづる。

「よく見てみろっ、これが今のてめえだっ。世間様の事を見る目を持っていながら、おめえは死ぬ怖さに取り付かれて全く見えてねえんだ。この淀んだ枯葉ばかりの池にてめえの面(つら)がはっきりと見えるかっ?」

仙蔵は信一郎に組み伏されて、池に顔を突っ込みそうなほど迫る。

「どうだっ、ごみが浮いた水面に、てめえが見えるかっ!」

「みっ、見えませんっ」

仙蔵が答えると、信一郎は襟首を掴んで立ち上がらせた。

「御救小屋に駆け込んだ人間の心に寄り添ってやれるのは、お前だと思った・・・死のうとまで思い詰めたお前なら、おいらなんかより分かってやれると思う。だから、手伝っちゃくれねえか?」

仙蔵は池を振り返る。

死を望みながらも恐れ、そればかりに気を取られ我を失っていたと肩を落とした。

「大したことは出来ませんが・・・」

「すまねえ、手荒な事をしちまって。でも、誰だってどうにもならねえ時は訳が分からなくなる。他人のおいらだから見える事もある、お前にはそういう事ができると見込んでの事だ・・・明日、昼に御救小屋で待っている」

信一郎は仙蔵に詫びると「なんだ、まだ居たのか?早く呑みに行けっ、そして忘れろっ」と正平と卯之吉を追っ払う。

仙蔵は長屋へ戻り、信一郎は臨時番屋に向かった。

 

 その道すがら、水路脇に季節はずれの小菊が一輪だけ咲いている。

信一郎はしゃがんで、何でこんな所にと思いながら妻の久子を思い出し、流れる水面を覗き込む。ゆらゆらと己の顔がゆがんでいる。

おいらだって見えちゃいねえじゃねえか・・・。

八つ当たりして偉そうな事を言っていたのではと、悪い己が出たと自身を詰(なじ)る。

そりゃそうだ、鏡はまっ平らじゃなければ屈折して見えやしない。

でも何が、おいらを曇らせる・・・。

再び仙蔵を思い出すと、なんだか面倒な事を持ち込んでくれたとふと過る。

信一郎は苛立つ自分が嫌になり、番屋に向かう。

 

         第二部(25)へ続く。

【 死に場所 】place of death 全34節 第二部(23) 読み時間 約10分

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  ( 江戸名所図会 熊野十二社 角筈村 )

 

   (23)

 南へ七八町、神田上水沿いに歩く。角筈村に入り右手に大きな用水路が広がる。

熊野十二社の鳥居が見えると、滝の音が聞えてきた。

「ここの神社へも参拝に来たのか?」

熊野の滝は、凡そ三丈の高さから水飛沫を散らしながら流れ落ち、水面を叩く。

信一郎が振り返ると、仙蔵は滝の音に掻き消されるようなか細い声で「はい」と答えた。

 江戸の景勝地としても、その名を知られる地域だが、優雅に舟遊びする者はない。

用水溜は上池と下池があり、周囲には茶店も散見できる。池の辺では、釣りをする村の者がちらほらと見えるが食料の足しにする様子で、楽しんでいる余裕はないらしい。

 池をぐるりと回り、枯れた松林の林道から甲州道中も見える。

人だかりが出来て「並べ、二列に並ぶんだっ」と役人らしい声とそれに驚き赤子の鳴き声まで聞えてきた。

 林を抜けると、竹を縦に菱形に組み合わせた柵が二十五間程続いている。

建物の裏手から横に抜ける。その幅八間余り。

どこかで見た様な造りと雰囲気。

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  ( 荒歳流民救恤図 イメージ )

 

 ふと見上げると、御救小屋の幟旗。

建物正面に出ると、門番と手配役人が立っている。

道中からわずかに離れ建物の前に列が続く。その数ざっと五十人はいるだろうか。

 信一郎は手配役人の男と話した後、仙蔵の元に戻る。

「お前もここに並べ。そうすりゃ米と握り飯、それに六百文が支給される」

仙蔵は信じられないと目を白黒させて、信一郎を見つめ目を見開く。

「どうした」

「もらえませんっ、私は施しが欲しくて迷っていた訳ではございませんっ」

仙蔵は突如怒り出し、来た道を辿る。

「おいっ、仙蔵待てっ」

信一郎は小走りで追いかけ、仙蔵の肩を掴んだ。

仙蔵は立止ると、涙を浮かべて信一郎を睨み付けた。

「あんまりじゃありませんかっ・・・」

信一郎も良かれと思ったことが裏目に出てしまい戸惑う。

「おっ、御役人様から見れば、私の様な者には施しを受けさせれば落ち着くとでもお思いでしょうが、一時の施しで凌いでも、来月はどうなるんですか?半年一年後も望みなんかありゃしません。何か望みがあるなら施しを受けても、後日、お返しも出来ましょう。でも、今の私には何もないんです、御返しすることも出来ないんです・・・生きていたって辛いばかりで、一体何の為に、何を頼りに生きていけば良いのかさえ分からないんですっ」

「仙蔵、落ち着けっ。おいらはそんなつもりでここへ連れてきた訳じゃねえ・・・誰だって急に困る事はあるし、突然、病気になる事だってある。お前だって、今まで年貢を納めていただろう。御公儀は民百姓を守ることが御役目だ。天子様から民を守る事を任されているにすぎん。だから、施米はもらって当然の事なんだ。互いに助け合い困った時の備蓄米だ。それを分配しているっ。お前を馬鹿にしているつもりはねえっ」

 仙蔵は真剣な眼差しで訴えかけてくる信一郎の言葉に呟いた。

「備蓄米ですか。それでも、江戸に長らく住んでいる訳でもございませんから悪い気が致しますので、受取れません・・・」

「どうしてだっ」

仙蔵はごくりと唾を飲み込んだ。

「まだ少しはありますから・・・」

信一郎は頑なに断る仙蔵を説得する。

「すっからかんになってからじゃ、どうにもならんぞっ。すでに五十万以上の人間がもらっているんだから、お前ももらっておけ。言い方が悪ければ、年貢の一部を返してもらえ」

仙蔵はちらりと信一郎に目を向けた。

「返してもらえるんですか?」

「ああっ、町奉行所も代官所も民を守るのが役目だ・・・」

仙蔵は不承知ながら、施米をもらう列に並ぶ。

 後方から先頭に向かって並ぶ人々は様々だったが、男の数が多く、皆困窮した様相。

病身の者、杖をつく老人、赤子を背負う母親、手を綱いて一緒に待つ幼子。江戸の七割方は出稼ぎのまま居ついた、その日稼ぎの者。

 門は二ヵ所あり、施米と炊き出しを受取る入口と出口で別れている。

出口では、門番や周辺の村の手伝い人に頭を下げて人々は去ってゆく。

甲州道中から少し離れ、その奥には先ほど迂回した熊野十二社が鎮座し林が生い茂り、

からすや鳥の鳴き声が、やけに木霊する。

 

 その間、信一郎は御救小屋支配役の代官所元締手代の岡田宗泰と話合っていた。

御救小屋の支配は代官所で、米や金の用意の他、町場の行倒人や無宿、その日稼ぎの困窮者を引き受け、病気の者は小屋で看病を受け三食受ける事ができる。また、無宿で健康な者であれば、二食を受け、日中幕府の工事などで働くこともできた。

ただし寝泊りできるのは百日限りとし、身元引受人がいる場合は、その者に引取らせていた。身元引受人がなく健康な者は、石川島の人足寄場で働くか、そこで手に職を付ける事になる。

御救小屋では、施米施金、炊き出しの他、身寄りの照合、備蓄米などの管理、看病と、すべき事が幾多に及び人手を必要としていた。

 先月、十月二十八日。神田佐久間町、増設した花房町の御救小屋二十一棟が取払いとなった。収容延数、五千八百余人。

江戸四宿の内、品川、千住、板橋の三つの御救小屋は、明日十一月十九日に取壊しが決定されている。理由は、米価の下落と町も落ち着いてきたというものだった。

 それでも困窮人は多く、ここ内藤新宿の御救小屋も近々取り壊しが決定されるだろうとの事だった。その後は、引き続き町会所にて施米等を行う。

 

 元締手代の岡田は、近頃では栄養不良で病を併発する者も増え困っているという。

近隣の村に手当てを二、三両渡し、二名ずつ手伝いに来ているが、村も多忙な為、人手も足りないとも零す。

信一郎は列に並ぶ仙蔵に目を向けた後、岡田に相談を持ちかける。

「人手が足りないなら、思い当たる者がおります」

「おおっ、白沢殿のお知り合いとなれば、願ったり叶ったりでござる。して、どのような人物でござろうか?」

「年は二十六で、健康な者です。身元もしっかりとしておりますが・・・」

先程も、裏目に出たような感じとなった事もあって、信一郎は躊躇った。

途中で会話が途切れてしまった岡田は困惑して信一郎を覗く。

「いかがなされました。病も流行っている故、壮健な者なら尚の事、尽力願いたいっ。とにかく、人手が欲しい」

岡田の強い思いに信一郎も即答したかったが、勝手に決める訳にも行かぬと、しばし猶予を願った。

岡田は期待していたものが急速にしぼんだものだから、落胆甚だしく悲壮な面持ちで、

「この前も手伝いの者が病と称して来なくなってしまって・・・」と溜息を漏らす。

信一郎は襟足を掻きながら、「誠に御訊きしづらい事で御座いますが、そのなんでしょうお手当はいかほど頂けますか?いや、その者は甲州から御伊勢詣りに行く途中、江戸に立ち寄っておりますが、なんせ諸色高で御参りにも行くに行けずにいる者でございまして・・・」

岡田は金の話を出されて嫌な顔をすると思いきや、ぱっと笑みを浮べた。

「ほう、それは殊勝な事ですな。その様な心意気の者であれば、尚の事お願いしたいっ。拙者もいずれ伊勢詣りに行ってみたいと思っていたものですからっ、いいな~ぁ」

信一郎としては、できるだけ高い手当をもらえる様に話したつもりだったが、伊勢詣りの心粋の話題に摩り替わってしまい困惑する。

「いや、その、手伝いの手当はいかほどかと・・・」

「えっ?ああっ、手当でございますな。そうですなぁ、はっきりとは申せませぬが、明日の午前中に三奉行様の寄合で、ここの取払いの日程もはっきりすると存じます。御代官様にも話しておきますが、最後まで御手伝い頂けるなら、白沢殿の御顔を立てて一分(ぶ)程は御用立てできるかと存じます」

「えっ、一分もですか?」

信一郎は随分な額に驚いた。

「先程も申しましたが、病が流行って欠員が出てから拒む者が多くて難儀しております」

「左様でございましたか・・・では、明日か明後日に再び参ります」

信一郎は頭を下げると、岡田も深々と一礼し「では、先程の御一件、こちらからも宜しく御願い致します」と小屋の中に戻って行った。

 信一郎は一分金と聞くが思い止まる。

「待て・・・あいつの事だから、また妙な事を言い出すかもしれねえ・・・」

信一郎はそんな事を一人思い悩んでいると、仙蔵が施米と金をもらって戻ってきた。

「頂いて参りました・・・」

「なんでぇ、浮かねえ顔して。さっきも言ったろう、お前の預けた取り分だってっ。またなにか言いたそうな顔しているな」

仙蔵は小さい麻袋に入った米と握り飯の包を見つめて呟く。

「小屋の中を見たら、尚更不憫に思えてきました・・・広い大部屋と幾つか仕切りがあって、多くの者が病に臥せっておりました・・・」

信一郎は手当ての金額を口にしようと思ったが、まだ定かではないと言うのを止め、神社へと向かう。

「おい、こっちの方が近道だ」

仙蔵は顔を上げ、信一郎の後に続く。

 

 神社の鳥居の前まで来ると、信一郎は振り向いた。

「折角だから、手を合わせて行こう・・・」

仙蔵は力なく頷く。

二人は本殿の階段を登り、二礼二拍手の後に一礼を行う。

信一郎は、飢饉が早く治まる事や御役目が早く終わる事、借金が消える事等、思いつく事を幾つも願っていると、力が入り顔が紅潮する。

力みが抜けふうと顔を上げて振り返ると、仙蔵は早々に済ませて階下で待っていた。

「なんだ、早えじゃねえか・・・」

「別段、私の事で願うこともございませんから・・・」

「なにかしらあんだろう」

「願っても無駄です。あの御救小屋の人たちだって散々祈っていたでしょうに」

信一郎はどっと溜息を吐く。

「それを言っちゃあおしめえよっ。なんだ、江戸に出て来て神社詣りで拝み倒した末に、やさぐれたって訳か。そうか、本当は死にたくないんだろう?前にも言ったが、真に心に決めた奴は誰にも言わねえで事を起すもんだ。蕎麦屋で騒いで役所でも番屋でも何処でも行くって言っていたが、あれは相談相手がいなかったから役所って考えたんじゃねえのか?文句を付けたのは口実だ。そうだろう?」

 仙蔵は信一郎に睨まれて、ああっと声を漏らし俯いた。

「ここは神前だ・・・おめえが信じようと信じまいと、おめえの本心を聞かせてくれ」

本殿を見つめた後、仙蔵はこれまでを振り返り、目を伏せた。

「遠からず当たっております・・・村では私が気に入らぬばかりに押し込められ、追われるように御伊勢参りと称して出て参りました。しかし、御伊勢に行った後、恐らく路銀も底を付きましょう。その後どうすればいいのか。江戸に戻っても望みはなく、飢えに苦しむだけに思えてなりません。国には戻れませんし、辛く寂しくいっその事消えてしまいたい気持ちを抱えながら、日雇い仕事をして暮らしておりました。誰にも相談できずにいたところ、あの不味い蕎麦と値段に怒りが込み上げて、つい・・・」

 信一郎は無言のまま頷き、本殿に向かって一礼する。

「御公儀も役所も、本来、民百姓の為にあるもんだ・・・。それに、おいらは町会所掛の臨時の窮民送り方。そのおいらに相談したからには早まるんじゃねえぞ、分かったなっ?」

仙蔵は、信一郎が自身に言い聞かせるような口調に顔を上げた。

「分かりました、御迷惑はかけません・・・」

「約束だぞ・・・正直なところ、この御役について二月経つが、ずっともやもやしてやがる。今までは、町を見る目が怪しい者に向いていた。ところが、今度は迷い人や行倒、困っている人間を捜さなきゃならねえし、自身番の連中がちゃんと世話をしているかも見回らなきゃならねえ。見る目ががらりと変わっちまった。悪人だったら、この野郎って力も湧くが、困窮人を見かけると堪らなくやるせなくなって、全然慣れねえ・・・」

 信一郎はいらいらとし「畜生、こんな事話すことじゃねえ。おいらもどうかしている、帰るぜ。明日か明後日、お前さんの長屋に行くから待ってろ。くれぐれも変な事は考えるなよ」と番屋に戻る脇道で振り返る。

仙蔵は信一郎の呼びかけに「はい、有り難う御座います」と丁重に頭を下げ、二人は分かれた。

「明日か明後日には、きっと長屋にいろよっ」

今一度、信一郎は念を押す。

「はい、きっと待っております」

 

 番屋に戻る道すがら、信一郎の気分は晴れない。

己が拠り所としていたものが、仙蔵と出会った事で全てが不確かなものに思えてしまう。

同心の倅として生まれたからには、同心になる・・・。

そして、神仏の御前では手を合わせる。

生きる意味は、御役目を受け継ぎ家を守る事が、定めと信じていた。

 とはいえ、同心は足軽身分。どう足掻いても旗本にはなれない。

一代限りの御役は、目こぼしの様に世襲を見逃されているにすぎない。薄給にしがみ付き、町場の付届けで潤っていた時は昔の話。飢饉続きで付届けは減り、借金は増えるばかり。

家格や身分の高い者に蔑まれる事は、日常茶飯事。

武家も同じだ。どこに生れ落ちたかで、大抵決まっちまう・・・」

 信一郎は、仙蔵との出会いにも疑問が湧いてきた。

なんであの時、仙蔵と出会ってしまったのかと、後悔にも似た思いが過る。

生きる意味に向き合う事をしなかったという訳ではなかったが、それをしてしまったら、今の身分や状況に満足できる訳もない。

ましてや、今の御役目から色んな考えが出てきて憤りさえ覚える。

 同心として町場を守り、家を守って子に引き継がせて生きる事が正しいのかと首を傾げてしまう・・・。

 信一郎は頭を振って先を急ぐ。

父の遺志でもある御役目をしっかり毎日続けるんだ、神仏は見守っておられるっ。

足早に歩みを進めていても、救いを求める民百姓の顔が浮んでは消える。

世上の平安なくして、おいらはここを離れられない・・・。

犯罪も飢饉が続くにつれ、増えてゆく。

信一郎は己一人の力じゃどうこうできるものではないと足取りが重くなる。

「どうしろってんだっ、奇跡でも起らなきゃ・・・」

 

 信一郎が番屋の前に戻ると、一旦呼吸を入れ、塞ぐ気分を入れ換えて中に入る。

孝助は書類を机の上に重ね置いた。

「お帰りなさいませ。明日、御役所へ御持ちになる書類を一通り揃えておきましたので御確認下さい」

「すまねえな。本当はおいらがやらなきゃいけねえ事をやってもらって・・・」

孝助は畏まって頭を下げた。

「この様な事ならば御安い御用でございます。物書きやそろばんは好きでございますら・・・」

信一郎は改めて孝助に向き合って見つめた。

「もう少し辛抱してくれ・・・この飢饉が治まれば、どこか世話するから。だからと言って、博打の為にそろばん弾くのは止めてくれよ」

孝助は頭を下げて「申し訳御座いません。本来なら一番年長者の私が止めねばならぬ立場で御座いますのに、一緒になって熱くなってしまって・・・」

「誰にでもあるこった。頼んだぞ・・・」

「私の事を御気にかけてくださるのは大変嬉しゅうございますが、正平の方が・・・」

信一郎は土間で足袋を脱いで払う手を止めた。

「正平がどうかしたのかい?」

孝助は信一郎の足を洗うかどうかを聞くと、泥濘(ぬかるみ)に入ったから洗うと言って桶の中に足を突っ込んだ。

「あ~っ冷てえっ」

「正平の奴、どうも焦っているらしくて、いつまでも世話になっている訳にいかないと・・・」

畳に上がった信一郎は煙管を取り出し、ぽかりとふかす。

「しょうがねえな、だからって憂さ晴らしに博打なんかされちゃかなわねえ。折角、卯之吉をまっとうにしたのに、また元に戻っちまう。今度会ったら言っておく」

孝助は信一郎と目が合った拍子に、言いかけた言葉を引っ込めた。

「なんだい?」

「いえ・・・あっそうだ。明日は御登所でございますから、これから御屋敷にお戻りになって、そこから御役所に参られましたらいかがでしょう?」

信一郎は「ああっ、そうだな・・・」と孝助に目をやった。

「夜勤は誰だ」

「正平と卯之吉でございますが、」

信一郎は正平に一言言ってやらねばと考えていると、「私が申しておきます」と孝助は先回りをした。

「しばらく屋敷に戻ってないから、そうしてくれると有難い」

 それから間もなくして、伝造が戻ってきた。

信一郎は、伝造に付いてくるよう言うと外に出た。

八丁堀までおよそ一時はかかるし、風も出てきて寒さが沁みる。

「なあ、伝造。駕籠で行くと、ここから八丁堀まで幾らかかる?」

「そうですね、三百文から四百文ってところでしょうか」

信一郎は懐を探り、手持ちを確かめた。

また、明日の登所で上役の与力にも付届けをせねばならんと思い出す。

困ったな、なに買っていけばいいんだ。饅頭の詰め合わせを前に持っていた時は鼻息をふうと漏らして喜んでなかったし・・・。その前は最中(もなか)を贈ったら、上あごに張り付いたと嫌味を言われたし、先日の団子の詰め合わせはどうだったろう・・・。

この飢饉の中、付け届けなんて贈らなくていいか。なんなら、ところてんでも持って行ってやろうか、上役を押し出すって意味で丁度いいかもしれねえ・・・。

信一郎は悩みながら、だらだらと大木戸へ向かうと、ひゅーと風が吹き信一郎の袖を派手に揺らす。

ふん、風にまで舐められちまったな・・・・。

「伝造、お前さんも外廻りで疲れたろう。駕籠乗って行くか」

伝造は少し驚いて、「えっ、いいんですか?」と頬を緩ませ、額を輝かせた。

「ああっ、おいらが良いって言うんだから文句は言わせねえ。駕籠かきのお前さんが、乗り心地を確かめてみるのも良いじゃねえか」

「ありがとうございますっ」

伝造は嬉しくなって体が熱くなったのか、額から汗を流して喜んでいる。

信一郎の袖をばさばさと執拗に風が吹きつけるのがうっとおしくなり、腕を組んだ。

「それでなんなんだが・・・お前の知り合いとかで、もうちょっとなんと言うか、融通を利かせてくれる様に頼んではくれねえか?」

伝造は額の汗を袖で拭うと、信一郎があっちの方を向いて首筋を掻いている。

「近道ですか?」

信一郎は眉を顰め、伝造に流し目を向ける。

「まあ、近道もなんなんだけれどもっ、これだ・・・」と袖を振って見せた。

「奴凧((やっこだこ)でございますか?」

「凧(たこ)じゃねえーよっ!駕籠に乗りながら凧飛ばしてどーすんだっ」

信一郎はぎっと伝造を睨み付けた。

「安くしてくれって、頼んでくれっつうんだよ・・・」

伝造は「へい、すいやせん・・・」と苦い顔で汗を拭って突っ立っている。

信一郎はいらいらして「早く行って頼んでこいって言ってんだ、でこっぱちっ」と急き立てた。

伝造は脱兎の如く、駕籠屋に駆け出した。

 

 寒い中待っていると、やっと伝造が戻ってきた。

「どうだった?」

もじもじと寒さを紛らわしながら信一郎が訊くと、伝造は申し訳ないと先に謝った。

「すいやせん、ここから八丁堀までだと、負けても二人で七百文だと申しておりまして・・・」

「なんだ、負けてねえじゃねえか・・・」

信一郎は大きな溜息を吐いて、どうするかを考えた後、「もういい。明日、ここから役所に行く」と踵を返した。

伝造は上手く交渉できなかったと、今一度謝まった。

「何度も頼んでみたんですが、すいやせん・・・」

「しょうがねえよ・・・何処も諸色高なんだ。伝造、おめえさんはもういい。今日はこれで上がってくれ」

肩を落として力の抜けた信一郎に伝造は、「宜しいんですか?」と今一度顔を覗き込む。

「ああっ、おいらも宿に帰って準備するから、明日の明け六つに宿に来てくれ、供を頼む。そんで、番屋の孝助たちには何かあったら宿にいると伝えてくれ」

はいと伝造は返事をすると番屋へ戻って行く。それを見届け、信一郎も宿に戻る。

 

 先月と今月の行倒人、迷い人、捨て子、町名主との寄合記録、寄付を届け出た人物を表彰する名簿、町触の実行状況を纏めた書類を確認し飯を食う。

一人だけの食事は味気なく、自邸に戻るべきだったとも思うが、如何ともし難い御役目の事を久子にべらべらとしゃべってしまいそうで、また、借金の返済等もあり、明るく振舞えそうにない。これで良かったんだと箸を置く。

「来月には終わるだろう。それからだ・・・」

 

    第二部(24)へ続く。

【 死に場所 】place of death 全34節 【第二部】(21)~(22) 読み時間 約15分

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       (江戸名所図会 7)

 

   (21)

 仙蔵が村を出て五日後。

小仏峠を越え駒木野の関所付近から、通行手形がなく締め出された者たちが、道の両脇に座り込んだり、物乞いをしたりする姿を多く目にする。

仙蔵は、憂き目漂う道中を菅笠で覆って逃れるように先を急いだ。

八王子、府中、高井戸宿と移動距離を伸ばし、一日におよそ九里を歩いたという。

 翌日は雪混じりのみぞれ雨が強く、高井戸宿で二泊した。

八日目の朝、雨足が弱くなり、凍えながらも内藤新宿を目指す。

江戸に近づくにしたがって、物乞いする者や座り込む者が増えるばかり。

雪が残る道端には、大量の雀が横並ぶ様に、雨ざらしの者らが動けなくなって座っていた。中には死人も含まれている様で木に寄り掛かって動かない者いた。

堪らず視界を遮って先を急いだ。

 蓑を被った付近の村の者が行倒人に声をかけていたが、その数が多すぎて手が付けれらず、辛うじて荷車に担ぎ上げられた者は新宿の方へと運ばれた。

うめき声が聞え、ちらりと目を向けると手を差し出していた。

仙蔵も施してやりたいが、一人に施せば他の人にも何かをやらねばならない。心苦しいがすまぬと呟き、菅笠を目深に被って足早に立ち去った。

 内藤新宿に辿り着き、茶屋で一服。

そこで江戸の三大神社の一つである平河天満宮を教えられ日本橋方面に歩く。

麹町の平河天満宮で奉納した後、日本橋に足を延し、道中の凄惨な光景を忘れようと江戸の中心を見物し宿泊した。

 

 翌日も江戸見物、神田明神で祈願奉納を済ませて川沿いに歩く。

和泉橋から遠方に祭りの様な人だかりが見えた。

仙蔵は何の賑わいだと、柳原の土手沿いを進んで行くと、それがなんであるかを知る。

 人々が大きな建物に向かって列をなし、幟旗には御救小屋と書かれていた。

土手に座っていたのは、途方に暮れた人々。また、人が戸板に載せられ運ばれていた。

 御救小屋に近づくと、周囲は竹を菱形に組んだ垣根が三十間程続き、建物の周囲を覆う。

中の様子はよく見えないが、赤子や子供等の泣き声。

「入れてくれっ」「旦那がいなくなったんですっ」等、老若男女の哀願嘆願、阿鼻叫喚が漏れ聞えてきた。

 仙蔵は只ならぬ様子に更に近づくと、行き場のなくなった人々が寒さの中で震えている。

施米と金を受取っただけで帰る人。また、小屋に収容されない人は、屋根となる橋の下へ向かうがそこも一杯で土手に座り込む。

神田川を挟んだ西側の対岸には、薄っすらと神社の鳥居が見える。

仙蔵はじろじろと野次馬見物をするのは不憫だと、対岸の神社へ向かう。

 橋の上から佐久間町界隈を一望すると、倒れている者、膝を抱えている者が混在する。

 道中より酷い有様。

足が竦み、どうすればいいんだと頭の中で繰返され、怖くなって寒さと暑さが一度に体を駆け巡り、強張ってきた。

手汗が滲み呼吸が荒くなる。胸の辺りがつかえるような圧迫感に見舞われた。

 最初に見えた賑わいは、祭りでも祝いでもなんでもなかった。

江戸への憧憬によって作り上げられた幻想。そして、打ちひしがれる人々の現実・・・。

 ここは安息できる新天地ではない。

江戸を目指すことが、生きる糧だと言い聞かせ旅立った。

松次郎や圭助一家のなどの希望も携え、歩き続ける事、三十余里。

雪の足止めもあり、日にちにして約八日。峠を三つも越え、富士の頂に手を合わせ感涙し、

また感謝し望みを更に募らせてやってきた。

そして、やっとの思いで到達した先に見えたものは、残雪の中、もろくも打ち砕かれた願

い。行き場を失った絶望の土手・・・。

 道中、身延山詣りなどで出会った人々は、江戸でも余裕のある人なんだと知る。

当てがなくても、江戸に行けばなんとかなる。目の当たりにしている惨景は、ほんの一部であって欲しいと願ってみるが、駒木野の関所や高井戸辺りの物乞いなどが甦ってきた。

 遅かれ早かれ、自分も御救小屋へ行く事になるんじゃないかと、ふと過(よぎ)る。

小屋の中で救いを求める声が耳鳴りのように響く。

遠くまで見渡せる場所に背を向け、足早に対岸へ渡る。

神社の鳥居を潜り抜け、礼もせずに手を合わせた。

 「お助け下さいっ」

縋る思いで何度も何度も祈り続けた。

仙蔵は早々に来た道を辿り、別の神社や寺を見つけると同様に神に縋り、力の限り祈りを捧ぐ。

祈り疲れても、祈り続けなければならないような切迫した気持ちに追い立てられた。

 

 翌日もその翌々日も、より大きな神社仏閣を詣ることで、災厄から逃れようと渡り歩き、御朱印を受け、寄進を行う。

雨が降ろうが雪が降ろうが、巡礼者の様に江戸の社を方々巡る。

心は晴れるどころか更に気が逸る。松次郎の子供等の供養や安寧、また、この飢饉が終わらねば、自らの安息もない等々、祈り救いを求め続けた。

参拝を終えても、不憫な人を見かけると信心が足りぬと、己の至らなさを責め始める。

 雪がみぞれ雨に変わり、堪らず飯屋に入って雨宿りをする。

出された茶が、やけに温かくうまいと感じた。食欲はなかったが何も注文しない訳にもいかず、五十文近くもする味噌汁と握り飯を頬張った。

事の他冷たい握り飯に薄い味噌汁だったが腹を満たし、わずかながら一息吐く。

仙蔵はこの日廻った神社などを振り返ると、沢山の参詣人がいたと思うと疑念が過る。

 

 おいらだけが神仏に手を合わせているんじゃない・・・だけど、一向に飢饉は続き、人は迷い嘆き飢えている。

江戸だけじゃない。全国の願いは、そして、何年も続く祈りはどこへ。

届かないのか。それとも、人間の驕りを戒める為なのか・・・。

としても、赤子に罪が生じるはずもない。赤子に罪があるとするなら、人間は生まれながらにして罪深いということになるじゃないか。

ならば、何故に人間というものを、この地上にいる事を御許しになるんだ。

兵糧責めという罰ならば、何を悔い改め、悟れと仰るんだっ。

他方、一部の人間は米を囲い込んで更なる財を貪り、左団扇(うちわ)で生きている者もいるじゃないか・・・。

 人間を戒めるなら、全部の人間が飢えなければ道理が通らない。

真に責めを負うべきは、お上と米を囲い込む米穀商じゃないのか?

それでも、奴等はのうのうと生きている。

奴等を打ち壊したのは、神仏ではなく同じ人間だ。

何故、その人間が身を潜めたり、爆死したり、磔になったりしなければいけないんだっ。

滅茶苦茶で、理不尽極まりない世の中だ・・・。

 仙蔵は同じ甲州ではあるが、見ず知らずの郡内騒動の頭取だった兵助が逃げおおせる事を願う。その一方、瓦版で配られた大塩という役人が自死せねばならぬ理由が分からない。

飯屋で休んでいると、怒りばかりが込み上げる。

なんで石みたいに冷たい握り飯と薄い味噌汁で、五十文も払わねばならないんだっ。

飯屋の親父までもが、悪人に見えてきて外に出た。

 みぞれ雨は続き、地面からは雪解け水が痛いほど足に沁みてくる。

人家もまばらな薄暗い道を歩けば、軒先で佇む幼子や年増の女が立っている。

江戸に出て来たばかりでも、それが何であるか分かる。

仙蔵は菅笠を目深に被って通り過ぎる。

 あの人達が何をしたってんだっ。

子供は親を選べず、生きる時も選べない。

元禄の頃に生まれていたなら、こんな事もなかったのかもしれない。

神様がいるなら、この世が妥当だという証(あかし)を見せて下さいっ。

今日も明日も、川に人が流れ、海に消えて行く訳を・・・

仙蔵は憤懣を募らせながら湯島の木賃宿に泊まった。

 

 「御客さん、起きてくださいな」

女中の声で目が覚めると相部屋の男等はすでに出立したらしく、最後に残っていたのは仙蔵だけだった。

「もう四つ時(午前十時)ですよ・・・」

目覚めた仙蔵は薄目を開けると女中が立っている。

夢の中から出てきたような、色白の美人・・・。

とうとう天国に来たかと、仙蔵は自嘲しながらにんまりと気だるいため息を吐いた。

どこぞの姫様かと思うほどの気品がある立ち姿。

もう、苦しまなくてもいいのかとほっとしてきた。

 その女中は大仰に溜息を吐き、さも忙しそうに障子を開け放ち、寒々しい外気を入れた。

身を起こすと、撫でる様な風に仙蔵は身を震わせ、否が応でも目が覚める。

二階の窓から外を覗くと、隣の屋根瓦は雪に覆われていた。

こんな日に御詣りに行く気にもなれず、再び布団の上に座り込んで思案していた。

姫様の様な女中は、邪魔だと言わんばかりに片付け始める。

もう一泊したいと言うと「いいですけど、一旦部屋の中を掃除したいから、どこかで食べてきて下さいな」と追い出すように箒で畳の上をさっさと掃き始めた。

仙蔵は動きたくなかったが、きつく当たられるだけでなく、外にいるのと変わらず寒い。慌てて着込んで外へと出た。

 道は雪と雨でぬかるみ、足場を探して飛び跳ねて歩くのも一苦労。

宿屋の近くの飯屋でぶっかけ飯を食うが溜息しか出てこない。

少し暇を潰してから宿屋に戻り、一階の火鉢のある部屋で寒さを凌ぐ。

江戸に出てきてから、ずっと参拝を続けていたものだから、行かないのもなんだか具合が悪い。

行かねば罰が当たる様な、怠け者の様な気にさえなって気が重い。

ふと、昨日の夕暮、雨と雪の中で軒先に佇む子供と女を見かけた情景を思い出す。

あの痛ましさに、胸が締め付けられて熱くなる。

 祈り続ける日々。だが、一向に希望は見えず、神仏への疑念が再燃する。

「子供が、捨てられるほどの罰とは何だ?こんだけお参りしても路頭に迷うなら、下手な望みなんて捨てた方がいいのか・・・」

仙蔵は心地悪さに居ても立ってもおられぬほどとなり、別の女中に火鉢を二階に持って行っても良いかと聞くと、奥の方から朝叩き起こされた姫君の様な女中がしゃしゃり出て、

「火事は御免ですよっ」と嫌味を浴びせて顔を引っ込めた。

 仙蔵はあっけにとられながら二階に火鉢を持って、元の部屋で寝転んだ。

美人でも、底意地悪けりゃ目も覚める・・・。

ふて寝しながらそんな事を思うが、部屋は十畳もあって、なかなか温まらない。

手足を擦りながら、苛立ちばかりが募ってゆく。

懐の巾着を取り出して中身を見ると、一分金二枚と一朱金、銭が少し。

松次郎から預かった一両は使えない・・・

いかんともしがたい苛立ちと焦りに拍車をかけた。

江戸に出て来た意味も分からなくなり、もはや伊勢詣りに行くべきかも分からなくなってきた。

さりとて、戻る場所もなければ行く当てもない・・・。

 日中する事もなく、習慣の様に参拝には出かけた。

上野や亀戸にも足を伸ばすが、やはり生じた疑問から、祈願や供養といった気持ちがどこかそぞろになってしまう。

仙蔵は宿屋を点々としながら参拝を続けるが、奉納をする余裕もなくなってきた。

 

 どうすべきか決断できず、二(ふた)月(つき)、三(み)月(つき)と悩むばかり。

神仏に縋ろうとも物価は依然高く、浪費が続く。

残金を確かめるうち、佐久間町の御救小屋の土手下の惨状が頭を過ると、途端に自分があの場所に戻り、「入れてくれ」と叫んでいるような想念に陥る。

このままじゃ、まずいっ。おいらもあの土手で途方に暮れることになる。

 頼る人はないかと浮んだのは、木挽町の桶屋幸太郎だったが、今更覚えているかもどうかも分からない。それになんと言えば良いのかも分からず迷惑をかける事を避け、品川、板橋、千住と大きな三宿を廻ってみるが、落ち着ける様な場所はなかった。

 千住宿は特に悲惨を極め、近郷の関東諸国のみならず、在方の東北からの流入民が大挙するが力尽き、関所付近で行倒人ら、多くの死者で溢れかえっていた。

 仙蔵は折り重なった死者を目にし、目眩と頭痛、吐気を発症。

自分の後の姿と恐怖に駆られ、逃げる様にふらふらと木に摑まりながら西へと戻る。

結局、最初に足を踏み入れた内藤新宿に親しみがあったのかは分からないが、振り出しに戻る。

そして、宿屋の主人に近辺で店借ができる長屋を紹介してもらった。

 

   (22)

 信一郎は、煙管の灰をかかんと打ちつけて落す。

仙蔵がこの内藤新宿近辺に長屋を借りていると聞き、眉を寄せ前のめりになった。

「ちょっと待て、どこの長屋だ」

仙蔵は不機嫌な信一郎をちらりと覗き、目を逸らす。

「成子天神社近くの忠兵衛長屋です・・・」

「嘘じゃねえだろうな?近頃じゃ長屋を追い出される奴も多いから、御府内でも身元が確かな者でなければ、なかなか貸してくれねえだろう」

仙蔵はちらりと信一郎を窺い、小さく頷いた。

「往来手形を宿屋の主人に見せて、伊勢詣りの時期を見ているからと言って紹介してもらいました。店借りの大家さんは、町名主の手前もあるからと言って、故郷の百姓代の松次郎さんへ文を送ってもらい、確認を取った上で住んでおります」

 信一郎は「えっ」と声を漏らし、仙蔵を上目遣いで見据えた。

「さっき帰る場所はねえって言っていたじゃねえか。今もそこを借りているのか?」

「申し訳ございません、かろうじて寝る処だけはございます」

信一郎は立ち上がり、宿の障子を開けた。

「もう夜も更けてきたから、明日、おめえの長屋に行く。でも、なんで帰る場所はねえって言ったんだ」

仙蔵は信一郎の背中に呟いた。

「白沢様は戻る場所はあるかと仰られましたので、御役人様の事ですから国に帰そうとなさると思いまして、戻る郷里はないという意味でございました」

「そうかい・・・じゃあ、一応、長屋住まいなんだな?」

「はい」

 信一郎は酔った勢いで窓枠に腰掛け、酔い覚ましに夜風に当たるが、階下を除くと身震いし戸を閉めた。

仙蔵に悟られぬよう、すました顔して座っていた場所に寝転ぶ。

「そんなら身元は、村の人間が証したってことか。一応、念の為に大家に聞かなきゃならねえが・・・」

仙蔵は、肘枕をして自分を見つめる信一郎と目が合った。

「お前さんの話に嘘偽りがなけりゃ、兵助とは無関係って事だ。で、伊勢に行かねえでぐずぐずしているのは、神仏を信じられなくなったって訳か?」

仙蔵は息を大きく吸い、「白沢様、私もお酒を頂戴しても宜しいですか?」と訊く。

信一郎はちらりと徳利に目をやり「ああっ、好きにやってくれ」と仰向けになった。

 仙蔵は二三杯引っかける。

「白沢様・・・」

信一郎は気だるく目を向ける。

「なんだい・・・」

「一つ聴いても宜しいですか?」

信一郎はああと言い、窓の淵から外を覗いた事を後悔して目を閉じた。

「白沢様は神仏がいると思いますか?」

「さあな・・・」

「江戸に出てくる前は、神仏がいるとかいないとか考えもせず手を合わせておりました。だけど、初めて江戸に出てきて、不憫な人たちを目の当たりすると、とてもいるとは思えなくなりました。そう考えますと、御伊勢に行っても皆も私も救われず、ここに居てもいつ飢えるのかと毎日が怖くなってしまいました。かろうじて、浜宛の日雇い工事やらで生活して参りましたが、ただその日を繰返すだけ。長屋に帰れば、一生このまま一人で過ごすのかとか、寂しく死ぬ事が頭を渦巻くばかりで、夢も望みもありません。日雇いだから仲の良い人もできず、たまに酒を呑んで紛らわすだけ。私だって好き好んで江戸に居るわけじゃありません・・・。理不尽な世上は、滅茶苦茶で道理なんてありゃしない。御武家か金持ちか、貧乏に生れたかで決まってしまう。さいころ賭博と同じですよ・・・いや、生れる時にさいころすら投げられないんですから」

信一郎は、やけに饒舌に愚痴を言い出した仙蔵が気になり、ふいと目を開けると、猪口へは注がずに徳利ごと口を付けて呑んでいた。

「酔っちまったか・・・しょうがねえな」

「少しは酔いましたが、この世の無情を忘れるほどではありません。どうして赤子が間引きされたり捨てられたりするんですかっ。望まない子だったら、どうして母親に宿るんですかっ。それこそ本末転倒じゃないですかっ」

仙蔵は徳利を膳の上にたんと置き、ふうと太い息を吐き散らす。

 信一郎も身を起こし、酒を煽る。

「それについちゃ同感だ・・・。なんせ、先月だけでも捨て子と女房を捨てたって記録が百六十件程もあった。確かに赤子に罪はねえ。親は選べねえし生きる時代も場所も・・・」

 信一郎は再び襖を開けて女中を呼び、酒と湯豆腐を持ってこさせた。

座り直した信一郎は、猪口を仙蔵の前に突き出した。

「注いでくれ・・・お前さんは、おいらがうらやましく見えるかもしれねえが、同心なんつったって所詮足軽よ。公方様(将軍)には一生御目通りは叶わねえし、旗本様からは蔑まれ、番屋の四人も雇っちまっている。同心のほとんどのもんは借金だらけだ。おいらの女房なんかひいひい言ってらぁ。富くじでも当たらなけりゃ、抜け出せねえ・・・」

 仙蔵はふっと信一郎に目を向ける。

信一郎が酒を呑み込むと、仙蔵は畏まって今一度ゆっくりと注ぐ。

「こんなにご馳走になってしまって申し訳ございません・・・」

信一郎は煙管に火を付ける。

「いいんだ、ここの宿は見廻りを頼まれているから大丈夫だ」

「本当でございますか?」

「ああっ」

「誠ですか?」

信一郎は煙をふっと仙蔵に吹きかけた。

「うるせえなっ、何度もきくんじゃねえ。がばがば徳利で呑んでいた奴の台詞かよっ」

仙蔵は深々と頭を下げて「申し訳御座いません」と手をついた。

「嫌な事思い出すから、よせ。酔いが覚めちまう・・・そうだ、番屋にいた四人なんだが、あいつらも最初はお前さんと似た様な目をしていた。だが、仙蔵、お前は世を理不尽だと言って恨みがありそうな感じだった。江戸では辛うじてでかい一揆や打壊しは起きてねえが、いつ始まってもおかしくはねえ。無宿や流入者を含めれば四、五十万もの人間が御救米と金を受け取っている。佐久間町の御救小屋じゃ、出て行った人間もひっくるめて五千人以上も収容していた。こんな御時世だから第二の大塩様が、この江戸に現れても不思議じゃねえ。小火(ぼや)も一月に一度くれえ出ているから、そのたんびに誰かが蜂起したんじゃねえかとビクビクしてんのさ・・・」

仙蔵は手酌をする前に私も頂戴しますと断ってから、酒を流し込んだ。

「もう、うんざりです。早く飢饉が終わって欲しいです」

「そうだな、今年の麦はよく育ったって聞いたから、少しは落ち着くだろうよ・・・それ呑んだら寝るぞ」

信一郎は煙を吐き出すが、自分の方へ隙間風が押し戻すと手を振って散らす。

富くじ当たらねえかな・・・」

 

 翌朝、仙蔵は信一郎に起こされる。

目覚めた仙蔵は目を見開くと、気分が悪く頭を押さえた。

用意された飯は信一郎だけが食い、大木戸近くの臨時番屋に向かう。

 

 戸をがらりと開けると、正平と卯之吉が夜勤明けで待機し、交代の伝造と孝助も詰めている。

「お早う御座います」

「お早う、なんかあったか?」

信一郎が問うと、正平は仰々しく頭を下げた。

「昨夜は特段異常はございませんでしたっ」

「なんだい、随分と元気じゃねえか。さては、また博打やってたんじゃねえだろうな?」

「いえいえっ、もう決して致しませんと心に刻み込んでいますからっ」

卯之吉に目を向けると、相変わらずガリガリに痩せている。

「ちゃんと飯食っているか?正平に巻き上げられてねえだろうな?」

信一郎は卯之吉の顔を覗き込む。

「はい・・・昨日は寝ずに」

卯之吉が言いかけると、正平が割り込んできた。

「寝ずに寝ずの番をしてたもんですから。なっ?だから、卯之きっつぁんは眠いんだよなっ。早く帰って寝よう、痩せちまうからなっ」と正平は卯之吉の口を封じるかのよう遮る。

「では、あっしらは帰りますんで、これにて失礼致しやすっ」

正平は卯之吉の荷物まで持って、そそくさと番屋を出て行ってしまった。

「なんだいありゃ・・・」

信一郎は小首をかしげて振り返り、一番年上の白髪交じりの孝助に「なんか知っているか?」と訊ねる。

孝介は落ち着き払って「全く存じません・・・」と首を振り、「そういえば、明日は十八日ですが役所の方に参られますか?」

「ああっ、そうだった。何か御奉行から申渡しがあるかもしれねえ。孝助、明日ここを頼めるか?戻るのは夕方になるかもしれん」

「はい」

 信一郎はさてどうするかと思案し、明日、町奉行所に行った後、八丁堀の屋敷にも戻りたいと思案する。妻である久子とは、十一月の初日以来会っていない。

急遽、この御役に就いてからというもの、多忙というより、やるせなく気鬱になるばかり。

誰にも言えぬが、早く退きたいのが本音だった。

 信一郎は上がり端に腰掛け、腕を組む。次の算段を思案する訳でもなく、なんとなく昨夜、仙蔵と話した事が頭に残っていたせいか、己が非力である故にいかんともしがたく、手を拱(こまね)くもどかしさ。所詮は同心だと己を宥めすかし、静かに長い息をふうと吐く。

ちらりと孝介、伝造、仙蔵に目を向ける。

「おいらは仙蔵の長屋の大家に話を聴いてくるから、孝介は留守番しながら明日持っていく書類やらを用意してくれ。伝造は町名主やらを回って、自身番がしっかり世話をしているか様子を聴いてきてくれ。その後は、いつも通り町廻りと周辺道中廻りだ」

 二人は声を揃えて返事をし、伝造は番屋を出て行った。

信一郎は黒紋付の羽織を着て、「じゃあ、お前さんの長屋に行くぞ」と仙蔵は後に続き、番屋を出た。

「成子天神社ってえのは、中野村の方だったな?」

「はい、秩父往還沿いでございます」

 本来なら、伝造に行かせれば良く、わざわざ薄ら寒い中、信一郎が出かけるべき事ではないが、自身で確認しないとどうにもすっきりとしない心持ちだった。

神仏を疑い、望みなくした者が、伊勢詣りにも行かずに江戸に残っていること自体が妙な話だが、言い分は分からなくもない。国に帰すといっても、村にも戻れないらしい。

このまま見逃して、長屋住まいでその日暮らしを続けるのが妥当なのかと思案しながら歩いていた。

一方、仙蔵は村へ返されてしまうようで、心中穏やかでない。

 途中、四谷追分稲荷に差し掛かり、鳥居を前にして信一郎は頭を下げた。

仙蔵に目を向けると、鳥居やその奥の社殿を覗き、そして、辺りを見回している。

「行くぞ・・・」

信一郎の言葉に仙蔵は、去り際に会釈するだけで稲荷を後にした。

 

 互いに話すこともなく、仙蔵の長屋に辿り着く。

長屋の大家である忠兵衛を訪ねると、甲州各田村百姓代、松次郎と書かれた手紙を渡された。

信一郎はじっと文面を確かめ、大家に預かっていいかと断り、手紙を懐に入れる。

身元を確かめた信一郎は、仙蔵の案内の元、店借している長屋の戸を開けた。

 土間を入ると蓑と菅笠が戸の裏側に掛り、手前に水瓶と台所に茶碗と皿が並べて伏せてある。四畳半の一間。奥には着物が二着衣文かけに下げられ整頓されている。

火鉢と布団、ちゃぶ台に衝立。貧乏住まいで盗む物も見当たらぬほど簡素な暮らしぶり。

 昼日中でも暗い間取りに信一郎は外へ出た。

「仙蔵、今幾ら持っている・・・蕎麦屋で五文しかねえって言っていたのは本当か?」

仙蔵は頭を下げて、長屋を離れるように「こちらへ」と導いた。

人家のないところまで来ると、仙蔵は「申し訳ございません・・・五文というのは方便でございます。伊勢詣りに頼まれた奉納金の一両はございますが、私の持ち合わせは、それほどはございません・・・」と再度頭を下げた。

「困ったな・・・」

信一郎は腕を組み、頭を下げる仙蔵から往来に目を向ける。

仙蔵も何を言われるかとびくびくしながら様子を窺う。

信一郎は左右を見渡したり見上げたりすると、眉間に皺を寄せた。

「なあ、仮においらが帰ったら、おめえはどうする・・・死ぬか?」

仙蔵はちらりと上目で信一郎を見て、地面を見つめたまま黙り込んでしまった。

 余りもに長い沈黙が続く。

信一郎は返答が長引くほど悪い方へと転ぶような予感もする。

己自身でも何故、こんなに在方の百性一人が気にかかるのかも良く分からない。

やるべき勤めを思い出すと、二つ三つはすぐに浮んでくる。

他に身元が分かった人間を帰す手筈や、無宿で働ける者を浜宛や人足場へ斡旋することを代官所とも協議せねばならない。しかも明日は、町奉行所にも書類を携えて報告する日。

世間では危篤の人間が山ほどいる。

死ぬとも生きるともつかない仙蔵は、俯いて突っ立っているばかり・・・。

つかみどころのない胸の痞えを取り除けぬまま、信一郎は仙蔵に呼びかけた。

「とりあえず付いて来い・・・」

 

 

 

   第二部(23)へつづく。

 

【 死に場所 】place of death 全34節 【第二部】(19)~(20) 読み時間 約15分

 

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 (江戸名所図会7)
 

  (19)

 初日の晩、仙蔵は笹子峠の手前、黒野田宿まで行き一泊した。

二日目の朝、難所の峠を越え、上野原宿の木戸が閉まる刻限ぎりぎりの暮六つに辿り着き、辺りはすっかり暗くなっていた。

 宿屋の主人に宿賃を尋ねると二百文だと告げられ、仙蔵は御伊勢詣と告げ、なるべく安く宿に泊まりたいと願い出ると、素泊まりで七十文ではどうかと言ってきた。

木賃宿に較べるとそれでも高いが足が張り、他を探すのも面倒で七十文で泊まる。

湯に浸かると飯も食わずに寝てしまった。

 

 三日目。朝早く霧の立ち込める中、仙蔵は宿場を出立した。

上野原から阿弥陀海道の宿場までは近く、仙蔵はここの茶屋で粉麦の焼餅を食べた。

この宿場は小さく、ほとんど人が見られない。茶屋に立ち寄る客は仙蔵一人だけ。

 暇そうな女中に、笹子峠から駒木野までおよそ七里と聞く。途中、鳥沢から犬目宿の間が険阻な山道と教えられた。

また、駒木野宿は甲州道中で一番厳しい関所があるとも付け加えた。

「そうそう関所で思い出したんですけど、今月の二日か三日にすごいものを見たんですよっ」

女中は、良い話し相手ができたと、仙蔵の隣の長椅子にとんと座る。

大名行列よりも多い、四、五十人の科人(とがにん)の行列が、江戸に送られるのを見たという。

仙蔵は早口の女中の大きな声に驚いて、喉に詰まった焼餅をお茶で流し込む。

「何があったんです?」

「お客さん、忘れたんですか?そりゃ、郡内騒動に加担した人たちですよ。見るも無残に縄目を付けられて、髭も伸び放題の薄汚れたねずみ色の着物姿でげっぞりしているじゃありませんか。その中の一揆の頭取でしょうかね、三十がらみの男の人が大きな鳥かごみたいな中で縛られて。他の人は、植木台に座られてさらし者として運ばれて行きましたよ。後は、そぞろ歩きであんまりにも気の毒なもんで、わたしなんか目を伏せてしまいました・・・でも、もう一人の犬目宿の宿屋の主謀者は、まだ捕まらずに逃げているらしいですけどね」

仙蔵は自分の事で頭が一杯で、騒動の事さえ忘れていた。

「どうしてわざわざ江戸に送られたんでしょう」

「さあ・・・わたしには分かりませんけど、多分見せしめじゃありませんか。大月の近くの村から始まった一揆の人たちが、この近くを通った時は、それは礼儀正しかったんですよ・・・本当の下手人は、米屋と無頼者ですよっ。何の為に、米屋を打壊したんだか分かりませんよ。一揆が終わってから更に米の値段は上がり続ける一方。この期に及んで、また囲い米をしているらしいんです」

女中は溜息を吐いて「やんなっちゃう。お米が入ってこないし・・・」と前掛けの紐をもじもじと伸ばしていた。

仙蔵は、逃亡している頭取であった犬目の兵助と、蕎麦の実を買いに行った自分となんとなく重なる。

「やむにやまれず、誰かがやらねばならなかったんでしょうね・・・」

「そうですよ、食べ物を博打みたいに弄(もてあそ)んだ罰(ばち)が当たったんですよ。お役人は全く逆の事をしているんです、米屋だけを処罰したらお役人の立場がなくなっちゃいますからね」

 仙蔵は往来に目を向けて女中の話を聴いていた。

米を作りもしない商人が抱え込み、人の困窮などお構いなしに、より高く売りさばいて利益を上げる。

 農業は天気との勝負。手間はかかるし一定の税を納めねばならない。

四年も不作続きなら、役人だって商人だって世間がどうなっているか分かりそうなものだ。だが、役人は別として、商人は敏感である故、その動きは早いから米を抱え込む量も尋常ではない。自分の事だけで世間が見えなくなってしまった結果が打壊し。

郡内騒動は、商人が元凶と思われても仕方ない。

 人の不幸で忙しいってのも、やるせねえ・・・

桶屋幸太郎の難渋な表情が思い出された。

 仙蔵はこれからの身の振り方を思うと、小さな溜息が漏れ立ち上がった。

「ご馳走様・・・」

女中は仙蔵の口を歪める顔を見て、自分も立ち上がる。

「宜しかったら、焼餅を持って行きます?駒木野までお越しになるんでしたらお腹すいちゃいますよ」

仙蔵はまた途中の宿場で高い飯を食うのも気が引けたので、焼餅を三つばかり携え茶屋を後にした。

気を取り直し、「なんとかなるっ、なんとかするっ」と言い聞かせながら道中を進む。

 

 初めて見る猿橋という珍しい造りの橋がある。

その両脇に枯れた草花と木彫りのこけしの様なものが手向けてあった。

下を覗けば、絶壁の間を流れる川筋は荒く、幾重にも白糸がうねった様であり、岩に当たって砕け散って飛沫を上げる。

落ちたらあの世と、思わず身を仰け反った。

つい数日前まで、消えて無くなってしまいたいと悶えていた事を思い出すと、怖いと思った自分が情けないやら生きたいと思うやら、矛盾した感情に当惑し自嘲する。

村を出て三日だが、初めて見るものばかり。見物したいものは浮ばなかったが、お天道様の下歩き続けるうち、気分が晴れる程ではないが、冷静に今の心持を皮肉っている自分に気付く。

 まもなく大月を過ぎ、鳥沢宿を抜けると上り坂が続く険しい山道となった。

疲労も重なり息が切れ、喉も張り付きそうな犬目の峠。

その頂に辿り着くと風が吹きつけ西日が眩しい。

往来の旅人たち十数人が、枯れた松林の間から遠くの眺望に感嘆して立ち止まっている。

「まあっ、綺麗なこと」

「これぞ、絶景かな~ぁ」

大げさとも思える太った旅人に、仙蔵は半信半疑でどんなもんだと眉を顰めて近寄ってみる。

太った旅人が仙蔵の疑い深い顔を見て、指差した。

「ほれっ、あれを御覧よっ」

見ず知らずの太った旅人が汗を掻きながら満面の笑みで、もう一度「ほれっ、こっちさ来い」と手招きを繰返す。

妙に馴れ馴れしい男に急かされ、おずおずと男も女も入り混じる場所に歩み寄る。

旅人は、大きな富士を突き刺す様に「見よ、この絶景っ」と我が物とばかりに見せ付けた。

「おおーっ」

仙蔵は思わず太った旅人に顔を向け、同じく笑みがこぼれる。

「なんて凄いんだっ」

 燃える様な夕映え、両脇の松林が縁(ふち)。その中央に大きな富士の山。

裾野は雲海で覆われ、日輪が西の奥から雪の山頂や雲、大地を橙(だいだい)色に染める。

その後光が仙蔵や他の旅人らも包み込む。

 神仏に一番近い場所と言われる富士。

仙蔵は胸が熱くなり、おのずと手を合わせると涙が流れ落ちる。

 教えてくれた太った旅人も仙蔵の顔を見てうんうんとうなづき、その目からも涙が夕日に照らされ、きらりと輝き袖で拭う。

仙蔵と恵比寿の様な旅人は見つめ合うとうなづき、富士に向かって再び合掌する。

仙蔵自身、なにを願うとか、無事を願うといったことさえもない。

あの猿橋から下を眺めて咄嗟に身を引いた時と同様に、そこに思慮はない。

 富士を眺めてはまた拝む事を繰返していると、若い女の一向の話が聞こえてきた。

「もうそろそろ降りませんと真っ暗になってしまいますよ。ほらあそこの御茶屋さんだって店じまいですって」

女たちの視線の先には、腰の曲がった老婆が掘っ立て小屋の暖簾を下ろしていた。

仙蔵は女を見、再び老婆に見入る。

「あんなおばあさんがこの峠で店をやっているんだ。たくましい・・・」

どうやら女三人と男の共を連れての旅らしい。

仙蔵は女と目が合い「どちらまで」と聞くと、「身延(みのぶ)詣りです」と答えた。

「あんさんはどちらへ?」

「江戸に出てから御伊勢詣りへ」

「ほう、それはけったいな事ですね」

連れの男が感心している。

「まあ、無事に行ければですが・・・」と仙蔵は言葉を濁す。

「道中御無事で、御多幸をお祈り致します」と女たちが頭を下げた。

仙蔵も「皆さんもお気をつけて、御息災に」と一礼し、それぞれ反対方向に歩き出す。

絶景を教えてくれた太った恵比寿の様な男はどこかと辺りを見渡してみたが、すでにいなかった。

あと一刻ほどで宿場の木戸が閉まってしまうと歩調を速めて峠を下る。

 

 犬目宿には、それから半時程で到着したが、関所があった鶴瀬よりもものものしく町役人だけでなく、関所からの役人らも多く見られた。

阿弥陀海道の茶屋の女中が、一揆の頭取の兵助がこの宿場の百姓代だと言っていたから警備が多いのだろうと察した。

 犬目宿は、江戸からの身延詣りの客が峠を越える前に泊まるため、他の宿場に較べて旅人が多かった。とはいえ、一揆が治まってまだ三月。まばらといえばまばらだった。

仙蔵は真冬の風を受けながら安宿を探すが、そういった処は誰もが考える事で満杯だった。

仕方なく、百文もする木賃宿に泊まる。

宿は、値段の割には隙間風がびゅうびゅうと入り込み、仙蔵の首筋を撫でてゆく。堪らず湯に浸かってみるも、その湯がまたぬるい。

早々に部屋に入って、昼間の焼餅の残りを食べて早々に床についた・・・。

 

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( 富嶽三十六景「犬目峠」)

   

   (20)

 内藤新宿の臨時番屋の外は暗くなり、信一郎は行燈に火を入れる。

仙蔵も喉が渇き、茶を飲んで一息吐くと、岡っ引き四人がぞろぞろと戻ってきた。

 風に吹きさらされた岡っ引き達は、寒さが身に沁みて体を縮め手を擦る。

「只今、帰りました。おおっ、寒みい・・・」

「御苦労だったな。で、どんな塩梅だった?」

 信一郎は手ぶらの四人が大げさに疲れた風に装うので、怪しんで日中の様子を聞く。

「へい、行倒人も迷い人もおりませんでした」

信一郎は岡っ引き連中の顔をそれぞれ見渡し、眼を細めて小首を傾げた。

「変だな、昨日は八人もいたよな。そんで今日はこの仙蔵一人か。それもおいらが連れて来ただけかよ・・・」

「足を伸ばしてみたんですがおりませんでした」

信一郎は未だ信じられんと、今一度問い質す。

「本当に見て廻ったんだな?で、正平、どこら辺廻ってきたんだ?」

正平と呼ばれる鉤鼻の役者面の岡っ引きが「いっ、板橋方面まで見て参りました。そうだよな?」と他の三人に同意を求める。

他も互いに顔を見合わせて、うんうんと頷き合う。

「なんで板橋なんだよっ、呆れた・・・雁首揃えて四人で板橋見物かっ。板橋には板橋役人がいるだろうっ。板橋に何かあるんか?博打か?二手に分かれて見廻るのが常道だろうっ、よりによって四人で板橋って・・・訳分かんねえ」

信一郎は機嫌悪く首を振り、溜息を吐く。

まだ言い足りない信一郎だったが、岡っ引きたちが「板橋宿までは行きませんし、博打はしてませんっ。すいません」の一点張りに匙を投げて話を切り替えた。

当たりめえだっ。それはそうと、今日の夜勤は誰なんだ」

「あっしと卯之吉です」

正平が信一郎の顔を見る。

「お前らは今廻ってきたばかりだろう、そのまま夜勤か?」

正平はううと唸って固まっている。

「おめえら・・・夜勤前から博打のために番屋に集ったのかっ。そんで、おいらに見つかったから慌てて飛び出したまんまだったんだろうっ。それにこれ・・・お前の荷物がここにあるもんだから、戻れなかったって訳か」

正平は額に手を当て、「すいやせん」と謝る。

「今日、おいらが帰って来た時、おめえらは博打やってたよな?」

「白沢様、どうかお願いです。もうしませんからお咎めだけは・・・・」

四人は土間に手を付いて懇願した。

「汚れるから頭を上げろ。それはそうと、おめえらの中で一番勝っているのは誰だ?」

 正平が手をゆっくりと手を上げた。

信一郎は頷いて「勝率はどんぐれえだ?」と聞く。

正平は上目遣いで「なっ、七割前後というところです」と答えた。

「そん次は誰だ」

「はい」と白髪まじりの孝助が手を上げた。

「勝率は?」

「五分でしょうか・・・」

信一郎はふ~んと頷き更に聞く。

「三番目は?」

でこっぱちの伝造が手を上げる。

「五分を行ったり来たりです」

信一郎は、枯れ枝の様にガリガリにやせ細った卯之吉に目をやると、「七割がた負けております」と恥ずかしそうに答えた。

「卯之吉、お前は皆に借金があるんじゃねえのか?」

信一郎がじろりと他の三人に目を向けると途端に視線を外した。

「仲間内で博打なんてしたら、仲間じゃなくなるだろう。親はいつも正平なのか?」

信一郎が正平に顔を向けると、慌てて手を振る。

「いえいえ、順ぐりにやってますっ」

「いかさましてねえのか?」

「まさか、冗談でもそんな事を言わないで下さい。仲間内でいかさまなんてしたら袋叩きに合いますよっ」

信一郎は、黙って聴いている仙蔵にちらりと目を向けてから、正平を見つめた。

「どうしておお前が七割勝って、卯之吉が三割しか勝てねえんだ?」

正平は「さあ・・・」と首を傾げて困り果てる。

「丁半は、奇数と偶数の二つだけを予想して銭を賭けるよな。でも、百回やったら均等に勝率は五分って訳でもねえけど・・・正平、やっぱりおめえ、いかさましてんじゃねえのか?」

「白沢様、いかさまなんてしたら続けられなくなりますよ~ぉ」

信一郎の眉がぴくりと跳ね上がり、正平を睨みつけた。

「今さっき、博打はしねえって言ったばっかりじゃねえかっ。額に刺青入れて表歩けねえようにしてやるぞっ」

正平は「それだけは勘弁して下さいっ」と再び平に手を付き懇願する。

信一郎はやり切れないと不快を露わに首を回す。

「みんな、今まで勝った分を返して全部清算しろ」

「ええっ!そんな殺生な~っ」

信一郎は正平と顔がくっ付きそうな程顔を寄せた。

「これで博打は仕舞いだっ・・・額に刺青がいいか、清算するかどっちがいい?次、番屋でやったら、皆お払い箱だ。他の連中に見つかったらおめえらだけじゃねえ、おいらだって罷免される。本当に庇い切れねえからな・・・」

信一郎の機嫌は殊更悪くなり、溜息ばかりが繰返される。

「ああっ、気分悪りいっ、ここに居てもしょうがねえ。正平、卯之吉、交代で仮眠を取ってちゃんと夜勤しろよっ。そんで孝助と伝造はさっさと帰れっ」

一同は声を揃えて「はいっ」と歯切れよく返事をする。

「ああっ、頭痛くなってきやがった。番屋が賭場なんて目も開けてらんねえ」 

信一郎は畳の上の糸くずを見つけて摘み、ぐりぐりとねじりながら溜息を漏らす。

「そもそも、なんだってこんな御役・・・うんざりだ」

 

 黙っていた仙蔵も信一郎の様子を伺い、岡っ引き連中もその動向に注目する。

無言の番屋は重苦しく、信一郎はねじった糸くずを火鉢に放り込んで立ち上がる。

「仙蔵っ、気分悪りいから場所を換えて話を聴く。着いて来いっ」

信一郎は四人を横目で睨みながら足袋を履き、「さぼるんじゃねえぞ・・・仙蔵、荷物も持って来い」と雪駄を履く。

続いて、仙蔵も荷物を抱えて草履を履き、信一郎に続いて外へ出る。

 岡っ引き四人組が一礼する。

「御勤め御難儀でございましたっ」

信一郎は、岡っ引き四人を睨みつけた。

「ふんっ、何が御難儀だ、分かっているなら博打なんてすんじゃねえ。風邪引くなよっ、引くわけねえか。仙蔵、付き合え・・・」

 

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 ( 猿わか町夜の景 歌川広重 イメージ )

 

 暮六つの鐘が鳴り、大木戸が閉められた内藤新宿

三味線や唄、手拍子が宿や居酒屋から聞え、飢饉の最中とは思えぬ程。

酒は辛さを忘れる為のうさ晴らしに売れ、芝居小屋も現実逃避とばかりに盛況だった。

信一郎は小料理屋などの店の中を幾つか覗くが、どこもどんちゃん騒ぎ。

「うるせえな・・・しょうがねえから、おいらの宿に行くか」

信一郎はぶらぶらと町中を歩き、仙蔵は少し後から付いて行く。

 角屋という信一郎の定宿の暖簾を潜ると、丁稚と女中が出迎えた。

「おかえりなさいませ、白沢様」

信一郎は足袋を脱いでいると、まだ若い女中が足袋を受取る。

「こちらはお連れ様でございますか?」

信一郎は仙蔵を手招いた。

「戻るところはあるのか?」

「まあ、いや、なんとも・・・」

「どっちなんだ、あるのかねえのかはっきりしろ」

仙蔵は首を傾げながら「ありません・・・」と答える。

「まあいい、こいつも一緒に泊めてくれ」

丁稚の小僧が、仙蔵に足を出すように言うと「おいらは自分で洗うからいいよ」と冷たい桶の中に足を入れた。

「そうは参りません、これはあっしの仕事ですから」とじゃぶじゃぶと洗って、足の具合を眺めてから雑巾で拭いた。

「どうぞ、お上がりになって下さいませ。女将様、白沢様がお戻りになられました〰っ」

 小僧の呼びかけに女将が足早に現れ、丁寧に三つ指を付く。

「今日もお寒い中、御難儀な事でございました」

「御難儀か・・・女将、もう一人頼む。それと、銭湯行ってからおいらの部屋で一緒に飯を食うから用意してくれ。全くむしゃくしゃするぜ・・・」

女将は一人ぶつくさと嘆く信一郎の顔をぽかんとして見つめる。

「どうなさったんです?」

「なんでもねえ、手拭をくれ」

信一郎は二人分の手拭を女中から受け取り、銭湯に向かった。

 

 仙蔵は四日ぶりの風呂。

脱衣所で着物を脱いでいると、信一郎の眼が気になった。

「そういう気はねえから安心しな。一応、刺青と病がねえか確かめただけだ・・・」

仙蔵は前を隠して「体だけは丈夫です」と言って浴場に行き、体を丹念に洗っていると、信一郎は瞬く間に風呂から上がる。

「おーい、早くしてくれよ」

仙蔵はまだ湯に浸かっておらず、「しばしお待ち下さいっ」と慌てて湯をかけ流して、どぶんと浸かった。

 浴場に顔を出した信一郎は、既に着物姿。

「腹減ったから、早くしてくれ」

仙蔵はもっと浸かりたいのはやまやまだったが、銭湯代も払ってもらっている手前、早々に上がって着物を羽織った。

 

 仙蔵と信一郎は宿に戻り、二階の部屋の襖を開けると、周到に膳が並んでいた。

仙蔵は久しぶりに飯と味噌汁、焼き魚と大根の煮物を眼にして、ごくりと唾を飲み込む。

二人は膳の前に座り「さあ、食ってくれ。なんだか気分が悪くなったから一緒に付き合ってもらおうと思ってな・・・」

 仙蔵は余りの待遇に驚いて、箸も取らずに信一郎と膳とに眼を往復させた。

「どうした・・・食わねえのか?」

「いえ、私みたいな者が、御役人様に御馳走になって宜しいんですか?」

信一郎は猪口に酒を注ぐと、「お前さんもやりな、ほらっ」と徳利を突き出した。

「御相伴にお預かり致します」

仙蔵は平に手を付き、「誠に申し訳ございません」と酒を注いでもらう。

信一郎は猪口の酒を流し込むと、「おいらだっていつもこんな風にしている訳じゃねえ、たまたまだ・・・見ての通り、あいつらが番屋で博打なんてやりやがって。情けねえって言うのか切ねえっていうのか、その他もろもろだ・・・」と再度自分で酒を注ごうとした。

「白沢様、今度は私が・・・」

仙蔵は慌てて信一郎の猪口に酒を注ぐ。

「ありがとよ。で、あの馬鹿共のおかげで話は途切れちまったが、伊勢にはまだ行ってねえって言ってたな?」

「はい、年が明ける前に江戸に辿り着いてからは、大きな神社や寺を巡っておりました・・・」

「そうか。でも、一年近くも伊勢にも行かねえで何をしていた。お前さんも知ってるだろうが、甲州一揆の頭取だった犬目宿の兵助という者は、まだ捕まってねえ。手配書によれば、年の頃は四十を過ぎているとあるから、お前さんじゃねえ。ただ、江戸に逃げ込むって事もありうるし、兵助を助けて匿う奴もいるかもしれねえ・・・」

 仙蔵は信一郎が未だ自分に警戒している様子に申し開く。

「おいら、いえ、私は兵助さんの地域とは違いますし、全く存じません」

信一郎は魚に箸を伸ばし、口に放り込んだ。

「なにがどう違うんだ」

「私の村は国中(くになか)という方面で、甲府に近い場所で米や畑で生計を立てております。一方、犬目宿の方面は、郡内という地域でございまして笹子峠小仏峠など険しい山々が連なり、米作に適しません。ですから、綿織物や絹織物などを売った金を年貢として納めております。国中は米の備蓄などもあって餓死することはありませんでしたが、郡内は米を買わねばならない方面ですから、大そう疲弊され・・・」

仙蔵の言葉が鈍り、信一郎は酒を勧める。

「それで、米屋が売り惜しんで値を吊り上げたって訳か。江戸も大阪も似た様なもんだが、大阪は特に酷かったらしい。今年の二月に西町与力の大塩様が蜂起したのを知っているか?」

仙蔵は酒を呑んでから、うなづいた。

「はい、お噂は・・・」

「あれも米穀商と・・・まあ、おいらが言うのもなんだが大阪の役所が、米を江戸に回そうとしたからだと。一揆の残党が江戸に紛れ込むやもしれんから三廻の他にも増員して巡邏している。越後でも騒動が起こったから江戸もぴりぴりしている。だから、念のため事情を聞かねばならん・・・」

仙蔵は勧められた酒もほとんど呑まず、すぐさま信一郎の猪口に注いだ。

 

 料理に手を付けない仙蔵を見て、信一郎は話題を変える。

「番屋にいた正平を覚えているか?」

「正平さんでございますか?さて・・・」

「一人でべらべら捲くし立てて、博打で一番勝っていた男だ」

仙蔵は思い出し、はいとうなづいた。

「あいつは、元々役者だ・・・興行主に相談されて身元を引き受けた。そんで、白髪交じりの考助は、元番頭。でこぱっちの伝造は駕籠掻きをやりながら手伝っている。一番負けていたガリガリの卯之吉は何をやっていたか分かるか?」

仙蔵はさてと首を捻り、「なんだか根が真面目そうですから僧侶ですか?」と適当に答える。

信一郎は飯を平らげて、爪楊枝を咥えてみせた。

「こんな風な楊枝みてえな奴だが、博徒だったんだよ。ふふっ」

「あの人、一番負けていたじゃないですかっ」

仙蔵は、博徒らしかぬ出で立ちと負けっぷりに、ふっと笑ってしまう。

信一郎も呆て笑う。

「ばかだろ~っ?柄じゃねえのに博徒になって諸国を渡り歩いては負け続け、流れ流れておいらがとっ捕まえた。とっ捕まえたというより、他の連中が逃げる為に押し出されたって言った方が早ええ。あれでも太った方だ」

仙蔵は今一度首を捻る。

「さっきも、相当ガリガリでしたけど・・・」

「捕まえた時は、ガイコツみてえに痩せていた。まあ、下っ端の使いっぱしりだ。貧乏くじを引かされたってな奴だな」

「お気の毒ですね・・・」

信一郎は肴を摘んで酒を呑み、仙蔵の顔を見てふと天井を見上げた。

「まあ、おいらの親父が面倒見が良かったから、方々から相談がある・・・どうしてあいつ等の話をしたか分かるか?」

仙蔵はちらりと信一郎の様子を窺うと、天井に顔を向けながらも目だけが自分に向いていることにわずかに肝を冷やした。

「存じません・・・」

信一郎は座り直してから、ぐっと仙蔵の顔を覗き込む。

「最初、両国橋の屋台で、親子が飯を食ってから心中したって話をしたのを覚えているか?」

仙蔵は静かにうなづく。

「はい、昨年の今頃と御聴き致しました」

信一郎は煙管を取り出して、太い煙をふうと長く吐く。

「おいらが知る限りじゃ、自ら命を絶つって人間は、何らかの予兆はあるもんだが本人は覚悟しているから、そりゃ気付かれねえ様にするもんだ。でも、お前さんは違った。死ぬっていう人間が、糞不味い蕎麦に文句を付けるとは思えなかった。それでずっと訳を聴いていたんだが、どうも腑に落ちねえ・・・一年も伊勢参りにも行かず、江戸で何をしていた?」

 仙蔵は信一郎に正面から糺されると、言葉に詰まってしまう。

「でっ、ですから、江戸の各地の神社仏閣で祈願して、頃合を見て伊勢に参ろうと思いましたら、二月に大阪で大乱、六月には大雨などが続いて、日が伸びてしまって日雇いなどをしておりました・・・」

信一郎は酒を呑むと、再び仙蔵に「お前さんも呑め」と勧めた。

仙蔵は急に「いえっ、沢山頂きましたので結構でございます」と断った。

「さっきから全然呑んでねえが、酔ってなにか言っちまうのが怖くなったのか?」

「私はそれほど酒が強くないものですから・・・」

「そうかい、お前さんが物をくすねたり騙したりする人間とは思っちゃいねえ。犬目の兵助は追われる身だが、土地の百姓から見れば義民だろう。そして、大阪の大塩様は御公儀に弓を引いた。他方、大阪の民百姓からすれば救民の為の義挙だ。お前さんと蕎麦屋で会った時、値を吊り上げていた親父に文句を言った事は、おいらも同様に見過ごす訳にはいかなかった。あん時、お前さんは理不尽な世だとも言ったな?」

信一郎の問いに、仙蔵は束の間振り返って頷いた。

「ええっ、まあ・・・」

信一郎は煙管を咥えて吸い込んでみるが火が消えており、中身を火鉢に捨て、再び火を付ける。

「ふーう。分からなくもねえ・・・大塩様も檄文の中で『この地獄を救い、死後の極楽、仏を眼前に見せるような世に戻したい』ってな事を書いたらしい。何が言いてえかっていうと、似てんだよ。一揆を起こした兵助や大塩様と・・・。この江戸で何か起こそうって事はないか・・・」

仙蔵は身を仰け反って大きく手を振った。

「滅相もございませんっ」

信一郎は吐き出した白い煙の中から仙蔵を見つめる。

「もちろん、お前さんが一揆の頭取なんて思っちゃいねえ。覚悟した奴は、着々と水面下で準備をするもんだ。これまでの様子からして、偵察の為にわざと騒ぎ立てて、どのぐらい役人が出てくるのかを探る為って事も考えられるが、どうだ?」

仙蔵は畳に頭をこすり付けんばかり平に手を付く。

「白沢様、私にはそんな大それた事などできませんっ」

頭を下げる中、宿に泊めてもらい飯までご馳走してくれる理由が分かったような気がした。

この白沢という役人は、自分を兵助の仲間だと疑い、酔わせて白状させようとしているんだと。そう思うと、急に体が震え始めた。

信一郎はじっと仙蔵の様子を見つめ続け、再び煙をぼかりと上らせた。

「ならば、どうして江戸に居続けるんだ。江戸は知っての通り、毎日施米を受けようと、町会所や御救小屋に人が並び、土手には死人が転がっている有様だ。いくら死体を片付けても追っつかねえ。そんな中で、おめえはさっきから神社廻りと言ってばかりだ。物価は高けえから金だって底を付く。疑うのも当然だろう」

「ですから、神仏に縋(すが)って・・・」

仙蔵は頭を畳に付けたままでいると、信一郎が立ち上がった。

「そいつは嘘だ、だったら御札とか御朱印かなんかを見せてみろ。この荷物に入っているのか?」

仙蔵が顔を上げると、信一郎が竹駕籠の荷物に近づいて腰を屈め指差した。

「大したものは入っておりませんっ」

信一郎は中身を開けるように言うと、仙蔵は仕方なしに蓋を開けた。

服を取り出し、その下から包み紙、服紗と小袋が現れた。

服紗を開くと小判が一枚。そして、小袋の中からは黒い玉の様な物が出て来た。

仙蔵は包み紙を信一郎に手渡した。

御朱印と奉納札はたったの十枚・・・どういうこった」

信一郎は御朱印や札を仙蔵に突きつける。

仙蔵は震えながら受取った。

「なんだか怖くなったんです・・・」

信一郎は俯いた仙蔵の覗き込む。

「なにがっ」

仙蔵はちらりと信一郎に目を向けるとさっとそむけた。

「この世に、神仏なんておりません、から・・・」

 信一郎は胸糞悪いと表情をさっと変えて立ち上がり、酒が足らぬと女中を呼んだ。

階上の信一郎の機嫌悪そうな声に、寸間(すんか)で女中が慌てて駆け上がり銚子を三本持ってきた。

仙蔵に受け取らせると、信一郎は盆の上から銚子を取って手酌で注いで飲み干した。

「またまた妙な事を言ってくれるじゃねえか。伊勢参りに行こうって奴が、神も仏もいねえだなんて・・・嘘つくなよ、正直に話せ」

仙蔵は御札を見つめ、駕籠の中に仕舞って頭を下げた。

「はい・・・」

 

     第二部(21)へ続く・・

【 死に場所 】place of death 全34節【第二部】(18) 読み時間 約12分

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   (18)  

 仙蔵の心とは裏腹に、空は澄み渡り旅立ちには申し分ない。

師走の寒さは和らぎ風も穏やかであったが、仙蔵は逃げるかの様に菅笠を目深に被り、往来の人々の目を避けて進む。

 石和宿の木戸に差し掛かると、仙蔵の心持を見抜いたように「そこの者、待て」と役人に手形を求められた。

仙蔵は素直に往来手形を取り出した。

「こんな時分に伊勢詣りか・・・」

役人は不快な眼差しを向けた。

仙蔵は五穀豊穣と亡くなった死者を弔う為だと告げると、役人も押し黙って頷き、

「行って良しっ」と不服ながら通過を許可した。

仙蔵は心の内で、飢饉の差配に失敗したから、一揆が起きたくせに偉そうに振舞うなと呟き、石和を抜けた。

旅は始まったばかりだったが、松次郎との別れや慣れない独り旅で歩調も速くなり、途中で疲れてきた。

 あと一里程で、おさよがいる栗原宿。

仙蔵は懐に手を入れ、おさよにもらった巾着を取り出して見つめる。

出来る事なら、全てを打ち明けて身を寄せたい、やるかたない事情と不透明な先行きに惑わされる。

とはいえ、松次郎との約束もあり、おさよは親類と一緒に団子茶屋を切り盛りしている。

圭助には、婿に行った事にしてくれと書置きをしたこともあり、気弱から迷いが生じているんだと、我に返り再び歩き出す。

 栗原宿へ行った事は数回だけ。おさよがいる茶屋がどこにあるのかも分からない。

もし、宿場の入口付近にあって気付かれてしまったら、元も子もないと心掛ける。

見つからない様、菅笠で顔を隠して宿場を通過しよう。

年明けに会いに行くと、交わした約束を反故にする悔しさで足取りは鈍る。

 束の間の夢だったんだ。一緒に狩りに出て、喜び合い飯を食った夢。

今のおいらじゃ、迷惑をかけるだけだ・・・。

おいらが思うほど、おさよさんは気にしてねえ。約束すら覚えていないだろう。

それに、夫婦になる契りも交わしていない。おいらが逆上(のぼ)せただけの事、勘違いだ。

栗原を抜ければ、全てが形見・・・。

仙蔵は巾着を懐に仕舞って、栗原に向かう。

 

 昼前に栗原宿が見えた。宿場の木戸は、一揆勢に打壊されたのか、簡素に修繕された木材が白く新しい。

一揆の再来を慮って役人が立って目を光らせている。

木戸の付近を確かめると宿や茶屋などは見えず、人の姿は余り見かけない。

仙蔵は門番に頭を下げて宿内に入り、目立たぬ様に菅笠を深く被り直す。

道の両脇に店屋は点在する小程度の小さな宿場町。

旅籠屋など数件の奉公人が乾いた道に水を撒き、道端を掃き清めながら、客はいないかと辺りを見回している。

仙蔵は声をかけられぬよう遠巻きに端を抜けようとするが、奉公人らしき小僧に捕まる。

「旦那、どこから来たの?良かったら家に泊まって下さいよ」

小僧が下から仙蔵の顔を見ようと、執拗に菅笠の中を覗き込んでくる。

忌々しいと仙蔵は菅笠に手をかけて、「甲府から出たばかりだ」と早足に小僧を振り切る。

「だったら、うちで一休みして下さい」

小僧は声を上げて、仙蔵にまとわり付いてくる。

所用で先を急ぐと、仙蔵は更に足早に進むと小僧は諦めた。

目立たぬ様にしたつもりが、小僧のせいでそこらの店の者が客になるのではと顔を覗かせている。

 仙蔵は、おさよが見ていない事を祈りながら先を急ぐと、宿場外れの木戸が見えた。

その手前では旅芸人の集団らしき旗竿。

茶屋の前に簡素な長椅子が幾つか置かれ、そこへ七、八人が腰掛けて一服している。

その脇で、一座の男が小さな子供に南京玉簾を手ほどきしている。

「そうじゃねえ、ここを摘んで広げんだよ」

仙蔵は立止って、茶屋の屋号に目を向ける。

笹子屋、ここか・・・。

 

 腰掛ける親方らしき年長者が、茶屋の中に向かって声をかけた。

「お姉さん、追加でみたらし三本ね~っ」

仙蔵は茶屋の中からおさよが出てくるのを一目見ようと、近くの木陰に腰を下ろし草鞋を直す素振りで屈んだ。

「おまたせしました~っ」と良く通る声と共に、おさよは藍の木綿に前掛姿で出て来た。

団子を乗せた皿を渡すと、旅一座の親方らしき男は「お姉さん、べっぴんだね~っ。どうだい、うちの一座に入って芝居なんてしてみねえか?」と笑いながら声をかけた。

「おほほ、いやですよお客さん。冗談なんて言ったってお団子負けませんよ」

おさよは笑ってあしらうが、他の芸人も「冗談じゃないさ。親方の言う通り、あんたなら毎日客が詰め掛けるってもんさ」と団子片手に近寄った。

「はいはい、ありがとうございます、お戯れでも嬉しいですよ。毎日、皆さんでわたしをお誘いにいらっしゃって、うちのお団子を沢山食べてくれたら考えますよ」

「毎日ってか?そんな事したら旅は続けられなくなっちまうし、おまんまが毎日団子になって串だらけだ」

「親方。だったら、赤穂浪士四十七串の討ち入りって芝居はどうです?」

「四十七串?なんだいそりゃっ」

赤穂浪士が、刀の代わりに団子の串で、吉良上野介をぶすぶすと突き刺す芝居ってのはどうです?」

「くっだらねっ、吉良上野介の首はどうやって討ち取るんだよっ。イガ栗みてえに全身串だらけにでもするってえのか?そんなの馬鹿馬鹿しくて誰も見ちゃくれねえよ。舞台のオチは、『名を改め、イガ上野介であるっ』ってかっ!ぶはははっ」

おさよを囲み、旅一座がくだらないと手を叩いて勝手に笑い出し、その場を和ませていた。

 

 仙蔵はおさよの働く姿を見て、儚い想いに踏ん切りが付いたように思う。

誰もが下を向いて歩く様な世で、旅一座も苦労しているだろうに、わずかな休息を楽しんでいる。

例え、連れ添っても苦労するだけだ。おさよさんは此処(ここ)で働くことが性に合っている。

これでいい・・・。

 仙蔵は木陰を潜って廻り、栗原宿の木戸を振り返る。

幸せになってくれ、おさよさんの分も祈ってくるよ。お達者で・・・

仙蔵は戻らないと心に決め先を目指すが、割り切れぬ思いは依然残り足取りは重い。

日が暮れるのも早いからさっさと歩けと、自らに鞭を打ち遠方の山々に目を向け進む。

 更に進むと、川沿いに続く景観となり、大きな寺に差し掛かる。

山号を見れば大善寺とあり、なかなか由緒ありそうな寺だった。

仙蔵は寺に立ち寄り、松次郎に頼まれた供養と圭助一家、おさよの安寧を願って手を合わせた。この先、道々にある神社仏閣に手を合わせていこう。

 勝沼宿を抜け、鶴瀬宿に辿り着いたのは昼時だった。

鶴瀬には、御番所と呼ばれる関所があった。往来の旅人、隣に流れる川では荷も改める。

仙蔵は通行改めの建物の前に一列になって並び、手形を用意して十人程順番を待つ。

一揆の頭取の一人が逃げており、厳しく改める。

一人一人の吟味に時間がかかり、仙蔵の番が廻ってきた。

役人が往来手形を見て「御伊勢参り・・・誠に行くつもりか?抜け詣りじゃあるまいな」と驚いた後、じろりと仙蔵に目を向けた。

「正真正銘の往来手形で御座いますので、嘘偽りは御座いません・・・」

仙蔵は役人とは余り目を合わさぬよう節目がちに答えた。

役人はふうと溜息を付く。

「郡内騒動の翌月、駿河三河東海道沿いでも一揆があったばかりだぞ。米ばかりでなく諸色全般に渡って高騰しておる。宿屋も三百五、六十文に跳ね上がっていると聞く。それに逃亡人の改めも厳しく、強盗も多い。余程気をつけねばならん。今一度糺すが、それでも伊勢に参るのか?」

「はい・・・・」

仙蔵は神妙に頭を下げると「関所を通る度に厳しく改められるからしっかり手形を持って行け、くれぐれも失くすことがない様に。無事を祈る、行って良し」と役人は手形を返した。

 仙蔵は鶴瀬の御番所に許しを得て、宿内の蕎麦屋に入ろうと、障子戸の入口脇に「諸色高値に付き、かけ蕎麦一杯二十三文」と貼紙があった。

村を出て初めて金を使うことになるが、これほど高いと尻ごみしてしまう。入るか入るまいかと思案していると、旅の男が背後から仙蔵と同様に貼紙に立止った。

仙蔵は振り返って、男に「随分と高いですね」と眉を顰(ひそ)める。

「今の御時世こんなもんさ。特に、甲州道中は高いって評判だ。諏訪藩は参勤交代で甲州道中を使わず、わざわざ中山道を東に抜けて、上州から江戸に入るそうだ」

男は溜息を吐き、仕方ないと先に蕎麦屋の戸を開く。

「お前さんも入るか?美味めえか不味いか知らねえけど」

 仙蔵は何処も高いと聞かされ、他を探すのも面倒になり、男に付いて店に入った。

店の女中は笑みの一つも浮かべず無愛想な態度で「お客なの?」と店に入っているにも関わらず嫌味な調子で聞いてきた。

「お二人さん、ここに座って・・・」

仙蔵と旅の男が一緒だと思ったらしく相席になった。

男は三十半ばで、くっきりとした眉が印象深い。旅なれた様子で荷は少なく椅子に引っかけると、不機嫌な女中に声をかける。

「蕎麦って、天ぷらなんて物もあるのかい?」

「あと、山菜蕎麦も・・・」

男は「天ぷら蕎麦は幾らだ」と聞くと「五十六文・・・」と答える。

「う~ん、高けえな・・・じゃあ山菜蕎麦は?」

「三十文・・・」

男は下唇を歪めて「じゃあ、山菜蕎麦をくれ」と諦め、顔を顰(しか)める。

「お連れさんは?」

女中はいらいらした調子で、仙蔵を急かす様に注文を聞く。

仙蔵はかけ蕎麦を頼むと、女中は無言で立去り厨房へ向かって注文を読み上げる。

随分と横柄な女中の態度に仙蔵は入らなければ良かったと、戸口に目を向けた。

「相当な馬面(うまづら)だな・・・」

「おいらですか?」

仙蔵は唐突に言い出す男をぽかんと見つめた。

「お前さんは丸顔だ。さっきの感じの悪りい女中さ、腐った干草でも食ったんだろう・・・」

仙蔵は余り見ていなかったと、今一度厨房に入っていった女中が出てこないかと注目する。

仙蔵が厨房の入口にかかる暖簾を見つめていると、「お前さん、江戸に行くのか?」と男が聞く。

「ええっ、まあ江戸へ出てから、御伊勢参りに行こうかと・・・」

「えーっ、こんな世上だぞっ、呆れたね」

男は信じられないと首を振る。

「御番所の役人も驚いていました・・・。東海道も物価が高いって」

「ああっ、おいらは江戸で桶屋をやってんだが、どれもこれもが二倍三倍は当たり前よ。おまけに忙しさも二三倍ってきたもんだ」

仙蔵は桶屋を営む男に不思議な目を向けた。

「そんな忙しい親方が、どうしてまた旅なんてしてんです?」

桶屋の男は腕を組んで、首を捻り眉間に皺を寄せ、う~んと唸り始めた。

仙蔵はなかなか言い出さないので、昔聞いた風な事を口にした。

「なんかで聞いたんですけど、風が吹けば桶屋が儲かるって。そんな塩梅なんですかね」

桶屋はちらりと仙蔵を見て、大きく溜息を吐いた。

「うんまあ、そうと言えばそうだろうな・・・最近は樽みたいな大きな物を頼まれる事が多くなっちまってなぁ。儲かる事は儲かるんだが手放しでは喜べねえんだな、これが・・・」

仙蔵は桶屋の困り様が殊更気になる。

「でも、こんな御時世、世間は食うにも大変なんだから良い事じゃありませんか」

桶屋はゆっくりと首を振って訳を話し出そうとすると、蕎麦を持った女中が机の上にどんっと丼を置き、つゆが跳ねてこぼれた。

桶屋はすかさず女中をどやし付ける。

「おいっ、馬面女中っ!少しは気をつけて持って来いってんだっ。袖が濡れちまったじゃねえか」

女中は謝りもせず、桶屋を眺めている。

女中は確かに間延びした顔をしており、仙蔵にも鼻の穴がぽっかりと見えた。

桶屋はその態度に更に腹を立てて立ち上がった。

「突っ立ってんじゃねーよっ、布巾(ふきん)ぐれえ持ってこいってんだっ」

仙蔵はいきり立つ桶屋の気持ちも分かるが、とにかく諌めようと慌ててしまう。

「まあまあ、親方。ここは一つ・・・」

「なんだ、ここは一つって。二つも三つもあんのか?お前さんだって腹立つだろうっ。こんな馬みてえなツラして、愛想もクソもねえ。おまけに馬鹿面さげてドンってなんだっ、こぼしてんじゃねえよ」

女中は「ふんっ」と鼻息を突発的に吐き出すと、厨房へ引っ込んだ。

「待てっ、この野郎っ」

桶屋の怒りは甚だしく、立ち上がって厨房に入って行きそうな勢い。

 仙蔵は咄嗟に桶屋の腕を引っ張った。

「放せってんだっ。おいらは滅多に怒らねえが、あの馬面には我慢ならねえっ!」

桶屋の大声に厨房から蕎麦屋の親父が顔を出して、「すいません、堪忍して下さい。まだ雇ったばかりなもんで」と平身低頭で謝っているが、桶屋は「親父っ、お前さんが謝ってどうするんだっ、あの馬面女中が謝って然るべきこったろうっ。出て来い、馬面っ!」と火に油を注ぐ調子になってしまう。

どんどん桶屋の顔が真っ赤になり、仙蔵は困惑しながらも今一度状況を振り返った。

「待って下さい、桶屋さん。ちょっと違っています・・・」

 この一言で桶屋の怒りの矛先が仙蔵に、ぐわっと向いた。

「てめえっ、おいらが間違っているだとっ!おめえだってあのふざけた態度を見ていただろうっ」

「はいはいっ、確かにあの女の態度すこぶる悪いものでございますが、おいらは農村育ち、桶屋さんは江戸育ちとお見受け致します。だから、馬を良く見ているんです」

桶屋は何が言いたいのか分からず、更に息巻く。

「だからなんだってんだっ」

「はっ、はい・・・ですから、馬は利発で気性がとっても細やかなんです。人が何を考えてるかとか、望んでいるかとか、よく見ているもんなんです。自分より下だと見たら蹴飛ばします」

「誰が馬の講釈なんか聞きてえって言ったっ!」

仙蔵は両手を桶屋の前に出して、「まあまあ、落ち着いて下さい。なっ、何が言いたいかと言うと、あの人は馬ではありません、牛ですっ。ほら、牛ってぬぼーっとしてて、常に間延びして食ったもんをまた口で噛んで、口を横に動かしているじゃありませんか。おまけによだれを垂らすは蝿は飛ぶ。さっきも蕎麦の汁だってこぼしたじゃありませんか。なにを言われも黙って口をもごもごして、たまに口を開けば、もーと鳴く。だから牛面(うしづら)女中だと思うんです・・・いかがでしょう?」と立ち塞がった。

「いかがってなんだっ!長々説明聞かされて、私が間違っておりました。牛でしたって、おいらが納得するとでも思ったのかっ。馬でも牛でもどっちでもいいっ。とにかくあの長い馬面・・・あーっ、どっちでもいいっ。親父、とにかくあの長い女中に教えておけっ」

仙蔵は小首を傾げて、厨房から顔の上半分を覗かせる女中を見つめる。

「あの・・・長い女中じゃなくて、やたらと長い顔した女中です・・・」

「うっせーっこの野郎っ!さっきから細けえ事いちいち言いやがってっ。おめえは重箱の隅をつつく啄木鳥(きつつき)かっ!それとも、揚げ足鳥かっ。いいんだよ、意味が分かりゃっ。今度変な事言ったら、おめえを啄木鳥って呼ぶぞっ。てやんでえっ、なんで迷惑被ったこっちが気を使って正確に表現しなくちゃならねえんだっ、しゃらくせえっ」

仙蔵は桶屋の捲くし立てる猛烈な勢いに押されながらも「それは嫌です・・・」と静かに椅子に座った。

 桶屋が頭を掻き毟っていると、親父は「申し訳御座いませんっ」と頭を何度も下げて引っ込んで、すぐにかけそばを持ってきた。

「すいません。旦那のもすぐに新しい物を持ってきます」と桶屋に侘びを入れると、「もういいよこれで。馬も牛もどっちも、でえ嫌えだ・・・馬鹿馬鹿しい」と桶屋の怒りもだんだんと治まり、ふて腐れて椅子に腰掛け荒ぶる鼻息を整える。

がらりと蕎麦屋の戸が開き、町役人が入ってきた。

「おう、表まで大声が聞こえたが、揉め事か?」

蕎麦屋の親父は役人に頭を下げた。

「いえ、なんでもございません。ちょっとした手違いがございましたもんで、奉公人を叱っておりました・・・」

役人は蕎麦屋の中を見渡すと、「あんまり叱ると、逆上して蹴飛ばされるぞ」と親父に釘を刺して出て行った。

「おめえさんのお陰で、どうやら面倒にならずに済んだ。ありがとよ・・・」

桶屋は照れ臭そうに伸びた蕎麦を啜る。

仙蔵はいえいえと一緒になって蕎麦を箸で摘まんだ。

 知らぬ者とはいえ怒った後、無言でずるずると食べ続けるのも辛くなったのか、桶屋が仙蔵に話しかける。

「さっきの続きだけどな・・・」

「なんでしたっけ」と仙蔵は箸を止めた。

「桶屋が儲かるって話さ」

「ああっ、そうです。なんだって儲かっているのに納得いかないです?」

桶屋はずずっと、最後の蕎麦を食べ終わると、ごっつさんと箸を置いた。

「いやな、小さな桶が売れるんじゃなくて、漬物を商うような大きな樽ぐれえのが売れるんだ。なんでか分かるか?」

仙蔵は桶屋が山菜蕎麦を注文したことから、「飢饉で保存の利く漬物が売れるから?」と言うと、桶屋は首を振った。

「江戸でも行倒人やら病人があんまりにも死ぬんでな、その棺桶って訳だ・・・桶屋のおいらが三倍儲かるってことは、棺桶作りが間に合わねえってぐらい人が死んでいるって事だ。ひでえ処じゃ、漬物を取り出して、そのでかい桶の中に放り込むって話だ。更にひでえのは、墓場に埋められたばかりの棺桶を暴いて、桶だけ盗んできやがるって話もあるぐれえさ。それじゃああんまりにも不憫だと思ってな、急遽棺桶作りを引き受けた。そんでまた、材木が足りなくなったときたから、その調達に木曾の材木を仕入れに行くって訳だ。死人が増えて桶屋が儲かるなんて、なんとも言えねえ話だろう。全く世の中どうなっちまってんだか、人の不幸で忙しいってのも、やるせねえよ・・・」

 仙蔵も腕を組み、眉間に皺を寄せて前かがみになった。

「なんて言っていいんだか・・・江戸では墓場を暴いて罰(ばち)は当たらないんですか?」

「そりゃ、役人に見つかりゃぁ重罪だ。でも、罰(ばち)ってなると、世の中分からねえもんで、そういった連中に必ず当たるってもんでもねえ。死なねえで、大手を振って歩いている奴もいるしな・・・」

桶屋は「やんなっちまうよ」と溜息を漏らし、厨房に向かって声を上げた。

「お~い、親父。蕎麦湯くれ」

親父は顔を出して「へい、ただいま」と土瓶を持ってきた。

「馬、じゃねえ、やたらと長げえのはどうした・・・」

桶屋に言われて親父は奥に顔を向けた。

「へい、奥ですっかり反省しております・・・」

「そうか、もう少し笑えば顔が縮むって言っておけ。それと、この蕎麦湯も金を取るのか?」

親父は「滅相も御座いません。どうぞごゆるりと」と頭を下げて引っ込んで行った。

 桶屋は土瓶の蕎麦湯を湯のみの注ぐ。

「お前さんもどうだい?」と土瓶を差し出した。

仙蔵は頭を下げて、蕎麦湯を注いでもらう。

「だから、旅と言っても楽しむって感じでもねえ・・・さっきも言ったが、江戸へ行っても大変だぞ。御伊勢参りときたら尚の事。そう言えば。去年の九月頃、伊豆帰りの材木商の話じゃ、大潮と台風がかち合って、東海道の二川宿辺りも相当流されたって話だ。それに加えて三河でも一揆だっていうじゃねえか。無宿もんも増えて危ねえからあんまり勧められねえ。金を持っている旅の連中は、真っ先に狙われるからな」

桶屋の話を聞けば聞くほど、仙蔵は気鬱になって懐に不安が過(よぎ)る。

「ちょっとお訊ねしますが、江戸から伊勢まで幾らかかりますか?」

桶屋は蕎麦湯を飲みながら、少し考えて「そうさなぁ・・・こんな時分じゃなけりゃ、只で泊めてくれる所もあるらしいが、今は少ねえだろう・・・。宿賃も倍近くだし、往復で考えると、最低でも二両、いや、三両は必要かもしれねえ。それでも、足止喰らわなきゃだけど・・・」

仙蔵は頭が重くなって無言で湯飲みを見つめていると、桶屋が「どうした、顔色悪りぞ」と気遣って覗き込む。

「そんなにかかるもんなんですね・・・」

「今は殊更物騒だからな・・・もし困った事あったら木挽町の桶屋忠兵衛を訪ねてくれ。しばらく江戸には戻れねえから、幸太郎に教えられたっておいらの親父に相談してくれ。先を急ぐから、これで失敬する」

幸太郎と名乗る桶屋に「申し遅れました、おいらは仙蔵と申します」と頭を下げると、

「覚えておくよ。おーい、勘定頼むぜ」と奥に向かって呼びかけた。

親父が手もみをしながらやってきた。

「御一緒ですか?」

「ああっ」

桶屋の幸太郎が懐から財布を取り出す。

仙蔵は「いいえ、一緒じゃありません」と親父に言うと「いいじゃねえか。おいらはお前さんに助けられたんだから払って当然」と立ち上がる。

「〆て五十文でようございます」

「五十三文だろう」

幸太郎は、そうだろうと親父の顔に目やると、「いえ、先程うちの女中が粗相をしましたから、切りの良いところで」と断った。

「そいつはいけねえ。騒いで負けさせたみてえだから、ここはきっちり払う」と台の上に銭を置く。

「江戸も大変だから困ったら、きっと木挽町の桶屋忠兵衛を尋ねるんだぜ」

幸太郎は振分け荷物をさらりと肩にかけ、菅笠をぱっと被ると颯爽と蕎麦屋を後にした。

仙蔵は支払いの礼も間々ならぬ速さに後を追い、蕎麦屋の入口から声を上げた。

「ありがとうございますっ、道中、御無事でっ」

幸太郎もその声に振り返って手を振った。

「おめえさんも無理すんじゃねえぞ~っ」

仙蔵も蕎麦屋に長居は無用と、荷物を纏めて往来に出て先を急ぐ。

旅に出る前は、まるでこの世から逃出す気分だった。

慣れ親しんだ山々や人。故郷への名残り惜しさは捨て切れないが、只ひたすら江戸を目指す事で望みが湧き、そして、新たな出会いが心強くさせた。

 

                     第ニ部(19)へ続く・・・

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 ( 富嶽三十六景 「甲州伊沢暁」 )

【 死に場所 】place of death 全34節【第一部】(16)~(17) 読み時間 約10分

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   (16)

 それから三日間、毎日松次郎が弁当を持って来て、仙蔵の汚れた着物を持って帰った。

翌日、松次郎がぼろ小屋に来た時に、通行手形を渡された。

「少しはどこへ行きたいか思い付いたか?一応、伊勢詣りって事にしてある」

松次郎は往来手形の書状を広げて仙蔵に見せた。

「とりあえず、江戸に出ようと思う・・・」

松次郎はふと微笑み、「そうか、それりゃいい。わしも一度は見物してみてえな」と煙管を取り出して火をつける。

 仙蔵は懐に仕舞っていた金子を取り出した。

「松さん、やっぱりこれ返すよ・・・」

服紗包を床の上に置いた。

「どうしてだ」

松次郎はいぶかしんで仙蔵を見つめる。

「松さんはおいらが死んだら身が引き裂かれる思いだと言ったね?」

「ああっ・・・」

「この銭をもらってしまったら、松さんの生活だって苦しくなるに決まっている。それを思うと、おいらも後ろ髪引かれて辛いし、気になって村を出られなくなりそうなんだ。だから受取れない」

 松次郎はそれでも仙蔵に渡そうと押し付けた。

「馬鹿言えっ、わしはたったそれっぽっちの金をお前さんに渡したところで痛くもかゆくもねえ。見くびるな、持っていけ」

「出来ねえ、そりゃ出来ねえよっ。おいらが出て行った後、松さんだって猪吉から何されるか分からねえじゃねえか」

仙蔵は包みを押し返す。

「ははっ、そんな事は屁でもねえ。わしはいつでも訴え出れるんだ。連判状だってすぐにでも取れるから安心しろ。わしが怖えのは、おめえが猪吉と刺し違える事と、また凶作になった時、お前さんも一緒に村に残って共倒れになる事だ。あんな奴のために死罪になんてなるな、馬鹿馬鹿しい。だから、場所を代えて、どっちかが生き延びればいいじゃねえか。畑だってそうだろう、蕎麦植えたり蚕の桑をやったり、煙草作ったり、葡萄やったり。一つの作物に全部突っ込んで駄目だったら、全部駄目だ。それと同じと考えろ」

松次郎は煙管を手に打ちつけ灰を地面に落とし、くるりと回して肘枕で寝転んだ。

「分散させりゃいい・・・いずれ、仙蔵が落ち着いたら、わしも江戸見物が出来るしな」

 後には引かない松次郎に、仙蔵は腕を組んで頭を垂れる。

「御参りするにしても、手ぶらで行く訳にもいかんだろう。だから持ってけ、なっ?」

「そりゃそうだけど・・・それなら一両だけ。これを奉納金として預かる事にする」

仙蔵は折り合いをつけようと小判を手に取って、松次郎に見せた。

「旅費はどうする、宿だってただじゃねえぞ」と松次郎は残りをぐっと押し付けた。

「でも・・・」

それでも渋る仙蔵に松次郎は、次第にいらいらしてきた。

「これはお前さんの土地と家を借りる金だ。じゃあ、十年借りる約束でどうだ。もし、お前さんが五年で帰ってきたら、半分の二両半返してもらうって事で」

「だから、あの土地じゃそんな価値はないよ」

「頑固だな・・・じゃあ一両でいいんだな?」

仙蔵はこくりと頷いた。

「これを納めてくる。何から何までありがとう」

松次郎は納得できないという風に起き上がり、固く目を閉じたり額をぼりぼりとかいたりして仙蔵を見つめた。

 互いにとって、門出を祝うものではない。

伊勢参りや江戸の大きな神社仏閣に奉納祈願となれば、村人総出の見送りと集めた金を持っていくのが常で、皆の期待を背負って行くものだが、気は重く溜息が漏れる。

「いつ立つ?」

仙蔵は手形に目を向けた。

「ここにいても仕方ないから、明日の朝一番・・・・」

今一度、松次郎は溜息を大きく吐きうなづいた。

「そうか、そうだな・・・こんな処に長居は無用だ。分かった、旅の支度を明日の朝持ってくる。何か持ってきて欲しい物はあるか?」

「家にある着替えを二、三日分と若竹色の巾着が財布なんだけど、お願いします・・・」

松次郎は仙蔵の顔を覗き込む。

「たったそれだけでいいのか、他に金目の物とかないのか?」

「あと、道中差しが仏壇の棚に入っているから、それもお願いします。その脇に八百文ぐらい入った瓶があるから使って。小銭だらけで重くて持って行けない」

「だったら、もう一両持って行け」

松次郎は小判を差し出した。

「おつりがないよ・・・」

「あほかっ、わしは両替商じゃないんだぞ。そんな細かい勘定なんていらん。いいから持ってけ」

仙蔵は小判を両手で受取り頭を下げた。

「有難う・・・」

「礼なんていい。帰って支度するから、これで帰る。じゃあな」

松次郎は思い腰を上げて立ち上がった。

「何から何まで済まない」

仙蔵は正座をして、松次郎に頭を下げる。

「よせ、お前さんが悪いんじゃない、悪いのは猪吉だっ。今は騒動の後でばたばたしているが、その内状況も変わるっ。騒動を見て思った、飢饉のたんびに五万、十万と死人が出る世の中は長くは続かねえってなっ。押し寄せる筵旗と松明を見て、恐ろしさの反面、わくわくした。先の事は見えねえけど、一万の民百姓が役人を蹴散らした事は、善くも悪くも四方に知れ渡るだろうよ。だから、場所を変えてみりゃ見方も変わるかもしれねえ。だから、くれぐれも早まるな・・・」

松次郎は仙蔵に背を向けたまま荷物を手繰りで取り、戸を開いて振り返る。

「済まねえのは、わしの方だ。もっと良い方法があったかもしれねえのに、お前さんばかりが辛い思いで村を出るはめにしちまったんだ・・・本当に済まねえ」

「松さんが謝ることじゃないよっ」

仙蔵は深々と頭を下げて涙を土間に零す松次郎に近づこうと立ち上がった。

「許してくれ、湿っぽくなっちまって。またいつ会えるのかと思うと名残惜しくてな・・・あと、荷物の中にかみそりが入っているから髭を剃れ。じゃあな、明日の朝来る・・・」

松次郎は飛び出すように小屋を後にした。

 仙蔵も後を追い、外に出て松次郎を見送った。

再び、仙蔵の中で猪吉を殺してやりたい衝動に駆られたが、松次郎の遠ざかる姿が語りかける。

なにも、罪人になって死ぬことはねえ・・・どのみち死ぬなら、外に出ろ。見方が変わるかもしれねえ、それまで時を稼ぐんだと。

 

 仙蔵は松次郎の姿が見えなくなると、張り詰めていた気が抜け、涙が溢れ出てきた。

耐え切れず、堰を切った様に嗚咽が止まらない。

泣きながら、仙蔵自身これほど泣けるものなのかと思う。

自分が気の毒だと思うと、更に気持ちに収拾がつかなくなり、幼少の頃、父母の事、松次郎との雉狩り、蕎麦の実の買付け、芽吹いた喜び等々が一度に頭の中に渦巻く。

もう二度と戻れない。そうと思うと仙蔵は座っている事もままならず、わーっと声を響かせ、地面にうづくまる。

最後の抵抗とばかりに大声を上げ、吐き出すように泣き続けた。

 

   (17)

 仙蔵の眠りは浅く、寝たり起きたりしている内に朝が来た。

気鬱な体を起こす。今日で村とも別れるとなると、すぐに立ち上がる気にもなれない。

ぼーっと格子窓の外に目を向けた。

支度は松次郎が持って来てくれるから、後は出て行くだけだった。心構えというものがないから、これから旅に出ることすら実感が湧かない。

 気だるさから抜け出そうと、仙蔵は裏の沢で顔を洗らい髭を剃ろうを外へ出る。

風がびゅーと吹きつける師走下旬の寒さに身を縮め、足場の悪い沢の水を汲むと手が凍りつきそうな程冷たい。それを顔に浴びせ、ぶるっと身を捩(よじ)りながら髭を剃っていると小屋に通ずる道を踏みしめる音が消えた。

仙蔵は顔を拭いて小道を覗くと、風呂敷を背負った松次郎がいた。

「おはよう」

「さっぱりしたな。これでも荷を軽くしたつもりだが、冬だから仕方ねえ・・・」

二人は小屋の中に入り、松次郎は風呂敷を開いた。

着物や菅笠、合羽、脚絆、着物など次々に仙蔵に渡す。

「ほら、早く着ろ。時なんてあっという間に過ぎちまうからな。それと、財布ってこれか?」

 小銭が入った若竹色の巾着。

松次郎は今一度、巾着に顔を近づけてじっと見る。

「随分と綺麗な生地使っているけど、おふくろさんの形見か?」

仙蔵は巾着を受取ると首を振った。

「そうじゃないけど、思い出の品って言ったら、そうなるのか・・・」

仙蔵はじっと見つめ、自嘲して鼻で笑う。

「ふっ、もう形見になっちまうのか、あっけねえ・・・」

溜息を吐き、仙蔵は巾着を懐に仕舞う。

松次郎は女物の生地から察し、それ以上聞くことはぜず着替えを急かした。

「ほら、寒いからこれも着ろ・・・」

仙蔵は着物も新しい物に取替え、股引きを履こうとすると、「ふんどしも汚ねえだろう。それも取り替えていけ」と松次郎に止めれられた。

仙蔵は自分の股間に目をやると、松次郎の手前もあって「これでいいよ」と断った。

「良かねえよ、旅立つ時は身奇麗にしておかねえと縁起が悪りいぞ」

「そうなの?」

仙蔵は面倒臭そうに松次郎に目を向けた。

「今思いついた」

「なんだ、嘘か・・・」

松次郎は辺りをくんくんと嗅ぎ出す。

「う~ん、何か臭せえ。小屋全体が匂う。やっぱり、臭いの出所はお前さんだ。そんな臭いを放って歩いていたら熊に殴られるぞ」

「臭くて熊に殴れられたって話も聞いたことがないよ、それも嘘?」

仙蔵は怪しんで目を細める。

「嘘じゃねえ。わしのじいさんが山菜取りに行った時、急に用を足したくなってしゃがんでいたら、熊が鼻を摘みながら殴りかかってきたらしい」

松次郎はにやりとして仙蔵を見た。

「そんなことあるかい。熊の手は爪がすごいから、自分の鼻を傷つけちゃうよ」

「じいさんが逃げると、熊の奴、鼻血を流しながら追っかけて来たって言ってたっけ。恐らく、鼻に指が入っちまったんだろうよ。随分と間抜けな熊だよな、小仏峠の鼻血熊って言ったら知らねえもんはいねえ。はははっ」

松次郎の馬鹿話に仙蔵も鼻で笑いながらも、笑みが戻る。

「ふっ、くだらねえ。着替えればいいんだろ」

仙蔵は小屋の奥でふんどしを換える。

「熊で思い出したんだが、これ圭助が餞別に持って行って欲しいってよ」

松次郎は懐から皮袋を取り出して渡した。

「なにこれ?松さん、おいらの事を圭助に言ったの?」

「あいつぐらいには教えてやらねえと可哀相だろう、大体の事情は話した。あの馬鹿とおきつさんはものすごく泣いてな。『すまねえっすまねえっ』って言ってた。あと、体に気をつけてと。あんまり泣くもんだから、こっちももらい泣きしちまったよ。あいつのせいじゃねえ事を説得するに小一時間もかかった・・・一目会いてえって言ったけど、お互い辛くなるから、託(ことづ)けとその熊の胆(い)らしい物をよこした・・・」

 仙蔵は溜息を吐き、皮袋から中身を取り出して掌に載せた。

「そうだったんだ・・・それにしても、これ結構でかいよ。本当に熊の胆?熊の糞じゃないの?」

仙蔵は恐る恐る、掌の黒くて丸い物体に鼻を近づける。

「さぁな・・・」と松次郎も興味津々に覗いている。

「乾燥しているからかもしれないけど、少し生臭い様な・・・松さんも嗅いでみる?」

松次郎は手を振って断った。

「わしゃ、いいっ。でも、まあ、それが熊の糞だろうが、圭助は本当にそれが熊の胆だと思って、そりゃ大事そうに持ち出してきたんだ。何かあった時に使ってくれって言ってた。折角だから、お守りがわりに持っていけ」

 仙蔵も頷いて「そうだね、もしこれが本物だったら二三両になるんだから。二人の気持ちだと思って、有り難く貰っておくよ」と黒い物体を元の皮袋に入れて荷物の底に仕舞う。

仙蔵は股引やら脚絆、合羽を着込み準備を整え、振分け荷物を肩にかけると、案外時間がかかった。

「薬入れは腰に下げていた方が、すぐに使えるぞ。中に仕舞っちまったのか?」

松次郎は子供の外出を手伝うように世話を焼くと、仙蔵は荷物の中から取り出すのも面倒で「大丈夫だよ、すぐに出せる所に仕舞ったから」と荷物を降ろそうとしなかった。

松次郎は呆れた様子で「横着するな。もし暗がりで腹でも下して、急いでいたらどうする?間違えて圭助の熊の糞を飲んじまうぞ」

「すぐに分かるから、そんなに心配しなくていいよ。そうだ、紙と筆を持っている?ちょっと圭助に伝えたい事がある」

松次郎は帳面を破いて、筆と一緒に渡す。

 仙蔵は熊の胆らしき物をもらった礼を綴る。

「天から魚が降ってくる様な、滅多にない縁談を逃がす事になった不幸を許して下さい。ついては、おさよ様に、仙蔵は信州のさる裕福な家に婿に入る事になったと伝えて下さい。決して、一連の事は申さず破談にしてくださいますようお願いします。

 最後に、夢の如き一日はやはり夢に終わったが、望みのある事がいかに気持ちを楽にさせ、生きる糧となるかを知った」と謝辞で筆を止めた。

 松次郎は文を書きながら落胆してゆく仙蔵が痛々しく、自分の不甲斐なさに溜息が漏れてくる。どうしようもないと自らに言い聞かせ、仙蔵から受取った書付を帳面に挟む。

松次郎は気を晴らすように「ちゃんと薬入れを付けたか」と腰に目を落とす。

仙蔵はあからさまに面倒であると渋面で「腰に下げなくても大丈夫だよ」と首を振った。

「いいから、下げておけっ」

松次郎がぐいと荷を引っ張った。

「分かったよぉ・・・」

仙蔵は拗ねた調子で荷を降ろし、中から薬入れを根付に引っかけて腰に付けた。

「今は行倒人や、埋葬もされてねえ死体が道中の草むらなんかに捨てられているそうだ。疫病が流行っているから用心にこした事はねえ。体壊したら元も子もないぞ」

松次郎は念を押し菅笠を渡す。

 仙蔵は松次郎に挨拶をしようと顔を見る。

松次郎は無理して明るく送り出そうと、目が一本の線なる程満面の笑みを浮かべている。

 今生の別れになるかもしれない・・・。

仙蔵も負けじと顔がくしゃくしゃの笑みで応える。

「いろいろと有難う」

仙蔵は表に出て、菅笠の紐を顎の下で締めた。松次郎の顔を見る事が辛く、深々と頭を垂れた。

「今まで有難う。松さんの子供の弔いと圭助や皆の分の御多幸をお祈りしてきます・・・」

 仙蔵は菅笠で顔を隠し、踵を返す。

一人旅、もう二度とは戻れないだろう。そう思えば思うほど離れがたいが致し方ない。

思いを振り切って歩き出す。

「仙蔵~っ!」

松次郎の涙声に、仙蔵は足を止めたが振り向けない。

先も見えぬ独り旅。振り返ったら涙が止まらず、旅立ちの不安から決心が鈍りそうだった。

「元気でな~っ、落ち着いたら文を出せよ~ぉ」

仙蔵はわずかに肩越しに振り返り、菅笠の隙間から松次郎の様子を窺う。

大きく手を振りながらも、手拭で顔を覆っている。

仙蔵は松次郎のもとへ戻る訳にゆかず、ぐっと堪え「必ず、文を出すからっ。有難うっ」

半身を松次郎に向け手を振った。

「仙蔵~っ!」

仙蔵は頷いて、断ち切る様に小走りで甲州道中に向かう。

 

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         【第二部】(18)へ続く・・・。

【 死に場所 】place of death 全34節【第一部】(14)~(15) 読み時間 約13分

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   (14)

 仙蔵は独り小屋に取り残され、村にも帰れない。

風が強く吹き荒み日が没すると、より冷えてきた。小屋に入るが窓からは風がびゅうびゅうと入ってくる。行灯もなく頼りは月明かりだけだった。

当然、布団などもなく埃の被った筵を体に捲きつけて寒さを忍ぶがそれでも足りない。

小屋の奥の薪や破材を取り出し、土間で火を起こすといくらか温かくなる。

焚き火に手を翳し擦り合わせると、いくらか気分も落ち着いてきた。

 火の中に、血を流して自分を睨む猪吉の顔が浮んでくる。

猪吉の言い分は常軌を逸している。仙蔵は村を飢えさせないために蕎麦を買いに行ったり雉を取ったり、できる範囲でやった事。

それが気に入らない、皆と楽しく暮らしていくことがそんなに気に入らないのか。単に、酒宴で漏らした一言にすぎないじゃないか・・・。

猪吉を殺そうとしたから、戻ったら村八分になるか、猪吉を追放して、代わって名主になって借金を背負うか・・・。

 でも、順番を考えれば、助役か、百姓代の松次郎が次の名主となるのが筋だ。

なんとか口実をつけて、おいらを貶めたいんだろう・・・。

仙蔵は八方塞の状況に固く目を閉じ、膝と膝の間に頭を突っ込んで身を丸めた。

 

 寒さで目が覚めると、夜が明けていた。

食うものもなければ、銭もない。それより動く気力さえなかった。

目覚めと同時に昨日の一件が甦ってくるから、溜息ばかりが漏れてくる。

一度は起きたものの、仙蔵は再び筵に包まって横たわる。

どうにもならねえ・・・。

そう呟きを繰返すうちに再び眠りについた。

 

 ががっと大きな音と共に光が差し、仙蔵は目覚めた。

眩しさに目を細めると、「おいっ、飯だっ」と握り飯が入った竹包みを投げて寄こした。

「逃げるんじゃねえぞっ」

辰次の手下の一人は、そう良い残すと戸を閉めて行った。

仙蔵は昨日の朝から飯を食っていなかったが、食欲すら沸かない。

辰次の手下が、これからも握り飯を持ってきて放り込むのか。食わねば死ぬ。

いずれ、餌を欲しがるようになるのか。死ぬまでずっと幽閉され我を失うのか。

仙蔵の体が震え出す。再び身を丸めるが落ち着かず、横になって筵を被る。

目を閉じれば、血を流した猪吉が目に浮び、同時に訳の分からぬ罪悪感にも苛まれる。

頭が割れるように痛い、気分も悪い。更に固く丸くなって耐えていると気が遠のいた。

 夜になると、牢に繋がれ獄門を申し渡されるんじゃないか、このまま餓死してしまうような妄想に取り付かれる様になる。

疲れ果て気を失うように眠り、夜中であっても目を覚ますことを繰返す。

翌日の昼も、一日一度、辰次の手下が飯を放り込む。

 

 これが四日続いた昼も、辰次の手下が握り飯を放り込んで行った。

仙蔵は食欲がなく、床の上に包みを置いたまま。くすぶる煙が立ち上る様子に目を落としていた。

がさがさと小屋の裏手で音がし、手下が戻って来たのかとごろりと背を向け横になる。

「仙蔵か?おいっ」

その呼びかけに仙蔵は窓に顔を向けた。

松次郎が顔の半分ほど覗かせている。

身を起こすと、松次郎が更に呼びかける。

「仙蔵なんだなっ、大丈夫かっ」

「うん・・・」

飯も食わず、思うように動かぬ体に力を込めて立ち上がり、戸を開けて外へ出た。

松次郎は目を丸くして驚いている。

「閉じ込められているんじゃねえのか?」

「出入りは自由だ・・・」

仙蔵は眩しさに手を翳して松次郎を見つめた。

「げっそりしてるじゃないかっ」

髭も伸び髪もぼさぼさの仙蔵は、事の経緯を話すため、小屋の中に松次郎を導いた。

「さっき来た手下が猪吉の家から出て行くのが見えたんで後を付けて来たんだ。それにしても、ひでえな・・・」

 松次郎は小屋の中を見渡すと驚いていた。

「飯は食っているのか?」

「一日一回、手下が握り飯を持ってくるが食いたくない・・・」

仙蔵は置いたままの竹包みに目をやりながら力なく座り込み、猪吉の事や岡っ引きの辰次について話を始めた。

 

 松次郎は仙蔵から半時に亘って状況を聴き続け、大きく息を吐いた。

「猪吉は普通じゃねえな・・・」

松次郎は仙蔵をちらりと見た後、俯いて辺りに目をやり目頭に指を当て固く目を瞑る。

仙蔵は五日も考え続けても、八方塞の状況を変える手立ては浮かばない。

松次郎もかける言葉が浮ばず、長い沈黙が続いた。

「松さん、おいらはもう・・・このままここで死ぬか、猪吉と刺し違えるしかねえと思う・・・」

松次郎は眉間に皺を寄せて仙蔵を睨んだ。

「何て事を言うんだっ」

「もう無理だ・・・村へ帰っても猪吉の恨みは尋常じゃない。名主を降ろしたとしても借金を背負わされる。うちには銭なんかねえ・・・。どのみち、おいらが死ぬか、猪吉が死ぬかだと思う。猪吉はそれほど憎んでいる、おいらも・・・」

松次郎は腕を組んで頭が床に着きそうなほど前かがみになった。

「まあ、そう早まるな・・・」

「早まっているんじゃない、もう疲れた・・・松さんに会っているのも辛くなる」

松次郎は苦しそうな顔を上げ「どうしてだ」とうなるような声で仙蔵を見る。

「岡っ引きの辰次は、おいらが小屋を抜け出したら、松さんもただじゃおかねえって脅されている。誰にも迷惑かけたくねえ。だから・・・」

「だから、死にてえのか?」

「死にたいって言うより、迷惑かけたくない・・・」

仙蔵はゆっくりと横になって上を向いた。

松次郎は頭を掻き毟り、額を手で覆う。

「俺が思うに、猪吉はただ単に憎い訳じゃねえ。怖えのかもしれん」

「おいらが怖い?」

「それだけじゃない・・・お前さんがいない間に聞いたんだが、猪吉の倅の亀太郎は流行り病らしい。跡継ぎが病じゃ気が気じゃねえ。それも三月ほど前に血を吐いて医者にみせて分かったらしい。そんな折に、お前さんが蕎麦の買い付けに行って皆に喜ばれていただろう。親とすれば、本来ならそういった事の一切を、跡継ぎの亀太郎に任せたかっただろうよ。お前さんと大して年も変わらんから余計に目に付くし較べてしまう。それに、猪吉自身が言った通り、相当しんどいんだろう。寅吉や宗八、他の村の者に金を貸したはいいが、飢饉に一揆、それと年貢と過料が一気に圧し掛かると言うより、襲い掛かられたようなもんだから、偶然の積み重ねと理不尽さに耐え切れなくなった。だから、お前さんという人間が嫌でも目に付く・・・」

「それを八つ当たりって言うんだろう・・・おいらがぴんぴんしている事も気にいらねえって言ってた」

仙蔵は天井を見つめるのを止め、目を閉じた。

 松次郎は仙蔵の様子を伺うと、また深い溜息を吐く。

「いざとなれば、わしが代官に仲裁を求めに行く」

「仲裁したって表面だけだ。どのみち、あの憎しみは異常だ。亀太郎が死んだら尚更だ・・・正気の沙汰じゃない。どうせ死ぬなら、猪吉と刺し違えてやる・・・」

「落ち着けっ。もう少し待ってくれ。一応、わしは百姓代だ。名主だけでなく、公平に村民を監督しなければならん。だから、他に手はねえか考える。とにかく早まるんじゃない・・・」

松次郎は夕飯を持ってくるからと言ったが、仙蔵は食べていない握り飯を食うと断った。

「飯だけはしっかり食うんだぞ・・・」と言い残して松次郎は村へ帰って行った。

 

 再び独りになった仙蔵は、猪吉は松次郎の動きを見越しての事だと考えた。

猪吉は、俺が名主を降ろされるか、おめえが名主になるかと言っていた。

それは、松次郎が代官所に届け出て初めて、代官の裁量によって新たな名主の選出方法が決まる。

猪吉は本気で名主を降りたがっている反面、女房子供の事、借金や小作となった者からの逆恨みも恐れている。おいらが悪党と繋がっているとかの罪で下手人となって、村八分になれば村人への脅しにもなる。そうなれば、猪吉への反発心は薄まるかもしれない・・・。

 理由は定かではないが、辰次は猪吉が名主であることが都合が良いらしい。

辰次は岡っ引き。その岡っ引きを束ねるのは、恐らく同心か与力、もしくは陣屋の手代。

役人にしてみれば、猪吉に金を貸している都合、猪吉の没落は貸し倒れとなりかねない。

それを恐れるなら、役人達は猪吉を守るだろう。

仙蔵は名主になる気もないが、罪をでっち上げられるのも時間の問題だと、行く末に絶望する。

松次郎が必死に打開策を考えてくれているだろうが、仙蔵自身が考えても無理だという結論しか出てこない。

もう、手詰まりだ・・・

 

 翌日の昼、小屋に近づく人の足音がした。仙蔵はそば耳を立て、松次郎か辰次の手下か神経を尖らせた。

ぞんざいに戸が開け放たれると、「ほらよっ」と大して仙蔵の顔も見もせず、飯の入った包みを投げて寄こし、再び戸は閉められた。

辰次の手下の様子からして、松次郎は昨夜、猪吉とは会っていないように思われた。

餌を与えるかの様に手下に投げられた飯を無視して横たわる。

ここにいたら一生、野良犬のように扱われる・・・

 仙蔵はままならぬ状況に息が詰まりそうになり、戸を開けて外に出た。

外は日の光が天高く輝き、があがあと鴨の鳴き声がのどかに聞えてくる。でも、それがなんの慰みにもならない。

薄暗い小屋の中で寝ようが、天日に晒されて寝るのも同じだと、外に筵を引いて横になった。

死んでもかまわないと、ごろりと横になると目を見開いた。

冬であっても地熱も相まって、意外に暖かい事を知る。

そのまま目を閉じると、眩しい光が和らぐ。

もうどうにでもなれ・・・いっそこのまま目覚めなくてもいい・・・。

そんな心持で寝入った。

 

 小一時間程の後だろうか、仙蔵は大声で名を呼ばれ、揺り起こされた。

「おいっ、仙蔵っ、死んでんのかっ!」

はっと目を覚ました仙蔵は、松次郎に抱きかかえられていた。

「松さん・・・死人は答えないよ」

「うるせえっ、生きているから答えるんだろうっ。こんな表で筵に転がっていたら何かあったって思うじゃねえかっ」

松次郎は目を真っ赤にして、唾を飛ばしながら怒鳴りつけた。

「意外と外の方があったかいんだよ」

仙蔵は目を瞬かせて起き上がると、「びっくりさせやがってっ」と松次郎もその場にへたり込んだ。

「夕飯と半纏(はんてん)。冷えると良くないから着替えやらを持って来た。日も傾いてきたから、中に入ろう・・・」

松次郎は持って来た風呂敷包を小屋の中に入れた。

仙蔵は松次郎が心配して来てくれたのは有りがたかったが、気鬱で体が重い。

やっと立ち上がって筵に付いた土を掃って中に入る。

松次郎は小屋での生活が辛かろうと、鉄瓶も持ち込んだ。

「水じゃあったまらねえから、茶でも入れようかと思ってな・・・」

松次郎は土間の焚き火跡を見て「ここで火を起こしてんのか?」と聞き、仙蔵がだるそうに「うん・・・」と返事を返す。

松次郎は火を起こし、鉄瓶を仙蔵に見せた。

「水はあるんだろうな?」

仙蔵は力なく顔を上げ、「裏に沢があるから汲みに行ってくる」と言うと、松次郎は「わしが行く」と出て行った。

親のように世話を焼いてくれる松次郎やお勝さんを巻き込めない。そして、申し訳ない、済まないと心の中で念じる。

 松次郎が鉄瓶に水を汲んで戻ってくると、仙蔵は「済まない、面倒かけて」と頭を下げた。

火の上に鉄瓶を乗せると松次郎は顔を顰めた。

「なんだ改まって。お前さんに非がある訳じゃねえ、気にすんな・・・まあ、茶でも飲もう。あれっ」

松次郎は荷物を調べると、ないないと言い出した。

仙蔵は自分の事で頭が一杯で、余り気にかけていなかった。

松次郎は額に手を当て、一人で落胆する。

「あーっ、肝心の茶を忘れた・・・」

「別にいいよ・・・」

「いい訳あるか、せっかくこんな重たい物を持って来て骨折り損だ、良い茶があったんだ。それを一緒に飲もうと思って、なんてこった。また、明日だな。お湯でも体が温まるから。あれっ、湯飲みもねえのか?」

仙蔵はこくりと頷いた。

「どうやって水飲んでいたんだ」

「手で汲んで・・・」

松次郎はうーんと唸り、辺りを見回す。

「あんまり来ない方がいいよ・・・」

仙蔵は誰かに見られる様で気を揉んだ。

松次郎は仙蔵に顔を向け、一旦息を整えた。

「こんな処にいつまでも置いておけねえ。もうかれこれ七日か、毎日連れ出された日も入れたら十五日ぐらいだろう。なんとかするから待ってろ・・・」

「無理だよ。猪吉だけじゃない、役人だっているんだ」

仙蔵は窓の外が赤くなるのを見て「そろそろ帰った方がいい。おいらは・・・」と言いかけたまま横になった。

松次郎は何か声をかけようと思ったらしいが、膝を叩いて立ち上がった。

「・・・また来るが、飯は食え。じゃあ、温ったかくしてな。病も流行っているから」

仙蔵はか細い声で「ありがとう」と言うと、松次郎は振り返りながらゆっくりと戸を開けて出て行った。

 

   (15)

 翌日、昼を過ぎても辰次の手下は現れなかった。

その後まもなく、静かに戸を開ける音。

仙蔵は入口に目を向けると、「元気か・・・」と松次郎が入ってきた。

「まだ、辰次の手下が来てない。そろそろ来てもおかくしないから手下が帰るまで隠れていた方がいいよ」

 仙蔵は松次郎と入れ替わりに、外に出て様子を窺っていると、「その事だったら心配はいらん。とりあえず、中に入ってくれ」と松次郎は荷を置いて座った。

仙蔵は小屋の中へ入ると、松次郎は風呂敷から弁当と湯飲みを取り出して仙蔵に渡した。

 松次郎は鉄瓶に水を汲んで戻ってくると火を起こし、そのまま煙草にも火種を付けた。

ふうと煙を吐き、一息付いてから「お前さんもやれ・・・」と煙管を突き出した。

仙蔵はどういう経緯かも分からぬまま煙草を吸おうか迷っていると、「落ち着くから吸え」と今一度突き出した。

しぶしぶ仙蔵は受け取って吸い込むと咳き込んだ。

「久しぶりに煙草を吸うとむせる・・・心配いらないってどういうこと?」

松次郎は、仙蔵から煙管を受取るともう一度吸い込んでから話を始めた。

「今朝、猪吉の家に行ってきた・・・」

松次郎は、怪我をした猪吉に仙蔵から全て訊いたと伝えた。

 

 抱えている借金や年貢の課料金、倅の亀太郎の事。また、仙蔵への仕打ちに言及した。

松次郎は猪吉にも同情していると告げ、今後、仙蔵との取り成しをしても、恐らく双方引く事はない。

 そこで、松次郎は仙蔵が江戸に出稼ぎに行く事にし、しばらく距離を保ってはどうだろうと提案した。

江戸に行くにも役人の取締りが厳しいから、通行手形の手配をしなければならない。

猪吉の合意がありさえすれば良い。だから、岡っ引きの辰次たちにも仙蔵から手を引くように告げたという。

 最後に、もし提案を受け入れなければ、石和ではなく甲府代官所に猪吉が不当に仙蔵を監禁し、濡れ衣を着せたと訴え出るつもりと付け加えた。

 すると、猪吉も倅の亀太郎の病状も良くないことから納得したという。

 

 「だから、お前さんはこんな処で死ぬ事はねえ。仙蔵の死に場所はここじゃねえんだよ。馬鹿馬鹿しいじゃねえか、単にお前さんが嫌いだという理由で死ぬ羽目になるんじゃ、おとっつあんもおっかさんも浮ばれねえ。どうせ死ぬなら思う通りの事をしてからでも遅くはねえ・・・」

 仙蔵は大きく息を吐き、松次郎の顔を見つめた。

「思う通りの事って言われても、何も考えられないよ・・・村から出たことねえし」

「何でもいいじゃねえか、例えば、江戸の町を見るも良し、伊勢詣りに行くも良しだ。風の向くまま気の向くまま、好きな事をしてみれば良い。いずれわしもお前さんも死ぬんだ」

「でも、田畑や家を放って行く訳には・・・」

仙蔵は急な話で迷ってしまう。

 松次郎は鉄瓶からしゅうしゅうと蒸気が上がる様子を見て、手元に置く。

水差しに入った水を鉄瓶の中に入れくるくると回し、懐から袋を取り出して茶を入れた。

煙草を一服してから、自分と仙蔵の湯飲みに茶を注いで渡す。

「ほら、飲め。お勝が作った弁当も食ってくれ・・・」

 仙蔵は茶を一口啜っただけで、床に置いた。

「田んぼと家は、わしが借りる事にする。その借り賃だが、これでどうだ」

松次郎は懐に手を入れ、服紗を取り出し仙蔵の手前で広げた。

「五両ある。これでお前さんの田畑を貸してくれ・・・」

仙蔵は金を見てすぐに服紗を閉じる。

「駄目だよ、うちの田んぼにそんな価値はねえ・・・松さんだって大変なのに」

「いいんだ、うちはなんとかなる。この金があれば、何処へだって行けるだろう。伊勢は厳しいかもしれんが」

松次郎は煙管の煙を潜らせて、気恥ずかしそうに微笑んだ。

「本来なら、仙蔵が出て行く云われなんてねえ。だけど、この村だって来年も冷夏になった時にはどうなるか分からん。せっかく、大変な思いをして蕎麦の実を買って来てくれたんだ。その礼もしてなかったし・・・」

仙蔵は首を振って、包戻した袱紗を松次郎に手渡す。

「そんなの当たり前じゃないか。みんな困っているんだ。おいらだってあれがなくちゃ、飢え死するかもしれない。松さん、気持ちだけで十分だ。だから納めてくれっ」

 松次郎も受取ろうとはしない。

「わしはお前さんを息子の様に思っている。知っての事だが、うちの赤ん坊は三人ともに死んでしまったから尚更、あいつらの分まで生きて欲しい。仙蔵までもが死んでもいいなんて言われたら、また子供を失うようで身が裂かれるように辛い。叶うもんなら、伊勢詣りでも江戸でも全国行脚して、赤ん坊や騒動、天災で死んだ者らを供養してやりてえ・・・それもあって、お前さんに頼みたい・・・。とはいえ、五両ばかりじゃ全国は廻れねえ。お前さんは、またこの村に戻って来よう来まいが気にすることたぁねえ。おやじさんとおふくろさんの位牌は、わしが守る」

 松次郎の子供の供養と言われては、仙蔵も断る訳にもいかない。

俯く松次郎の鼻を啜る音があばら屋に響き、煙管をぐりぐりと握っている。

「でも、こんな大金もらえないよ・・・」

仙蔵が戸惑っていると、松次郎は入口に顔を向け鼻を啜る。

「いいんだ、わしがしたかった事をお前さんにやってもらいてぇ・・・そして、十年いや二十年先でもいいから、いつか話を聞かせてくれ」

仙蔵は松次郎の丸めた背中を見つめながら、済まないと心の中で謝る。

「分かった、松さんのために供養してくる・・・」

松次郎は鼻を啜り上げると振り返った。

「ああっそうだ・・・出稼ぎを理由にするより、供養と五穀豊穣祈願の名目で、猪吉に巡礼なんかに使う往来手形の届けを書かせよう。なんなら、伊勢詣りに行ってくるか?そうすれば、どこへだって行ける」

仙蔵はこくりと頷いた。

「それがいい・・・」

松次郎は自身に言い聞かせるように呟く。

 火の上の鉄瓶がかたかたと蓋を押し上げ、しゅうと蒸気を上げる。

その音が、松次郎の鼻を啜る音を隠し、また、仙蔵も目頭を抑え堪え切れずに漏れてしまう声もまた掻き消した。

 松次郎は立ち上がり、「これから猪吉んとこへ行って届けを書かせる。茶を置いていくから飲め。それと、往来手形は三日ぐらいかかるかもしれねえから、ここは寒いし汚ねえから一緒に村へ帰るか?」と仙蔵の顔を覗く。

仙蔵は少し考えた後、「他の人に詮索されるのも嫌だから、ここにいる」

「そうか、じゃあ、また明日飯を持ってくる」

松次郎は溜息と共にうなづいて小屋を出て行った。

 

 独りきりになると、鉄瓶の蓋が小刻みに音を立てる以外静まり返り、がらんとした寂しさと何もない不安に包まれる。松次郎の置いていった服紗を広げ小判を握る。

「伊勢と江戸・・・」

どちらも見知らぬ土地、双方共に知り合いもいない。

村に残りたいのはやまやまだが、それもできない。

未知の土地への不安から、ここに留まろうとしているに過ぎない。

松次郎が言っていたように、ここを死に場所にしてはいけないんだと言い聞かせる。

「辛いまま死ぬんじゃ悔しいじゃないか、死ぬ場所ぐらいは自分で決めよう。こんな汚い場所じゃなくて・・・」

ふと、おさよの顔が甦る・・・。

 

 仙蔵は目を開け、天井を見つめた。

楽しい事、行ってみたい所、見物に出かけたい所を頭に描こうと切り替える。

腹がぐうと鳴り、弁当の蓋を開けた。

薄黄色の鮮やかな卵焼き、そら豆ご飯に漬物が添えられてあった。

金子だけなく、卵も貴重なだけに、お勝が弁当をこしらえる姿が眼に浮ぶ。

そして、亡き母親の姿とも重なる。

 

おっかあもおっとうも、おいらが死にてえなんて言ったら、身を裂かれる気分なのか・・・。

身を裂かれるってどんな気持ちなんだろう。

おっとうが苦しんで死にたいって言ったら、おいらは子としてその苦しみをどうにか取り除いてやりたいと思う。それでも、死にたい気持ちが治まらなければ、今度はおいらは自分を責めるだろう。現に何も役立てず、不甲斐ないと思った。

 でも、どうにもできなかった。おっとうはおっかおが死んでから、悲しみに暮れていた。

仙蔵自身も辛く、それを和らげる術が見出せなかった。悲しみが癒えぬまま、おっとうは体を壊して亡くなってしまった。

苦しみが強ければ強いほど、見守る側は早くなんとか楽にしてあげたいと思う。

それがままならぬ時、喪失と自分の至らなさを責めてしまう。

 いくら血を分けた親兄弟であっても、身も心も別人だ。起る出来事も考えも違う

別の人格。

身近な者であればあるほど、簡単に自分とは別であると割り切れない葛藤。

おっとうの死も、おっかあの死も、おいらの死ではないが、残された者はもっと何が出来たんではないか。また、どうして死ななければならないんだと、後悔とやりきれなさは強く残り続ける。

 これが親の立場とすれば、特に母親は子を生むから、父親より尚更、自分の分身、体の一部の様に思うだろう。

仙蔵はそう考え進め、松次郎の心を慮るが、子供がいない今は満足な想像すら出来ない事に至る。

それと似た様なもので、身近な人であっても自分の問題ではないから、他人の思いは正確には分からない。また、苦しみを代わって引き受ける事もできない。

 

 仙蔵は親族がいなくとも、松次郎の様な親しい他人にも強い影響を与える。

対して、心底仙蔵を憎む猪吉からすれば、仙蔵が消えることが自身の安泰を実感するかもしれない。

仙蔵は猪吉の顔が目に浮ぶと、それも違うと首を振った。

猪吉の保身の為に命を絶って消える事も、刺し違えて死ぬ事も、どっちも正しいとは思えない。

とはいえ、村を離れ、全ての事柄を自身から切り離す事は、自分を否定するようでもある。

しかし、留まる事は自身を消滅へと追い込んでしまいかねない・・・。

 握っていた金子を見つめると、松次郎に言われた言葉が甦る。

思う通り、したい事をして死ねと・・・。

五両もの大金。松次郎としても大金に変わりない。

松次郎の精一杯の気持ち、明日をも知れないこの御時世。他人の松次郎までも巻き込んでしまっている。

仙蔵は受取れないと心が傾く。全てを自身から切り離すためには、松次郎の有り難い気持ちも切り離さないといけない。

村を出るにしても、それがけじめだと考える。

思う事をして、好きな場所で死ぬ為には・・・。

 

                              (16)へ続く。